このページは、ある人物の名言を紹介し、その解説内容をもとにして、教育観についての考えを深めたり、授業を含めた教育全体を考える機会を提供することを目的としています。
亀 井 勝一郎
昭和前期、中期の評論家。1907~66。北海道函館市の出身。旧制函館中学校(現函館中部高等学校)から旧制山形高等学校(現山形大学)経て、東京帝国大学(現東京大学)文学部美学科に入学するが、マルクス主義に傾倒し退学。以後、社会主義の活動に入るが、その後転向し、28歳のとき、雑誌『日本浪曼派』を創刊し、文芸評論をつぎつぎと発表する。武者小路実篤、菊池寛らから評価される。その後、太宰治と親交を結び、彼のよき理解者となる。同じ頃、大和路を紀行し、奈良、平安、鎌倉など各時代の仏教を研究し、倫理学や宗教学に基づいた人生論、宗教論、文化論、文学論などを発表し、昭和30年代には多くのベストセラーを残した。ライフワーク『日本人の精神史研究』は未完に終わったが、主著には『大和古寺風物誌』『愛の無常について』『現代人生論』『現代青春論』などがある。
*武者小路実篤(1885~1976)
大正、昭和期の文学者、小説家、画家。白樺派の代表的人物。志賀直哉、有島武郎ら学習院の出身者とともに雑誌『白樺』を刊行、理想主義、人道主義を掲げた。代表作は『友情』『お目出たき人』『その妹』など。
*菊池寛 第130号参照。
*太宰治(1909~48)
昭和前期の小説家。芥川龍之介を心の師とし、現実否定と反俗精神に満ちた作品を描き、戦後の文壇に大きな影響を与えた。一方、生来の自己嫌悪症と責罪感から愛人と入水自殺するという波乱の生涯をおくった。代表作 は『斜陽』『人間失格』『走れメロス』など。
私の学的関心は亀井勝一郎の評論により形成されました。亀井が没した1966(昭和41)年、私は小学校の5年生で、担任の先生から「北海道出身で日本を代表する評論家が亡くなった」と聞き、その先生から作品の一節を教えてもらったのがきっかけでした。中学、高校時代は『現代人生論』や『現代青春論』を愛読し、大学時代には『大和古寺風物誌』や『日本人の精神史研究』を学術書、専門書として研究しました。邂逅とは自己を目覚めさせる出会いのことです。『現代人生論』には次のように記されています。「人生とは広大な歴史だといっていい。歴史とは無数の人間の祈念と願望の累積だといってもいい。あるいは果たそうとして果たしえなかったさまざまな恨みを宿すところだともいえるであろう。私はそれを学びつつ、やがて自分もつかの間にしてその歴史のなかに埋没してしまうことを知る。人間の一生は短いものだ。…したがって、人生における一大事、人生を人生として私たちに確認させるものは、一言でいうなら、邂逅であるといっていい」。
「人生は出会いである」とは、よく聴くことばです。しかし、ただ会えばよいというものではない、誰に出会ったかが問題なのです。出会いは、何かを目的とした特殊な場合をのぞいて、ほとんどが偶然から始まりますが、時として私たちは、「この人にまた会いたい」と思うことがあります。そして、何らかのコンタクトをとり、もう一度会う。そこに新たな感情や感慨が生じて、「ああ、やっぱりこの人は思ったとおりの人だった」、「この人に会えてよかった」と思い、さらに、人間関係が深まり、「もし、この人に会っていなかったら自分はどうなっていただろう」、「今の自分はあっただろうか」などと感ずるようになったとき、初めは偶然であった出会いが必ずこうなるべきものであった、こうなるはずであったと確信するようになります。人はそれを運命とか運命的出会いと呼ぶのです。そして、相手が自分にとって出会うはずの人だった、なくてはならない人だったと思う一方、自分もまた、その人にとって運命的な出会いの存在であったと感じたとき、自分がこの世界に二人といないかけがえの存在であるという自信をもつことができるのです。
私は、これまで何度も、人間の尊厳は各自が唯一の存在であることだと言ってきました。しかし、そのことを直観的に納得できる人はほとんどいなかったでしょう。多くの人は「かけがえのない自分なんていやしない」、「自分の代わりはどこにでもいる」という思いに囚われます。でも、自分には信ずる人がいる、愛する人がいる、自分を頼りにしてくれる人がいる、自分を愛してくれる人がいる、そう思ったとき、我々は他に代えることのできない自分の存在を自覚し、自信と誇りをもてるのではないでしょうか。自信と誇りをもつ人は、勇気をもって現実に立ち向かえます。自己に対して正直に誠実になれます。他人に優しさと思いやりをもちます。自信と誇りは自分がもつものというよりも、自分を信じ、自分を愛してくれている人によってもたされるものです。信じられ、愛されることにより、人間はより豊かな、より高い、より美しい存在となるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第134号,平成27年3月24日.
和 辻 哲 郎
大正、昭和前期の哲学者、倫理学者。1889~1960。兵庫県姫路市に医師の子として生まれる。一高を経て東京帝国大学(現東京大学)に入学、卒業後大学院に進み、その間、谷崎潤一郎らと親交をもち、文芸誌に戯曲などを発表した。また、卒業後、24歳のとき、夏目漱石の門下に入り、漱石を深く敬愛し、芥川龍之介とも交友した。その後、西洋哲学とともに日本文化史にも関心をもち、奈良の古寺をめぐる。31歳のとき、東洋大学講師となり、その後、法政大学教授、京都帝国大学(現京都大学)助教授を経て、38歳のときドイツに留学し、ハイデッガーの影響を受けた。帰国後も大学で哲学、倫理学を教え、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任した。西田幾多郎の西田哲学とともに和辻倫理学とよばれる体系的倫理学は西洋哲学と日本思想を融合した独創的なすぐれた思想である。ちなみに、和辻は現在の皇后陛下が皇太子妃殿下になる前の后教育の担当者の一人であった。主著は『倫理学』『人間の学としての倫理学』『風土』『古寺巡礼』など。
*ハイデッガー 第81,82号参照。
*『風土』
和辻は風土を、アフリカやアラビアの砂漠型、ヨーロッパの牧場型、日本を含むアジアのモンスーン型に分け、それぞれの風土と文化、思想の関連を追究した。砂漠型では人々は対抗的・戦闘的になることが強いられ、生きるための強い意志が求められ絶対神への信仰が生まれる。牧場型では人々は規則的で穏やかな自然のなかで農耕や牧畜を営み、合理的論理的思考が形成される。モンスーン型では人々は豊かな感受性と細やかな感情をもち、自然の恵みと暴威のなかで受容的・忍従的性格が形成される。
私は大学で、哲学と倫理学を学びました。師の一人で既に故人となった筧泰彦先生(倫理学者、日本思想史家)は、和辻哲郎が東大教授のときの最初の助手であり、筧先生の最後の卒業生が私でした。したがって、私は和辻倫理学の系譜の端にいることになります。和辻の著書『日本精神史研究』には「源氏物語について」、「もののあわれについて」の項がありますが、私は筧先生から「文学は勿論、哲学、倫理学、宗教学を学ぼうとする学生は『源氏物語』を読まなければならない」と言われました。哲学や倫理学を学ぶにはその国の思考・行動傾向さらには人生観・人間観を学ばなければならないということであり、日本人であるならば、その代表的・世界的作品をまず理解せよという意味でした。『源氏物語』にかぎらず、我が国の古典文学を読むと、主語が記されない場合がきわめて多いことに気付きます。古来、日本人は自己あるいは自我を全面に押し出すことをせずに、常に状況や相手との関係に応じて自分の存在を定めます。良きにつけ悪しきにつけ、これこそが日本人の思考・行動傾向の特色であり、精神構造を規定し、人生観・人間観を形成するものです。そして、和辻は、そもそも日本における「人間」ということばのもつ意味が西洋における「人間」とは異なると論じます。
紹介した一文は『倫理学』にあるもので、それに続いて「だから、それは単なる人ではないとともに、また単なる社会でもない。ここに、人間の二重性格の弁証法的統一が見られる。…人間はかくのごとき対立的なるものの統一である。この弁証法的な構造を見ずしては人間の本質は理解せられない。」と記されています。「人間」とは「人の住む世間」という意味であり、個人と世間すなわち社会の両方をもつのである。つまり、人間とは西洋思想における個人のことではなく、世の中(社会)での様々な関係になかで生きる「人」のことである。そして、「人」は他者との関わりにおいて生きているのであるから、「間柄的存在」とも言えるのである。和辻は「人間」になかに、個人と社会、西洋的・個人主義的倫理と日本的共同体倫理を統一して、日本独自の倫理学を構築しました。和辻によれば、倫理学とは人間緒学なのです。
教育の目的はあるべき人間を教え育てることです。したがって、求める人間像がその出発点であり、さらには、「人間とは何か」という問いが根底にあるのです。最近耳にする企業に求められる人材とかグローバル社会に求められる人間などのレベルではありません。社会の変化や時代の要求に関わらない、と言うよりもむしろ、樹木に喩えるならば枝葉ではなく年輪をもった幹のようなもの、細かな相違を包摂する普遍的な人間観が問題なのです。大切なこととは何か。誰にも問われなければ知っている、しかし、問われたならば簡単には答えられない。私は、それが大切なことの定義であると思っています。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第133号,平成27年3月23日.
西 田 幾多郎
明治から昭和前期の哲学者。1870~1945。日本最大の哲学者として評価される。西洋哲学と仏教思想日本思想を融合(折衷ではない)し、独自の西田哲学を樹立した。石川県の江戸時代以来の大庄屋の家に生まれるが、父の事業失敗により決して裕福な青年時代ではなかった。石川県専門学校(四高のちの金沢大学)に進学し、哲学と数学に関心をもつが、学校が四高となり藩閥政府の色合いが強くなったことにより、学校の教育方針に反抗し退学となる。翌年、東京帝国大学(現在の東京大学)選科に入学し、本格的に哲学を学ぶ。卒業後、故郷に戻り、四高講師、学習院(現学習院大学)教授、京都帝国大学(現京都大学)助教授を経て教授となり、学究一筋の生涯をおくった。「純粋経験」や「絶対矛盾の自己同一」などの思想は深淵にして難解、かつ後世に多大な影響を与えた。ちなみに、西田が思索散策した琵琶湖疎水沿いの道は「哲学の道」として知られている。主著は『善の研究』、『思索と体験』『実践哲学序説』など。
日本史上最大の哲学者である西田の思想は難解などというなまやさしいことばでは表現できません。それは西洋哲学と仏教思想さらに日本思想を十分に理解し、加えて宗教的体験あるいは哲学的情熱がなければならないからでありましょう。勿論かく言う私にも自信はありませんが、識者諸兄の叱責を覚悟で「純粋経験」(西田自身は晩年、この思想から離れるようだが)について述べさせてもらうと次のようになります。西洋哲学(と言うよりも人間の思考形式一般に言えることですが)は、物事を対立させ、区別して考えます。精神を知・情・意に分類したり、認識や価値判断を主観と客観、事物を精神と物質に分けたりすることです。日常的にも大・小、高・低、善・悪、美・醜など、それぞれ対立する概念で、思考し判断します。西田はその対立・区別されたものの根源であり、それらを包摂した存在の根源そのものを考えました。その具体例が西田自身のことばを用いると、「一生懸命に断崖をよずる場合」であり、「画家の興来たり、筆自ら動くとき」などです。こうした状況では見るものと見られるもの、自己と他者の区別が無く、両者が一体である。これこそが存在の根源である。西田はこのように説きます。
紹介したことばは「純粋経験」について記されている『善の研究』からの一文です。この後に続いて「これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するという所に至らねばならぬ。」と記されています。西田によれば、善とは真の自己を知り、人格を実現し、自己を確立することです。人格とは真・善・美を創造する知覚・衝動・思惟・創造・意志などを統合する理性のはたらきのことです。「善とは何か」という問いについて真の自己を知り、人格を実現することとするのは理解できます。私も何度か似たような意見を述べてきました。しかしながら、人格についてこのような定義をするのは、西田幾多郎だけでしょう。では、私たちが日常的に求めるべき善とは何か。
カントは、無条件に善であると言えるのは「善意志」のみ、即ち判断や行為の原理が自分以外の他の人々からも、正しいと認められるものであるとしました。カントによれば、善とは特定の価値でも理念でもなく、ましてや行為でもありません。何を行ったかではなく、どのような思いをもって行ったかが重要なのです。例えば、他人には優しくする場合も、それが誰かから褒められたり、自己利益を目的としたならば、善とは言えない。親切そのものが行うべきことだから行っている。そうでなければ善とは言えないのです。したがって、ボランティア教育にしても、ボランティア活動を生徒にさせるなどとはもってのほかで、生徒がボランティアの大切さを学び実感することこそが本当のボランティア教育なのです。知恵があることも勇気があることも能力の一つであり、それを用いる意志が善でなければ、かえって大きな悪となる。私たち教師が心得るべきことは、善とは何かという問いこそが教育の出発点であるという真実です。その追究なくして教育活動は成り立ちません。校長が提示する教育目標、教育課題については言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第132号,平成27年3月20日.
寺 田 寅 彦
明治から昭和の初期にかけての物理学者、文学者。1878~1935。土佐藩(現高知県)の下級武士の子として東京に生まれる。3歳で高知に移り、18歳で熊本の五高(現熊本大学)に入学し、夏目漱石に英語を学んだ。その後、漱石の俳句結社に入門、21歳で東京帝国大学理科大学(現東大理学部)に入学し、首席で卒業、その後、ベルリン大学に留学、ヨーロッパ、アメリカで研究し1916年に48歳で東大教授となり、エックス線による結晶構造の研究で、物理学界の第一人者の評価を得る。後年は関東大震災を機に地震研究も行った。その一方で、吉村冬彦のペンネームですぐれた科学的随筆や評論を書くなど、科学と文学のセンスを合わせもった才人であった。主著は『地球物理学』など。
すでに格言となりつつある名言ですが、著書や書簡なども含めて本人が書いたものにはこのことばは見つかりません。ただし、彼の弟子たちが著書のなかで「寺田先生が…」と記しており、寺田のことばであるのは間違いないようです。また、彼の随筆にも似たような意味の内容も記されています。
元来は素朴な意味で、自身や台風などの天災は周期的におとずれ、人々が前の痛さを忘れた頃にまた起こるという意味であったそうです。例えば、彼の随筆には、人間が何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明しているとか、関東大震災の調査の必要から徳川時代の大震火災について言及し、今回自分たちが受けたと同じような経験を昔の人しているのに、それを忘却してしまったからこういう事態になったのだ、などという内容のことが記されています。それが拡大されて、災害だけでなく、日常の行いなども含む、安寧への油断や怠惰への戒めのことばとなりました。
最近は気候も変化してきていますが、基本的に、日本は北海道や沖縄を除いては典型的な温帯モンスーン性気候のため、夏の終わりから秋にかけて台風が定期的にやって来ます。また、環太平洋火山帯に位置するので、噴火活動や地震も多い。東日本大震災は未だに多くの課題をかかえ、阪神淡路大震災もまだ記憶に新しい惨事です。日本人はことのほか天災に敏感で、古来より人間の力を超こえるものを、善悪に係わりなく、神として怖れました。例えば、雷は“神鳴り”です。自然の驚異を強く感じていた日本人の祖先は自然を征服し、支配しようなどとは思わず、むしろ、人間も大自然の子であり、自然とともに生きることを最良としたのでした。だから、住居のような日常生活の面でも、庭園、美術、工芸、文学といった趣味や文化の領域でも自然尊重の精神が表れています。さらに注目すべきはそれが自然への服従ではなく和合であるということです。その点、自然を支配することを目的とした西欧人は勿論のこと、『聖書』の世界とも異なっています。彼らの神は自然を造り、支配しているのであるから神の怒りは人間を抹殺する災害となる。ノアの洪水もソドムとゴモラの滅亡もそれを神話、伝承の形で伝えたものです。
東日本大震災の際、評論家諸氏のなかに「この災害は天罰だ」「科学偏重への神の裁きだ」「自然への冒涜に対する自然の怒りだ」などと言う人がいました。私はこのような立場に断固反対します。普段信じていない神や天がどうしてここに来て突如登場するのか。このような人たちは、何の罪もない人の犠牲をどのように考えているのか。自然の怒りとはそれこそ自然を冒涜しています。私は科学技術によって生じた事故は科学技術の進歩によってしか克服できないと思います。地震や火山の爆発は自然のあるがままの活動であって、裁きでも怒りでもありません。それを予知できない、防げないのは人間の知識と科学技術が自然の力に達していないということなのです。だから、私たちが心すべきことは、災害とその参事と悲しみを忘れないことなのです。
*ノアの洪水
『旧約聖書』の「創世記」に記されている物語。神への感謝と信仰を忘れ、悪と不正を為す人間に怒った神は、誠実なノアとその家族だけを生かし、人類のすべてを溺死させた出来事。神の本質が「義」にあり、善人を選ぶ ものであることを示している。「契約の虹」「平和の鳩」などのことばの起源。
*ソドムとゴモラ
イスラエル民族の祖、アブラハムのカナン移住の物語のなかで記される挿話。アブラハムの甥ロトガ住んだソドムとゴモラは背徳の町で、住民には一人として善人はおらず、神は火山の爆発で町を滅亡させた。アブラハムの願いにより、ロトとその家族は助かるが、ロトの妻は町を振り返ったため、一瞬で塩の柱となった。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第131号,平成27年3月19日.
芥 川 龍之介
大正期の小説家。1892~1927。芥川賞にその名を残す日本を代表する天才的小説家。夏目漱石に師事し、菊池寛らとともに自然主義文学に対抗し、新現実主義文学を興した。古典文学を基調とした題材と着想は他に類を見ず、人物描写や人間観の記述は以後の文学芸術に大きな影響を与えた。近代的自我の確立と個人と社会の相克を一貫したテーマとして取り組んだ。しかし、彼自身の人生における文学・芸術と現実との矛盾に苦しみ、1927(昭和2)年、35歳で自殺した。ちなみに演出家の芥川比呂志、作曲家の芥川也寸志は彼の子である。代表作は『鼻』『羅生門』『藪の中』『侏儒の言葉』など。
*菊池寛(1888~1948)
大正・昭和前期の小説家。芥川とともに第3,4次『新思潮』を刊行。現実を直視して、理知的に洞察する作風で、多くの小説、戯曲を発表した。また、『文藝春秋』の創刊者、芥川賞、直木賞の設立者でもある。代表作は『父帰る』『恩讐の彼方に』『形』など。
*自然主義文学 第126号参照。
*新現実主義 第128号脚注参照
*黑澤明(1910~1998)
昭和期及び平成にかけて活躍した映画監督。日本映画史の中で最高の監督と評価される。斬新かつ壮大な映像表現とヒューマニズムに徹した作風で世界的にも大きな影響を与えた。代表作は 『羅生門』『生きる』『七人の侍』『影武者』など。アカデミー賞、世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で受賞している。
*自然哲学者
紀元前6~5世紀にギリシャで成立した哲学。理性により自然を観察し、その根源や原理を探究した。代表的人物には、「万物の根源は水」のことばで知られる哲学の祖タレス、「万物は流転する」のことばで有名なヘラクレイトス、数学者でもあるピタゴラス、「アトム(原子)論」を唱えたデモクリトスらがいる。
*エンペドクレス(493?~433?BC)
古代ギリシャの自然哲学者。万物の根源を土・水・火・風の4つであるとし、それらを愛と憎しみの力が構成しているとした。万物の始原を4つの要因とした点で多元論の祖とされる。
近代日本文学の申し子芥川龍之介は、師夏目漱石の晩年の課題を引き継ぎ、近代的自我の確立とエゴイズムの問題を一貫したテーマとしました。出世作『鼻』は原話である『今昔物語』の戯作的戯画的頓知とユーモアを人間論として組み直し、「傍観者の利己主義」を鋭く描いています。また、黒澤明によって映画化された『藪の中』(映画名は『羅生門』)ではある殺人事件をめぐっての人間の独断と偏見、自己中心主義が説かれています。『枯野抄』(私の個人的な意見では文学史上屈指の名作)では、漱石を芭蕉に、自分を芭蕉の特異な弟子である各務支考に見立て、芭蕉終焉の際のそれぞれの弟子たちの人間模様を支考の冷徹な眼を通して表現しました。
その彼が文学・芸術と現実との矛盾に苦しみ、彼のことばによると「将来に対するぼんやりとした不安」によって自殺しました。上記のことばは『或る旧友に送る手紙』と題された遺書の最後の一文です。「君はあの菩提樹の下で、エトナのエンペドクレスを論じあった二十年前を覚えてゐるであろう。僕はあの時代にはみづからを神にしたい一人だった。」と記されています。エトナのエンペドクレスとは紀元前5世紀にシチリア島で活動した古代ギリシャの自然哲学者で、自分を神であると称し、不死を証明しようとしてエトナ火山の火口に飛び込んで死んだという奇怪な人物です。西洋近現代の思想家や詩人たちに注目され、芥川の絶筆の最後に登場したことで、日本の知識人にも知られるようになりました。ギリシャの神はキリスト教の神とは異なりますが、人間の能力を超えた存在であるには違いありません。神になりたい欲望とは何なのか。人間としての力を極めた者の渇望でしょうか、それとも、自己の無力を知った者の自己否定でしょうか。
青年期とは、本来が血気盛んな時代です。自分を神とまでは思わないまでも、本気になれば何でも出来ると信じています。そうでないとしたら、それはむしろ情けないことであり、周囲のおとなにも問題があります。かく言う私も、学生時代や教師に成り立ての頃は自分に出来ないことはないと思っていました。今にして思えば、大変な思い上がりで恥ずかしいかぎりです。本論に戻りましょう。自信満々の青年は、やがて、自分の限界や無力さを知る。挫折感や不安、絶望にとらわれます。そこからが勝負なのです。そこに人間の成長があり、それを優しく適切に見守るのがおとなや先輩、勿論、教師の役目です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第130号,平成27年3月18日.
※129 調整中。
夏 目 漱 石
明治・大正期の小説家、文学者。1867~1916。森鴎外と並び近代日本文学史上、最高位にある文豪。名主の子として東京に生まれるが、里子や養子に出されたり、養父母の離婚によりまた実家に返され、14歳で実母と死別するなど、家庭的な愛には恵まれなかった。一高、東大英文科を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、五高(現熊本大学)の教員となり、33歳のとき、イギリスに留学した。しかし、西洋人と自分との思考・行動の本質的な相違を実感、神経衰弱となる。帰国後、一高・東大の講師をしながら、作家活動に入る。その後、教師を辞めて、朝日新聞の専属作家となり、多くの名作を書いた。文学史では高踏派・余裕派などと評され、白樺派や新現実主義などに大きな影響を与えた。また、評論、講演活動を行い近代日本と日本人の生き方を啓蒙し、彼の門下からは、文学者のみならず、思想家、科学者なども多く輩出した。代表作は『それから』、『門』、『こころ』、『明暗』、評論『私の個人主義』など。
*白樺派
大正期の文芸思潮。文芸雑誌『白樺』を発刊し、人道主義、理想主義を掲げ、漱石が説く個人主義を肯定的にとらえ、各人の意志や感情を尊重し、人間を本性的に善ととらえ、楽天主義的な人生観・世界観を唱えた。学習 院出身の上流階級の若者がその主流で、代表的人物は武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、倉田百三らがいる。
*新現実主義
大正期の文芸思潮。当代出身者を中心に白樺派に替わって文芸の主流となった新思潮派と理想や官能美を避け日常生活を主題とした早稲田派(生活派)とがある。前者の概評人物には芥川龍之介、菊池寛、山本有三、後者 には宇野浩二、葛西善蔵らがいる。
超一流の小説家は冒頭の書き出しで読者を惹きつけます。『源氏物語』『枕草子』『方丈記』『平家物語』などの古典をはじめ、近代文学においても名作とよばれるものは出だしから見事です。そのなかでも、私は川端康成と漱石が双璧であると思います。川端は文章の流麗さ、美しさとして出色であり、漱石は深い人生智において他を凌駕します。「吾輩は猫である。名前はまだない。」(『吾輩は猫である』)、「親譲りの無鉄砲で小供の頃から損ばかりしている。」(『坊っちゃん』) をはじめ、後期の名作『こころ』の「私はその人を常に先生と呼んでいた。」などは文字の背後にある登場人物の人生と世界を想起させます。初期の軽妙洒脱な作風から明朗で余裕のある作家と思われがちですが、漱石は複雑多面にしてかつ深遠な近代人でした。
彼の門下から、小説家以外に、『三太郎の日記』で有名な阿部次郎、学習院院長、文部大臣を歴任した哲学者安倍能成、日本を代表する倫理学者和辻哲郎、そして科学者、随筆家の寺田寅彦らが輩出したことからも分かるとおり、彼が与えた影響は後の文学、思想、芸術、文化全体にわたり、きわめて大きいものがあります。 さて、上記のことばは初期の名作『草枕』の冒頭の一節で、これに続いて「意地をつくせば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」とあります。何やら超然とした人生観であるようですが、実に当を得た名言です。ギリシャ哲学でも、儒教でも中庸が人間としておさまるべき生き方であると説いています。ちなみに、情に棹さすとは情に任せて一層のめり込むという意味で、「流れに棹さす(流れに乗ってなおのこと進む)」と同義です。
漱石の真価は、近代化を推進する当時の日本にあって、数十年後を見据え、日本の伝統文化と欧米近代文化との相克、個人主義が利己主義に転化しがちな精神的風土と本来的個人主義の確立との矛盾、さらにその苦悩から真の人格としての自我の確立を目指したことでした。個人主義は今以て、我が国の精神的課題です。そもそも、日本人の生活意識や価値観は集団のなかで自分はいかにあるべきか、何をなすべきかということを基本とし、「個人」という概念はありませんでした。実のところ、「自己」もなく、「自分」は「自らの分」、つまり、自身の分限、役割、領域という意味です。漱石が「個人主義」とともに用いた「自己本位」も「あいつは自己本位だ」などと普段用いる場合は、自分勝手、わがままという意味になります。漱石が説くところの「自己本位」は判断や行為の基準を他者ではなく自己に置くことで、当然、その責任も自己自身でもたなくてはなりません。それが真の「個人主義」なのです。漱石のこの提言はかなり浸透しました。しかし、近年の教育界における「個性化」の理解が不十分でした。「個性化重視」はまたもや「個人主義」を取り違えてしまった。紹介したことばは、皮肉にも、日本人の人生観と個人主義の難しさを表現したものなのではなかったかと、私は思います。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第128号,平成27年3月16日.
与 謝 野 晶 子
明治から昭和前期にかけての詩人・歌人。本名は与謝野志よう。1878~1942。堺の旧家(老舗和菓子屋)の子に生まれ、幼い頃から漢学や芸能の親しみ、堺女学校に進学し、『源氏物語』などの古典文学に親しみ、20歳頃から創作した歌を雑誌に投稿したりしていた。22歳のとき、与謝野鉄幹と知り合い、鉄幹が主宰する文芸雑誌『明星』に参加する一方、私生活でも鉄幹との熱烈な恋愛のすえ、不倫関係となり、後に結婚した。その後、ロマン派の代表的歌人として数々の歌集を発表し、26歳のとき、日露戦争に出征する弟にあてた『君死にたまふことなかれ』を発表、33歳のとき、平塚らいてうらとともに初の女性文芸誌『青鞜』を創刊、また、『源氏物語』の現代語訳をするなど、文壇に大きな足跡を残した。代表作は『みだれ髪』『恋衣』など。
*与謝野鉄幹(1873~1935)
明治から昭和にかけての歌人・詩人。落合直文に師事。和歌の革新運動を指導し、口語体の詩を提唱する。文芸雑誌『明星』を創刊、また、森鴎外とともに『すばる』を刊行。ロマン主義文学の中心人物として活躍する。
*平塚らいてう(1886~1971)
大正、昭和期の女性解放運動家、思想家。女性解放運動組織である青鞜社をおこし、雑誌『青鞜』を出版。その巻頭にある「元始、女性は実に太陽であった。」は有名である。その後、大正デモクラシーの高まりのなか で、34歳のとき、市川房枝らとともに新婦人協会を設立、進歩的・組織的な運動を展開した。
情熱の女流歌人・与謝野晶子は現代に生きていたとしても、十分に現代女性のオピニオンリーダーになれるだけの人物であると言われています。いくつか代表的なものを紹介しましょう。「やわ肌の、あつき血潮に触れも見で、さびしらずや道を説く君」。若い頃、想いを寄せた僧侶への歌と伝えられていますが、伝統や慣習、社会的拘束を怖れない奔放な精神の持ち主であったことがうかがわれます。「その子二十才、櫛にながるる黒髪の、おごりの春のうつくしきかな」。自分の若さと美しさをこれほどおおらかに自信をもって謳ったものは他に例がありません。実際の彼女はよく分かりませんが、自信といいますか、内面的気概は外面的美をつくり上げるのでしょう。師であり、夫である鉄幹の詩に「妻を娶らば才たけて、みめうるわしく、情けあり」というのがありますが、家計を担って創作し続ける彼女には生活力も旺盛であったようです。「橘の、香ぐの木陰は行かねども、五月は恋し遠いるひとよ」。古歌の「五月待つ、はな橘の香をかげば、昔のひとの袖の香ぞする」の本歌取りですが、二番煎じにならない品のよさがあり、古典的センスが感じられます。紹介した『君死にたまふことなかれ』は、当時の社会的風潮にあって、イデオロギーではなく、深い人間愛と生命の尊重から反戦を唱えたことは特筆に値します。特に「すめらみことは戦いにおほみずからは出でまさね」とある一節には驚かされます。天皇を批判しているからではありません。天皇を一個人として人道的倫理的見地からとらえようとしているからです。
この作品は、家が大事、妻が大事、そのためには国は亡びてもよしとは何事かと、当時の批評家たちからは批判されました。それに対し、晶子は「歌はまことの心を歌うもの」と反論しています。日露戦争の時代は昭和前期に比べて、かなり言論・表現の自由があり、文芸の弾圧は厳しくなかったのでした。しかし、その後、第一次世界大戦を機に晶子の反戦思想はなくなり、第二次世界大戦に従軍した我が子には「水軍の 大尉となりてわが四郎 み軍にゆくたけく戦え」と戦争を美化し、『君死にたまふことなかれ』とは反対の立場をとりました。変節の理由は様々でしょうが、詰まるところ時代精神の所産としか言いようがありません。
戦争は遠い昔のことではありません。今なお、世界各地には紛争が絶えず、先頃、日本の民間人が中東でイスラム国に処刑されたことは悲しむべき事実です。集団的自衛権に加え、文官統制の緩和など、防衛に関しての大きな転換期を迎えています。今こそ、国民主権を忘れてはいけません。そして、政府は国民の安全と平和を守るためにあるという大原則を忘れてはいけません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第127号,平成27年3月13日.
島 崎 藤 村
明治から昭和前期にかけての小説家、詩人。本名島崎春樹。1872~1943。信州(現長野県)木曽の旧家に生まれ、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。10才の時、東京に出て明治学院に入学、在学中にキリスト教に入信する。14歳のとき、父が自宅牢で狂死した。この出来事は生涯卒業後、20歳で明治女学校高等科英語の教師となり、この間、北村透谷らとともに雑誌『文学界』を創刊し、日本のロマン主義文学の中心的存在となる。その後、透谷の自殺を契機に仙台へ行き、東北学院の教師として生活する一方で、詩人としての確固たる地位を築く。27歳のとき、信州に戻り、小諸塾で英語教師となり、この頃から小説への転向を志す。明治39年、34歳のとき、小説『破戒』を自費出版し、自然主義文学の先駆者となる。以後、娘たちの死や家庭的なスキャンダルなど私生活は多難であったが、昭和に入ってからも常に文壇の大御所的立場にあった。代表作は詩集としては『若菜集』、小説に『春』『新生』『夜明け前』などがある。
*自然主義文学
19世紀後半フランスで起こった文芸思潮で、ありのままの現実を捉え、醜悪な部分も含めて人間の本性を描こうとする文芸思潮。代表的人物にゾラ、フローベル、モーパッサンらがいる。日本では藤村に始まり、明治末期に全盛を誇ったが、藤村以後は私小説が主流となり、社会的視野を失っていった。代表的作家には田山花袋、正宗白鳥、岩野泡鳴、徳田秋声らがいる。
一代のロマン詩人島崎藤村の一生は、教え子との恋愛による教職辞職、別の女性との結婚後も娘たちの早世、姪との情交など、意外にもかなり凄惨なものでした。彼の精神状態の根底には、畏敬する父が発狂して、座敷牢で死んだということで、父から受け継いだ遺伝子がいつかは自分の身に及ぶのではないかという不安がありました。日本における自然主義文学の先駆で、夏目漱石が絶讃した『破壊』は部落民という血の宿命を背負った主人公を「狂死した父の子」である自分に重ね合わせて、内面への道を開こうとした自己自身の作品でした。おおよそのあらすじは次のとおりです。
明治後期、信州小諸城下の被差別部落(部落民)に生まれた主人公瀬川丑松は、父の遺言を守って自分が部落民であることを隠し続けていた。成人して小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家である猪子蓮太郎(信州の教育家がモデルとされている)が自分が部落民であることを恥じずに、事実を語り、堂々と生きている姿をみて尊敬し慕うようになる。丑松は猪子に自らの出生を打ち明けたいとの思いで心の揺れる日々をおくる。やがて、学校で丑松が部落明出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。その衝撃のゆえか同僚の猜疑のゆえか、丑松は追い詰められ、亡父の遺戒を破り、素性を打ち明け、自己の存在を世間に対して堂々と主張しようとする。紹介した一文は、主人公が「明日は学校にへ行ってうちあけよう。教員仲間にも、生徒にも話そう。」と決意する一節に続く文です。
ロマン主義の詩人、島崎藤村の詩には「初恋」「惜別の歌」「椰子の実」などがあり、今でも愛唱され、彼の文人としての真価もロマン主義にあるといわれています。しかし、後世への影響と時代の先駆として私は『破戒』を彼の真骨頂としたいと思います。最後は日本を去り、アメリカへと向かう主人公の態度には賛否がありますが、当時の被差別部落に対する社会的偏見とそのなかでの主人公の苦悩と自己形成をテーマとしたこの作品は、フランスの自然主義文学におとらない名作です。真の自由の獲得という近代以降の日本思想の課題を、藤村は社会に対する個人の精神的な自立を現在も残存する部落問題を通して展開したのです。それは西洋文明に触れることによる旧体制からの脱却、制度的物質的文明開化ではなく精神的脱却つまり日本と日本人全体の自我の確立に向かっての取り組みでした。喩えるならば、日本の青年期の作品です。
人権教育も近年の学校教育の課題の一つで、そもそもが、同和問題を出発点としていました。私は藤村の『破戒』を知らずに、人権や自由を教育のテーマとして語ることは出来ないと思っています。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第126号,平成27年3月11日.
北 村 透 谷
明治期の詩人・評論家。1868~94。 本名は北村門太郎。相模国(現神奈川県小田原市)の没落士族の家に生まれ、子どもの頃に両親とともに上京する。東京専門学校(現早稲田大学)に入学し、その後、自由民権運動に参加したが、政治活動の限界と矛盾に疑問を感じ、仲間の意識の低さ(活動資金のために強盗する計画を立てる)に失望して離脱、文学に転向する。20歳のとき、キリスト教に入信、同年結婚し、キリスト教の伝道師として活動するとともに、ロマン主義文学の先駆者、理念的指導者として活躍し、すぐれた詩や評論を発表した。文学的には恋愛至上主義、政治的には絶対平和主義の立場をとった。1893年、島崎藤村らとともに『文学界』を創刊。しかし、日清戦争直前の時世と国粋主義の隆盛にあって、理想と現実生活との矛盾に苦しみ、精神を病み自殺した。主著『内部生命論』『蓬莱曲』『人生に相渉るとは何の謂ぞ』など。
*ロマン主義
自我の主張、個性の尊重を基本とし、形式にとらわれずに豊かな感情表現をすることを特色とした文芸思潮。18 世紀末から19世紀のヨーロッパで文学・哲学・音楽・美術の各分野で盛んとなった。ドイツのヘルダーリン、 ハイネ(第54号)、フランスのユゴー(第52,53号参照)、デュマ(第58,59号)、イギリスのバイロン、アメリカ のエマーソン、ホイットマン(第71号)などが代表的人物である。日本では、明治20年代に北村透谷をはじめ『文学界』の同人である島崎藤村や樋口一葉、『明星』の与謝野晶子らにより展開された。
*島崎藤村(1872~1943)
長野県木曽の旧家に生まれ、15愛で上京し、キリスト教に入信した。北村透谷とともに、『文学界』を創刊し、ロマン主義の詩人として『若菜集』等を発表、のちに小説家として自然主義文学の先駆者として活躍した。代表 作は『破戒』『夜明け前』など。なお、『桜の実の熟するとき』『春』の登場人物は透谷をモデルにしている。
明治維新後、政治・経済・社会体制の急速な変革のなかで、文学は自由民権運動の展開とともに近代化していきました。そして、民衆からの民主化運動が政府による弾圧と国民意識の衰退により、停滞したとき、人間尊重の精神と近代的自我意識の探究としての「文学」がその地平を開くことになりました。その際、我が国に最も大きな影響を与えたのは18世紀末から19世紀の西欧のロマン主義でした。。透谷「人間性の自由」をテーマとして人間の心理、内面性の強調をその後の文学者に示唆しました。 1893(明治26)年、透谷は当時の一流文化人山路愛山と論争します。文学史上「人生相渉論」と呼ばれているもので、そこで透谷は自由民権運動への挫折感を自己批判という形で論じつつも、愛山の実益主義、帝国主義に反駁し、肉体的生命よりも内面的生命(想世界)における自由と幸福を重んじるロマン主義を提唱しました。
紹介した文は『人生に相渉るとは何の謂ぞ』の中にあり、「戦士陣に臨みて的に勝ち、凱歌を唱えて家に帰る時、朋友は祝して勝利といい、批評家は評して事業という。事業は尊ぶべし、勝利は尊ぶべし、然れども、高大なる戦士は斯くの如く勝利を携えて帰らざることあり。」と記されています。透谷によれば、文学は“空の空なる事業”であり、詩人は精神の建築家である。しかし、建築家が最後には立派な建物を完成させるようにはいかない。詩人は必ずしも確たる成果をあげるとはかぎらないのであって、むしろ、空の空なることの方が常である。魂のかぎりをつくして、全世界の未来と歴史に挑戦する。そして、そのほとんどが刀折れ矢尽きて、戦場の彼方に何処ともなく去って行く。それが詩人の宿命である。事実、透谷は現実に破れて自殺しました。尊いとされるものには二種類あります。ひとつは結果や成果によるものの意義や価値。もうひとつはめざしたもの、夢見た理念や理想。それらを志すものはみな、透谷の志と夢の継承者です。彼の足跡は地上に永遠に残り、そのことばは今も天を駆けています。
私は透谷こそ近代日本最高のロマンチストであると思っています。そして、日頃からいっているように教師はロマンチストでなければなりません。実利実益、世間からの評判を気にして保身に走ってはだめです。風評に迷ってはなりません。権威者にへつらうなど論外です。ロマンを求めましょう。勿論、校長においてはいうまでもありません。私はそのような校長であり得たか、それを自身に問いながら今もなお、高みを目指すつもりです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第125号,平成27年3月10日.
内 村 鑑 三
明治から昭和初期にかけてのキリスト教学者、思想家。1861~1930。上野国(現群馬県)高崎藩松平家の家臣の子として江戸に生まれる。5歳のとき、高崎に移り父から儒学を学び、武士道的倫理観を身につけるとともに、維新後は英語を学んだ。16歳のとき、札幌農学校(現北海道大学)に入学し、当初はW=S=クラークの影響を受けていた先輩たちに反発したが、翌年、キリスト教に入信する。卒業後、アメリカに渡り大学で学び、4年後、27歳で帰国し第一高等中学校の講師となったが、30歳のとき、不敬事件により退職する。36歳そとき、『万朝報』の主筆となり、足尾鉱毒事件では財閥を糾弾、日露戦争では非戦論を唱えたが、社長の黒岩涙香が海戦論に転じたため、幸徳秋水らとともに退社。その後はキリスト教の研究と排他的愛国主義を捨て、人類の平和に貢献する真の愛国者としての生き方を探究した。主著は『余は如何にして基督信徒となりし乎』『代表的日本人』など。
* 不敬事件
1891(明治24)年、第一高等中学校(後の旧制一高・現東京大学教養学部)の講師であった内村が『教育勅語』の奉読式において、『教育勅語』に敬礼をしなかったため、世間の非難を受けて辞職した事件のこと。
*足尾鉱毒事件
栃木県と群馬県にまたがる渡良瀬川周辺で発生した公害事件。古川鉱業(現古河機械金属)による足尾銅山の開発での鉱毒水、鉱毒ガスなどによる被害が社会問題化し、1901年、田中正造による天皇への直訴にまで発展する。1907年、土地収用法の制定と谷中村廃村、遊水池設置で決着したが、2011年の東日本大震災後の調査で、渡良瀬川の鉛が基準値を超えることが確認され、被害は21世紀にまで及んでいることが分かった。
*日露戦争(1904~05)
韓国、満州をめぐる日本と旧ロシアとの戦争で、20世紀最初の帝国主義戦争とされる。開戦の翌年には両国とも損害、疲弊が激しかったが、05年5月、日本海海戦で日本の連合艦隊(司令官東郷平八郎)がロシアのバルチック艦隊を撃破し、アメリカ大統領の調停により9月に終結した。講和条約の上では日本の勝利となる。
*非戦論
日露戦争への国民的気運が高まった1903年、内村は「汝、殺すなかれ」というイエスのことばこそ、キリスト教徒としての真の正義であり、真の愛国心であるとの信念から戦争反対を主張した。
* 黒岩涙香(1862~1920)
明治・大正期のジャーナリスト、翻訳家。『万朝報』を創刊し藩閥政治を批判した。また、デュマの『モンテクリスト伯』を『巌窟王』、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を『ああ無情』の署名で翻訳刊行した。
* 幸徳秋水(1871~1911)
明治期の社会主義者。土佐出身で、中江兆民に師事し、自由民権思想とフランス流急進的啓蒙思想を学び、次第に社会主義に傾倒していった。軍国主義、帝国主義を厳しく批判し、1903年、『平民新聞』を刊行して非戦論を主張する。05年渡米、帰国後はさらに急進化し、11年、天皇暗殺を企てたと猜疑され大逆事件で処刑された。
明治維新の近代化政策とともに、欧米の学問や思想が移入され、当然、キリスト教も受容されました。キリスト教の伝来は、16世紀のイエズス会の布教以来2度目で、前回はローマカトリックでしたが、今回はプロテスタントが主流でした。プロテスタントの個人主義的信仰心と倫理観は日本人の近代的自我に大きな影響を与えましたが、唯一の神を信仰するという宗教観は日本にはなく、当時の学者や宣教師たちはいかにしてキリスト教を日本の生活と文化に根付かせるかを課題としていました。
内村は愛国心と関連させて、その課題を考察しました。紹介した「二つのJ」とはイエス(esus)と日本(Japan)のJであり、『失望と希望(日本国の先途)』には「イエス=キリストのためであります。日本国のためであります。私共は此二つの愛すべき名のために私共の生命を捧げようとおもうものであります。」と記されています。内村はキリスト教徒ですから、イエス=キリストへの愛と信仰を説いているのですが、それを別の存在あるいは理念に置き換えると、また、日本への愛では抽象的になりますから郷土や母校にしてみると誰にでも当てはまることになります。愛国心の育成も近年、学校教育に盛り込まれていますが、本来の愛国心には二つの要因が欠かせません。一つは家族愛、恋愛など身近なものを愛する心、もう一つは諸外国を取り込んだ平和主義です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第124号,平成27年3月9日.
伊 藤 博 文
明治の政治家。1841~1909。周防国(現山口県)出身。長州藩吉田松陰の松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政府で力を付け、岩倉具視の使節団に副使として参加し、欧米を視察する。帰国後、大久保利通とともに征韓論に反対し、西郷隆盛らと対立、西南戦争の勝利と大久保の死後、彼に代わって政府の中心となり、内閣制度制定や大日本国憲法制定に指導的役割を果たした。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。また、立憲政友会を結成し初代総裁となり、外交面では日清戦争に対処した。日露戦争後、初代韓国統監となり、辞任後、枢密院議長に復帰、日本とロシアの関係調整のために満州に渡り、会談を終えた直後に朝鮮民族主義活動家の青年により中国のハルビンで暗殺された。伊藤の暗殺を契機に翌年、日韓併合が成立した。
* 岩倉具視(1825~83)
公卿出身。初め公武合体論を唱え、後に尊皇攘夷派と組み、王政復古を実現させる。維新政府の指導的立場に立ち、天皇制を強化する一方、欧米先進国の文化、制度を学ぶ姿勢をもち、日本の近代化をめざした。
* 大久保利通(1830~78)
薩摩藩出身。倒幕運動、王政復古の中心人物として活躍し、維新政府の指導者として版籍奉還、廃藩置県、地租改正などを断行した。岩倉使節団に参加し、帰国後征韓論に反対し、内政重視と殖産興業を推進し、藩閥政治の中心として権力を掌握したが、反対派に暗殺された。
* 征韓論・西南戦争 第120号参照。
伊藤博文はもともと農民出身の最下級武士であり、もっと早くに生まれていれば歴史に名を残すことはあり得ない人物でした。吉田松陰の松下村塾に学び、亡くなる1か月前に先輩高杉晋作の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる碑文を寄せています。松下村塾での師や友人との出会いが彼のその後の人生を決めたのでした。
後年、日韓併合の推進などで誤解されますが、伊藤はそもそもが併合に反対であった、あるいは併合したとしても一時的な併合で十分という見解をもっていたという説もあります。また、事実としては、伊藤が統監として、重視した政策は当時の韓国人の身分解放と教育の振興であり、衛生面をはじめ民衆の生活環境は著しく改善されました。彼自身はむしろ平和主義者で、暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っています。ロシア蔵相と満州・朝鮮問題について非公式会談のため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根によって撃たれ、死ぬ間際、撃ったのが韓国青年だと聞き、「俺を撃つとはなんて馬鹿なやつだ」と語ったと伝えられています。
紹介したことばは政界ではライバルであった大隈重信が創立した東京専門学校(現早大)の式典での演説の一節です。学校に行く目的は将来の職業を選択したり、その準備をするトレーニングの場であると言うのです。明治時代の実学主義、立身出世主義を示すことばですが、福沢諭吉のところでも述べたように、実学や立身出世を単に、自己の利益追求ととらえてはいけません。学校を出たからといって、学問にしても仕事にしても即一人前というわけにはいきません。むしろ学校は基礎を学ぶところです。私としては、事業のためだけというのは誤解を招くと思います。学校は良き社会人となるための機関です。小・中学校であれ、高校・大学であれ、目的の本質は変わりません。では、良き社会人となるための教育とは何でしょうか。
私は、学校では主に三つのことを習得しなければならないと考えています。一つめは学問を修めること。それをもとに正しい社会認識や人生観・世界観を育てるためです。二つめは規則や秩序を尊重する精神を養うこと。そこから社会性や正義を身につけるためです。三つめはあるべき人間関係について考え、集団の意義と集団における個人の在り方をとらえること。それにより、協調性を身につけ、真の友情や人を愛する人生をおくるためです。キャリア教育が唱えられてからしばらくの年月がたちますが、職業観や就労観、職業のための知識や技術の獲得はそのあとに付属するものであるはずです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第123号,平成27年3月6日.
中 江 兆 民
明治期の思想家、学者、政治家。1847~1901。土佐藩(現高知県)の下級武士の子に生まれる。幕末、土佐藩では下級武士を中心に尊皇攘夷派が活動(土佐勤王党、坂本龍馬も当初は参加した)が盛んであったが、それには加わらず、18歳のとき、藩の援助で長崎に留学し、フランス語を学び、24歳のとき、岩倉使節団に加わりフランスに留学し、パリ・コミューン後の自由な気風のなかで、哲学や歴史、文学を学び、ルソーの『社会契約論』の翻訳を志した。27歳で帰国し、私塾を開き、『東洋自由新聞』の主筆となったが、政府の弾圧により廃刊となったため、著述に専念する。その間、『社会契約論』の翻訳を続け、35歳のとき、『民約訳解』として発刊する。当初、過激化した自由民権運動に直接関与しなかったが、安政の不平等条約の改正運動にあたり、自由民権運動の論客として活動し、1890年の第1回衆議院選挙に当選したが、自由党土佐派の政府との癒着に怒り、3ヶ月で辞職、実業家に転ずるも失敗して政界にもどり、藩閥政府打倒を目指したが、望みかなわず没した。主著『三酔人経綸問答』『一年有半』など。
*岩倉使節団
1871年、岩倉具視を大使とする使節団。安政の不平等条約改正に向けての予備交渉を目的とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら参加するが、予備交渉には至らず、制度・文化・文物の視察にとどまり、1873年に帰国した。
*パリ・コミューン(1871)
プロシアフランス(普仏)戦争(1870~71)に敗れたフランス臨時政府に抵抗したパリ市民の自治政府。史上初の労働者政権で、自由平等、直接選挙、議会決定事項の公開などを掲げたが、プロシア支援を得た臨時政府に鎮圧された。
*安政の不平等条約
1858年に結ばれた安政の5カ国条約のこと。日本はこの条約において相手国(米・蘭・露・英・仏)に領事裁判権を認め、関税自主権がなかった。維新後の外交において、条約改正は維新政府の最重要課題で、領事裁判権は1894年に陸奥宗光により、関税自主権は1911年に小村寿太郎により改正された。
明治維新後の藩閥政治(薩長土肥、特に薩長出身者が政府の要職を占める政治)への反発と同時に、1870~80年代に盛んになったのが、自由民権運動です。皮肉なことに、藩閥政治の非主流であった土佐の板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信らがその運動の推進者で、始まりは征韓論に敗れて野に下った板垣らが要求した民選議院設立建白書でした。自由民権運動は主に二つの系列があり、一つは大隈重信らのイギリス功利主義、もう一つが中江兆民を中心とするフランス啓蒙思想でした。兆民自身は過激な運動家ではありませんでしたが、ルソーの『社会契約論』の翻訳書『民約訳解』が当時の知識人にかなり大きな影響を与え、また彼自身がのちに政界に進出したこともあって、自由民権運動の指導者と評価されるようになりました。ルソーの社会契約思想は国民主権、直接民主制を強調し、フランス革命の理論的支柱となりましたが、兆民はそれほど急進的ではありません。日本の現実を冷静に見つめ、革命により人権を獲得するには無理があり、為政者が国民に人権を与え、それを国民が自分のものとして育て上げていくことを第一としました。そのためには国民が物事を正しく考え理解する力をもたなければならず、道徳心の育成と教育が何より大切だと説いています。権利を享受するには享受するにふさわしい人間となることが前提となります。自由を行使するには自由な行為がもたらす結果の責任を覚悟しなければならない。権利を主張しその権益を求めるのであれば、それにふさわしい人物とならなければなりません。
*板垣退助(1837~1919)
土佐藩出身。維新政府参議。征韓論に敗れて下野し以後、自由民権運動の中心人物として活動する。その後、藩閥政府妥協し、第2次伊藤博文内閣の内相、大隈重信とともに隈板内閣をつくった。
*後藤象二郎(1838~97)
土佐藩出身。坂本龍馬の意見を聞き入れ大政奉還に尽力、維新政府参議となるが、板垣とともに、征韓論に敗れて下野し、自由民権運動を推進した。後に黒田清隆内閣に入閣した。
*大隈重信(1838~1922)
佐賀出身。維新政府大蔵卿、参議。国会の早期開設を主張するが政変により下野し、東京専門学校(後の早稲田大学)を設立。後に板垣退助と内閣(隈板内閣)を設立、第2次内閣のときには、第1次世界大戦に参戦した。
*功利主義 第55~57号参照
*フランス啓蒙主義
17~18世紀のフランスにおいて盛んであった思想。封建制や絶対王政を批判し、旧体制における経緯や因習から人民を解放し、自由・平等、基本的人権を説き、近代市民社会の思想的基礎を築いた。代表的人物には、『法の精神』のモンテシュキュー、『寛容論』のヴォルテール、『百科全書』の編纂者ディドロ、そしてルソーがいる。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第122号,平成27年3月5日.
福 沢 諭 吉
江戸時代末期、明治期の思想家、学者。1835~1901。中津藩(現大分県)の下級武士の次男として大坂に生まれた。すべてが身分で固定されている社会体制に反発心を抱いた少年時代をおくり、早くから勉学に励む。19歳のとき、長崎で蘭学を学び、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門し、23歳のとき、江戸に出て塾(のちの慶應義塾)を開いた。25歳のとき、勝海舟を艦長とする咸臨丸の一員として渡米、西洋近代文明を直接知り、2年後、幕府の遣欧使節団に翻訳方として参加し、ヨーロッパにも渡った。32歳のとき、幕府の随員として再び渡米、明治維新後は啓蒙思想家として活躍、38歳のとき、明六社結成に参加し、また慶應義塾で政府の高官をはじめとする有為な人材を育成し、当時におけるオピニオン・リーダーであった。主著。『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論之概略』など。
*緒方洪庵(1810~63)
江戸時代後期の蘭学者、蘭方医。天然痘やコレラの研究を行い、日本近代医学の祖といわれる。適塾を開き福沢諭吉のほか橋本左内、大村益次郎らの逸材を輩出した。また、14代将軍徳川家茂の侍医を務めたこともある。
*明六社
1873(明治6)年、のちに文部大臣となり学校令を制定した森有礼の呼びかけにより結成された思想団体。明治6年をとって明六社と名付けられた。機関誌『明六雑誌』を刊行し、西洋近代の思想・文化を啓蒙し、日本の近代化を思想的側面から支えた。75年の新聞紙条例、讒謗律により換算し、その活動は短かった。メンバーには、福沢諭吉、西周、津田正道、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らがいる。彼らは必ずしも同じ思想傾向、主義をもつわけではなかったが、イギリス、フランスの啓蒙思想を広く 国民に伝えるととともに、日本の学術団体の源流となった。、
福沢諭吉は一万円札の肖像でお馴染みです。紙幣の肖像画となる人物は元首あるいはその国の政治や文化を代表する人物であり、最近では、千円札は伊藤博文、野口英世、夏目漱石、五千円札は新渡戸稲造、樋口一葉、最近は見られなくなった二千円札は守礼門と源氏物語絵巻、一万円札は福沢のほかには、かの聖徳太子です。
福沢は慶應義塾の創設者として知られ、日本近代における最高の啓蒙思想家と評価されていますが、生涯官職に就かず、学問と教育に一生を捧げた人物でした。彼の思想的出発点は封建的身分制度の否定です。「門閥制度は親の敵」と述べているように、先祖代々下級武士の悲哀を味わった家柄が、というよりもそのような家柄に甘んじなければならない当時の社会を激しく恨みました。それゆえに、自らの身を立てるには、学問に励み、知識と学識によってのし上がらなければならないと考えたのでした。そのような彼にとって、明治維新は喜ぶべき時代の到来でした。しかし、維新後の政治は薩長土肥によるいわゆる藩閥政治であり、彼は政治家を育成する立場を選んだようです。
紹介したことばは『学問のすすめ』にある有名なことばですが、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり。」とありますから、「と言われている」という意味で、いわゆるこの天賦人権の思想はアメリカ独立宣言を訳したものという説が一般的です。そのあとに「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ、学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる。」と記されています。つまり、人間は生まれながらに平等であるはずだが、現実には賢い人も愚かな人も、富める人も貧しい人もいる。これまでに時代は身分制度があり個人の力では限界があったが、これからは学問により、誰もが立身出世が出来ると言うことです。
福沢が唱える学問は「実学」で、彼は幕藩体制の理論的支柱であった「儒学」を否定しています。学問は科学技術だけでなく、欧米から流入した物理学、数学、経済学、地理学などで日用の役に立つ学問である。学問を学ぶことにより、個人の気力が充ち、精神的な自立心が生まれ、自分の判断で行動することができ、生計を立てることが出来る。個人のそのような自立があって、我が国は近代国家たり得る。このことを「一身独立して一国独立する」と福沢は表現しました。
福沢のこのような学問観は立身出世主義、実用主義といわれ、現代に至るまで、我が国の教育観の大きな柱となっています。ここで間違ってはならないのは、立身出世とは、単に地位や財産を得ることではなく、文字通り、志を高くもち、この志にふさわしい学問を積み、この結果得た気力をもって、社会に貢献するということなのです。日本が欧米に負けない先進近代国家となるためには、先ず、国民一人ひとりの精神的自立と自律が求められる。国民のレベルが国家のレベルをつくるのか、国家のレベルが国民を育てるのかはきわめて厄介な問題ですが、福沢は「一身の独立」を先に求めています。その意味では、彼は確かに西洋近代精神を熟知したとした啓蒙思想家でありました。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第121号 ,平成27年3月4日.
西 郷 隆 盛
江戸時代末期、明治初期の政治家、軍人。1827~1877。尊皇攘夷運 動倒幕運動を推進し、明治維新、徳川幕府滅亡の中心人物。薩摩藩の下級武士に生まれるが、藩主島津斉彬に認められ、27歳の時(1854年:日米和親条約締結)、江戸に随行、橋本左内らと親交をもち、尊皇攘夷運動に参加、将軍継嗣問題では、斉彬にしたがい、一橋派として活躍するが、安政の大獄を逃れて、入水、蘇生して捕まり大島に流された。その後、藩に復帰し幕府側として長州藩を交戦したが、66年、坂本龍馬の仲介により薩長連合を結び、薩摩藩を討幕派に導き、67年、大政奉還、王政復古をはたした。翌年、倒幕東征軍参謀として江戸に入り、勝海舟 との会談で江戸城無血開城を果たした。戊辰戦争を指導して新政府の重職にあっ たが、征韓論に敗れ、薩摩に帰り、私学校を開設。その生徒たちを中心とした不平士族に擁され西南戦争を起こし、敗死した。著書に『西郷南州遺訓』などがある。
*島津斉彬(1809~58)
薩摩藩主。藩政改革を行い、西郷ら下級武士からも人材を登用、幕政にも参与する。将軍継承問題では一橋慶喜(15代将軍慶喜)を支持する。
*橋本左内(183~~59)
福井藩士。緒方洪庵に医学を学び、藩主松平慶永(春獄)の側近として一橋派の中心人物として活躍するが、安政の大獄で処刑された。
*戊辰戦争(186~69)
大政奉還後の鳥羽伏見の戦い、上野戦争(上野彰義隊が奮戦した)、会津戦争(白虎隊の悲劇で知られる)、函館戦争(五稜郭のの戦い)など旧驀臣、会津、桑名藩と明治政府との一連の戦い。
*勝海舟(1823~99) 第118号脚注参照。
*征韓論-
明治維新後、鎖国政策をとった朝鮮に対して西郷、板垣退助らが唱えた出兵論。帰岩倉具視、大久保利通の反対で廃案となり、 西郷は鹿児島に去った。その後、維新政府に対する不平士族の反乱が各地で起こり、1877年に西郷を首領とした戦いが西南戦争である。
*大久保利通(1830~78)
薩摩藩士。西郷隆盛とともに、薩長連合、王政復古に尽力し、明治維新政府の中心人物として活躍する。征韓論をめぐって西郷と対立、殖産興業など日本の近代化を推進するが、西南戦争で西郷が自刃した翌年、不平士族により東京で暗殺された。
かなり以前から野公園にある西郷の像は高村光雲の作で実物とは全く異なることと伝えられていますが、イメージが実像となった例です。イエスやシャカをはじめ、宗教の開祖に顕著ですが、西郷も当時から伝説的な人物だったのでしょう。
西郷隆盛は下級藩士の子に生まれましたが持ち前の才能により認められ、藩主に認められ江戸詰めとなり、江戸で尊攘思想を学びました。本来は倒幕論者でしたが、江戸城無血開城を承諾したようにスケー ルの大きい人望のある人物だったと言われています。征韓論も西南戦争も本人の意志というよりは周囲の状況で止むに止まれずのことであったらしい。そうした人柄が日本人に愛された所以でしょう。 私の意見では、大政奉還をめぐっての一連の行動や大久保利通との意見の対立などから、旧時代の武士の色合いが強く、好戦的な性格であったような気がします。その一方で、主君への忠誠、友人への義理、部下への思いやりをもった人物であったようです。
さて、上記のことばは彼のいわゆる“敬天愛人”の精神で、この言葉は本校の校長室にも額入りで飾られています。前後を記しますと、「道は天地自然のものにして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふるゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」となります。あきらかに儒学の仁愛の思想です。
「こうして天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は悪人の上にも善人の上にも陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らしてくださる。…だから天の父が完全であられるようにあなたがたも完全なものとなりなさい」。こ勿論、これは『新約聖書』の『マタイによる福音書』にあるイエスのことばですが、両者の類似は人類が永遠に願い求めるものの普遍性を語っています。
昨日、イスラム国に拉致された日本人ジャーナリストについての悲しい報せが入りました。天を敬い、人を愛する心を世界中のすべての人々がもつことの難しさを改めて痛感させられました。国際社会、グローバル社会、異文化理解、その根底に求めれるものは“敬天愛人”の精神です。人を愛することが天や神を敬うことに通じるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第120号,平成27年2月2日.
吉 田 松 陰
江戸時代末期の思想家、兵学者、陽明学者。1830~59。長州藩の下級武士の子に生まれ、山鹿流兵法学者の叔父の養子となり、兵法と朱子学、古学を学ぶ。23歳のとき、江戸に出て、佐久間象山に師事し、兵学と洋学を学び、諸国遊学の許可を得、長崎で海外情勢を知り、西洋の兵学や学問にも強い関心をもち、また実用性を重んじる陽明学にも傾倒した。一方で、藩の旧態依然とした体制に疑問をもち脱藩、上司や友人の尽力に赦されるものの、1854年、ペリーの2度目の来航にあたり、密航を企て失敗し、投獄される。ほどなく釈放され萩に謫居、叔父の松下村塾を継ぎ、後に討幕運動や明治維新政府の重要人物など多くの俊才を育てたが、59年、安政の大獄で刑死した。主著『講孟余話』『留魂録』など。
*陽明学 第102号参照
*山鹿流兵法
江戸時代前期の儒学者(古学派)で兵法学者の山鹿素行が唱えた兵法。素行は赤穂に謫居し、赤穂浪士事件は彼 の兵法によるとされる。第102号参照。
*朱子学 第101号参照。
*古学 第103~105号参照。
*佐久間象山 第118号参照。
*井伊直弼(1815~60)
幕末の政治家。近江国彦根藩主。1858年に大老に就任、将軍継嗣問題と開国問題にあたり、徳川慶福を14代徳川家茂として就任させ、勅許を得ずに、日米修好通商条約を結び、開国。59年、反対派を弾圧・粛正(安政の大獄)し、幕府権力の強化を図ったが、60年、水戸・薩摩藩浪士に暗殺された(桜田門外の変)。
*一橋慶喜(1837~1913)
江戸幕府15代将軍徳川慶喜。水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家の養子となる。徳川家茂と14代将軍を争い、敗れたが、後、将軍後見職を経て将軍となり、幕政改革を試みたが、1年に満たずに大政奉還となり、最後の将軍となった。その才覚は歴代将軍のなかでも、三指に入るとされている。
*徳川慶福(1846~66)
徳川幕府14代将軍徳川家茂。井伊直弼に擁立され、難局によく耐え、和宮との婚姻による公武合体策を講じたが、志半ばにして病死した。
松下村塾の門下生には高杉普作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋ら明治維新の立て役者や維新政府の重鎮が大勢います。松陰の講義は主に尊皇攘夷論で、これが倒幕、明治維新へとつながるのですが、驚くべきことに、松下村塾の実質年数は1年余りで、開講のとき、松陰は27才の青年でした。変革はいつの時代でも若者によってなされますが、髙杉は29才、久坂は24才でなくなっています。
松陰は安政の大獄に連座して処刑されましたが、その直接の原因は老中・間部詮勝暗殺計画に関わっていたということでした。そもそも安政の大獄とは、強硬に開国、条約締結をした大老井伊直弼が、反対勢力に対して行なった弾圧事件であり、処分者は70名以上におよびました。その報復が1860 年の桜田門外の変で、井伊は水戸、薩摩の浪士により暗殺されるのです。こうした一連の事件の背景には開国か攘夷かという対外的国策よりはむしろ将軍継嗣問題が中心にありました。13代家定は病弱で子がなく、後継者として、一橋慶喜(15代将軍)と徳川慶福(14代家茂)が対立し、井伊は慶福を将軍に押し、反対派を処罰したのです。松陰の罪状は幕政への批判でした。日本の近代化は井伊直弼なしには考えられません。弾圧は時代の限界かも知れませんが、松陰の死はあまりに痛ましい出来事ではあります。
紹介したことばは『講孟余話』にあるもので、おおよそ次のように記されています。今、学問につとめている者たちがどれほどの志を抱いているかを問うならば、結局のところ、名声を得たいがため、官職に就きたいがために過ぎない。それは功利・効用をを主とするものなのであって、それは本来の志ではない。学問は仁を知り、義を知るため、つまり人間としての正しさを知るためにつとめるものである。
時代の転換期にあって、学問の本当の目的を示すとはさすがです。獄中にいても、無学な罪人たちにも尊敬され、慕われた松陰はその人となりも立派な人物でした。学問の真の目的は人格の完成にある。これはほかならぬ孔子の教えです。功利・実用は尊ぶべし、高位高官を目指す志をもつもよし。けれども、その身が高潔・寛容・優雅でなければ周囲からの尊敬を受けることはありません。松陰はあるべき教師像の体現者と言えるでしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第119号,平成27年1月27日.
佐 久 間 象 山
江戸時代末期の兵学者、洋学者、儒学者。1811~64。信州(現長野県)の松代藩(真田家)の下級武士の子に生まれる。若くして学問に専念し、22歳のとき江戸に出て、佐藤一斎のもとで朱子学を学び、その後、江川太郎左右衛門から西洋砲術を学び、洋学にも強い関心をもった。1840年、アヘン戦争で清がイギリスに敗れ、これを機に象山は西洋の科学技術を積極的に導入する必要性を確信し、洋学を本格的に研究する。40歳のとき、砲術と兵学の塾を開く。1854年、弟子の吉田松陰の密航事件に連座して投獄されるが、ほどなく謹慎処分となる。その後、京都で開国論・公武合体論を唱え、皇族・公家に接触するが、尊王攘夷派により暗殺された。吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬は彼の門人である。主著は『省諐録』など。
*佐藤一斎(1772~1858)
江戸後期の儒学者。朱子学と陽明学を修め、門人三千人と言われた大学者。
*江川太郎左右衛門(1801~55)
江戸後期の砲術家、兵学者。江川英竜ともいう。伊豆韮山の代官で、伊豆、相模など幕領を直轄した。伊豆沿岸の防備を幕府に進言し、反射炉を築いた。
*吉田松陰(1830~59)
江戸末期の思想家、兵学者。長州(現山口県)萩で松下村塾を開き、明治維新の英傑を輩出した。
*勝海舟(1823~99)
江戸末期の幕臣、政治家、学者。若い頃から剣術を学問に秀で、佐久間象山らと親交を結び、蘭学塾を開く。ペリー来航の頃から幕政に関与し、咸臨丸を指揮して渡米し、その後、神戸に海軍操 練所を開設、幕臣以外にも門戸を開き、坂本龍馬らの人材を育成した。江戸城無血開城、明治天皇と徳川慶喜との会見を実現するなど一貫して内乱を避ける姿勢をとった。
*坂本龍馬(1835~67)
江戸末期の政治活動家。土佐(現高知県)藩士。佐久間象山、勝海舟に学び、列強に対して日本が統一国家たるべきことを実感し、薩長連合を実現、大政奉還に尽力した。
NHKの大河ドラマは戦国時代と幕末期がほぼ一年交替で企画されています。幕末期で最も人気のある人物は、勿論、坂本龍馬ですが、佐久間象山は必ず登場する人物です。龍馬も勝海舟も吉田松陰も象山の弟子にあたり、彼はそれほどに当時の賢哲でした。象山は代々信州松代藩士の子に生まれ、主家は真田氏、つまり始祖は真田幸村の兄真田信之で、象山はその家柄に高い誇りをもち、兵学、儒学、洋学を学び、当代きっての学者として広く世間に知られるところとなりました。
「東洋道徳、西洋芸術」は 日本における外来文化の受容の典型的なものと言われています。遣隋使・遣唐使に代表されるように、古代においての周辺先進国は中国であり、思想史において、その時代には「和魂漢才」とよばれ、幕末から明治維新にかけては、「和魂洋才」です。則ち、精神的な部分は我が国の伝統を守りながら、西洋の知識・技術・技能を学ぶということです。
象山は、西洋の学問・技術を余すところなく詳しく研究・学習し、その成果を存分に発揮し、民衆の生活を豊かにし、西洋に負けない国家をつくるべきだと説きます。そのためには開国して諸外国と交流し、朝廷と幕府が一つになって我が国を強くせよ、と説きます。この考えが当時の尊皇攘夷派からの反感をかい、暗殺されることになったのでした。では、「東洋道徳」とは何でしょうか。
「道徳」とはそもそも、名詞ではなく、「道を体得する」という行為を意味する語です。人としてのあるべき道(生き方在り方・倫理)を得ると、それは立派な「徳」を有することになる。そうであるならば、あるべき「道」とは何か。象山の場合は明らかに「忠」・「恕」・「信」・「孝」などの儒教徳目や「清」・「明」・「誠」・「直」など古来日本の精神を念頭においています。やがて、明治維新となり近代化・西洋化が進行すると、キリスト教道徳や理性主義道徳が移入され、我が国における「道徳」も多様な展開が見られます。現代の私たちから見れば、明治時代は道徳教育がしっかりしていたように思われ、現代はその再生が求められているかのように言われていますが、そうではありません。福沢諭吉、西村茂樹、森有礼は同じ学術団体の明六社に所属していながら、それぞれ異なる道徳論を展開していました。そのことについては別の項で論じますが、「道徳」とはかくも厄介なものであることだけは確かです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第118号,平成27年1月21日.
二 宮 尊 徳
江戸時代後期の農政学者、思想家。1787~1856。本名は金次郎。相模国(現神奈川県)の 農家に生まれたが、幼くして父母と死別、一家は離散して叔父の元で、勤労と苦学しての勉学に励み、19歳のとき、独力で自家を再興した。そのことが評判となり小田原藩家老に召しかかえられ、25歳のとき、藩の財政を任せられ、ほどなく成功を収めた。その後、行政手腕が買われて、小田原藩内の農村復興に着手し、業績をあげ、広く知られるところとなった。46歳のとき、天保の飢饉を予見し、予め冷害に強い稗・粟を栽培し、食糧対策を立てていたのが功を奏し、一人も餓死者を出さなかったことがさらなる名声を博し、55歳のとき、幕府に登用され、召しかかえられ、印旛沼開発や荒地の開拓につとめた。主著『報徳全書』、『二宮翁夜話』など。
私の出身小学校は札幌では古い歴史をもっていたためか、中庭に二宮金次郎の彫像がありました。 昭和30年代以前に小学生であった人たちには懐かしい、薪を背負って本を読んでいる少年の像です。後年、尊徳とよばれた彼はその名がしめすとおり立派な人物で、苦学して功なり名を遂げた人生は「手本は二宮金次郎」と唄われました。古き良き「修身」の時代の偉人でした。偉人伝はとかく美化されがちですが、事実、尊徳は農政指導者としてのきわめて優れた業績をもち、思想家としても一流です。
彼の思想としてあげられるのは、まず「天道人道論」で、天道とは自然法則・自然の営みのこと、「人道」とは人間の技術と勤労の力・働きのことです。彼によれば、農業は両者の統合であり、天と人とが一体となってはじめて成り立つものなのです。次は「報徳思想」で、自分の存在は天地・君・親・祖先の広大無辺の徳によるものであるから、その恩に応えるべく、自らも徳をもって報いなければならないという教えです。その具体的なあり方が「分度」(経済力を考えた合理的な生活の仕方)と「推譲」(社会的な生産力を拡大するため倹約し、余っているものを人々に分け与えること)です。こうした思想は当時の庶民、つい最近までは日本人の精神的基底であったもので、今でもなお、根強く残っている道徳です。
上記のことばは、いわゆる報恩報徳の思想ですが、では「徳」とは何か。尊徳によれば、「徳」は学問・知識と実践・行動が実現したものです。儒学の一学派である陽明学の「知行合一」、ソクラテスの哲学にもある「知徳合一」(ソクラテスも「知」と「行」が一体であると説いています)に通じるもので、「徳」とは、まず知的な営みにより把握するもので、さらに、学んだもの、知識として得たものをそれだけに終わらせてはならず、「知っている」とは「行える」ということであるとする立場です。例えば、正義の徳をもつには正義とは何かを知らなくてはならず、正義を知っているという人は正義ある行いが出来なければならなりません。それが真の知であり、真の学びとは知の積み重ねに加えて、絶えず実践のなかで人格者として成長していくという教えです。
仏教では智慧を3つに分類しています。ひとつは「聞慧」。一般にいわれる知識のことです。ふたつめは「思慧」。知識を自分の経験や思いと合わせ、自己のことばで語り、自己のものとすることです。最後は「修慧」。知識を実践することです。自然科学の知識はともかく、道徳については「修慧」が理想なのです。道徳の教科化が進んでいるところですが、徳は教えを受けて、自らが修得するものであることに留意しなければなりません。
*陽明学
中国の明代(15世紀)に成立した儒学。王陽明により大成され、知と行は心のうちに統一されるとして, 知 行合一を唱えた。彼によれば、真の知とは必ず実行のともなうものである。日本では、江戸時代に中江藤樹が 登場し、日本陽明学を確立し、人倫の根本として「孝」を唱えた。第102号参照。
*ソクラテス(470?~399BC)
古代ギリシャの哲学者。人間としての真の生き方を「愛知」による徳の体得であるとし、徳は知性に基づいて認識、体得され、知っているとは行えること(知徳合一・知行合一)であるとした。彼は当時のアテネの政 治的混乱のなかで刑死したが、その精神を継いだプラトン、アリストテレスらにより、壮大華麗なギリシャ哲学が成立した。プラトン著『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にその言行が記されている。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第117号,平成27年1月19日.
安 藤 昌 益
江戸時代中期の思想家、医者。1705~62。明治時代後期に教育学者で京都帝国大学文科大学初代学長(現文学部長に相当)であった狩野亨吉により、著書『自然真営道』が発見され、第2次世界大戦後、カナダの外交官H=ノーマンの『忘れられた思想家』の発刊により知られるようになった人物である。生涯については不明なところが多く、かぎられた資料によると、出羽国(現秋田県)の農家の子に生まれ、生家は平安中期にこの地に入った伝統をもつと伝えられている。子どもの頃から学問に親しみ、15歳頃、京都に出て僧侶となり修行に励んだが、修行生活に疑問をもち医学を志した。京都で医学を学び、医師としての力量を高め、41歳のとき、陸奥国(現青森県)の八戸に移住し、医師として活動し、翌年、家老の病気を治したことから、地元では有名な人物となった。50歳頃、『自然真営道』を表し、思想的には仏教、儒教を人間と社会を堕落させる教えであると非難し、政治的には幕藩体制を差別と偏見を生んだ制度であると否定した。55歳の頃、郷里の秋田に帰り、晩年をおくった。著書には、『自然真営道』のほか、その要旨を分かり易くまとめた『統道真伝』がある。
安藤昌益は、同時代の思想家や学者たちが徳川幕府の統治と政治・経済体制の存続を前提として、現実の諸課題にあたり、いかに現状をよりよきものに改善するか、あるいは現実の社会を生きるために何をなすべきかを考察したのに対し、社会体制そのものと支配権力の一切を否定するという独自の立場にありました。勿論、当時においては江戸から遠く離れた八戸での、それも京都で出版されたとはいえ、中央では無名の医者の著述活動は幕府が気に留めるものではありません。だからこそ、“忘れられた思想家”と呼ばれるのですが、哲学者とか思想家には、自身の死後、評価されることがあります。
昌益は人間本来のあるべき世界は「自然世」であるとします。「自然世」とはすべての人びとが農業に従事し、自給自足の生活を営む社会のことです。領主から領民にいたるまで、必要最小限のものだけで皆が満足する社会に生きてこそ、万人が幸福になれるとするのです。言ってみれば、農業的共産主義でありましょう。それに対し、当時の封建制度を、彼は「法世」と呼びます。法とは人為的につくられた制度を意味し、その制度によってつくられた上下の身分とそこから生じる差別が人、特に農民を不幸にします。昌益は江戸時代の社会を「法世」そのものであり、「自然世」へ回帰することを説きました。
上記のことばに続いて、昌益は「すべては互性であって、両者の間に差別はない。だから、男女にして一人なのであり、上もなければ下もない。すべては互性であって、両者の間に差別はない。」と記しています。人間と社会の自然状態がどのようなものであるかは、ヨーロッパにおいて、17世紀から18世紀にかけて社会契約思想で論じられ、ロックやルソーは人間の本性は善良、自然状態は自由・平等で平和であるとしました。ルソーの「自然に帰れ」ということばは有名です。最近ではアメリカの政治学者ロールズも「原初状態」という語を用いて論じています。
私は昌益から学ぶべき第一のことは人間や社会の根源的なあり方を問う批判精神であると思います。これは教育や報道に携わる人に欠かせない資質です。自らの知識と見識、経験と信念をもって、因習や固定観念にとらわれず、真理と理想を追究する。たとえ、多くの人びとから訝しく思われようと、常に現実を冷静沈着に見つめる姿勢をもたなくてはなりません。権威ある、あるいは世間的に著名な人物の意見を鵜呑みにすることは厳に戒めなければなりません。
*社会契約思想
17~18世紀の西ヨーロッパで盛んであった政治思想。国家体制や政治形態は主権者と人民とも契約によると する立場をとり、当時の絶対王政や封建制度を否定して近代民主主義政治の理念を提唱した。代表的人物にはイギリスのホッブズ、ロック、フランスのルソーらがいる。
*ロック 第32,33号参照。
*ルソー 第34,35号参照。
*ロールズ(1921~2002)
アメリカの政治学者・倫理学者。社会契約説を再評価し、経済の自由競争がもたらす不平等を社会全体の公正を観点として、社会のあり方を考察した。主著は『正義論』など。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第116号,平成27年1月16日.
滝 沢 馬 琴
江戸時代後期の読本作者。1767~1848。別号は曲亭馬琴。山東京伝に師事し、黄表紙作家となるが、後に読本作家に転向し、第一人者となった。生涯で300 を超える著作を残し、雅俗折衷の文体と勧善懲悪の思想で知られる。晩年、失明し、息子の妻に後述筆記させたライフワーク『南総里見八犬伝』は不朽の名作である。代表作は他に保元の乱で兄源義朝に敗れた鎮西八郎為朝の流罪後の武勇伝『椿説弓張月』など。
*山東京伝(1761~1816)
江戸化政期の作家(戯作者)。早くから挿し絵入りの草紙を書き、好評を得たが、風紀を乱すとして寛政の改革で処罰されてから読本作家に転向した。代表作は『仕懸文庫』、『江戸生艶気樺焼』など。
* 黄表紙
江戸時代中期以降に出版された絵本。表紙が黄色なのでそうよばれた。洒落、風刺をきかせて、風俗を描写した。
*勧善懲悪
善をすすめ、悪を懲らしめることを主張した道徳的理念のこと。文学や演劇のあらすじの典型の一つで、現代に至るまで続いている。馬琴により一般化される。
*井原西鶴 第109号参照
*寛政の改革(1789~93)
江戸時代後期、将軍徳川家斉の時に老中松平定信が行った幕政改革。享保の改革、天保の改革と共に、江戸の3大改革のひとつ。倹約令、囲米の制などを実施し、風俗の矯正、学問思想の統制、経済の再建を目指したが、武士、町人双方から反感をかい、大きな成果はあがらなかった。
*上田秋成(1734~1809)
江戸化政期の作家。大坂出身。俳諧、和歌、国学、漢学等を広く学び、読本作家となる。賀茂真淵の門人に師事し、国学をめぐって本居宣長と対立した。代表作は『雨月物語』など。
江戸時代の小説は元禄期に確立した井原西鶴の浮世草子が一つの柱で、中期以降は草双紙と呼ばれる絵本が盛んとなっていました。表紙の色によって赤本、黒本、青本等があり、『桃太郎』、『猿蟹合戦』、『花咲爺』等の作品が有名です。黄表紙も同じジャンルで、はじめは子ども向けの英雄伝説が主なものでしたが、次第におとな向けの滑稽、風刺をきかせた風俗描写を中心とする作品が登場しました。やがて、寛政の改革でその取締りが厳しくなると教訓的な怪談や武家物が主流となり、黄表紙を数冊合わせた合巻があらわれます。一方、上方では絵ではなく、文章を中心とした読本が流行し、上田秋成らが活躍し、近世文学は隆盛をきわめます。
馬琴はこうした江戸時代の文芸の系列のなかにあって、ある種の頂点を極めた人物です。『南総里見八犬伝』は室町時代後期の安房国(現千葉県)里見家の姫にまつわる宿命により集まった八人の剣士(犬士)の物語で、彼らは犬神の子といういわゆる「伝奇物」ですが、八犬士はそれぞれ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌という儒教の徳を体現し、悪は滅び善は勝つという勧善懲悪を唱えた名作です。馬琴は48歳から執筆にとりかかかり、途中で失明し、息子の嫁に口述筆記させ、28年もの歳月をかけてこれを完成させました。
さて、上記のことばは蓋し名言です。苦しんでいるとき、その苦しみを糧として自分を成長させることのできる人。他人からみれば、気の毒なほど働いて、考えて、努力して、苦しんでいるようでも、当人にとってはなんということはない、むしろそれを楽しんでいる人。中国に「道に遊ぶ」ということばがありますが、人間としての道を極める修行がすでに楽しみとなっているという人の境地を表しているのがこのことばです。
「苦労しました」、「努力しています」と思っているようではまだまだなのです。その流れからいくと、世間の校長がよく言う「生徒にために頑張りましょう、努力しましょう」もほめられたものではありません。自分の仕事だからそれに全力を尽くすのである。「生徒のために自分は頑張っている」とは思い上がりもはなはだしい。自分が正しいと思うこと、なすべきことであるから行う。だから、苦労ではない。むしろ喜びである。「生徒のためだから…」となれば、そこには苦痛、ときには憤りも生じます。いささか皮肉に過ぎるようですが、権威あるもの、立場あるものが「生徒のために…」と言うときには、「生徒」の背後に何かがあるように思えてならない今日この頃です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第115号,平成26年11月26日.
小 林 一 茶
江戸時代後期の俳人。1763~1827。信濃(長野県)の国柏原の中流農家の子に生まれる。3歳で母と死別、8歳から継母に冷遇され、14歳で祖母と死別するなど恵まれない幼少年期をおくった。15歳で江戸に出て、その後の経路は不明であるが、30代で中堅クラスの俳人となった。日常性、世俗性を主とした独自の作風で、化政文化を代表する人物となり、現代でも根強い高い評価を得ている。生涯不遇で、郷里で寂しく死んだ。代表作は『おらが春』など。
* 化政文化
文化文政期(1804~29)の町人文化。元禄文化が上方中心であったのに対し、江戸を舞台とし、遊戯的・退廃的な傾向をもち、その一方で滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に代表される勧善懲悪主義も起こった。小説では読本、洒落本、合巻が登場し、川柳、 狂歌、常磐津節、清元節の歌浄瑠璃、歌舞伎の怪談ものが流行した。主な人物には歌人の良寛、狂歌の太田蜀山人、川柳 の柄井川柳、作家では山東京伝、十返舎一九、為永春水、式亭三馬、上田秋成、流亭種彦、浄瑠璃作家の竹田出 雲、歌舞伎作家の鶴屋南北、河竹黙阿弥、浮世絵師では喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、安藤広重らがいる。
*松尾芭蕉 第107号参照。
*与謝蕪村 第113号参照。
*カミュ 第86号参照。
元禄の松尾芭蕉、天明の与謝蕪村、そして化政の小林一茶を江戸時代の3大俳人と言います。一茶の時代は俳諧が世間に普及し、職業としての俳人が多く登場しました。彼らのほとんどが技巧的・興趣的に流れていたなかで、一茶は傑出した人物でした。芭蕉のような思想や理念、蕪村のような叙情性や絵画的技法はなく、地味ではありますが、庶民の生活に根ざした情感あふれる作品をつくりました。「我と来て遊べや親のない雀」「痩蛙まけるな一茶是にあり」「やれ打つな蠅が手をすり足をする」「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」「雪とけて村いっぱいの子ども哉」などは牧歌的・童心的大衆詩人の面目躍如たるものがあります。しかし、一見、軽妙洒脱でユーモアに富んだ俳人のイメージをもつ一茶の生涯は不遇でした。
生母とは幼い頃に死に別れ、継母に育てられますが、弟が生まれるにおよんで継子いじめにあいます。15歳で江戸に出ますが、出たといっても丁稚奉公です。郷里は思い出したくもない土地でしたが、父の重病で帰らざるをえず、父の死後は遺産相続で弟と争い、江戸にもどることとなりました。52歳のとき、初めて結婚し、4人の子をもうけましたが、どの子もみな夭折し、妻にも先立たれます。その後、二度目の結婚をしたのでしたが、家庭的にはやはり恵まれなかったようです。
「露の世は露の世ながらさりながら」は愛児に先立たれた無念の句。「これがまあ終(つい)の栖(すみか)か雪五尺」。悲しい思い出しかなかった故郷が彼の終焉の地となったという哀切きわまりない句。そして、今回紹介した上記の句は一見ユーモアを感じさせますが、「あなた」とは阿弥陀仏のことで、この一年が終わり、来年の我が身も仏に頼るほかはないという意味です。彼の人生を思うと何とも切なく、悲しい。「目出度さもちゅうくらい也おらが春」。
新年を迎えても世間の人のように「おめでとう」とは言えない自分の正月。しかしそれでも一茶は詠み続けました。
人生には、何とも説明のつかない理不尽なことがあります、災害や不慮の事故で命を落とすこともあれば、重い病気や怪我をすることもあります。その原因が自分にはない。全くの偶然、不運である。これほど悔しい、悲しいことはありません。また、日常生活の卑近なこととしても、あらぬ誤解や妬み嫉みで大きく運命が変わることもあれば、あと一日早ければ、もし誰々さえいれば事態が状況が違っていた、などということがしばしばあります。私はこのことをカミュの「不条理」ということばを用いて言うのですが、私たちは誰もが不条理のなかに生きています。しかし、それでも生命あるかぎり、生きなければならない。まずは、与えられている仕事、なすべき行為に専念することです。人間は生きることによって生きる意味を見つける存在なのですから。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第114号,平成26年11月25日.
与 謝 蕪 村
江戸中期の俳人、画家。1716~83。摂津国(現大阪市)に生まれた。父母の名も蕪村の本名も詳しいことは不明である。20歳の頃、江戸に出て、芭蕉の高弟榎本(宝井)其角の弟子早野巴人(夜半亭宋阿)に師事し俳諧を学び、江戸日本橋周辺の師の寓居に住んだ。しかし当時の俳壇は低俗化し、蕪村の失望は大きかったと伝えられている。27歳の時、師が没し、尊敬する芭蕉に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて関東や東北地方を旅した。この頃から画家としての才能を発揮し、宿代の代わりに自作を渡していたと伝えられている。その後、丹後、讃岐などを周遊し42歳の頃京都に帰り、この頃から与謝蕪村と名のり45歳頃に結婚して一人娘を儲けた。以後、京都で画家、俳人として生涯を過ごした。辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」で、墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺である。
*松尾芭蕉 第107号参照
*本居宣長 第111号参照
俳聖松尾芭蕉により、江戸時代に俳諧連歌の発句がいわゆる俳句として独立し、文芸のジャンルになりましたが、芭蕉の弟子たちが健在の間はまだしも、その後は洒落、滑稽を主とした娯楽となって、高い芸術性は失われていました。そのような時代にあって、蕪村は「芭蕉に帰れ」をスローガンとした俳諧革新運動を志していたようです。芸術や学問とというものは、必ず理想的な時代や理想的人物への再興、回帰を求めます。世界史的に言えば、15世紀から16世紀にかけてのルネサンスが古代ギリシャ・ローマ時代を理想とし、江戸儒学の古学派が孔子や孟子に立ち返ることを唱えたり、また、ルターやカルヴァンが『聖書』のみを信仰の拠り所としたのが、その典型的な例でしょう。
蕪村は芭蕉を心の師と仰ぎましたが、その作風は異なっています。芭蕉が「わび」「さび」「しをり」「かるみ」などの文芸理念を掲げ、平易な語句を用いながら人生や自然の深さ、高さを表現したのに対し、蕪村は同じく平易な語句を用いながらも、浪漫的・叙情的表現を特色とし、絵画のように鮮明な印象を与える句を詠みました。「五月雨や大河を前に家二軒」「菜の花や月は東に日は西に」「月天心寂しき町を通りけり」「春の海ひねもすのたりのたりかな」「公達に狐化けたり宵の春」。壮大に、悠然と、軽妙に、またユーモアに富んだ作品は鑑賞者をほっとさせます。
今回紹介した句はそのなかにあって、彼の人生観が色濃く出たものです。「枯れ木のように見える冬の寒さのなかに立つ木立に斧を切り込むと、何と切り口から爽やかな香りが立ってきた。生命の強さはこんなところにも感じられるものだ」。蕪村の句には生きとし生けるもの、あらゆる自然、さらにはあらゆる事象への思い入れがあります。大河、家、菜の花、月、太陽、春、海、狐、宵、春。国学を大成した本居宣長は文芸の本質は「もののあはれ」にあるとし、それはあらゆるものへの「ああ、はれ」という感慨、共感、哀切であると説きました。汚いもの、醜いもの、人が目を背けるものに対しても「あはれ」という情感があってこそ文芸が生まれ、それは人としてのあるべき生き方に通じるのです。
近年、新たな倫理観・道徳感に環境問題への取り組みがあげられています。資源の大切さ、自然との共存、次世代への責任ある環境保全などが問われています。しかし、それが人間が生きるための「環境倫理」であるならば、“人間のための自然”の枠を超えていません。現代社会にあってはこのような観点に立つことは難しい。人間と自然を包摂した生命そのものの尊重という視点に立つには、日本古典文学に接するのが何よりでしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第113号,平成26年11月21日.
石 田 梅 岩
江戸時代中期の学者。1685~1744。石門心学の祖。丹波国(現京都府)の貧しい農家の子に生まれた。当時、貧農の子によく見られたことであるが、彼も10才頃、京都の呉服商の丁稚奉公に入ったが、主家の商売が不振で、極貧のなか、15歳で郷里に戻った。22歳のとき、再び上京し、豪商に仕え、商人としての力量を身に付けるとともに、読書に励み、独学で仏教や儒学を学んだ。42歳で主家を去り、学問に専念し、「聴講自由・座席無料」を掲げ、京都に私塾を開いた。はじめは参加者が少なかったが、梅岩は聴講者が一人でも講義を続け、分かり易い日常のことばを用いた講義が評判となり、また、身分を問わない彼の人柄も愛され、多くの人々が集まり、直弟子は400名を超え、門人は数知れないとされている。生涯独身で、庶民の教育と研究の毎日をおくった。彼の学問は仏教、儒学、神道、老荘思想に自らの人生観・職業観を加えたもので、町人のための日常道徳を主題とし、人としての心の在り方を説いたことから心学と呼ばれる。主著は『都鄙問答』、『倹約斉家論』など。
梅岩が生まれた1685年は徳川綱吉による生類憐れみの令が発せられた年で、梅岩が私塾を開き、町人に心学を説いていた時期は徳川吉宗による享保の改革が行われていました。享保の改革は『公事方御定書』の制定や目安箱の設置、小石川養生所の設立など歴史上の業績に加え、講談やテレビドラマでお馴染みの名奉行大岡忠相の活躍により、庶民の生活を保護する善政のイメージが強いのですが、元々は政治的にも経済的にも揺らぎ始めた幕藩体制の再興を目的とし、将軍の専制体制を確立したものでした。梅岩はこのような時代の転換に生きていたのです。
江戸時代の武士の心得は武家諸法度に記されていますが、時代を追うごとに少しずつ変化し、はじめは弓馬の習い、即ち武術の奨励でしたが、しだいに文武両道が説かれ、道徳的資質が求められるようになります。朱子学はその精神的支柱でしたが、この学問がもつ理想主義は実際には武士にとっても厄介なものであったようです。これまで紹介した陽明学や古学が朱子学への批判から成立したということは見方を変えると、ほかならぬ武士階級からの要望であったのです。そもそも、哲学や思想というものは、理論や主義だけでは批判も否定もされません。現実の生活や行動における困難や不具合があって新たな展開が生じるのです。
このように、江戸時代中期には多くの思想が登場するのですが、人格の高潔さは武士に求められるものであり、人としてのあるべき生き方、つまり道徳は武士のものでした。農工商の上に立つものとしての武士は人格高潔であるべきとのことです。そのような時代にあって、梅岩は商人の道徳を説いたのです。金儲けと揶揄されていましたが、商人の利潤追求は武士が俸禄をもらうのと同じく正当なものであると彼は言うのです。ただし、利潤追求のすべてが肯定されるわけではない。まずは「正直」でなくてはなりません。「正直」とは正当に利益を得ることであり、相手も自分もその立場が保たれるという互助と公正の精神です。次には「倹約」です。これは「正直」と不可分でなあり方で、単なる節約ではなく、物も人も用いるべきときに用い、用いるべきでないときは用いないという道理の精神です。「正直」と「倹約」を旨として誠実、勤勉に働いたうえでの利潤は正当である。この思想は近代西欧の宗教改革者カルヴァンの思想に通じます。
私たち教師は「すべての職業は平等」という真理を心得るべきです。思うに、この真理を心の底から是認していない教師が意外に多いのです。真の教養人は自由と平等を尊重します。キャリア教育が盛んですが、その究極のねらいは「すべての職業は平等」という就業観の育成です。
*徳川吉宗 第105号脚注参照。
*享保の改革(1716~45)
吉宗による幕政改革。農業政策を中心とした財政再建、都市の商業資本の統制を重点とし、質素倹約を特色とした。
*『公事方御定書』(1742)
103カ条からなる幕府の成文法。大岡忠相らにより編纂された。上巻は刑事・行政関係法令、下巻は刑法、刑事訴訟法。
*目安箱(1721)
施政や役人の不正に対する庶民の直訴を受け入れた投書箱で、吉宗自らが箱を開き裁定した。
*小石川養生所
目安箱によりつくられた小石川薬園内の養生所。広く庶民の施術や治療にあたった。現在は当代植物園。
*大岡忠相(1677~1751)
越前守。徳川吉宗に抜擢され、江戸町奉行、寺社奉行を歴任する。テレビドラマに登場する名奉行であるが、史実ではない。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第112号,平成26年10月20日.
本 居 宣 長
江戸時代中期の国学者。1730~1801。伊勢国(現三重県)の松阪の木綿商の次男に生まれる。少年時代から書物に親しみ、22歳のとき、医学を学ぶために京都に往き、あわせて儒学、漢学、国学などを広く学んだ。やがて、研究の対象が我が国の古典へと向かい、契沖の著書や荻生徂徠の古文辞学を学び、国学を志した。27歳のとき、松坂に返り、医者をしながら、和歌や『源氏物語』などを研究し、33歳のとき、伊勢を訪れた賀茂真淵と会い、後継者として認められた。以後、書簡のやりとりを通じて真淵から教えを受け、言語、文法、故実、諸制度、和歌、物語、歌学書などを広く実証的に研究し、その中から日本古来のものの見方、考え方(古道)を明らかにし、国学を大成した。宣長は生涯、市井の学者として過ごし、門人は多数いたが、その半数は町人や農民であった。。主著は『古事記伝』、『源氏物語玉の小櫛』』、『玉勝間』、『直毘霊』など。
*契沖 第110号脚注参照
*賀茂真淵 第110号参照
*荻生徂徠 第105号参照
*ヒューマニズム
元来はラテン語のhumanisumuが語源で、言語・文法を重視した古典文献研究の方法を意味していたが、ルネサンスが研究対象としたギリシャ・ローマの文芸が当時のキリスト教文化に比べて、感情や肉体表現に人間性豊かなものであったため、のちに人間性尊重の精神や主義を意味するようになった。
*『源氏物語』
紫式部(978~1016?)による平安文学、日本文学を代表する名作。稀代の貴公子光源氏を主人公に彼を取り巻く女性たちとの恋愛や愛憎を三代にわたって自然描写と人間模様を織り交ぜて描いた。倫理的宗教的テーマが貫かれ、ドラマ性とともに作者の人生観・人間観・救済観が示されている。また、当時の生活や宮中行事なども詳細に描かれ、歴史資料としても優れている。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子などによる現代語訳とともに、近年はマンガにも高レベルの作品がある。
国学とは、仏教や儒学といった外来思想に影響されない日本人古来の道徳観や美意識を研究する学問で、ヨーロッパにおけるルネサンスのヒューマニズムによく似ています。方法論もヒューマニスト(一般的にはシュヴァイツァー、ガンディ、マザー=テレサなど生命の尊重や人間愛を説いた人たちを示しますが、本来は原典を重視し、原語研究の方法を用いた文献学者のことです)と同様の形をとりました。ある国、ある時代の思想や精神を学ぶにはその国、その時代のことばを学ばなければならないという立場です。
宣長の思想は多方面にわたっていますが、主なものは日本の古道を「惟神(かんながら)の道」という利欲や打算のないまことの道であるとしたことと文芸の本質を「もののあはれ」として豊かな情趣を重んじたことです。
『源氏物語玉の小櫛』、には次のように記されています。「まづすべてあはれといふは、もの見る、ものきく、もの触るる事に、心の感じていづる、嘆息の声にて、今のよのことばにも、「ああ」といひ、「はれ」といふことなり。…さて、何事にもまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、…」。 「もののあはれ」とは人の心が外の事物に接した時におこるしみじみとした情感の動きのことで、美しいものを見て美しいと感じ、悲しいことにには悲しいと感じ、嬉しいことには嬉しいと素直に感ずる心の働きです。宣長は文芸作品、特に『源氏物語』のなかにその理念が典型的に表れているとしました。さらに「もののあはれを知ること」は文芸の世界のことだけではなく人間としての正しい生き方につながるとしています。「もののあはれを知る」とは 喜怒哀楽の感情、諸々の行為、他者の人生への共感と共生の意識です。
喜んでいる人とともに喜びを味わい、悲しんでいる人を見てその悲しみをともにすること。即ち、真心と思いやりの生き方です。こうしてみると、仏教の慈悲や同悲同苦、儒教の忠恕、キリスト教の隣人愛にも通じると言えるでしょう。西洋近代哲学では、道徳の根拠を理性に求めました。個人の感情から生じる悪や不正を抑えるのは普遍的な理性であるとしたのです。しかし、邪悪な感情は清浄な感情により包み込むとする立場もあります。宣長の説く「もののあはれ」は道徳感情論の一つでもあるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第111号,平成26年10月10日.
賀 茂 真 淵
江戸時代中期の国学者。1697~1769。遠江(現静岡県)浜松の加茂明神大坂の神職の3男に生まれた。生家は経済的に苦しく、養子先を転々とする少年時代をおくった。10歳のとき、江戸の国学者荷田春満の弟子に師事し国学を学び、浜松で私塾を開き、結婚もしたが、ほどなく妻と死別した。30歳のとき、京都で荷田春満の直弟子となる。39歳のとき、師が亡くなり浜松に戻るが、翌年、江戸に出て私塾を開き、本格的に国学を講じた。50歳のとき、徳川家の和学御用掛となり、田安宗武に仕え、64歳で引退したが、その後も多くの著書を執筆した。66歳のとき、伊勢松坂を訪れ、そこで本居宣長と出会い、一度だけ講義をしたが、宣長の才能と熱意を見抜き、後継者とした。以後、二人は書簡のやりとりはしたようであるが、直接会ったことはない。主著は『万葉考』、『国意考』など。
*田安宗武(1715~71)
8代将軍徳川吉宗の次男。御三卿(吉宗の子を始祖とする田安家・清水家・一橋家)の一人。歌人・文化人としても優れ、歌学研究・古典研究にも才能を発揮した。寛政の改革を行った松平定信は彼の子である。明治から昭和前期にかけて評価を得た。
*荷田春満(1669~1736)
江戸時代中期の国学者。賀茂真淵の師。京都の神職の出身で、古学派の儒学や歌学を学び、国学を確立した。
*本居宣長(1730~1801)
江戸時代中期のから後期の国学者。国学の大成者。『古事記』や『源氏物語』などの古典文学研究を通じて、「真心」、「もののあはれ」をはじめとする日本人古来の精神を説いた。主著は『古事記伝』、『玉勝間』など。
*契沖(1640~1701)
江戸時代前期の国学者、僧侶。国学の先駆者と言われる。古典文学を実証的方法で研究した。主著は『万葉代匠記』。
江戸時代の武士には武芸のほかに、農・工・商三民の指導者として学問的教養が求められました。戦のない太平の時代にあって、幕府においても各藩においても、統治とその基本となる財政能力が求められ、いわゆる御用学者が輩出し、社会全体に学問的環境が整備されました。幕府には公式の学問所と役所としての研究機関がつくられ、各藩には藩校と幕府同様の研究機関がつくられ、江戸や京都、大坂、名古屋などの大都市には私塾が開かれ、当時の民衆の教育水準は西ヨーロッパを凌ぐものでした。
江戸時代には、朱子学が事実上の官学として隆盛をきわめていましたが、朱子学は孔子が死去してから1700年も後に成立した儒学であり、はじめは朱子学を学んだ人々のなかから孔子や孟子の原典を直接研究し、儒家思想(儒教)そのものを学ぼうとする古学派が成立します。以前紹介した山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠たちがその代表です。儒家思想の原典を研究する姿勢はやがて、日本の古典を研究する方向をつくり出し、幕府の役所である歌学方(和歌の研究所)の活動と相俟って、『万葉集』や『古今集』の研究が盛んになりました。国学の祖と言われる契沖や荷田春満は歌学研究者でした。
賀茂真淵の古典文学研究も『万葉集』を中心とします。彼によれば、歌風には男性的で勇壮かつおおらかな万葉調と女性的で優美かつしとやかな古今・新古今調があり、万葉調が日本古来の精神で、その根底に流れている男性的気風を「ますらおぶり」とよびました。「ますらおぶり」には「高く直き心」があり、それは私欲・私心を取り去った高貴な心であり、素朴で純真な心で、天地自然にしたがうものでもあります。さらに、真淵は「高き」のなかに「みやび」があり、「直き」のなかに「雄々しさ」があるとしました。また、真淵は中国から伝わった仏教や儒教は人為によりつくられた理屈であり、日本人の本来の生き方にはふさわしくないと批判しています。
国学の方法は、ギリシャ・ローマ時代に古典文献を言語学的に研究したルネサンスの方法に通じるものがあります。国際化・グローバル化が叫ばれる現代は、それゆえにこそ、自国の言語や文化について知らなくてなりません。日本に留学している(観光でもまた)人に、『源氏物語』や和歌・俳句をたずねられたとき答えられないのは、高校を卒業したものとしてはあまりにさびしいではありませんか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第110号,平成26年10月3日.
井 原 西 鶴
江戸時代中期の作家、俳諧師。1642~93。大坂の富裕商人に生まれたとされている。若くして俳諧を志し、はじめは貞門派の松永貞徳に、のちに談林派の西山宗因に師事したと思われる。多作で知られ、摂津住吉の社前での一昼夜23,500句の独吟は有名である。40歳頃から、浮世草子の作家に転向し、『好色一代男』を刊行、後に好色物とよばれる一連の作品を描くが、町人物、武家物などジャンルを広げ、町人文学を確立した。歌舞伎や浄瑠璃の脚本も手がけ、若き日の近松門左衛門と競ったとも伝えれているが定かではない。彼の文学は元禄期における経済成長に町人の社会的・文化的台頭を背景とし、町人の経済活動と遊興を舞台に営利追求の肯定、勤勉、倹約、正直、律儀などの道徳や人生観が描かれている。西鶴は同時代には人気を博したが、江戸時代後期には彼の評価はほとんど見られず無名に近かった。明治に入り、幸田露伴、尾崎紅葉、樋口一葉らが西鶴の雅俗折衷文体を継承し、田山花袋が自然主義文学の立場から西鶴を評価し、今日に至っている。代表作は『好色一代女』、『世間胸算用』、『日本永代蔵』など。
*幸田露伴(1867~1947)
明治から昭和前期にかけての小説家。理想主義的作風で知られ、当時の文壇の重鎮であった。尾崎紅葉と並び「紅露時代」を築いた。代表作は『五重塔』『風流仏』など。
*尾崎紅葉(1867~1903)
明治の小説家。文学団体硯友社を創設し、写実主義文学をリードした。代表作『金色夜叉』は彼の死により未完。
*樋口一葉(1872~96)
明治の小説家。貧困のなかで文筆活動を行い、北村透谷らの文芸雑誌『文学界』に参加し、ロマン主義的な作品を書いた。代表作は『たけくらべ』、『にごりえ』など。
*田山花袋(1871~1930)
明治から昭和初期にかけての小説家。自然主義文学の代表的人物。のちに私小説という日本文学独自のジャンルを形成する。代表作は『蒲団』,『田舎教師』など。
*エピクロス(342?~271BC)
ヘレニズム時代の哲学者。あらゆることのなかに心の安らぎ(アタラクシア)を見出す精神的快楽主義を説いた。
江戸時代初期の小説は仮名文字で描かれていたため仮名草子とよばれ、西鶴によって浮世草子が確立されます。そもそも、「うきよ」は仏教的無常観に基づく「憂き世」すなわち辛く悲しい世の中と人生のことでしたが、「憂き世」だからこそ日々の暮らしを明朗に軽妙に過ごして楽しむという「浮き世」の人生観に変質したのでした。西鶴が活躍した元禄期は、いわば高度経済成長期で、町人の商業活動が活発となり、貨幣経済の発達により町人の実質的な地位が向上し、いわゆる町人文化を形成します。西鶴はその時代の申し子であり、武家物などの作品もありますが、やはり町人を主人公とした好色物、町人物にその真価があります。
出世作『好色一代男』は世之介という町人の7歳から60歳までの愛欲を描いた作品で、舞台は江戸、京都、大坂の3大都市、登場する女性も高貴・富裕層から遊女までと多彩で、『源氏物語』に倣って54章から成り立っています。内容は現代で言うポルノグラフィで、きわめて通俗的なもの、儒教道徳から見れば、「狂気」の世界ですが、庶民は享楽に耽る彼の人生に共感し、ある種の憧れと理想を求めたのでした。また、『好色五大女』は5人の女性の恋愛を描いたオムニバス形式の小説で、『日本永代蔵』は金持ちはいかにして金持ちになるかをテーマにした短編集です。
西鶴の町人物には、町人の価値観や倫理観について記されています。「人間は欲に手足のついたものぞかし」、「世に銭ほどおもしろきものはなし」、「その身、働かずして、銭が一文天から降らず、地から沸かず」、「世に住むからは何事にも案ずるは損」などのことばがありますが、特筆すべきは、武家社会においては蔑まれていた商人の営利追求を肯定していることです。さらに、ただ単に肯定するのではなく、勤勉、倹約、正直、律儀、信用などの道徳があってこそ営利活動が肯定されるとしています。また、たとえ貧しい暮らしのなか生活の工夫や心のもちようで楽しみを見出すことができ、富裕であっても毎日が憂鬱でつまらない生活をしているものもいると西鶴は説いています。
古代ギリシャの哲学者エピクロスは快楽主義者として知られていますが、彼の言う快楽とは精神的な満足のことです。些細なことから喜びを見出す。苦しいときにこそ楽しいことを思い描く。晴れた日は晴れた日の、雨の日には雨の日のよさを見つける。真の快楽主義者とは人生の達人のことを言います。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第109号,平成26年9月26日.
近 松 門 左 衛 門
江戸時代中期の歌舞伎・浄瑠璃作家。1653~1724。前国(現福井県福井市)に福井藩士と医者の娘との間に生まれた。11歳のとき、父が職を辞し、父と共に京都に移った。若くして有職故実を研究し、また、歌舞伎の坂田藤十郎のための作品を書いた。30歳のとき、『曾我兄弟の仇討ち』の後日談を描いた『世継曾我』が上演され、翌年に竹本義太夫が竹本座を興し、これを演じると大好評を受け、名声もあがり、その後も義太夫と組んで名作を発表し、竹本座の作者としての近松門左衛門が世間に知られるところとなった。その後、竹本座の座元が竹田出雲になると、座付作者となり、住居も大坂に移って浄瑠璃の新作に専念した。作品は時代物、世話物、武家物と幅広く、特に心中をテーマとした作品は庶民に人気があったが、晩年、作品の影響で心中事件が多発したため、幕府により心中物の上演が禁止された。その翌年、死去している。代表作は『国姓爺合戦』、『碁盤太平記』、『曽根崎心中』、『心中天網島』、『冥途の飛脚』など。
*坂田藤十郎(1647~1709)
江戸元禄期の上方歌舞伎役者。江戸の市川団十郎と双璧をなす。世話物和事の名手として知られる。
*竹本義太夫(1651~1714)
浄瑠璃の演技者、興行師。竹本座の創始者で、義太夫節にその名を残す。
*竹田出雲(1691~1756)
江戸時代中期の浄瑠璃の興行師、脚本家。竹本座の座元で、近松の指導を受け脚本も書いた。
近松門左衛門が描いた歌舞伎や人形浄瑠璃の脚本は時代精神を反映し、とりわけ人物描写においては比類のない才能を発揮し、太宰治が「シェークスピアを凌ぐ」と語ったことは有名です。そして、彼の作品に一貫するものが今回紹介する「義理・人情」です。これは一般には「義理」と「人情」の対立概念でとらえられていますが、元来は「義理・人情」であり、これも「不易流行」と同じく異なった理解をされているようです。ただし、「不易流行」が教育界において明らかな誤解(不見識)から生じたのに対し、「義理・人情」の場合は思想的変遷のなかで生じたもので、熟考を要します。
現在では、一般に「義理」は世間的、特に社交上の礼儀における行動規範を意味します。冠婚葬祭の場は「義理」が重んじられる代表的なもので、「義理」を欠かないように振る舞うことが、社会人として求められる資質です。「義理」を重んじることにより、人間関係が保たれ、世間的信用も得られるというわけです。どの程度、「義理」を果たせばよいかにまようこともしばしばあります。これが増長して、本心ではしたくないことをあえて行わなければならないとなると、バレンタイン・デーの「義理チョコ」などはまだしも、「義理」は自己の心情を拘束する規制ともなります。また、婚姻などによって、元来他人であったもの同士が、血縁者と同じになることを「義理」の関係とよびます。婚姻による義父母、義兄弟、義姉妹などです。このような「義理」の関係は血縁の情愛と同様になることもあり、夫婦も他人ですが、実の親子以上の「情愛」で結ばれることが当然で、「義理」はきわめて大切なものとなり、『三国志演義』の劉備、関羽、張飛の義兄弟の契りのように、拡大された人間関係でも生じることもあります。
そもそも、「義理」は「義」と「理」という儒教の教えに由来します。簡単に言うと、「義」は正しさ、「理」は普遍的真理ですから、「義理」とは人間関係における人としてのあるべき在り方で、内面的には自律心・自制心、外面的には社会的規範、公的制約を意味します。では、「人情」はと言えば、人間であるかぎりもっている、あるいはもたざるを得ない「情愛」・「心情」のことです。「義理」と「人情」は相互に関連するものであって、「人情」は自ずからの「心情」、「義理・人情」は「義理」から生じた「人情」と理解するのが正しいでしょう。『心中天網島』には夫の不倫相手の女に誠意を感じて、「夫婦の義理」と「女同士の義理」に苦しむ妻の姿が描かれています。「義理」と「人情ではなく二つ「義理・人情」に苦しむのです。講談で有名な侠客の吉良の仁吉は妻の父親と弟分が対立したとき、夫婦・義父への「義理・人情」と侠客としての義弟への「義理・人情」に苦しみ 、ついには弟分との「義理・人情」を選ぶのです。ついでながら、歌謡曲の『人生劇場』にある「俺も生きたや、仁吉のように義理と人情のこの世界」の「仁吉」は吉良の仁吉でのこと。この歌詞はかなり正しく「義理・人情」を理解していると思います。
さて、大切なのは人間関係から血縁関係同様の心情が生じること(孔子の説く「仁」はまさにこのこと)です。きわめてのぞましいことであり、こう考えると、「義理・人情」は現代にも通じる人間として本来的な「心情」であると言えるでしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第108号,平成26年9月19日.
松 尾 芭 蕉
芭蕉の門人は蕉門十哲と呼ばれる。宝井其角・服部嵐雪・森川許六・向井去来・各務支考・内藤丈草・杉山杉風・立花北枝・志太野坡・越智越人であるが、杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に河合曾良・広瀬惟然・服部土芳・天野桃隣が入る場合もある。曾良は『奥の細道』に同行した人物である。彼ら以外にも、芭蕉の門人は各地におり、それぞれが蕉門派を名乗って活動した。江戸以外では、芭蕉が特に愛した近江が一大拠点であった。尊敬する西行の500回忌に当たる元禄2(1689)年3月20日、曾良を伴い芭蕉は『奥の細道』の旅に出た。北陸・東北の歌枕や名所旧跡を訪ね、5ヶ月・600里(約2.400キロ)におよぶ旅を終えるが、ほどなく伊勢神宮に行くなど、後半生は旅を住処とした。
芭蕉は旅に出る度に、名句を残し、随行した弟子たちも旅を愉しみ、俳諧の才を磨いたと思われる。また、創作はしても、論評は好まず、弟子の作品にも評価を付けることはなかった。また、実践を重視し、また弟子が自分と別の考えをもっても気にせず、自分とは異なる芸術観や作風に走ってもとがめることなく、容認していたらしい。
*西行(1118~90)
平安末期から鎌倉期にかけての歌人。俗名は佐藤義清。北面の武士であり、平清盛や源義朝と同時代を生きる。隠遁して各地を巡り、優れた和歌を残した。隠者文学の先駆者である。代表作は『山家集』など。
*歌枕
古来、和歌に詠まれた名所旧跡のこと。
不易流行。このことばが教育に用いられてから15年以上経ち、今も頻繁に使われています。それは、物事にはいつの時代でもどこでも変わらない普遍的な「不易」な部分とその時々で求められる(現代において必要な)「流行」があり、教育においても、「不易」な部分と「流行」の部分を明確にして適切に学習させなければならないということです。なかには、義務教育では「不易」を、高校では「流行」を学ぶなどという驚くような例を挙げている人もいました。私は当初からこれは解釈と使い方が間違っていると言い続けていました。最近は教育誌などでもようやく、是正されてきつつありますが、一般にはまだまだ、間違った方が流布しています。
「不易流行」は実は、芭蕉の文芸理念で、『奥の細道』での旅で各地の歌枕を訪れて、時代を超えて変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感したことから生じた境地です。
「不易」と「流行」を対立疑念としてではなく、「不易にして流行」という相依相即概念として理解しなければならないものなのです。すなわち、「不易」なものはいつの時代でも「流行」として表れ、「流行」には必ずその背後・根底に「不易」があるということです。芭蕉によれば、「不易」とは「風雅」(実利を離れた芸術・芸能の真髄)の道であり、「風雅」は例えば、西行の和歌、宗祇の連歌、そして芭蕉の俳諧という「流行」に表れる。つまり、「不易流行」を教育に当てはめるならば、いつの時代にも教育には普遍的な目的や理想があり、その実現のために各時代や状況において様々な方針や方法が打ち出されるということです。教育における「不易」は学力を修得すること、人間性を高めることなどであり、「流行」はIT機器の活用やディベートなどの教授法または新らしい教材、今日的課題あるいはボランティア教育や市民性教育など教科以外の教育のことです。
芭蕉は、後年、「風雅の誠」という境地を説いています。それは、日常的なことばを用いながらも、五七五の展開において詩的情緒を日常語に彩り、芸術の高みに導く詩的精神です。これは、儒学で説かれる「誠」と「不易流行」を結びつけた文芸理念で、「誠」とは自他に偽りのない真実の心です。風雅の本質を会得することで自ずから優れた俳諧が詠め、小手先の作意を凝らす必要が無くなります。「不易流行」のとおり、風雅の道は固定的ではなく、この精神性における「不易」は「誠によく立ちたる姿」であり、「流行」は「誠の変化を知る」ことです。「誠」は信念・使命感と置き換えてもよいでしょう。
このようにみると、「不易流行」の一般的な理解がいかに間違ったもので低レベルのものであったかが分かると思います。簡単に言うと、教育の「不易」(本質かつ誠)を知っていれば、教師に畏れるものはなく、時代や状況に応じた「流行」(「不易」の応用)をとらえることができるのです。あえて言いますが、用語を正しく理解することなく安易に用いることはもってのほかです。知らずに用いるのは論外です。知らない用語は使わない、理解できない理念を理解していると思い込んではいけません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第107号,平成26年9月13日.
松 尾 芭 蕉
江戸時代前期の俳人。1644~94。名は宗房、号は桃青、風羅坊。伊賀上野に生まれた。松尾家は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民に近いものであった。13歳の時に父が死去し、兄が家督を継ぐが、貧困生活をおくっていたと思われる。そのためか若くして東堂家に仕え、厨房の仕事などに携わり、その一方で、京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入った。主君の死後脱藩し、31歳のとき、江戸へ行き、俳人たちと交流をもち、西山宗因の談林派俳諧に大きな影響を受けた。江戸では、日本橋、深川に居を構え、多くの支援者を得たと思われる。深川では芭蕉庵を結ぶが、1682年の天和の大火(八百屋お七の大火)で消失し、甲斐(現山梨県都留市)に流寓する。翌年、江戸に戻り、芭蕉庵は再建されたが、この頃から隠棲をしつつも住居をもつことへの疑問をもち、旅を好み、俳風ものちに蕉風とよばれる芸術性の高いものとなっていった。40歳で、『野ざらし紀行』の旅に出てから一生を旅と風雅の道に過ごした。俳諧を芸術の領域にまで高め、自然の中に人生を見る境地と文芸理念は後世まで強い影響を与え、俳聖芭蕉と讃えられる。代表作は紀行文の『奥の細道』『笈の小文』、俳諧集の『猿蓑』など。
*藤堂家
始祖は藤堂高虎。初めは浅井長政の家臣、その後、羽柴秀長、豊臣秀吉に仕え、伊予宇和島を領国とした。秀吉 の死後、徳川家康に服属し、伊勢・伊賀32万国の大名となった。
*北村季吟(1624~1705)
文学者、俳人。貞門俳諧に学び、その一方で幕府の歌学方として古典研究をする。代表作に『源氏物語湖月抄』など。
*井原西鶴(1642~93)
江戸中期の作家。西山宗因に俳諧を学び、俳諧師として名を馳せたが、のちに浮世草子の作家として、武家もの、人情もの、町人もの、好色ものなど多方面の作品を書き、町人文学を確立した。代表作は『日本永代蔵』『武家義理物語』『好色一代男』など。
*近松門左衛門(1653~1724)
江戸中期の浄瑠璃、歌舞伎作家。歌舞伎の坂田籐十郎、浄瑠璃の竹本義大夫と組んで、多くの作品を書いた。義 理と人情に揺れ動く町民を心理描写に優れ、その構成力と人物描写はシェークスピアに匹敵すると評価されている。 代表作は『国姓爺合戦』『曽根崎心中』『冥土の飛脚』など。
芭蕉は井原西鶴、近松門左衛門と並び、元禄の三大文豪と呼ばれ、俳聖と讃えられている人物です。本名は松尾籐七郎。貞門派や談林派の俳諧を学び、後に蕉風俳諧を確立します。そもそも俳句(この語句自体、明治以降のものですが)とは俳諧連歌の発句のことであり 鎌倉から室町にかけて大成された連歌を基とします。江戸時代に入り、連歌の中心人物・ 松永貞徳は貞門俳諧をつくり、本質を形式的な言語の面からとらえ、滑稽なもの俗世間的なものを否定しました。それに対し、西山宗因は談林派を起こし、貞門派の格式ばった傾向を打破して自由な素材や用語をもって、新傾向の俳諧を唱えました。芭蕉はその両者に学びましたが、どちらかといえば、談林派の影響を強く受けたようです。芭蕉の功績はともすれば娯楽や遊興に陥りがちな俳諧を芸術しかも最短の詩としたことですが、彼の芸術性の根底には平安後期から連綿と続く日本的美意識と文芸理念があり、その意味では、日本的美意識の大成者であると言えるでしょう。
蕉風俳諧の美意識とは「わび」「さび」「しおり」「細み」です。「わび」は簡素、枯淡、静寂の情趣で、「さび」は閑寂な鑑賞態度から生まれる「わび」の内面的情感です。「しおり」はさびに導かれて表現される余情、「細み」は自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢をいう。さらに芭蕉は晩年、人為を超越しあるがままの心の余裕、老荘思想を思わせる「かるみ」の境地に入りました。
今回、紹介した句は初冬のもの淋しさと末期を悟った境地を表す辞世の名作です。芭蕉はどの作品も即興では詠まず、何度も推敲して完成させるのですが、死を迎えるにあたってもなお、病床で思案したそうです。伝えられるものには、「旅に病んでなおかけ廻る夢心」「旅に病んで枯野を廻るゆめ心」があります。これ以外にも日本人として覚えておきたい句をあげておきましょう。「行く春の鳥啼き魚の目は涙」「五月雨をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡に横たふ天の河」「古池や蛙飛び込む水の音」「夏草や兵どもが夢の後」「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」「秋深きとなりは何をする人ぞ」「旅人とわが名よばれむ初しぐれ」「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」。
教育界に流布している「不易流行」は芭蕉の文芸理念です。実はこのこと(教育用語としての間違った解釈)を述べたかったのですが、紙面がなくなりました。次回にします。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第106号,平成26年9月3日.
荻 生 徂 徠
江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。古文辞学の創始者。1666~1728。5代将軍徳川綱吉が上野国(現群馬県)館林藩主時代の侍医の次男として江戸に生まれた。弟は8代将軍の侍医をつとめた荻生北渓。13歳のとき、父が綱吉の怒りをかい、流罪となって、一家は上総国(現千葉県)に移り、極貧の生活を強いられた。その時期に農村や漁村の人たちの現状を知ったことが、彼の思想形成に大きな影響を与えた。苦学して学問を積み、26歳のとき、父が赦免されて一家は江戸に戻り、徂徠は芝増上寺の門前で私塾を開いた。31歳のとき、綱吉の側用人の柳沢吉保に仕え、綱吉に儒学の講義を行うとともに、幕政に関わったが、44歳の時、吉保の失脚にあい、藩邸を出て日本橋茅場町に住み、私塾を開いた。その後も、8代将軍徳川吉宗から信任され、政治顧問として活動した。彼は、古代中国の古典を読む解く方法論としての古文辞学を確立し、山鹿素行や伊藤仁斎とともに、古学派の代表的人物とされる。また、儒学とは「経世済民」(経済の語源)の学であるとし、政治的経済的観点から社会の安定と民政を論じた。吉宗に提出した政治改革論『政談』のほか、『弁道』など。
*徳川綱吉 第103号脚注参照。
*柳沢吉保(1658~1714)
5代将軍徳川綱吉の側用人、老中格。後に甲府15万石を領し、大老格となる。荻生徂徠ら儒学者を登用し、文治政治を推進した。
*山鹿素行 第103号参照。
*伊藤仁斎 第104号参照。
荻生徂徠の裁定で最も有名なのが、「赤穂事件」です。かの「忠臣蔵」のモデルとなった出来事ですが、我々が知っている物語は江戸中期に作られた『仮名手本忠臣蔵』に基づくもので、史実としての「赤穂事件」には不明な点が多いのです。元禄14(1701)年3月、朝廷の勅使下向接待役を命ぜられた播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下で指南役の高家筆頭吉良上野介義央に 「この間の遺恨おぼえたか」と刃傷におよんだ。次第を聞いた将軍綱吉は、即刻、長矩に切腹を命じ、浅野家は領地没収となり断絶、対する吉良には咎めなしであった。その処遇に不満をもった赤穂藩家老大石内蔵助良雄は翌年12月14日、綿密な計画のもとに浪士46人を率いて吉良邸に討入り、義央の首をはねた。江戸市民はこの討入りを誉め讃え、浪士を義士と呼び大騒ぎとなり、幕府は彼らの処遇に迷い、老中格柳沢吉保は荻生徂徠の意見を採用し、騒乱の罪を咎めるが武士として主君への忠義を尽くしたとして切腹を命じた。事実はこれしか分かりません。原因経過が不明なため、時代を追うごとに脚色され 今に伝えられています。
徂徠の主張は次の通りです。幕府の処置に逆らい討入りという私闘を行い、しかも幕府が無罪とした吉良を殺すとは「公」の立場からは明らかに犯罪、それも反逆罪である。しかし、その一方で、浪士たちは主君の仇を討ったのであるから、「私」の立場からは「忠義」を行った見事な行いである。犯罪であるからには打ち首・獄門。しかし、忠義の士にそのような処罰はふさわしくない。したがって、武士の死として最も誉れある切腹がのぞましい。彼の意見に反対した学者たちも、たくさんいました。むしろ、赤穂浪士助命論者の方が多く、世論もそれを期待していました。
紹介したことばは『政談』からの一文で、徂徠の学問観・道徳観を適切に表したもので、政治思想家としての面目躍如たるものがあります。彼によれば、そもそも孔子は学問は、社会が安定し、人民が平和に暮らせるための政治を実現し、それをなしうる政治家を育成するためにあるとした。優れた政治家とは自らの人徳をもって、徳により治める人物であるから、先ずは道徳が大切である。孔子が理想とした古代中国の王(先王)が唱えた道とは、天下を安泰させるための道である。民は現実の生活に心配しなくなってはじめて、道徳的な行いができるのであるから、人民が安心して生活できる「経世済民」こそが政治とその政治を実現する学問のめざすところである。
人間は一人では生きていけない。他人に依存しながら生きている。世間のなかで生きている。したがって、「公」の原理が先ず大切であり、その後に「私」の原理がある。この峻別が徂徠の立場であり、赤穂浪士への裁定はここから生じたのです。学校も一つの社会であるかぎり、「公」が優先されます。個人の特殊性は集団のなかで是認されることによってのみ、尊重されます。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第105号,平成26年8月29日.
伊 藤 仁 斎
江戸時代前期から中期にかけての儒学者。1627~1705。古義学派の創始者。京都の材木商の子に生まれ、母は連歌師里村家の娘であった。幼少時から学問に励み、11歳で『大学』を読み、家を弟に譲り、儒学者を志す。はじめ、林羅山に傾倒し朱子学を学び、その後、陽明学や老荘思想を学び、33歳のとき、儒学の根本である孔子・孟子の思想を本格的に学ぶことを決意し、京都の堀川に私塾古義堂を開き、『論語』や『孟子』など儒学の古典を文献学的に研究する古義学を確立する。40歳を過ぎてから結婚したが、52歳のときに妻に先立たれ、その数年後に再婚し、先妻との間の子東涯(仁斎の後継者として古義学派を発展させた)をはじめ5人の男子は皆、儒学者となった。
仁斎は儒学を文献学に裏付けられた精度の高い学問として確立するとともに、朱子学が重視する「敬」よりも孔子・孟子が説いた「仁」に立ち返ることを唱えた。また、儒学を庶民の日常生活に役立つ視点からとらえ直し、封建社会の秩序維持の支柱としてではなく、あらゆる階層の人々の規範意識を形成する道徳として説いた。主著は『語孟字義』『論語古義』『童子問』など。
*林羅山 第101号参照。
*老荘思想
古代中国の道家思想の別称。道家の代表的人物である老子と荘子に由来し、老荘思想とよばれる。儒家が社会規範や道徳心を尊重するのに対し、人間のありのまま、あるがままのあり方を説し、「無為自然」を理想とした。
*ロマン主義
18世紀末から19世紀半ばに盛んであった文芸思潮。個人においては個性や感情、国家においては歴史、伝統、民族意識を尊重した。自由で豊かな人間性の表現を特色とする。文学においてはハイネ、グリム兄弟、ユゴー、ワーズワース、バイロン、プーシキン、音楽ではシューベルト、シューマン、ショパン、リスト、チャイコフスキー、 ワーグナー、美術においてはドラクロアなどが代表である。
朱子学を確立した朱子は12世紀の人で孔子よりも1,600年以上経ってから登場した人物です。キリスト教に当てはめますとイエス=キリストと宗教改革のルターやカルヴァン以上の開きになり、我が国で1600年前といえば、聖徳太子も生まれていません。これほど時間が経てば、思想も宗教もさまざまな展開を遂げるのが当然です。朱子学はいわば、体系的な哲学で、まず、事物はどのようにして存在するかということを論じます。世界は万物を形成する根源的な「理」があり、「理」は人間のなかにもある。その「理」を実現するために日々、修養しなければならない。これが朱子学の基本ですが、日本では、前段の存在論、認識論が詳しく扱われずに、後段の道徳論が強調されることになり、そこで重んじられた徳が「敬」すなわち「つつしみ」と「うやまい」で、武士の道徳となりました。 仁斎は商人の出身でしたから、儒学を武士階級だけではなく広く庶民に広めることに関心をもっていました。しかし、当時の朱子学は庶民にはあまりに峻厳である。そもそも、儒学とは孔子や孟子の思想を基礎とするものではないか。彼らはどのようなことを説いているのか。そこで、仁斎は『論語』や『孟子』など儒教の原典をあらためて研究します。そこに記されている、誰もがもつべき徳は「仁」でした。
紹介した一文は『童子問』に記されているもので、前後の内容を要約すると次のようになります。「仁」はあらゆる徳のなかで、最も偉大である。これを一語で表せば、「愛」である。「愛」は君臣の関係においては「義」(互いの立場による正しさと義務)、親子においては「親」(親しさや無償の情愛)、夫婦においては「別」(互いの役割の尊重)」、兄弟姉妹では「序」(けじめと辞譲)、朋友においては「信」(誠実と信頼)となって現れる。すべての徳や人間としてのあるべきあり方は「愛」から生じ、「愛」は現にここに生きている一人ひとりの心情から発するものである。
「愛」という語は、あまりに多様な意味で用いられ、場合によっては大きな誤解を生むことばでもあります。近代に入ってからは、19世紀ヨーロッパのロマン主義文学の影響で、「愛」は「恋愛」となり、さらには「愛」があれば何でも赦されるという恋愛至上主義を誕生させるに至りました。「愛」は「義」や「信」と異なるもの、状況によっては対立するものとなりました。しかし、仁斎によれば、「愛」なくして人間関係は成立しません。私もこの立場に与します。近年、教育界では人間関係の構築とかコミュニケーション能力の育成などが唱えられていますが、「愛」があれば何とかなります。ただひたすら真の「愛」を語る。これも教育者の使命でありましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第104号,平成26年8月20日.
山 鹿 素 行
江戸時代前期から中期にかけての儒学者。1622~85。古学の創始者。会津若松(現福島県会津市)の武士の家に生まれるが、主家の領地召し上げにより、父は江戸に出て、医者として生計を立てた。父の教育により、幼い頃から儒学の書を読み、8歳までに四書五経を読破したと伝えられている。8歳で林羅山のもとに入門し、朱子学を本格的に学ぶとともに歌学、文学、神道などを広く学び、14歳で甲州流軍学を修め、20歳で早くも山鹿流軍学を創始し、儒学者、軍学者として一家をなした。30歳のとき、播州赤穂藩(現兵庫県赤穂市)に仕え、信頼を得るが、38歳で辞し、江戸で著述や弟子の教育にあたった。41歳のとき、朱子学を批判して古学を提唱するが、44歳のとき、朱子学批判が幕政批判につながるとして江戸追放、赤穂に蟄居を命じられた。赤穂では塾を開き、、藩主や藩士たちに儒学や軍学を教え、絶大な信頼を得た。9年後、赦免されて江戸に戻り、著述と教育の日々をおくった。主著は『聖教要録』『山鹿語類』など。
*徳川光圀(1628~1700)
徳川御三家水戸藩の藩主。家康の孫。水戸黄門として知られる。若い頃は放蕩無頼の生活をおくっていたが、藩主になるにおよんで、経済の発展、民政安定、学問の奨励などを推進し、名君として仰がれた。『大日本史』編纂を開始し、水戸学を創始した。ちなみに、黄門とは中納言の唐名である。
*徳川綱吉(1646~1709/将軍在職1680~1709)
徳川幕府5代将軍。家光の子。上州館林藩主から将軍になる。「生類憐れみの令」により暴君としてのイメージが強いが「天和の武家諸法度」を制定し、忠孝・礼節を重んじる武士のあり方を提示し、学問を奨励するなど文治主義の統治をめざした。後年は側用人政治を招くことになる。「赤穂事件」は彼の治世のときに起こった。
山鹿素行と同時代に登場した人物には、時代劇でお馴染みの水戸黄門こと徳川光圀や「生類憐れみの令」を出し“犬公方”とよばれた徳川綱吉らがいますが、「赤穂事件」いわゆる「忠臣蔵」、「赤穂浪士討入り」もよく知られています。人物紹介に記したとおり、山鹿素行は30歳から8年間、赤穂藩に仕え、44歳から9年間、赤穂で蟄居し、塾を開いています。忠臣蔵の主役である藩主・浅野内匠頭長矩や家老・大石内蔵助良雄たちも素行の教えを受けていました。映画やテレビドラマの朗読あるいは浪曲の名調子、「一打ち二打ち三流れ、これぞ山鹿流の陣太鼓」の「山鹿流」とは、素行の軍学(兵法)のことです。
この時代は幕政の安定期で、戦乱がなくなり、戦う必要のなくなった武士は、学問としての軍事すなわち軍学を教養として修め、武芸はたしなみで実践的なものではなくなってきました。また、「武士道」は古き良き時代の理念となり、武士は兵士・軍事ではなくなりました。現代でいえば、徳川幕府に仕える武士は国家公務員兼大手企業の会社員、各藩に仕える武士は現代でいえば、地方自治体の公務員兼地方企業の会社員のような存在であったと私は思います。そのようななかで、素行は軍学を提唱するとともに、「武士道」をとらえ直し、戦のない時代における武士のあり方を提唱しました。
素行は自らが説く新しい武士道を「士道」をよびました。紹介したことばは『聖教要録』からのもので、「武士が第一に心がける根本のものは、武士の存在意味を明らかにすることである」という意味です。君臣・親子・兄弟姉妹・夫婦・長幼・朋友などさまざまな人間関係においてあるべきあり方があるが、農・工・商の人たちはそれぞれの仕事に忙しく、いつも人倫の道を考えているわけにはいかない。そこで、武士は三民の長として、善を善とし、悪を悪として人々を導かなければならず、そこに武士が武士として存在する意味がある。だからこそ、武士には文武の徳と知を備えていることが求められる。武士が武芸に秀でるとともに、文武の徳と知をもって、人々に接するならば、彼らは必ず武士を尊敬し、信頼するのである。素行はこのように述べています。これが「士道」です。
素行の「士道」は封建時代における身分制度を前提にしていますが、「武士だから偉い」と上から目線で頭ごなしに言っているのではありません。武士の武士たる所以は文武の徳と知にある。権威ある仕事に就いているもの、世間的な地位ある立場についているもの、あるいはもろもろ著名な人にはそれにふさわしい能力と品性が求められる。勿論、他の人にはない責任と義務があり、それを成し遂げる。自分の主君や上司がそうであるならば、たとえ、その職を退いたとしても、人々はその人を敬う。これは現代にも通じる人としての道理でしょう。政治家の不祥事をみるにつけ、自分への戒めも含めて、素行のことばに耳を傾けるべきと思う今日この頃です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第103号,平成26年7月23日.
中 江 藤 樹
江戸時代初期の儒学者。1608~50。日本陽明学の始祖。近江の国(滋賀県)の農家に生まれたが、9歳のとき、伯耆国(島根県)米子藩士の祖父の養子となり、翌年、主君の転封により、四国の伊予大洲(愛媛県)に移った。14歳のとき、祖父の死去により家督を継ぎ、18歳で郡奉行の職に就く。公務をこなす一方で、勉学にも励み、16歳で『四書大全』を読破するなど、朱子学を学んだ。26歳のとき、自身の健康と老母を養うことを理由に、引退を申し出る。しかし、藩の赦しを得られずに脱藩。郷里の近江に帰り、28歳のとき、私塾である藤樹書院を開いた。33歳のとき、伊勢神宮への参詣を機に、朱子学の礼法遵守に疑問をもち、陽明学に傾倒した。晩年は岡山藩主池田光政の招きを得るが断り、生涯、在野の学者として一生を終えた。弟子には熊沢蕃山などがいる。主著は『翁問答』、『大学考』など。
*熊沢蕃山(1619~91)
浪人の子として京都に生まれるが、母の郷里である水戸の藩士熊沢家の養子となり、16歳のとき、岡山藩主池 田光政に仕えた。4年で職を辞し、祖母の郷里である近江に移り、中江藤樹に師事した。僅か4ヶ月の期間であったが、藤樹からの影響は大きく、彼の思想を決定づけた。その後、池田光政に仕え、藩政に関わり、名声を得るが、晩年は著書が幕府を批判するものと受け取られ、不遇に終わった。当時における社会事業や環境問題に関する政策を論じるなど、その功績は大きい。
*内村鑑三(1861~1930)
明治から大正期にかけて活躍したキリスト教学者。武士道精神を根幹として、社会正義と無私の心を中心としたキリスト教を説いた。「無教会主義」は欧米のキリスト教学者にも注目された。主著は『余は如何にして基督信徒になりし乎』など。
*王陽明(1472~1528)
中国明代の儒学者。陸象山の影響を受け、朱子学の理念性を批判し、陽明学を確立した。知論よりも実践を重んじ、真の知は行為を前提とするという「知行合一」を唱えた。主著は『伝習録』など。
中江藤樹は江戸時代中期には、清貧の暮らしのなかで道を究め続けた高徳の人という高い評価を得、「近江聖人」と呼ばれていました。老いた母の世話をし、母の喜びを自分の喜びとした逸話は、近代に入ってからも「孝」の道徳を体現した偉人として国定教科書に記されました。また、内村鑑三は著書『代表的日本人』のなかで、その求道的生活を賞賛し、描き、日本史上最も理想的な教育者であると紹介しました。
藤樹の思想的功績は、為政者や上層階級の心得あるいは武士の修養のためであった儒学を農民に広め、万人に通じる日常生活における道徳として展開したことです。そもそも、藤樹が説いた陽明学は15世紀の中国(明代)で王陽明によって、確立した儒学であり、朱子学の理念的・理論的傾向を批判し、主体的・実践的行動を重視した学問でした。人間には生まれながらに善悪・美醜や真偽を見極める知(良知)が備わっており、この良知を発揮し、実践することにより徳が身に付くとしました。これを知行合一と言います。
紹介した文は正確には「親には敬愛の誠をつくし、主君には忠をつくし、兄には悌を行い、弟には恵をほどこし、朋友には信をもって交わり、妻には義をほどこし、夫には順をまもり、かりにも偽りを言わず、些細なことで不義をせず、視聴言動みな堂にかなうことを孝行の条目とす。」と記されています。
藤樹はすべての徳の根本は「孝」であり、「孝」は身分の別に関わりなく、万人の心にあるもので、あらゆる行為に「孝行」の道理があるとします。親に対する子のふるまい方は「孝」の典型的な表れであるが「孝」のすべてではない。自分の身は親より受け、親の身はその親から受け、無限につながる祖先の身は天地より受け、天地は太虚から受けてものであるから万人と天地万物は同根一体である。「孝」は万人と天地万物から与えられ、万人と天地万物へ報いるものであるから、永遠不変の道理であり、特に人間関係において表れたときは人倫の根源となる。藤樹はこのように説いています。
儒教道徳は孟子が説く君臣の「義」、父子の「親」、夫婦の「別」、長幼の「序」、朋友の「信」に代表されますが、臣の君に対する、子の父(おや)に対するものだけではありません。君の臣に対する「義」も 、父の子に対する「親」も長の幼に対する「序」もあります。ちなみに、「義」は正しさ、「親」は親しさ、「別」はそれぞれの立場、「序」はけじめ、「信」は信頼です。勿論、仕える立場のもの、子ども、年下のもの、教えを受けるものが上司や親、年長者や先生に孝をつくし、礼をなすことは当然です。年長者を敬わない、教師を教師とも思わない、親を大切にしない。そのような輩に昔から使うことばに「何様のつもりだ」というのがあります。私たちはそういう子どもや生徒にしてはいけません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第102号,平成26年7月11日.
林 羅 山
江戸時代初期の儒学者。1583~1657。京都の富裕町家の出身で、12歳のとき、建仁寺に入り教育を受ける。出家を勧められたが、14歳で実家に戻り、独学で朱子学を学んだ。21歳のとき、藤原惺窩のもとに入門し、早くも頭角をあらわし、翌年には師の推薦により、二条城で徳川家康に謁見する。家康からの信頼を得て,24歳で幕府の公職に就き、以後、4代の将軍に仕え、幕府の法度、典礼、外交など文教政策に関わった。47歳のとき、上野忍岡に学寮先聖殿を創設し、多くの門人を育成するとともに、朱子学を幕藩体制の精神的支柱および具体的な道徳理念とし、朱子学の官学化を推進した。羅山以降、林家は代々、幕府の文官として重んじられた。主著は『春鑑抄』『三徳抄』など。
なお、1690年、5代将軍綱吉の援助により、林家の先聖殿は神田昌平坂に移され、湯島聖堂学問所となり、1797年に、昌平坂学問所(昌平黌)として幕府公式の学問所となった。
*朱子学
中国の宋の時代(12世紀)に朱熹(朱子)によって確立した儒家思想に関する学問。当時は、儒家思想におけ る道徳を宇宙の根本的な原理と結びつけてとらえる教え(宋学)が盛んで、朱子はそれを理論的に大成させた。
*藤原惺窩(1561~1619)
江戸時代初期の儒学者で、近世儒学の祖。はじめは僧侶で、当時、公家や僧侶の教養として学ばれていた儒学 を学問として独立させた。徳川家康に儒学を講義し信任を得るが自らは幕府に仕えず、弟子の林羅山を推挙した。
我が国における道徳は、基本的に儒教を基礎とします。それは、仁・義・礼・智・信・忠・孝・誠・敬・愛などが特に男子の人名に多く付けられていることからもうかがえます。なお、天皇家をはじめ皇族男子には必ず仁の一文字が付けられています。日本において、儒教が広まったのは江戸時代でした。儒教の伝来は仏教とほぼ同時期の6世紀で、聖徳太子の『十七条憲法』にもその精神が記され、空海も深く研究していましたが、長い間、朝廷・貴族・学僧の教養として学ばれていました。武家社会になると、「忠義」・「忠臣」・「忠誠」などの観点からしだいに浸透し、江戸時代に入り、儒学すなわち、儒教を解釈・研究する学問として隆盛を窮めることになります。
儒教とは紀元前6世紀の中国に登場した孔子を祖とする儒家の思想に基づくもので、紀元前2世紀の漢代に官学として“国の教え”となるにおよんで儒教という名称が一般化され、創始者孔子も廟に祀られるなど神格化していきました。しかしながら、孔子の思想は「怪力乱神を語らず」、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」ということばにあるとおり、非宗教的な姿勢を貫いています。孔子は人民が平和に暮らせる社会を目的とし、そのためには君主の人徳による政治の実現が求められ、学問や教育は有徳の人物を育成するためにあるとしました。政治家には道徳的資質が不可欠で、高潔な人物が指導者となれば、民衆は安心して暮らせるというのです。こうして儒教は道徳について論じる教えとなったのです。ちなみに、孔子と弟子たちの言行録『論語』は東洋の聖書とよばれています。 さて、紹介した林羅山の朱子学は孔子の死後、1600年以上を経て、朱熹(朱子)という人物により確立した学問です。道徳の根拠を宇宙の普遍的原理に求めた朱子は、先ず、世界や万物の成り立ちについて考えます。宇宙には万物の根源である原理(理)とガス状の物質構成要素(気)がある。普遍的な理と変化する気の組合せにより万物は形成される。理は人間の心の中にも備わっており、心の本性は理であって、先天的に道徳性を人間は持っている。ただし、気から生じる感情や欲望により本性である理が失われることが多々ああるから、気を取り払って、理である本来の性に得るために修養が必要である。これが、朱子学のおおよその内容ですが、日本では専ら後半の修養論が中心となりました。
羅山は自然界に天と地があるのが普遍的なあり方、則ち「理」であるように、人間界にも君臣などの「上下定分の理」があるとしており、それが封建社会の身分秩序を正当化させたとされています。確かにそれはその通りです。そこで、留意しなければならないのが「敬」です。羅山は気を取り払い、感情や欲望を抑えることを「敬」とよびました。つまり「敬」とは「つつしみ」のことです。「つつしみ」は自制心、自律心あるいは良識でもあります。身分の上のものにも、下のものにも「敬」則ち「つつしみ」が大切だと羅山は言うのです。特に、上に立つものにはそれにふさわしい品性がなくてはなりません。「つつしみ」は他者への「うやまい」となり、「うやまい」は「愛」となります。上に立つ人こそ他者を「うやまい」「愛する」心が求められます。地位ある人、その人となりは然るべく。本校の校訓「敬愛」の意味をあらためて、生徒に伝えてください。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第101号,平成26年7月4日.
世 阿 弥
室町時代初期の猿楽師。1363?~1443。実名は元清。父観阿弥とともに猿楽(現在の能)を完成する。観阿弥・世阿弥の能は観世流として現代に至る。父観阿弥は猿楽の役者で、奈良興福寺の庇護を受けていたが、後に京都に移り、一座を発展させた。世阿弥は幼少の頃から父とともに舞台に上がり、12歳頃、足利義満の目にとまり、観阿弥・世阿弥親子は義満の後見により猿楽を大成させた。父の死後も義満の庇護を受け、摂政・関白・太政大臣を歴任した二条良基に連歌を学ぶなど教養を身につけ、義満の近臣として重んじられた。義満の死後もしばらくの間は恵まれた境遇にあったが、足利義教が将軍となると、冷遇され、出家した。一座を子にゆずるものの、その地位と地盤は失われ、晩年は不遇の日々をおくった。主著は『風姿花伝』『花鏡』など。能の脚本である謡曲は『高砂』『井筒』など多数。
*猿楽
寺社の祭礼の際に興行された物まねや滑稽なしぐさなどの演芸。鎌倉時代に盛んになり各地に猿楽師の一座 が形成された。近江の日吉神社・多賀神社に奉仕した近江猿楽と興福寺・春日社に奉仕した大和猿楽が有名。
*足利義満(1358~1408・将軍在職1368~94)
室町幕府3代将軍。有力守護を抑えて足利将軍の地位を確立した。南北朝を統一し、勘合貿易を行って経済力 を高め、京都室町に「花の御所」、北山に「金閣」をつくり権勢をきわめた。京都に幕府を開き、朝廷と対等な地位を築いたことから、頼朝以来の武家社会の確立者と言える。
*足利義教(1394~1441・将軍在職1429~41)
室町幕府6代将軍。5代将軍義量が早世したため、天台座主の地位から還俗して将軍となった。幕府権威の回 復に努めたが強圧的政策のため暗殺された。
能は我が国を代表する伝統芸能ですが、江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言を含めて能楽と言われるようになったのは明治になってからです。能楽と能は同じものではではなく、能楽のなかで超自然的なものを主題とする歌舞劇を能と言います。世阿弥は能楽と能の創始者とも言える人物で、猿楽の主流であった物まねや滑稽芸ではなくストーリー性をもった演劇を確立しました。特に、鎌倉時代初期からの貴族や武士に尊ばれた「幽玄」という美的理念(静寂の余情美の追究)を台詞や所作、歌舞に表現し、深淵高尚な情趣を描いたのでした。
紹介した「初心、忘るべからず。」は世阿弥の名著『風姿花伝』にあるこのことばで、入学式、入社式、結婚式などで「はじめの志や決意を忘れてはいけない」という意味でよく用いられていますが、世阿弥が説く「初心」とは困難や試練に克服するときの心のあり方のことであり、「初心を忘れるな」とは「困難や試練に出会ったときの自分の未熟さとそれを克服したときのことを忘れるな」という意味です。
晩年に書かれた『花鏡』にも記されていますが、「初心」には3つあります。識者の解釈を私なりに理解すると次のようになります。まず、「是非、初心忘るべからず」。若いときに苦労して身につけたものを忘れるな。それは後の成功の源である。また、若いときの未熟な状態を忘れるな、それを思い出せば、今の自分の成長が自覚できるし、今自分が為すべきことも自覚できる。次に「時々の初心忘れるべからず」。経験を積んでも歳をとってもはじめて経験する困難や試練がある。そのときどきの未熟さを忘れず、またそれを克服した心を忘れるな。それにより、一層完成された自分をつくりあげることができる。最後は「老後の初心、忘れるべからず」。老いることも初めての経験であり、老年になって初めて突き当たる困難や試練がある。そこにもまた自分の未熟さがある。老年であってもやはりそれを克服しなければならない。
人間が生きるということは、常に新たな困難と試練に出会うことであり、そこには未熟さがある。つまり、未熟な自分を知り、受け入れ、未熟さを克服することを忘れてはいけないということなのです。『風姿花伝』は芸道の書ですが、芸道もまた学びと教えの世界です。3つの初心は私たち教師にもまた生徒にも通じる心得であることは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第100号,平成26年6月27日.
吉 田 兼 好
鎌倉時代の文筆家、歌人、僧侶。1283~1352。本名は卜部(うらべ)兼好。京都吉田神社の神官の家系に生まれ、後二条天皇の北面の武士として、従五位下の官位についた。天皇の死を機に30才頃出家したとされているが、諸説がある。卜部家は古代より卜占を司り神祇官を輩出する名家で、嫡流が後世、吉田家や平野家などに分かれ、兼好は吉田家の先祖の系統であったから吉田兼好とよばれる。現在は教科書でも兼好法師と記されている。兼好は隠棲して仏道修行と和歌に励み、歌人として高い評価を得、勅撰集にも入集されている。また、文化人、古典学者としても優れ、公家、武家の要人とも交流をもった。代表作『徒然草』は『枕草子』『方丈記』とともに、3大随筆と言われ、社会と人間についての観察と思索を深遠かつ軽妙に記した。生没年は厳密には不詳である。
*『枕草子』 第93号参照。
*『方丈記』 第94号参照。
*正徹(1381~1459)
室町時代の僧侶、歌人。石清水八幡宮に仕える神官の出身。歌人として優れた才能を発揮するとともに、古典学者としても高名で、室町幕府8代将軍足利義政に『源氏物語』を講義した。主著は歌論『正徹物語』など。
「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。『徒然草』冒頭の文は高校の「古典」には勿論のこと、中学校の「国語」の教科書にも登場する名文です。題名は後世つけられたものという説が有力で、成立過程についても諸説があり、実は兼好が著者であるという確かな証拠はありません。室町時代に学僧の正徹が『徒然草』を絶賛し、兼好の作によるとしたところから定説になったようです。兼好の作ではないという証明もできないのですから、まずは作品そのもののすばらしさを堪能しましょう。
『徒然草』の内容と表現は名文の誉れが高い。「序」に始まり、243段からなり、それぞれが独立したテーマで書かれ、ひとつひとつは比較的短く、内容は説話・自然観・人物伝・風俗・人生訓など多様で、ユーモアとウイットに富んでいます。その一方で仏教の無常観や近世の“わび ”“さび”に通じる美意識なども含まれています。有名な文には、「世は定めなきこそいみじけれ。」、「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。」、「花はさかりに、月はくまなきをみるものかは。」、「人、死を憎まば、生を愛するべし。」などがあります。文芸理念として一般的にいわれているのは、『方丈記』にみられる“無常への詠嘆 ”を“無常の美”に高めたこととされていますが、私はその本領は、現実の世と無常観との相克から醸し出される情緒にあると思います。
そもそも、出家したからといって人生の苦悩から解放されたわけではありません。人間や世間を愛しながらも、定めなき世を眺めると、すべてはひとときの夢かと思う。それでもなお、この世で生きたい。生きなければならない。そこから生じた“たゆたい”を根底にもちながら、深遠なテーマを堅苦しくなく、あるときはユーモラスにあるときはアイロニーをこめて綴っているところが実に素晴らしい。
紹介した文章の前後には「生住異滅の移り変はるまことの大事は、たけき川のみなぎり流るるがごとし。しばしも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて必ず果たし遂げむと思はむことは、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足を踏みとどむまじきなり。」と綴られています。万物が生じ、成長し、変化し、滅するというこの世の移り変わりの真理は勢いがあり水かさの多い川が流れていくようなものである。少しもとどまらず一気に進んでいく。だから仏道においても日常生活においても、これはやらなければならない、必ず成し遂げようと思ったことは、様子をうかがうだの時機をみてだの言っていないですぐにやらなければならない。おおよそ、このような意味です。為すべきだと分かっていながらしない、しようと思ったのに先延ばしにする。これを怠慢と言います。ましてや、その怠慢を他人や周囲の状況の責任にするなどはもってのほかです。このことは、教育においても十分注意しなければなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第99号,平成26年6月20日.
日 蓮
鎌倉時代の僧侶、日蓮宗(法華宗)の開祖。1222~82。安房国長狭群(現千葉県鴨川町)に生まれる。自らを「片海の海人の子」と称した。11歳頃、地元の天台宗清澄寺に入り修行し、16歳で出家して比叡山をはじめ各地で修行、学問を積んだ。31歳のとき、清澄寺に帰り、『法華経』の教えを絶対とする日蓮宗を開いた。以後、鎌倉を中心に布教し、市井で辻説法を行い他宗を厳しく批判する。彼の生きた時代は北条氏の専制体制と蒙古襲来にあたる。38歳のとき、執権北条時頼に『立正安国論』を進呈するが受け入れられず、伊豆に流されるなど数々の不運に見舞われるが、それらを法難として受け止め、『法華経』の教えを説き続けた。赦免された後も幕府と他宗への批判を繰り返し、49歳のとき、蒙古国書をめぐって鎌倉龍の口(現神奈川県藤沢市)で処刑されかるがあやうく難を逃れ、佐渡に流される。52歳のとき、赦免されて身延山久遠寺を開き、弟子の教育、唱題と説法の日々をおくった。また、国難を予言し、その5ヶ月後に文永の役が起こったこともよく知られている。主著は『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』など。
*蒙古襲来
文永の役(1274)と弘安の役(1281)の2度にわたるモンゴル(元)の襲来のこと。のちに元寇ともよばれる。文永の役では、元軍と高麗軍2万8000人が対馬・壱岐を侵略して博多に上陸、集団戦法や「てつほう」(火薬を用いた武器)などで圧倒したが、ほどなく撤退した。弘安の役では、元軍は14万人という史上稀に見る大軍を擁したが、幕府は綿密な防戦体制をとり、2ヶ月にわたり奮戦した。元軍は暴風雨にも苦しめられ、撤退した。
*北条時頼(1227~63)第97号脚注参照。
*預言者
BC6世紀頃、バビロニアに捕囚(バビロン捕囚)されていたユダヤ民族の宗教的指導者たちのこと。預言とは「神の言葉を預かる者」の意で、彼らは国家を失ったユダヤ人を神への信仰共同体としてまとめようとした。
*洗礼者ヨハネ(BC1世紀頃)
ユダヤの宗教家。『新約聖書』によるとヨルダン川で民衆に洗礼をおこない、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」と説いた。イギリスの詩人オスカー=ワイルドの戯曲『サロメ』にも登場する。
親鸞や道元が救済と悟りを個人の内面の問題として取り組んだのに対し、日蓮は、国家や社会の安泰のための仏教を説きます。ある意味で日本仏教の伝統的なあり方とも言えるでしょう。彼は『法華経』の教えを信じ帰依することにより、この世は安泰し、人々の生活も安定するとしました。天変地異や飢饉は間違った教えを信じているから起こるのであって、ひたすら『法華経』を信仰し、「南無妙法蓮華経」という題目を唱える(唱題)ことにより国も人々も救われると説くのです。もし、それをしなければ、国内の争乱はもとより外国からの侵略を受けるというのです。その上で、日蓮は他宗を厳しく排撃し、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と叫びました。これを「四箇格言」と言います。
日蓮のこのような姿勢は、ユダヤ教の預言者や洗礼者ヨハネを思わせます。ヨハネはキリストの出現と神の国の到来を説いて、ユダヤ王に殺されましたが、日蓮も何度か生命の危機に見舞われています。なかでも鎌倉龍の口で斬首されそうになったとき、奇跡的に処刑が中止されたことは有名です。執行人の刀がつぎつぎに折れたという説もありますが、月の如く明るい光が現れ兵士たちの目が眩んだと日蓮自身は記しています。偉人伝にありがちな伝説をもつこと自体、日蓮は当時から熱狂的な信者を得ていたことが推測されます。
紹介したことばは『開目抄』のなかにある一文で、このあとに「我、日本の眼目とならむ。我、日本の大船とならむ等と誓いし願、やぶるべからず。」とあり、日蓮が日本を救う誓願を立てた決意が記されています。日蓮の言動で注目すべきは、低い身分から偉業を成し遂げた人がしばしば、実は自分は高貴な身分だったが不遇に身をやつしなどと、出自を高めることがあるのですが(豊臣秀吉などはその典型です)、日蓮は「東国の片田舎の漁村の海人の子」であることをむしろ強調しています。やはり並みの人物ではありません。それどころか、片田舎の身分の低い生まれの自分が説くからこそ教えの意義があるとしています。そこから「日本の柱とならむ」という大きな志が生まれるのです。
私たちにはいろいろな欠点がありますが、出自をもって人物評価をすることもその一つです。孔子は弟子たちに、自分は低い身分の生まれで貧しかったと伝えています。真に偉大な人は、偽りやごまかしをせず、ありのままに自分を示します。身分や出自に関わりなく万人は平等である。自分のめざすところへ自分を向けられる。いわく、「少年よ、大志をいだけ」。民主主義の教育の出発点はここにあります。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第98号,平成26年6月13日.
道 元
鎌倉時代の僧侶、曹洞宗の開祖。1200~1253。京都の上級貴族の子に生まれる。父は内大臣の源(久我)通親、母は太政大臣藤原基房の娘であったと伝えられているが、諸説がある。3歳で父を、8歳で母を亡くし、13歳のとき、出家して比叡山に入った。17歳頃、栄西の弟子である明全に師事し禅宗を学び、24歳のとき、師とともに中国(南宋)に渡り、中国曹洞宗を学び、禅宗の僧侶としての印可を受け、3年後に帰国、京都の深草に興聖寺を開くが、比叡山からの弾圧により、43歳のとき、越前(福井県)に下向、翌年、永平寺を開いた。数年後、北条時頼の招きにより鎌倉に行き、関東でも曹洞宗隆盛の基盤をつくった。その後、曹洞宗は教義の深遠さ、坐禅という行の峻厳さにより武士階級の精神的支柱なり、教団としても大きく発展した。主著『正法眼蔵』。
*栄西(1141~1215)
平安末期から鎌倉期にかけての僧侶。日本臨済宗の開祖。備中国(岡山県)の吉備津神社の神官の子に生まれ、13歳で出家し、比叡山で学んだ。27歳のときに半年間、46歳のとき4年間、南宋に留学した。帰国後、九州で布 教し、禅宗を広め、北条政子と鎌倉幕府2代将軍源頼家の帰依を受け、59歳のとき、政子の後見を得て臨済宗を 開く。その後、頼家の支援により京都に建仁寺を開いた。以後、臨済宗は鎌倉幕府・室町幕府の庇護を受け、発展した。主著『興禅護国論』『喫茶養生記』など。
臨済宗は建築・庭園・絵画・書道・茶道・文学など日本の伝統文化に大きな影響を与えた。天竜寺、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)、東福寺、南禅寺などは臨済宗の寺である。
*北条時頼(1227~63)
鎌倉幕府5代執権。時宗の父。頼朝以来の鎌倉御家人を滅ぼし、北条氏本家(得宗家)の専制体制を開く一方、皇族将軍を擁立して幕府の安泰を図り、引付衆を設置するなど幕政改革に努めた。出家して西明寺入道とよばれ、謡曲『鉢の木』に代表されるように諸国行脚のエピソードも残っている。また、日蓮から『立正安国論』を進呈されている。
禅宗は大乗仏教の一派で、5世紀頃、インドの僧達磨が中国に伝え発展しました。坐禅は仏教の修行方法として広く用いられていましたが、坐禅を修行の中心とする禅宗は中国の唐代から宋代にかけて盛んになり、日本では鎌倉時代に伝わっています。簡単に言うと、禅宗は坐禅により精神を統一して、あらゆる煩悩を絶ち、無我の境地にいたり心の平安を得ること、すなわち自己の「悟り」を目的とします。禅宗を本格的に布教したのは栄西という人物で、彼の伝えた臨済宗はその後、日本の伝統文化の各分野に大きな影響を与えました。栄西の説く禅は公案禅とよばれています。公案とは師匠が弟子に与える問いのことで、知的な分別では説きえない本質的課題を特徴としています。坐禅し、この公案を一心に取り組むのが公案禅で、公案をめぐり師弟で問答するのが禅問答です。
栄西の影響を受けながらも、公案を捨て、ただひたすら禅に打ち込むことを唯一の行としたのが道元です。そもそも、仏教とは世界と人間の真理、たとえそれが、生命あるものは必ず死ぬ定めにあるとか、生きるとは苦しみの繰り返しであるなどという悲しい真理であってもそれをしっかりと受け止めることにより、煩悩を滅するという教えでした。そして、そのような真理を悟ることが文字通り、悟りであり、悟った人をブッダ(仏)と言います。日本に伝わった大乗仏教では、誰もが仏になる本性(仏性)をもち、修行により悟りを得られるとしています。しかしながら、我が国では仏教伝来以来、国家の安泰や一族の繁栄が目的となり、個人が信仰の主体となっても、阿弥陀仏による来世における救済がテーマでした。栄西の教えにしても、その著書名から見てとれるように興禅護国、つまり禅を興すことにより国を護ることに主眼がおかれています。
現世における自己の悟りという仏教本来の目的をめざしたのは道元が初めてでした。紹介したことばは『正法眼蔵』にある有名な一文で、これに続き「自己をならふといふは自己を忘るるなり。自己を忘るるとは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは
自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなり。」とあります。仏の道とは自己と向き合うことである。自己と向き合うとは自己への執着心をなくすことである。自己への執着心がなくなると山河大地のあらゆる存在のなかに自己を感じることである。それはまた、自他の心身をすべての存在に帰することである。これが禅による無我の境地です。道元の思想の根底には平等主義があります。それはすべての人は救いを与えられる平等ではなく、努力すれば誰もが仏になれるという平等です。勿論、仏になれる人はいません。だから、ゴータマ=シッダータはただ一人ブッダと呼ばれるのです。しかし、目的に向かって努力する意志は誰にでも平等に与えられています。ここにも、教育の出発点があると私は思います。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第97号,平成26年6月6日.
親 鸞
鎌倉時代の僧侶、浄土真宗の開祖。1173~1262。京都の下級貴族の子に生まれる。先祖は藤原北家につながると伝えられている。8歳の時、歴史家としても高名な慈円のもとで出家し、その後、比叡山に入り、学問と修行に励むが自力での悟りに限界を感じ、28歳の時、比叡山を下り、京都の六角堂への百日参籠を行い、95日目に夢で聖徳太子の示現を受け、法然の門下に入り、浄土宗に帰依した。法然のもとで阿弥陀仏への信仰を確固たるものとしたが、34歳の時、後鳥羽上皇による念仏停止の院宣が出され、法然は四国に、親鸞は越後に流された。4年後、赦免されて関東を中心に布教、後年京都に戻り、著述と布教に専念した。74歳の時、ようやくにして浄土真宗を開く。信仰と教義に関しては厳格で身内にもきびしく、晩年、長男善鸞が教えをゆがめたとして義絶した。主著『教行信証』など。浄土真宗は一時衰退したが、室町時代に蓮如が登場し、多くの信徒をかかえ、大坂石山を本拠として発展した。戦国時代には各大名も恐れる存在となり、天下統一をめざす織田信長の最強の敵でもあった。
*慈円(1155~1225)
平安末期から鎌倉期にかけての僧侶、学者。関白九条(藤原)兼実の弟で、天台宗の最高位である天台座主を務めた。『新古今集』を代表する歌人でもある。主著『愚管抄』は道理と末法思想を中核とした歴史書で、日本最初の歴史哲学的書で、慈円は承久の変の直前に後鳥羽上皇に献上した。
*蓮如(1415~99)
室町時代の僧侶。本願寺8世。当時低迷していた浄土真宗を再興した人物。比叡山衆徒に本願寺を焼かれたあと、越前を拠点として布教し、『御文』を著して教化活動を行い多くの信者を獲得して、京都山科に本願寺を再建、1496年に大坂石山に坊舎を造り、石山本願寺の基礎を築いた。
前号で紹介した法然の最も優秀な弟子が親鸞です。親鸞の法然に対する信頼は絶大なもので、理想的な師弟関係の例として、しばしば用いられています。哲学や宗教における親密な師弟関係はそれほど多くはありません。古代ギリシャにおけるプラトンとアリストテレスの師弟は有名ですが、アリストテレスがアカデメイアに入学した頃、プラトンは近隣諸国にしばしば旅行し、アカデメイアでの講義はほとんど行っていなかったようです。日本では国学の賀茂真淵と本居宣長が有名で、互いに師弟を公言していますが、二人が実際に会ったのは一度だけでした。それに対し、親鸞は法然の直弟子で心から師を尊敬し、信頼して「たとえ、法然上人にだまされ地獄に落ちたとしても悔いはない」と言っています。
法然は、人間は自力で悟りを得ることはできず、阿弥陀仏の救いにすがるほかにない。阿弥陀仏は万人の救済を本願としているから、念仏を称えることだけで救われる。私は前号で、その真意は、念仏をひたすら称える人のひたむきさと純粋さが魂の救済につながるということにあると言いました。私は法然はかぎりなく宗教的な道徳を説いた人物であると思います。親鸞は師の教えを忠実に継承し、自己の一切が阿弥陀仏の計らいであるという立場を取ります。親鸞によれば、自分の意志で念仏をしているのではない。念仏は阿弥陀仏がさせてくれているのであり、念仏を一度でもしているというのはすでに阿弥陀仏により救われているのである。だから念仏はそれ自体、阿弥陀仏への感謝の表れ(報恩感謝の念仏)である。この立場を絶対他力と言います。
紹介したことばは、親鸞の言行を弟子の唯円がまとめた『歎異抄』の冒頭にある有名な一文です。善人でさえ救われて極楽に往生できるのであれば、悪人が救われないはずがない。否、悪人こそ救われるのである。イエス=キリストの「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものだからである。」に通じる教えです。イエスが言う「心の貧しい人」とは「自分の弱さや罪深さを知っている人」という意味で、親鸞の「善人」は「自力で悟りを得る人」、「悪人」は「自分の力では悟りを得られない人」であり、「悪人」は阿弥陀仏に救いにすがらざるを得ないから、その本願により救われると理解されています。親鸞は人間存在そのものの有限性の観点から教えを説いていたでしょう。
そもそも、仏教の教えとは世界と人間の真理を認識し、この世のすべては無常であり、一切は苦しみであるという真実を受けとめることにより、悩みや苦しみから解放されるという教えです。その境地が涅槃であり、涅槃に入ることを解脱あるいは悟りと言い、悟った人が仏(ブッダ)です。しかし、それは為し難い。だから、釈迦は人でありながら信仰の対象となったのです。自分の力で悟りを得られる人などはそうそういるものではない。愚禿な自分は阿弥陀仏の慈悲を信じるしかない。しかし、私は思います。自分の弱さを自覚している人は本当は強い人、立派な人なのではないでしょうか。あらゆる成長は自分の弱さ、未熟さ、いたらなさを自覚するところから生まれます。
矢倉芳則 「校長通信『地平遙かに』」第96号,平成26年5月30日.
法 然
平安末期から鎌倉期にかけての僧侶、浄土宗の開祖。1133~1212。美作国久米(現岡山県久米郡)の武士の子に生まれる。父は押領使であったが、土地争いで夜討ちにあい、殺害された。その際、父の遺言により仇討ちを断念したと伝えられている。一家断絶後、法然は母方の親戚である僧侶にあずけられ、そこで修行し、さらに比叡山に入り、多くの高僧たちから学んだ。彼の才能は開花し「智慧第一の法然房」と賞讃された。その後、比叡山を下り、京都の寺でさらに修行と学問を積み、源信の『往生要集』と中国浄土教の高僧善導の教えに強い影響を受け、42歳のとき、阿弥陀仏への信仰と念仏行による救いを説く浄土宗を開いた。法然の教えは、朝廷・貴族だけでなく武士にまでも広がり、多くの信者が彼のもとに集まるが、ほかならぬ比叡山からの弾圧や興福寺宗徒からの迫害を受け、さらに法然の弟子が後鳥羽上皇の怒りをかい、ついに念仏停止の院宣が下り、74歳のとき、四国に流された。高弟の親鸞もこのとき、越後に流されている。78歳で京都に帰るが翌年、死去した。主著は『選択本願念仏集』。
*源信 第92号脚注参照
*後鳥羽上皇(後鳥羽天皇) 第94号脚注参照。
*親鸞(1713~1262)
鎌倉時代の僧侶。法然の弟子。浄土真宗の開祖。師の教えを受け、阿弥陀仏による救いを説く。詳細は次号。
仏教は6世紀前半に中国から朝鮮半島を経由して日本に伝来しました。当初は仏像彫刻の美しさや経典の神秘性など美術的・文化的関心から受け入れられ、6世紀末から本格的に国家政策として隆盛しました。蘇我氏と物部氏の対立の要因の一つとしてもあげられますが、これは当時における近代化・国際化政策をめぐるものでした。その後、仏教は建築、美術、文学、芸道、武道などあらゆる日本文化に影響を与えましたが、当初から国家や社会の安泰のための手段とされていました。東大寺も奈良の大仏もそのためにつくられました。このような傾向を鎮護国家の仏教と言います。また、藤原氏などの有力貴族は一族の、あるいは一家の繁栄のために寺を建てたり、各宗派を保護したりしましたが、それは一族や一家の繁栄のためでした。平安時代に朝廷や貴族の間で隆盛をきわめた密教は加持祈祷により厄災を祓い福を招く現世利益を特色としていました。法然はこのような現実的・物質的幸福ではなく精神的救済を求めた人物でした。平安時代末期から戦乱と飢饉がうち続き、朝廷や貴族たちは将来への不安、武士たちは殺戮のなかでの死への恐怖に脅かされます。人々は阿弥陀仏による来世での救いを求めました。しかし、救われる保証はどこにもありません。救われるためには何をしなければならないか。
法然は自らの罪を自覚し、阿弥陀仏を信じて、「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えればよいと説きました。このことを専修念仏といいます。その昔、阿弥陀仏はまだ仏になる前に、48の願いをかけました。その18番目の願いが阿弥陀仏の本当の願い、則ち本願であり、それは称名念仏(ただ「南無阿弥陀仏」と名号を口で称える)により万人を救うことでした。貧しい人でも忙しい人でも、念仏を称えることならできる。救いとは身分の高い人、財ある人にだけできるような行いによってもたらされるのではない。法然のこの教えは、日本精神史における平等主義の先駆けであると私は思います。
紹介したことばは、『選択本願念仏集』からのものです。ただ、阿弥陀仏の名を称えるという行こそが救いにつながる。熱心な浄土宗の信者や法然の研究者の見解とは異なるかも知れませんが、私の解釈は次の通りです。念仏を称えるから救われるのではありません。人間は、単純なこと、当たり前のことを軽視しがちです。特別なこと、滅多にないことに気を取られます。しかし、誰にでもできることを毎日、いつでも何度でもくり返すことは存外、難しい。そこには、ひたむきさ、素直さ、真面目さが必要だからです。法然は念仏をひたすら称えられる人のひたむきさと純粋さを大切にしたのだと思います。
学習もまた然りです。誰にでもできること、例えば、漢字や英単語の書き取り、ノートの整理や教科書の音読、勿論授業を真剣に聴くなど、それを毎日欠かさず行う。そのひたむきさと純粋さ、どんな生徒にでも当てはまる学習法、そこに成功への道があると思うのですが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第95号,平成26年5月27日.
鴨 長 明
平安末期から鎌倉期にかけての歌人、文人。1153~1219。賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統括する禰宜の子であ ったが、父の死によって後ろ盾を失い、後継争いに敗れて父の後任となる望みを失い、詩歌管弦の道に入る。和歌の才能に秀で名声を得るものの、その後も神職としての出世の道が絶たれ、50才頃に出家した。京都郊外の東山や大原での隠遁生活を経て、日野山で方丈の庵を結び、わび住まいをし、著述 と思索に耽った。当時の貴族たちの日記や説話集『十訓抄』にも登場し、歌人としての才能が高く評価されている。出家の原因は、一般には、政治的社会的地位を得られなかった厭世からとされているが、琵琶の演奏をめぐってのトラブルからのものという説もある。なお、長明はれっきとした貴族で、後鳥羽上皇との交流もあった。代表作は『方丈記』『無名抄』『発心集』など。
*後鳥羽上皇(後鳥羽天皇)1180~1239/天皇在位1183~98/院政1198~1221)
天皇在位期間のうち、約10年間は後白河上皇の院政期であり、譲位し、自らも院政を行い、朝廷 内で絶大な権力を握った。鎌倉幕府と対立し、承久の乱を起こすも敗れて隠岐に流された。剛毅で 激しい気性の人物であったと伝えられている。歌人としても高名で、藤原定家らを選者として勅撰集の命を下し、『新古今集』を編纂し、自らも事実上の選者をつとめた。
*福原遷都
1180年、源頼政の挙兵を契機に平清盛は都を一門の別荘地である摂津国福原(現在の神戸市西部)に移転した。公家の反発が強く、半年で京都に戻ったが、当時の人々は争乱の幕開けを予感した。
*吉田兼好(1283~1352)
鎌倉中期から南北朝時代にかけての随筆家、歌人。京都吉田神社の神官の子。日本のモラリストともいうべき 人物。『徒然草』は1330年頃、成立。社会や人間の諸相を豊かな教養と卓越した観察力で記した。
*慶滋保胤(?~1002)
平安時代の典型的な文人貴族。浄土教思想に基づく隠者文学者の先駆的存在で後世に大きな影響を与えた。代表作は『往生伝』。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住みかとまたかくのごとし」。河の流れは絶える事無く常に流れているが、それでいて、もとの水ではない。水のよどんだところに浮かぶ泡はあちらで消えたかと思うとこちらにまた新しいのがうまれていつまでも途切れることはない。世の中に住む人とその住居も同様である。日本文学史上に名高い名文、『方丈記』の冒頭の文です。
本格的な和漢混淆文、かつ隠棲文学の作品として高く評価され、また、同時代の『平家物語』とともに仏教的無常観を表した傑作です。紹介した一文に続き、この段には「朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来たりていづ方へか去る。」、「その主と栖と無常を争うさま、いはば、朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花のこれり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」とあり、まさに無常観を美的に表した名文です。ジャンルとしては清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』とともに日本古典を代表する随筆ですが、両者よりも明確な時代精神と作者の思想とが強く打ち出されてます。
『方丈記』は初めに人の世の無常を説き、次に天変地異や社会変動、福原遷都がレポートされ、次に作者の生涯の 述懐と現在の隠棲についての詠嘆が語られ、最後にそのわび住まいに対する疑問と内的矛盾が吐露される。文学史上、長明は慶滋保胤の影響を受けているとされるが、出家隠遁の身でありながらその在り方にすら疑問をもち常に自己否定と葛藤を繰り返すあたりは『源氏物語』の「宇治十帖」や『紫式部日記』に通じるものがあります。出家したからといって、隠棲したからといって魂が安らいだわけではない。むしろ出家したからこそこれまで以上に迷い、悔やむこともある。平安時代から鎌倉時代にかけての古典文学にはこのような深遠なテーマが潜んでいます。
文学作品の理解を深めるには、時代背景や当時の宗教観・倫理観を学ぶことが大切だと言いましたが、その一方で、文字やことばには、そもそも慣れが大切です。「読書百遍、義自ずから見(あら)わる」という格言がありますが、何度もくり返し詠んで、目で見て声を出して、普段の生活の会話にも文学や芸術が話題となれば、いつの間にか教養が身に付き、読解力や表現力も身に付きます。日常習慣や環境が学力を向上させるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第94号,平成26年5月16日.
清 少 納 言
平安中期の作家、歌人。966?~1025?。歌人清原元輔の娘。先祖代々の歌人の家系に生まれる。幼少期に父の赴任地である周防(現山口県)に下り、数年間都を離れた生活をおくった思われる。結婚して一子を得るものの、夫との不和により離婚し、30代半ば頃から一条天皇の中宮定子に仕え、和漢をはじめ秀でた才能を発揮し、博学で知られ、当時の歌人・文化人と交流した。著書『枕草子』は鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』とともに古典三大随筆として評価される。また、歌人としても優れ、同時代の紫式部、和泉式部らとともに中古三十六歌仙(三十六歌仙に入らなかった優秀な歌人とそれ以後の名歌人の総称)の一人で、『小倉百人一首』にも選ばれている。定子が出産時に休止してほどなく、宮中を去り、再婚したと思われるが、詳細は不明である。
*清原元輔(908~990)
平安時代の歌人・役人。代々の歌人の家系に生まれる。三十六歌仙、梨壺の五人(村上天皇の命により設置された和歌所の歌人で、『万葉集』の研究、『後撰集』の編纂を行った)の一人。
*中宮定子(977~1001)
藤原定子。関白藤原道隆の娘。一条天皇の中宮。後に藤原彰子が中宮になるにおよび皇后となる。美貌と高い教養を兼ね備えた佳人として知られる。父道隆の死後、道隆家(中関白家)を支えた。遺詠は『後拾遺和歌集』に納められている。
*和泉式部(978~?)
平安中期の歌人。紫式部と同時期に中宮彰子に仕える。歌人としての評価は極めて高く、勅撰和歌集には246首が収められている。著書『和泉式部日記』。
はじめに、お詫びします。前号紫式部の人物紹介で、「三十六歌仙の一人」と記したのは間違いで、正しくは「中古三十六歌仙の一人」でした。「中古三十六歌仙」とは「三十六歌仙」に属していない名歌人とそれ以後に登場した優れた歌人を、平安時代末期総称したものです。このほかに、「女房三十六歌仙」もあり、これには清少納言、紫式部、和泉式部に加え、小野小町も入っています。
さて、「清少納言こそしたり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかしだち…」と『紫式部日記』のなかで、紫式部は清少納言を批判していたことはよく知られていますが、二人が出仕した時期を考えると宮中での両者の接触はなかったと思われます。したがって、清少納言の引退後に出仕した紫式部が話題にしたことは、清少納言の名声が当時から高かったことを示しています。
文芸理念としては、『源氏物語』が「あはれ」、『枕草子』が「をかし」を主としているとされています。鋭い観察と洞察力により自然の風物を客観的に、人間模様や世辞を機知とユーモアをもって、美意識や価値観を理知的に描きました。しかし、『源氏物語』を批判する学者が皆無である対し、『枕草子』を批判する国文学者はかなりいます。これは当然と言えば当然であり、小説と随筆の本質的な違いのゆえです。随筆には著者の人となりが端的に表れますから、好き嫌いが必ず出てくるのです。清少納言が生意気であるとか、上級貴族に取り入っている、下級貴族を見下しているなどと批判は、ひとえに彼女の人間性が出ているためです。それが実は、『枕草子』の価値であり、また、清少納言の魅力でもあるのです。
紹介した一文は「憎きもの」の項にあるものですが、教訓・警句として現代でも参考になります。忙しいとき、急ぎの用事があるときにやって来て、どうでもいい長話をする人。なるほど、迷惑で厄介な人です。そのほかに、大して立派でも賢くもない人が偉そうに、にやにや笑いながらやたらとしゃべっているとき。酒を飲んでわめき、人に酒を無理に飲ませたり、つがせたりする人。その気持ちはよく分かります。また、自省すべき内容でもあります。
説教や箴言は耳障りで嫌われますが、第三者的に一般論として語られれば、意外と素直に受け入れられるものです。特に、古典文学には本来的に権威がありますから扱いやすく、加えて、語彙や文法を学べるのですから教師にとって万能の教材です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第93号 ,平成26年5月13日.
紫 式 部
平安中期の作家、歌人。978~1016(厳密には生没年不詳)。藤原道長の時代に活躍した。三十六歌仙の一人であり、『小倉百人一首』にも入選している。当時の碩学藤原為時の娘で山城守藤原宣孝の妻。夫の死後、宮中に召し出され、道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子に仕える。ちなみに、一条天皇の皇后定子に仕えたのが清少納言であり、定子と彰子のサロンは宮廷文化の中心であった。伝承によると、幼少時より漢文に優れた才能を発揮し、漢詩人としても高名であった父を感激させるなど、才女としての逸話が多い。本名は不詳(藤原香子という説もあるが定かでない)。紫式部という名の由来も厳密には不明で、式部は父や兄の官位、紫は『源氏物語』のヒロイン紫の上に由来するとされている。
『源氏物語』は54帖(岩波文庫で6冊)からなり、三世代にわたり多彩な登場人物が登場する長編小説で、王朝貴族の雅の世界を舞台に恋愛と魂の救済をテーマした長編小説である。当時のヨーロッパやイスラムでは、神話や伝説の物語とそれらをモチーフとした通俗的短編小説が描かれていたことを思えば、世界文学史上の奇跡と言える。『紫式部日記』も当時の宮廷生活を記した貴重な史料である。
*藤原道長(966~1027)
藤原氏の全盛を築いた政治家。藤原氏の長者藤原兼家の子。拙著、太政大臣、関白を務める。彰子をはじめ4人の娘を天皇の后とし、外戚として4代の天皇約30年にわたり治世を司り権勢をふるった。宇治平等院鳳凰堂を建てた藤原頼通の父で、二人の政権は60年におよんだ。
*清少納言(生没年不詳)
平安中期の作家。歌人清原元輔の娘。和漢の才に秀で、一条天皇の皇后定子に仕えた。著書『枕草子』は鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』とともに古典三大随筆として評価される。
*源信(942~1017)
平安中期の僧侶。浄土教を広める。「厭離穢土・欣求浄土」と唱え、現世は穢れた醜いものであるから、阿弥 陀仏による救いを信じ、念仏にいそしめば、清らかで美しい極楽浄土に往生できると説いた。主著『往生要集』。
『源氏物語』は我が国の文学史上、最高の傑作とされています。千年以上経って今なお、映画化され、劇画にもなり、研究書・専門書はあとを絶ちません。かく言う私も、『源氏物語』を古文で愛読し、研究した学生でした。尤も、私は哲学・倫理学の観点から西洋的罪意識と比較して、物語にある罪障と救済をテーマとしましたから、国文学の専門家とは色合いが違っているかも知れません。
『源氏物語』は一般には三部構成とされ、第一部では、天皇の子に生まれながら母の出自のゆえに臣籍に下った光源氏が、亡き母への思慕をもちつつ、多くの女性たちと様々な愛を通して成長し、地位と権勢を得る人生が、第二部では、栄華をきわめた源氏自らの責罪による苦悩と悲傷、愛する人との死別のなかで、自己の運命を受け入れ、信仰の世界へと向かう姿が、第三部では、源氏の死後、宇治を舞台に、源氏の子とされる薫と薄幸の姫君たちを主人公に救われざるものたちの悲哀が描かれています。
紹介したことばは『紫式部日記』からの一節にあるもので、前後を意訳すると次のようになります。世を捨て浄土からの迎えあるまでは迷いがある。出家を願ってはいるが、自分のような罪深いものは必ずしも願いどおりになるわけではない。宿世の罪深さが分かってくるばかりですべてが悲しい。
平安中期、藤原氏の摂関時代は王朝文化華やかなりし時で、一般には華やかなイメージを持たれるのですが、天変地異や内乱が続き、律令体制に綻びが出始め、また、摂関体制から外された中下級の貴族たちは生き甲斐を失い、権勢を誇るものも、裏切りや策謀の罪におののき、自らの運命への不安に怯えていました。さらには、仏教の教義としても末法思想が説かれ、末の世、世の末という厭世観が蔓延っていました。源信が浄土教を広めたのも当時のことです。出家は皇族貴族たちの究極の安らぎで、来世での救いを約束する手立てでしたが、紫式部はそのような時代精神を厳しく批判します。出家をしたからといって、阿弥陀仏に念仏を唱えたところで、救われるわけではない。自らの罪深さと向き合えば、悟りのなしがたさ、救済のなされがたさが分かるはずである。『源氏物語』最終巻「夢の浮き橋」が終わるともなく終わったのも、そのような人間観のゆえでありましょう。
教師であるから当然のことながら、私は読書をすすめます。一冊の書物を理解するにはその背景にある事象や歴史、文化や思想を知らなくてはなりません。知っていれば益々よく分かります。古典文学も作者の人間観・人生観やその時代背景、社会状況、習俗や宗教を知っていれば、楽しさが大いに増します。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第92号,平成26年5月2日.
空 海
平安初期の僧侶、学者。774~835。弘法大師ともよばれる。讃岐の国(香川県)に生まれ、18歳のとき、京都に出て、漢学などを学び、翌年、山林修行に入り、四国各地で修行した。23歳のとき、『三教指帰』を著し、仏教・儒教・道教を論じて仏教の優位を説いた。30歳のとき、最澄とともに留学僧として入唐。真言宗七祖・恵果から密教を学ぶ。師の逝去により2年後に帰国、嵯峨天皇の庇護を受け京都で活動し、最澄とも親交を結ぶ。その後、高野山に金剛峰寺を建て、日本真言宗を開き、京都に道場として東寺(教王護国寺を朝廷から賜り、道場として開いた。仏教を広める一方、教育の普及、社会事業にも貢献し、文学芸術の面でも才能を発揮した。774年のこの日、生まれる。主著『三教指帰』『十住心論』『性霊集』『文鏡秘府論』等。
*嵯峨天皇(774~836・在位809~842)
桓武天応の皇子。蔵人所、検非違使の設置、『弘仁格式』の編纂など律令体制の改制に取り組んだ。また、漢詩文や文筆にも優れ、空海、橘逸勢とともに同時代の三筆として賞讃された。
*最澄 第90号参照。
*行基(668~749)
奈良時代の僧侶。諸国を遊説して民衆を教化し、土木事業や貧民救済活動を行い、菩薩と仰がれた。行基の弟子たちが朝廷の許可なく僧侶を自称した私度僧であったため、初めは弾圧をうけたが、その人望と功績の故、のちに聖武天皇に信頼され、大僧正の位を受け大仏建立に参与した。
*ウパニシャドの哲学
紀元前7世紀から4世紀にかけて成立したバラモン教の宗教哲学。宇宙の原理であるブラフマンと個人の本体であるアートマンとを一体化させることにより解脱ができるとした。
*プロティノス(205~270)
ギリシャの哲学者。プラトンの影響を受けながらも独自の神秘思想を展開し、この世はすべては「一者」から流出 すると説いた。彼に代表される立場を新プラトン主義という。
空海は聖徳太子や行基とともに伝説的な人物です。いたるところに “弘法大師”が祭られ、さながら神のごとき様相を呈しています。事実、その仏教思想における深みは勿論のこと、我が国で初めての民間教育機関である綜芸種智院を創設したり、満濃池再興などの社会事業にも功績を残しました。また、「弘法は筆を選ばず」の格言に記されるなど、書道の達人としても有名でした。さらに、政治的手腕も抜群で、言うなれば万能人でした。
空海の思想の根幹にあるのが「即身成仏」です。彼が説く真言密教によれば、宇宙の統一原理は大日如来であり、宇宙は大日如来(別名は毘留紗那仏、奈良の大仏が有名)の分身である無数の仏によって成り立ちます。人は三密(身・口・意…身に印契を結び、口に真言を唱え、心を仏の境地におくこと)によって、この身そのままにして仏となること(即身成仏)ができ、さらに現世利益的な願いもかなうのです。また、精神は10の発達段階をもち欲に支配されている動物的な段階から精神的、道徳的となり、儒教、道教を経て小乗仏教に入り、大乗仏教を経て、最後は密教に入る。そこにおいて、三密により小さな自我を捨て大日如来と一体化する。この思想は最澄が教学的学習的であるのに対し、神秘主義的で、古代インドのウパニシャド哲学、プロティノスら通じものがあります。
天才の典型のように思われている空海ですが、本人は日々の地道な努力を強調しています。今回紹介したことばは、『性霊集』にあるもので、そのことを的確に示しています。
全句は「物の荒廃は必ず人に由る。人の消沈は定めて道に在り。大海は衆流に資(よ)って以て深きこと致し。蘇迷は積塵を待って以て高きことを為す。」と記されています。意訳すると、次のようになるでしょうか。
国や組織をはじめあらゆるものの荒廃は必ずその人の力量や人格が原因である。人の力量や人格の有無は学問や教育を受ける熱意と姿勢にある。大成するには成功するには多くの人と交流し、広く学ぶことが大切である。毎日の学習が不可欠である。大海は多くの河川流が注がれて深く豊かになり、須弥山(仏教において世界の中心にそびえる山)も土や塵が積もり重なって高くなったのである。
空海ですら、否、空海だからこそ、学びの大切さを説いています。若い時代は勿論のこと、学びは生涯続けなければなりません。「学びて時にこれを習う。また説ばしからずや。朋有り、遠方より来たる。また楽しからずや」。孔子のことばは蓋し至言です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第91号,平成26年4月24日.
最 澄
平安時代初期の僧侶、学者。767~822。伝教大師ともよばれる。。近江国滋賀郡(滋賀県大津市)の出身で13歳で出家し、19歳の時、東大寺で受戒し正式の僧侶となり、比叡山にこもり、修行を続ける。その後、桓武天皇の信任を得て近臣となり、37歳の時に空海とともに唐に渡り、天台宗を学び帰国して比叡山に延暦寺を開き、日本天台宗の開祖となる。その後、東大寺での受戒は鎮護国家や衆生済度の役割を果たせないとし、自ら放棄し、比叡山延暦寺で僧として戒を授けること(大乗戒壇の設立)ができるよう、朝廷に働きかけた。その動きは晩年、 僧綱(僧侶、尼僧、寺の管理職)と対立。彼の死後7日目に、比叡山において戒壇が認められた。主著『顕戒論』『山家学生式』など。
*桓武天皇(737~806/・在位781~806)
平安京遷都の天皇。強い指導力をもって政治の刷新に努め、内政を建て直す一方、文化の振興に努力した。
*空海(774~835)
平安初期の僧侶。弘法大師。日本真言宗の開祖。唐から真言密教を伝え、高野山に金剛峯寺を創建する。桓武天皇ほか朝廷に絶大な信頼を得、奈良仏教を凌駕する一大勢力を実現した。その身たちまちにして仏と成る(即身成仏)の教義は深淵崇高にして難解。また、書をはじめ文芸の達人でもあり、数々の社会事業も行った。
*戒壇
戒律を授ける(授戒)ための儀式の場所。戒律を受けた者が正式の僧侶である。754年、渡来僧鑑真により東大寺に戒壇が設立され、その後、筑紫太宰府の観世音寺、下野(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇が築かれた。僧になるためにはこのいずれかで戒を受ける(受戒)しなければならなかったが、最澄は天台宗の僧侶に独自の資格で授戒する戒壇の設立を求めた。822年、比叡山延暦寺に戒壇の勅許が下された。この戒壇を大乗戒壇という。
*鑑真(688~763)
唐の高僧。6度の失敗を経て、布教のために来日、律宗を伝えた。。東大寺に戒壇を設け、その後唐招提寺を開くなど、日本仏教の発展に貢献した。薬学や漢方医学、絵画・彫刻の技法を教授したことでも知られる。
私たち個々人に自覚があるかどうかは別として、現在の日本の仏教信徒の大部分は鎌倉仏教の各宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗)に属し、その開祖はすべて比叡山延暦寺で学びました。つまり、最澄の天台宗からその後の日本仏教が発展したのでした。同時代のもう一人の偉人である弘法大師・空海が学問的にも宗教的にも天才的センスを持ち、政治的手腕もあったのに対し、最澄は努力型で信仰と学究一筋の人であったようです。大乗戒壇設立にあたってもトラブルが絶えず、それがまた実直で好感がもてます。
最澄の思想を伝えることばとして、「一切衆生悉有仏性」「一切衆生悉皆成仏」があげられます。これは大乗仏教の根本精神で、生きとし生けるものすべての救済を願うことを特徴とし、さらに人間に限らず、山川草木に至るまで仏の本性があるとします。広く万人の救済を願い、万人が成仏することを目的とし万物が仏の姿であるとする教えは、人間と自然との対比を前提とするヨーロッパの世界観と異なる世界観そして、近年は、環境保全や自然保護の倫理的支柱として取り上げられています。
紹介したことばは最澄の主著『山家学生式』にある一句で、前後には「国宝とは何ものであるか。宝とは道を求める心である。道を求める心をもつ人を、名づけて国宝という。…直径一寸の玉十個が国宝ではなく、世界に一隅を照らす人が国宝である。」と記されています。国宝とは金銀財宝ではない。人である。人の心である。正しい道を求めようとする人の心である。表向きでもなく、体裁でもなく、心の底から強い信念と情熱をもってこのことを説き続けることは、きわめて難しい。
財産でもない、地位や名誉でもない。大切なのは人の心。どれだけの人がそれを信じているか。「はい、私はそう思います。」と答えられる人は僅かでしょう。しかし、教育者はそう言えなければなりません。厳しい現実であればあるほど、不条理に満ちた社会であればあるほど、教師が説き続けなければならない美しいこと正しいことがあります。クラーク博士のことばとして伝えられている一文を紹介して、今日の結びとします。「少年よ大志を抱け。それは金銭に対してではなく、世の人が名声とよぶ、あのむなしいものに対してでもない。人間が人間としてもつべきすべてのものに対して、少年よ大志を抱け」。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第90号,平成26年4月21日.
聖 徳 太 子
飛鳥時代の政治家・思想家。574~622。厩戸皇子。用明天皇の皇子として生まれ、幼少時から非凡な才能を発揮したと伝えられている。母の穴補部間人皇女は欽明天皇と蘇我稲目の娘との子で、用明天皇とは異母兄妹であった。皇位継承と仏教をめぐっての蘇我氏と物部氏の争いで蘇我氏が勝利し,崇峻天皇暗殺後に即位した推古天皇の摂政として大臣蘇我馬子とともに治世にあたった。対外的には遣隋使を派遣し、中国の先進的文化や政治制度を取り入れ、国内的には「冠位十二階」、『十七条憲法』を制定し、天皇中心の中央集権国家体制の基礎をつくった。また、『天皇記』や『国記』を編纂し、当時の東アジア世界において国家としての日本の地位を確立する一方、仏教や儒教などを研究した。特に、仏教においては、四天王寺、法隆寺、中宮寺などを建立しするとともに、我が国において、はじめて本格的な思想を形成した。『三経義疏』が主著として伝えられている。
*推古天皇(554~628/在位592~628)
欽明天皇の皇女で、敏達天皇の皇后。聖徳太子の叔母にあたる。崇峻天皇暗殺後、蘇我馬子に推され、最初の女性天皇として即位した。
*蘇我馬子(?~626)
蘇我稲目の子。用明天皇の死後、皇位継承をめぐって、物部守屋と争い、打倒して崇峻天皇を擁立したが、後に天皇を暗殺し、推古天皇を立てた。摂政の聖徳太子ともに、大臣として実質的権力を握った。
聖徳太子は日本一の偉人として尊敬されていました。若い人は知らないかも知れませんが、一万円札の肖像は長く聖徳太子でした。近年、その功績や実在までもが諸説輩出しており、紹介したことばが記されている『十七条憲法』も古くから創作説があり、高名な学者たちの意見もさまざまで、結論には到底至っておりません。私としては、これまでのとおり、定説にしたがった聖徳太子について述べることにします。
聖徳太子はすでに死後間もなく神格化され、数々の奇跡伝承に彩られましたが、その直接の要因は、大化の改新により確立した天皇を中心とする中央集権国家体制がそもそも太子の理想であったとされたことによります。しかし、政治的な要因だけでは、反体制者がいるかぎり、必ず歪みが生じます。一人の人間が完全に神格化されるためには、政治や経済と係わりのない精神的な次元での背景が不可欠です。それは法隆寺をはじめとする寺院創建や仏教研究の功績でした。
『十七条憲法』には第一条に続き、第二条に「篤く三宝を敬え。」と仏教への信仰が語られ、これをもって太子が仏教を指導理念の基本としたと思われがちですが、実は儒教思想も強く打ち出されています。また、第十条に「人皆心あり。心各々執れるところあり。彼の是は則ち我の非なり。我の是は則ち彼の非なり。我必ずしも聖ならず。彼必ずしも愚ならず。」と人間の弱さや愚かさ、特に傲慢や独善への戒めもあります。聖徳太子のことばには現代に至るまで日本人の道徳観や規範意識の根幹となっているものが見てとれます。社会人として求められる資質、またおとなとしてのイメージも、協調性があり温和で、他人と争わないこと、他人の立場を理解できることなどがあげられるでしょう。
第一条には冒頭のことばに続いて、「人皆党(たむら)あり、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父に順わず、また隣里に違う。然れども、上和ぎ、下睦びて、事を論(あげつら)うにかなうときは、則ち事理おのずから通ず。何ごとか成らざらん。」とあります。人間というものは似たもの同士で群れをなす。賢いものは少ない。主君や親の言うことを聞かず反抗する。他人に迷惑をかけるしルールを守らない。しかし、上に立つもの、責任ある立場のものが賢明で優しく和かであり、その人に仕えたりその人から学ぶものたちが互いに思いやりをもち仲良くすれば、実のある議論ができ、正しいことや為すべきことは自ずから明らかとなり、理解できる。そして、目標は必ず実現へと向かうのである。さすがは聖徳太子。おとなが子どもと、教師が生徒と向き合うにあたっての心得を明確に示してくれています。それはまた、校長としての私が日々、心に刻む戒めでもあります。
*大化の改新
中大兄皇子や中臣鎌足らによって蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏宗本家を滅亡させたクーデター(乙巳の変)に始まる一連の政治改革。唐の律令制をモデルとした天皇中心の中央集権国家をめざした。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第89号,平成26年4月11日.
マザー=テレサ Mather=Teresa
現マケドニアのスコピエに生まれる。本名はアグネス=コンジャ=ボワジュ。18歳のとき、アイルランドの修道会に入り、教会の派遣事業によりすぐにインドに渡った。シスターとなってテレサと改名する。カルカッタ(現コルカタ)の女子高校で地理や歴史を教えていたが、「貧しいものに仕えよ」という神のことばを聴き、貧困層を救済する活動を始めた。その後、国籍をインドに移し、40歳のとき、慈善団体「神の愛の宣教者会」を設立し、このころから“マザー”とよばれた。その後、治療を受けられない病人を収容する「死を待つ人の家」やハンセン病患者のための医療施設、親を亡くした子どもたちのための「孤児の家」を設立した。その博愛精神の実践と献身的な活動により1979年にノーベル平和賞を受賞した。81年には来日している。
世界で最も権威ある学術賞であるノーベル賞は1901年に創設されました。まさに20世紀の金字塔です。ノーベル平和賞はその一部門ですが、ノーベルが自国スウェーデンとノルウェーの和平を願ったのが設立の理由であり、、他の部門はスウェーデンで、平和賞だけがノルウェーで授賞式が行われます。第1回の受賞者は赤十字社を創設したアンリ=デュナンと国際仲裁会議を設立したフランスの経済学者F=パシーでした。この賞は国際平和への貢献、人類愛や人権擁護などの実践に優れた功績を残した人物に与えられる世界で最も名誉あるものです。しかしながら、近年は複雑な国際政治のためか、あるいは平和への強い願いのためか、受賞が疑問視され紛糾した事例も少なくありません。
中東の平和を祈念して、1994年、イスラエルのラビン首相、ペレス外相とPLOのアラファト議長が共同受賞しましたが、今に至るまでこの地の紛争は絶えません。また、オバマ大統領が現職で受賞したこと、我が国の佐藤栄作氏、韓国の金大中氏、アメリカのキッシンジャー氏などはそもそも受賞資格があるのかとの声もあります。そのようななかで、シュヴァイツァー、キング牧師、そしてマザー=テレサの受賞はなるほどと納得できます。
「最大の罪は愛とあわれみをもたないことです。搾取されたり、堕落したり、赤貧の中にいたり、病気で困っていたりする隣人を目にしながら恐るべき無関心でいることです。
…私たちの隣人である貧しい人たちが時に餓死するようなことがあるのは、神がその人たちのことを気にかけなかったからではなくて、あなたや私が与えるべきものを与えなかったから神の手の中で愛の道具とならなかったからなのです。…飢えている人は一切れのパン、一枚の布がなくて泣いているのではなく、つまり自分が愛されていない、愛し愛される人を誰ももっていないと感ずる無辺の孤独感、恐ろしいまでの欠乏感に泣いているのだと思います。」とマザー=テレサは語ります。
彼女の実践の根底には言うまでもなく、キリスト教の隣人愛、無償の愛の精神があります。西欧諸国におけるキリスト教の歴史は必ずしもイエス=キリストの教えと一致するものではありません。むしろ、戦争や迫害、弾圧の連続であったとも言えるでしょう。もし、イエスが復活して自分が創始した宗教の展開とそれを継承する人々を見たら、嘆き悲しむに違いありません。「イエスが復活して一番困るのはキリスト教の司祭たちだ」と言った人もいました。しかし、マザー=テレサの思いと行動は間違いなくイエス=キリストから賞讃されるに違いありません。自己犠牲の愛、見返りを求めない愛、代償なき愛。到底、凡人のなせる行為ではありません。しかし、それを行った人がいる。この事実に対して、私たちはただひれ伏すしかありません。
道徳の教科化が進んでいます。私はそのことに反対するつもりはありませんが、扱う人物については慎重になるべきだと主張します。義務教育の教材に取り上げられた“義足のランナー”は殺人犯容疑者、NHKや朝日新聞が絶賛した“全聾の天才音楽家”は稀代の詐欺師でした。本物とまがい物を見抜く力。それこそが真の教養であると私は思うのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第88号,平成26年3月24日.
シュヴァイツァー A=Schweitzer
フランスの哲学者、神学者、医師。1875~1965。現フランス領アルザス(当時はドイツ帝国領)のドイツ人牧師の子として生まれ、敬虔な両親のもとで育ち、幼少から学問と音楽に親しみ、ストラスブール大学で神学と哲学を学び、卒業後は神学部講師、牧師、オルガン奏者として活動した。30歳のとき、アフリカの密林で医師として活動するために医学を学びはじめ、38歳のとき、それまでの職や地位を捨てて、新婚間もない夫人と共に、アフリカのガボンのランバレネに渡り、病院を開設し、医療活動とキリスト教の伝道に従事した。第一次世界大戦中は活動を中止せざるをえなかったが、戦後その地に戻り、現地の人々へ医療を施し、「アフリカの聖者」と賞讃された。1952年には、77歳のとき、ノーベル平和賞を受賞し、その後も原水爆実験禁止運動を推進し、世界平和を訴え続けた。弟子たちに看取られながら、ランバレネの病院で死去した。ガンディ、キング牧師、ロマン=ロラン、マザー=テレサとともに、現代ヒューマニストとよばれる。主著『文化と倫理』『水と原生林のはざまで』など。
*ガンディ(1864~1948)
インドの宗教家、法律家、政治運動家。イギリスに留学後、弁護士として活動するが、南アフリカの人種差別やインドでの自民族の悲惨な状況を目の当たりにし、スワラージ(独立)、スワデージ(国産品愛用)とアヒンサー(不殺生=非暴力主義)を掲げ、イギリスからのインド独立運動を指導した。第二次世界大戦後、インド独立を実現し、国内のヒンズー教徒とイスラム教徒との融和を図ったが、狂信的なヒンズー教徒により暗殺された。
*キング牧師(1929~68)
アメリカの宗教家。ボストン大学卒業後、人種差別の激しいアラバマ州で牧師となり、1955年のバス・ボイコット運動をはじめとする公民権運動を指導した。ガンディの影響を受け、非暴力主義を貫き、ノーベル平和賞を受賞したが、急進派の黒人に暗殺された。“I have a dream.”の演説で知られる。
*ロマン=ロラン(1866~1944)
フランスの小説家、思想家。ノーベル文学賞受賞。キリスト教精神とロマンティシズムに溢れた作風で知られる。第一次世界大戦前後から創作活動とともに絶対平和主義を掲げた社会運動を推進した。ガンディの活動に共鳴して親交をもち、アインシュタインらとともに反ファシズム運動を指導した。代表作は『ジャン・クリストフ』『魅せられた魂』『ベートーヴェンの生涯』など。
シュヴァイツァーは21歳のとき、「30歳までは学問と芸術のために生き、その後は直接人類に奉仕道を進もう」と決意し、そのとおりに30歳からは医学を学び、8年後、アフリカに渡り、キリスト教の伝道とともに医療活動に励みました。
彼はキリスト教精神に基づき、人間愛を実践した人物として、我が国でも1960年代から偉人伝に登場し、現代のヒューマニストとして、高校の教科書にも掲載されていました。欧米諸国では「アフリカの聖者」として絶大な評価を受けていましたが、その一方で、アフリカでは必ずしも評判がよくありません。現地の宗教を否定してキリスト教を押しつけたとか、「人類は兄弟」と言うものの、「白人は兄、黒人は弟」と述べ、白人優位の価値観から抜け出ていないとの批判です。しかし、アフリカの現地人の人権が無視されている時代にあって、彼の行動は高く評価されるべきでしょう。
紹介したことばは、彼の思想を示すタイトルのようなものですが、主著『文化と倫理』には次のように記されています。「人間は助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、何らかの生命あるものならば、害を加えることを恐れるというときにのみ、倫理的である」。 つまり、倫理的であるとはすべての生命を敬うことなのです。彼がいつごろから差別や迫害に対する嫌悪感をもち人間愛を意識したかは定かではありませんが、次のようなエピソードが残っています。
シュヴァイツァーは牧師の子に生まれましたが、当時の西ヨーロッパにおいて、牧師の地位は社会的にも経済的にも高く、彼は子どもの頃から富裕でした。小学生の時、同級生と取っ組み合いのけんかをして相手をねじ伏せたのですが、負けた相手は「俺だってお前のように毎日、肉入りのスープを飲んでいたら負けはしない」と言い放った。シュヴァイツァーはそのことばに衝撃を受け、どうして自分だけが恵まれているんだろうと悩んだそうです。なぜ自分だけが貧しいのか、と不条理に悩む人はいるでしょうが、生まれた時からの富裕者のなかで、なぜ自分だけが金持ちなんだろうと悩む人は滅多にいません。そこが「聖者」とよばれる所以で、凡人との違いです。やはり見習わなくてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第87号,平成26年3月20日.
カ ミ ュ A=Camus
フランスの小説家、哲学者。1913~60。フランスの植民地アルジェリアに生まれる。父はフランスから移住してきた農業労働者であり、カミュが生まれた翌年に戦死している。母はスペイン系の移民で聴覚障がい者であった。幼くして兄とともに母の実家で育てられ、苦学してアルジェ大学に進み、ギリシャ哲学を専攻する。パリに移って著作活動に入り、1942年、『シーシュポスの神話』で有名となり、サルトル、ボーヴォワールらと親交をもち、シモーヌ=ヴェイユの影響も受けた。第二次世界大戦後は、サルトルとともに実存主義文学の代表的作家として、さらには20世紀フランスの思想的リーダーとして活躍する。不条理と不安の中に生きる人間を描き、1957年、43歳のとき、戦後最年少で、ノーベル文学賞を受賞する。その3年後、46歳の若さで友人が運転する車に同乗し、衝突事故で即死した。代表作は『異邦人』『ペスト』『追放と王国』など。
*サルトル(1905~80) 第84号参照
*ボーヴォワール(1908~86) 第84号脚注参照。
*シモーヌ=ヴェイユ(1909~43)
フランスの女流哲学者。工場労働体験や義勇軍への参加などの体験を通して、キリスト教精神に基づいて、他者の苦しみや痛みを知り、共感、共生することの大切さを説いた。当時の知識人、文化人に深い感銘を与えた。主著『根をもつこと』『神を待ち望む』など
*オイデプス(エディプス)
ギリシャ神話「テーバイ伝説」の登場人物。アポロン神から、父を殺し母を妻とすると予言され、その運命を変えようとして、自ら知らず、その宿命の中に入りこみ、悲惨な生涯をおくる。紀元前5世紀に詩人ソフォクレスがこの伝説の一部を悲劇として著した。精神分析学者のフロイトは、父への反発・敵対心と母への恋慕を男性がもつ深 層心理として、この神話をモチーフにして「エディプス=コンプレックス」と命名した。
カミュの作品に一貫して流れるテーマは「不条理」です。「不条理」とは理に合わないこと、すじみちが立たないこと、自分の力がおよばないことですが、カミュの場合は「不条理」を否定的・消極的にとらえるのではなく、また、人間のなかにのみあるものでもなく世界のなかにのみあるものでもないとしています。彼によれば、「不条理」は人間と世界との共存において成立するものであり、両者を繋ぐ唯一の「きずな」なのです。
「不条理」について論じた評論『シーシュポスの神話』のなかで、カミュは「本当に重大な哲学の問題はひとつしかない。それは自殺である。」「人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。」と述べています。
シーシュポスはギリシャ神話の登場人物の一人です。度重なる神への不敬のために、地獄で大きな岩を丘の上まであげるという刑を受ける。そして残酷にもシーシュポスが丘の上まで上げた瞬間、岩は転がり落ち、それが永遠に繰り返される。もし、人生がかくの通り無意味な繰り返しであるとするならば、はたして、それでも生きるべきなのか。自殺の哲学的意味はそこにあります。カミュは程度の違いはあれ、誰もが「不条理」のなかに生きていると言う。彼によれば、人生は本来合理的なものではなく、希望も生きる意味もない。しかし、そこで絶望したり、神にすがったりするのではなく、「不条理」を直視して絶望せずに運命を運命として是認することが大切であるを主張する。ギリシャ悲劇の主人公オイデプスが自らのおぞましい人生を知った後も「すべてよし」と言ったことこそ大切なのだとします。つまり、人生は容易に捨て去るものではなく、無駄な努力、終わりのない試練にこそ真価があるとカミュは言うのです。「不条理」と直面して人間ははじめて自分と向き合い、真の生き方をつくりあげることができる。作品の独自性や特異な登場人物のゆえに誤解されがちですが、カミュの思想には人間への信頼や生きることの大切さが見てとれます。「生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない。」「人間のなかには、軽蔑すべきものよりも称賛すべきものの方が多い。」ということばも残しています。
ちなみに、カミュは父が戦死した後、母の実家で養育されますが、家族のなかに読み書きのできるものは一人もいなかったそうです。上級学校に進学する経済力は全く無かったのですが、ジェルマンという小学校の教師がカミュの才能を見抜いて家族を説き伏せ、奨学金を受けてアルジェの学校に入学することができました。カミュはその恩を生涯忘れず、ノーベル賞受賞にあたり、講演録に「ジェルマン先生へ」と感謝の献辞を記しています。生徒の才能を見抜く力は勿論のこと、その開花と成長を実現させるのも教師の力量です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第86号,平成26年3月13日.
サ ル ト ル J=P=Sartre 第84号参照
サルトルは哲学者、文学者として各分野に活躍し日本の思想や文学・演劇にも大きな影響を与えた。私生活においては、学生時代に知り合ったボーヴォワールとの契約結婚が世界中の文化人を驚かせた。その後、小説家のフランソワーズ=サガンや34歳年下の女性(後に養女とする)との愛人関係があったが、ボーヴォワールとの信頼関係は生涯にわたった。1964年、59歳でノーベル賞を受賞しているが、「いかなる人も生きながらにして神格化されてはならない」「ノーベル賞受賞のサルトル、という肩書きは好まない」と語り辞退している。政治的な理由なしに、個人の意志で受賞を辞退したのは彼一人である。
一方、政治活動にも積極的に関わり、キューバ革命など人民解放運動への支持は一貫して続いた。後年はマルクス主義に傾き、ソ連の立場を理解しつつもソビエト共産党には入らず、ソ連の「ハンガリー事件」やチェコスロバキアの「プラハの春」におけるソ連軍侵攻を強く非難した。
*フランソワーズ=サガン(1935~2004)
フランスの小説家、脚本家。中流階級の日常生活を題材とした作品で知られる。思春期の女性の心理と行動を描き、映画化された『悲しみよこんにちは』で世界的な人気作家となる。私生活はまれに見る破天荒なもので、生涯、酒、薬物、ギャンブルと離れられなかった。
*ハンガリー事件(1956)
首都ブタペストで知識人・学生や労働者がソ連軍撤退、一党独裁反対、ワルシャワ条約機構脱退などを掲げた反ソ暴動。ソ連軍により弾圧された。
*プラハの春(1968)
チェコスロバキアの爆発的な民主化運動。1月に始まったこの運動は冷戦下の自由主義圏からの支持を得たが、ソ連のほか東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの軍隊により弾圧された。
*カント(1724~1804) 第44~47号参照
*ヘーゲル(1770~1831) 第48~49号参照
*ヤスパース(1883~1969) 第49~80号参照
*ハイデッガー(1889~1976) 第81~82号参照
「自由」は近代における大きなテーマのひとつであるとともに現代においてもさらに吟味しなければならない概念です。日本では、明治以降、個人の意志を尊重するという個人主義の思想とともに論じられ、夏目漱石をはじめ当時の知識人たちは個人主義と利己主義との違いを懸命に説いていました。つまり、「自由とは自分の思うがままに何でもできる」ことと間違われやすいのです。西洋近代哲学における自由は“人間は自然の因果律の中にあって自由であるか”ということであり、それが倫理学的にはカントにより“本能や欲望に支配されずにどれだけ理性的に行為しうるか”という命題となり、自由は「自律」として論じられることになります。
サルトルは生後2才にして父と死別し、母とともに母の実家で育てられ、父という権威者がいないことが、彼に自由について考えさせたと伝えられています(いかにも西洋父権社会的見解です)。さらに、戦争とナチの占領という時代に生きたことも自由についての思索を深めさせたようです。そのためか、彼の自由論はカントやヘーゲルは勿論、同時代のヤスパースやハイデッガーに比べても、きわめて現実的・行動的です。
サルトルによれば、人間の本質は自由にあり、自由が故に他の何ものにも頼ることなく、自らの行為の責任をとらなければなりません。それは刑罰ともいうべき厳しい宿命であり、人間としての真実を貫こうとすればするほど重くのしかかる。自由に生きようとすればそれだけ益々自由の厳しさに耐えなければなりません。彼には次のようなエピソードが残されています。ナチス・ドイツへの抵抗運動のさなか、戦争で父と兄を亡くした若者が「自分も戦うべきか、母とひっそりと暮らすべきか」とサルトルに問うたとき、彼は一言、「君は自由だ、選び給え。」と言ったそうです。
自由とは勝手気ままなことではありません。究極の責任を自分が担うということです。そんなことは分かっている、との声も聞こえますが、通勤・帰宅の途中、街中ではしゃぐ見かけだけの若者、その若者にすら笑われる中高年を見るにつけ、不安になる今日この頃です。日常生活のトラブル、諍い、マナー違反、不道徳行為、さらには犯罪も自由の欠如から生じます。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第85号,平成26年3月5日.
サ ル ト ル J=P=Sartre
フランスの哲学者、文学者。1905~80。生後ほどなく父と死別し、母方の祖父の元で養育される。母の従兄弟は“アフリカの聖者”とよばれたシュヴァイツアーである。知的なブルジョワ階級の家庭で育ったサルトルは名門校を経て、高等師範学校に進学し、メルロ=ポンティや生涯のパートナーとなるボーヴォワールと知り合い、24歳のとき、彼女と2契約結婚する。卒業後、高校教師を経て、ドイツに留学し、ハイデッガーやフッサールに師事し、教職に就きながら執筆活動に入る。第二次世界大戦で、招集され捕虜になるが、偽の身障者証明書を用いて釈放され、対ドイツの地下解放運動に参加しながら哲学研究を続け、戦後、評論、創作活動に専念し、ノーベル文学賞を受賞(辞退)する。その一方で、演劇、映画などにも進出して、世界的な文化人となる。また、平和運動推進者としても活躍する。晩年はマルクス主義に傾斜した。主著『存在と無』『実存主義とは何か』『弁証法的理性批判』、『嘔吐』など。
*メルロ=ポンティ(1908~61)
フランスの哲学者。フッサールの現象学の影響を受け、身体性に着目した独自の立場を説く。サルトルと共に雑誌『レ・タン・モデルヌ(現代)』を刊行するが、後年、マルクス主義に傾いたサルトルと決別する。児童心理学、教育学の分野でも活躍した。主著『知覚の現象学』『見えるものと見えないもの』。
*ボーヴォワール(1908~86)
フランスの女流哲学者。サルトルの生涯のパートナー。女性の立場から実存主義を論じ、フェミニズムやジェンダー論に大きな影響を与えた。「人は女性に生まれるのではなく、女性になるのだ。」のことばで知られる。主著『第二の性』。1966年、サルトルとともに来日している。
*ハイデッガー(1889~1976) 第81号参照。
*フッサール(1859~1938)
ドイツの哲学者。現象学の祖。現象学とは、外部に存在する事物に関しては、判断を中止し、意識に表れた現象を厳密に考察し記述しようとする学問。彼は、無反省な日常生から純粋な意識に立ち返り、事実に即して対象の本質を究明しようとする立場を説き、ハイデッガー、サルトルをはじめ20世紀後半の哲学者に大きな影響を与えた。主著『厳密な学としての哲学』など。
私たちは、事物や道具をその特色あるいは機能・用途で認識し、理解します。例えば、「ナイフは何かを切るものである」、「イスは人が座るためのものである」、「冷蔵庫は食物を冷却して保存するためのものである」といった具合です。「何かを切る」がナイフの機能・用途であり、ナイフが存在する意味は「何かを切ること」にあります。このように、あるものを存在たらしめている機能や用途を本質と言います。実のところ、定義というものは、すべて基本的に「○○は~である」という定式をもち、~にあたるのが本質です。道具や事物は本質すなわち機能・用途が失われると存在の価値はなくなり、別の言い方をすると本質が予め定められているのです。では、人間についてはどうでしょうか。
西洋哲学では、古代から人間の本質を探究し、そこに普遍的な価値と尊厳を見出そうとしました。アリストテレスの「人間は社会的動物である」、パスカルの「人間は考える葦である」などはその典型的なものです。ナイフの本質は個々のナイフが存在する以前に決められています。サルトルによれば、人間は予め定められている存在ではなく、自らの意志と力により、自己の存在をつくりあげていく存在であり、現実にここにあることが本質に先立っている、つまり「実存が本質に先立つ」のです。
上記のことばは『実存主義とは何か(実存主義はヒューマニズムである)』に記されている一句で、サルトルの実存主義を表す代表的なことばとして知られています。切れなくなったナイフはナイフではなく、壊れた時計は時計ではない物質の塊にすぎない。本質でとらえると、機能・用途を失ったものはその意味も価値もなくなります。しかし、人間は「社会的」とか「考える」などの本質に関わりなく人間である。存在すること自体に意味と価値があるのです。人間は自分の生き方やあり方を自分自身で決定する存在である。これは、近代西洋哲学が人間の尊厳として論じてきた「自由」にほかありません。
日本でも明治維新以降、1920年代から45年の敗戦までは空白がありますが、政治的にも社会的にも西欧近代における「自由」が求められていました。また、学問や文学、美術の分野でも人間性尊重の理念が謳われてきました。第二次世界大戦敗戦後のアメリカ流民主主義の移入については周知の通りです。そこで、改めて考えなければならないのが、実存(現実存在)が自由の根拠であるということです。真実の自己を求めること、自分の理想を追求することが自由である。自由の誤解・誤用はこの命題を知らないことが原因です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第84号,平成26年2月27日.
ピ カ ソ P=Picasso
スペインの画家。1881~1973。アンダルシア地方のマラガに生まれる。父は美術教師で、息子の才能にすべてをかけた。フランスに在住し、セザンヌ、ゴッホらの影響を受けブラックと共に立体派を始め、以後、抽象的、デフォルメ化された画風で現代絵画の指導者的役割を果たした。第一次、第二次世界大戦中、一貫して自己の芸術性の追究に終始し、戦後は共産主義に傾く。代表作『ゲルニカ』をはじめ、戦争や社会批判の作品に真価がある。代表作は他に『アヴィニヨンの娘たち』『戦争と平和』など。
*セザンヌ(1839~1906)
フランスの画家。後期印象派の代表者で、現代絵画に大きな影響を与えた。代表作は『水浴』など。
*ゴッホ(1858~90)
オランダの画家。印象派代表者。波乱かつ稀有な生涯から映画や演劇、小説などに多く取り上げられた。精神 病に悩まされながらも創作を続け、最後にはピストル自殺(異説あり)した。代表作は『ひまわり』『自画像』。
*ブラック(1882~1963)
フランスの画家。野獣派の代表者。印象派に対抗し、ピカソとともに立体派を創始する。後年は写実に撤する。
*立体派(Cubisme)
20世紀初頭のフランス美術の一派。色彩主義に対し、形体を強調して立体的に構成する技法を特色とする。
*チャップリン(1889~1977)
イギリスの俳優、映画監督。ユーモアとペーソス溢れる喜劇を基調に、人間愛と社会正義を唱えた。その芸術 性と思想性は娯楽の域を遙かに超えている。代表作『モダンタイムス』、『街の灯』『ライムライト』など。『独裁 者』は1943年制作のアメリカ映画。“独裁者”と瓜二つの理容師を主人公とし、ヒトラーへの痛烈な皮肉をこめ て平和と正義、人間愛を高らかに謳歌した傑作。特に、ラストシーンは「世紀の6分間」と賞讃された。
*スペイン内乱(1936~39)
民主派の人民戦線内閣に対して、フランコ将軍が地主層と軍部の支持を得て起こした内乱。これに、民主主義 と全体主義を掲げる国がそれぞれ干渉して国際紛争となり、独伊の積極的な支援と英仏の内政不干渉政策の結果、 フランコの独裁体制が成立した。フランコは第二次世界大戦では中立を守り、1975年の彼の死まで権力をもった。 現在のスペインは王政が復活し、ECに加盟するなど自由化が急速に進展し、92年にはバルセロナオリンピック を開催した。ちなみにスペイン内乱はアメリカのノーベル賞作家ヘミングウェイの『誰がために鐘はなる』の題材ともなり、1943年には監督サム=ウッド、主演G=クーパー、I=バーグマンで映画化されている。
*サルトル(1905~80)
フランスの哲学者、文学者。ノーベル文学賞受賞。「実存は本質に先立つ」と述べ、人間を普遍的な特質により定めるのではなく、現に存在すること自体に価値があるとした。主著『存在と無』『嘔吐』など。
ピカソはその難解な作風にも拘わらず、現代最大の画家と評価される人物です。彼が平和主義者かどうかは議論のあるところですが、紹介したことばのほかに「絵は装飾ではなく武器である。」などからも、彼が作品に誇りと使命感をもっていたことは確かです。
20世紀のなかで、私はチャップリンとピカソがきわめて異彩を放つ才人だと思っています。偉大な芸術家はその時代の精神の体現者ですが、両者とも芸術をその領域に留めることなく積極的に政治、社会に係わろうとし、さらに自己の才能を用いて権力者を批判し、全人類の良心を呼び覚まそうとしたからです。しかも、攻撃の対象がヒトラーとナチズムで、チャップリンの『独裁者』とピカソの『ゲルニカ』は当時の政治家や学者がなしえなかったヒトラー批判でした。それも彼の絶頂期に行ったのですから敬服します。
『ゲルニカ』の背景はスペイン内乱の初期、1937年にドイツ空軍が小都市ゲルニカを無差別爆撃した事件である。ピカソは暴挙に対する告発、戦争への憎悪を作品に表し、今日ではあらゆる戦争を否定する象徴的な芸術作品とされています。ちなみに、同時代の哲学者では敗戦国フランスのサルトルがパルチザンで抵抗運動をし、ヤスパースは収容所収監の危機に瀕し、ハイデッガーがナチス政権に賛同したのは前号の通りです。
「人生のための芸術」か「芸術のための芸術」かという議論が古くからあります。芸術のセンスがないからでしょうが、私はどうしても前者に肩入れします。批判を覚悟の上ですが、そもそも芸術とは感官がとらえたもの(美)を理念化あるいはメッセージ化したもので、音や色や形はことばと同様の機能をもつものです。愛や希望だけでなく、哀切や悲傷が描かれていたとしても、そこに社会や人生の真実と理想が求められ、息づいていなければなりません。勿論、それは実用性ではなく、精神をより向上させるためのもので、スポーツやその他の活動すべてに当てはまるものです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第83号,平成26年2月20日.
ハ イ デ ッ ガ ー M= Heiddeger 第81号に同じ。
ハイデッガーの生涯において、注目すべきはナチスとの関係である。1933年、44歳のとき、フライブルク大学の学長に就任し、他の同僚教授22名とともにナチス入党、就任式典では、ナチス党歌を演奏し、ナチスの精神を謳歌している。また、国際連盟脱退やヒトラーの元首就任を賞賛する演説も行っている。研究者たちのなかには、大学を守るためにやむを得ずナチスに協力したとか、翌年、総長を辞任しているのはナチスとの距離をおいたためであるとする見方もあるが、ハイデッガーは大戦中も一貫してナチスの側に立ち、総長辞任も彼のナチスへの偏向や反ナチスの同僚密告事件などによる大学内の混乱の責任をとったためである。ハイデッガーはナチスが政権を握る前の1929年頃から、反ユダヤ主義の傾向が見られ、30年にはすでにナチズム礼讃の講演を行っている。彼が、政治的・社会的・民族的思想においてナチズムに同調し、支援したことは明白である。戦後、占領当局の査問会でハイデッガーは弁明の機会を与えれたが、同僚の証言により窮地に立たされた。彼はかつての盟友であるヤスパースに弁護を依頼するが、密告事件やナチズム礼讃を知っていたヤスパースは厳しい評価を報告書に綴った。ハイデッガーは公職から追放されるが、51年には名誉教授として復帰した。
*E=フロム(1900~80)
ドイツの哲学者、社会心理学者。哲学では近代理性を批判したフランクフルト学派、心理学ではフロイト学派の系列にある。社会や文化が個人の真理に及ぼす状況を研究した。主著『自由からの逃走』『愛するということ』
ハイデッガーが最も危惧したのは、当時の大衆が日常の世俗的な生活に埋没しているということでした。ハイデッガーはそのような人間のことを、ダス(das)・マン(Man)(ひと)とよび、彼らは日々の生活のなかで何らかの失敗や挫折に陥ったとき、一時の「気晴らし」にのがれたり、快楽に耽るなど人間としてのあるべき生き方を失っているとします。「ひと」が自己の本来の生き方に目覚めるのは、自分が「死」へと向かう存在であることを自覚したときで、そこではじめて、本来の生き方である「現存在(ダ・ザイン(Da-sein))」にいたるのです。
ハイデッガーは「現存在」はまた、「世界内存在」であるとしました。簡単に言いますと、人間は現実の世界のなかで他者や多くの事象との関係において生きており、それらが存在する意味を了解し、他者に配慮しながら生きるものであるということです。他者への配慮が自己自身と向き合い、自己を深めさせる。ハイデッガーの思想は日常性に埋没し真の生き方を失っている人々に、人間としてのあるべき生き方を説くものでした。
人物紹介で、ハイデッガーとナチスとの関係を長々と記しましたが、20世紀後半のヨーロッパにおける政治思想や文学・哲学はナチズムをはじめとする全体主義とどのように向き合うかという観点からのものがきわめて多い。特にドイツでは、民衆の大部分がヒトラーとナチズムを歓喜のなかで受け入れたことを冷静に分析し、政治論や人間論が展開されました。ヤスパースやハイデッガーに師事したハンナ=アレントは全体主義の支配構造の特色と成立の要因について考察し、その危機を回避するための手立てを論じました。また、大戦中アメリカに亡命したE=フロムは、人間には権威に盲従する「権威主義的パーソナリティ」があり、孤独と不安にさいなまれる民衆は自らの自由の重荷に耐えかねて、「自由からの逃走」を求め、権威に依存すると論じました。彼によれば、ここに全体主義が民衆の心に浸透し、強烈な支持を得る基盤があると言うのです。
ハイデッガーがなぜ、ナチズムを賞賛したのか。その真相は彼自身しか分からないことでしょうが、私はここに、哲学者や思想家とよばれる人たちが陥りがちな傾向を見ます。それは、才人ゆえのアポリア。あるいは自己陶酔、あるいは自己矛盾です。また、自己の思想の高みゆえの孤独と不安がもたらす同質の権威への同調として表出することもあります。実は、哲学や思想の研究者にも落穴があります。興味・関心があるから、ある人物ある作品を研究する。やがて、その人物その作品が絶対化され、研究が進むにつれ自分もその一翼を担っていると錯覚する。しだいに同一化し、その人物その作品が非難されると自分が非難された気になる。ここで、大切なことは、その人物その作品も、自分自身も「世界内存在」であると認識することです。皮肉にもハイデッガー自身の思想に帰ることです。
私たち教師は、常に冷静沈着でなければなりません。どんなに嬉しいことや辛いことがあっても、自己を見つめるもう一人の自分がいなければなりません。一時期、「カリスマ○○」という語が流行りましたが、教師はカリスマになる必要はありません。否、カリスマになってはいけません。カリスマを批判する存在、流行やもてはやされている人を冷静に眺める存在でなくてはなりません。自己内省・自己批判の大切さは勿論のことです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第82号、平成26年2月14日.
ハ イ デ ッ ガ ー Heiddeger
ドイツの哲学者。1889~1976。フライブルグ大学で哲学・神学を学び、リッケルトやフッサール、ディルタイらの影響を受け、マールブルグ大学の助教授を経て、母校の教授になる。その後、再びマールブルグ大学に移り、『存在と時間』を発表、世界的に注目される。しかし、学問的名声の一方でナチス政権下でフライブルグ大学の総長に就任し、政策に協力した。1945年のドイツ敗北後、戦犯として処罰され、公職を追われ、執筆に専念する。1953年、大学に復帰し、その後は世界の哲学界の第一人者として活躍し、20世紀最大の哲学者として評価されている。主著は『存在と時間』『形而上学とは何か』『哲学とは何か』など。
*リッケルト(1863~1936)
ドイツの哲学者。新カント派の代表者。価値哲学、文化哲学を創設し、日本の哲学界に影響を与えた。
*フッサール(1859~1938)
ドイツの哲学者。現象学の創始者。ゲッチンゲン大学、フライブルグ大学教授を歴任。初め数学を志したが、「厳密な学」「純粋即物性の学」としての哲学を確立した。
*ディルタイ(1833~1911)
ドイツの哲学者。ニーチェに続き、理性よりも感情や意志を、概念的思考よりも体験を重視し、「生の哲学」を展開する。
*三木清(1897~1945)
大正から昭和前期の哲学者。京大で西田幾多郎に師事した。また、ハイデッガーの影響を受ける一方、ヒューマニズムの立場からマルクス主義に傾倒した。我が国における本格的な歴史哲学の先駆者であったが、反ファシズム運動に参加し、検挙され、獄中で死んだ。
*ハンナ=アレント(1906~75)
ドイツの女流哲学者。ユダヤ人の血を引く。ヤスパース、ハイデッガーに学ぶ。ナチズム、スターリニズムなどの全体主義の歴史的位相と心理的基盤を分析した。主著『全体主義の起源』『人間の条件』。
ハイデッガーはカント以来の近代哲学の伝統を受け継いだ20世紀最大の哲学者と評価されています。サルトルや我が国の三木清が大きな影響を受け、師と仰ぎ、その他、現代の哲学者や思想家と称される人は程度の差はあれ、皆、彼の影響を受けていると言っても過言ではありません。ちなみに、ハイデッガーは、サルトルにより、ニーチェを祖とする無神論的実存主義に位置付けられていますが、彼自身は自らを実存哲学者とはしてません。
ハイデッガーが死んだのは、私が大学生の頃で、哲学仲間では一頻り話題が続きました。哲学者として卓越した才能を発揮する一方で、ナチスへの協力やヤスパースの弟子ハンナ=アレントとのスキャンダルなど、政治的にもプライベートでもいろいな批判を受けることが多かった人物です。同時代のヤスパースが、妻がユダヤ人のための公職追放とスイス亡命の災禍にめげず、ナチズムに抗ったことを思えばなおのことでした。しかし、それらの汚点を差し引いてもなおハイデッガーの哲学は優れています。
ハイデッガーは、人間の本来的なあり方を「現存在」であるとしました。「現存在」とは自己が日々死へと向かう存在であることを自覚し、その死と向き合い、自己のあるべき人生をおくるという人間としての本来的なあり方のことです。考えてみれば、実に当たり前のことなのですが、生きているということは、自分に与えられている時間を費やすことです。そして最後には、時間を使い切って、誰もが死を迎えるのです。しかし、日常生活において死を意識している人は、特別な状況でないかぎりはいません。死と向き合うことなど普通の人間には思いもよらないのです。
私はハイデッガーのこの思想を自分なりに、次のように解釈しています。我々は日常生活のなかでここぞという決断をしなければならない深刻な場面に出会うことがあります。死への存在とは、その端的な状況設定であると捉えましょう。例えば、受験、就職、結婚。これらに直面したならば、多かれ少なかれ必ず不安がつきまとう。そのとき、その不安から逃げ出し、一時の快楽や気晴らしに耽ってはいけないのです。ハイデッガーが唱えるあるべき人間とは、どんなときにも、本来の自分を失わない存在です。明日死ぬかも知れない。だとすれば今日をどう生きるか。この今このチャンスは一度だけ。とすればここで自己のベストを発揮しないでどうするか。今為すべきことをする。悔いを残さない。できる限りのことをする。「現存在」とはそのような生き方です。ハイデッガーが説くような生き方があることは、当然、生徒たちにも教えるべきでしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第81号、平成26年2月7日.
ヤスパース K=Jaspers 第79号に同じ。
ヤスパースの妻ゲルトルートは友人の妹であり、二人は生涯仲睦まじい夫婦であった。彼女はユダヤ人であり、ナチスが政権を握ると、ヤスパースは彼女との離婚を迫られ、拒否したため大学教授を免職された。ナチスの追及は厳しく、ゲルトルートは強制収容所に移送されそうになるが、ヤスパースはたった二人で自宅に立てこもり、かろうじて難を逃れる。しかし、ついにはヤスパースも妻と共に強制移送されることになった。その日が数十日前に近づいた1945年3月、ヤスパース夫妻が住むハイデルベルクがアメリカ軍により占領され、二人は助かった。ドイツ敗戦後、ヤスパースはこのときのことを「自国の政府により殺される私たちは敵国の軍隊によって救われた」と皮肉な運命を語っている。この体験がその後の彼の思想形成に大きな影響を与え、彼の実存哲学は歴史哲学と政治哲学の傾向が強くなり、ナチス批判に加え、ナチスを歓喜の中で迎えた、ファシズムに傾いたドイツ国民を冷静に断罪した。
ヤスパースは、私たちは至るところで限界状況に囲まれ、限界状況に直面したときに、ありのままの自分の姿が見え、自己の有限性や無力さに気づくと言います。問題はそこからです。自己の有限性や無力さ、あるいは罪深さを知ったとき、何を思い、何をするのか。ここで自分としての真の存在すなわち実存が開かれるというのです。ヤスパースはそのときに、世界と自己のすべてを支え、包み込む包括者に出会うとします。包括者はしばしば超越者(神)と同じ意味でとらえられているのですが、ヤスパースの説く包括者には、自己の外にある「存在そのものである包括者」と自己の内にある「我々がそれである包括者」とがあり、前者は世界(自然)と超越者(神)、後者は現存在(日常的存在)、意識一般、精神、実存(真の内面的自己)に分かれ、それぞれの最終段階が超越者と実存であり、自己の内に実存に達したものが存在そのもである超越者に出会うのです。
実存を自覚したものは超越者との出会いとともに、実存を自覚した他者とも出会います。孤独、不安、絶望のなかで実存を自覚したものは互いを高め合う「実存的交わり」を他者と結ぼうとします。「実存的交わり」とは真の自己を求める人格が相互に求め合う交わりのことです。この交わりこそがすべての真理を真理たらしめるものであり、信頼を信頼たらしめるものです。
今回紹介した一文は、大戦後、ヤスパースがスイスで行ったラジオ講座をまとめた『哲学入門』からのもので、次のように記されています。「今日までの歴史においては、…人間と人間との自明な結合が存在していたのであります。孤独な人間でさえもなお、彼の孤独においていわば支えられていたのです。ところが今日では、人々は益々お互いを理解し合わなくなってゆき、… 崩壊が最もよく感知されるのであります。…しかし、私は他者とともにのみ存在します。ただ一人だけでは私は無であります」。
当然のことながら、他者がいなければ自己はいません。自分という存在は他者がいてこそのことであって、もっと正確に言うと、他者が認めてくれなければ、自己は存在しないのです。ここで注目すべきは、ヤスパースによれば自己と他者とを繋ぐのは交わりであり、その交わりを成り立たせるのは互いの理性であるということです。したがって、これは遊び仲間の気晴らしや表面的な友好ではない。あるときは厳しく、あるときは苦しいもので、闘争とよばれることさえある。しかし、その背後には普遍的な、正真正銘の愛がある。これをヤスパースは「愛のともなった闘争」と呼んだのです。
「類は友をよぶ」という格言があります。英語では“Birds of a feather flock together.”(同じ羽の鳥は集まる)と言うそうですが、よい意味にも悪い意味にも使われるようです。そこで、『易経』からの「子曰わく、同声相応じ、同気相求む。」ではいかがでしょうか。志を同じくするもの、その道のりは険しく遠い。不安になる、孤独になる。そこでどんな自分と向き合うか。どんな友と出会うか。そこでの互いの成長を教えることも私たちの使命でしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第80号、平成26年1月30日.
ヤスパース K=Jaspers
ドイツの哲学者。1883~1969。ドイツ北西部オルテンブルクの銀行家の家に生まれ、自由と教養を重んじる家庭環境で育った。18歳でハイデルベルク大学とミュンヘン大学で、はじめ法学を学ぶが、翌年医学部に移り、ベルリン大学などで精神病理学を研究し,33歳で、ハイデルベルク大学の助教授に就任し、その後、M=ウェーバーの影響を受け、哲学を専門とし、38歳で同大学教授となった。また、同世代のハイデッガーと交流をもち、互いに思索を深め高めた。しかし、その頃からナチスが台頭し、ユダヤ人を妻にもつヤスパースは妻との離婚を勧告され、固辞したため大学教授を免職され、不遇の日々をおくった。戦後はスイスに移住し、バーゼル大学で研究を続け、自己の実存哲学を確立した。主著『世界観の心理学』『哲学』『理性と実存』など。
*M=ウェーバー(1864~1920)
ドイツの社会学者。現代社会学の基礎をつくった人物。社会科学の方法として理念型(複雑で多様な事象のなかから本質的に認識すべきものを選び出して統一的な思想像を構成する)と没価値性(社会科学も自然科学と同 じく客観性をもつために価値判断を離れて中立的に事象を判断する)を提唱した。また、資本主義の精神がプロテスタントの倫理に基づいていることや近代社会の組織原理が官僚制であることを論じたことでも有名である。主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『経済と社会』など。
*ハイデッガー(1889~1976)
ドイツの哲学者。哲学史においてはヤスパースとともに実存哲学に位置づけられている。ドイツ南西部のメスキルヒに牧師の子として生まれる。フライブルク大学で神学、哲学を学び、存在そのものについて研究し、20世紀最大の哲学者と評価される。主著『存在と時間』など。
*キルケゴール(1813~55) 第60~62号参照。
*ニーチェ(1844~1900) 第63~65号参照。
20世紀を代表する思想はマルクス主義と実存主義でした。前者は元来が、政治経済思想で、それを奉じたソ連が社会主義国家の盟主として、アメリカとの冷戦構造をつくっていましたから、社会的国際的にも大きな影響を与えていました。一方の実存主義は19世紀にキルケゴールやニーチェなどにより、自己の個性や独自性を強調した内面性の強い思想です。ヤスパースはその実存主義(実存哲学)の旗手を辞任した人物でした。
ヤスパースによれば、私たちは日常生活の至るところで、限界状況に囲まれています。限界状況とは具体的には死・苦悩・闘争・責罪など人間の力では解明も克服もできない状況のことです。確かに、私たちは生まれたからには死がまっているのであり、生きているかぎり、何かしらの苦しみや悩みがあり、争いごともあります。争いが国家間民族間になれば戦争や紛争とよばれ、同一国家、同一民族にあっては内戦、内紛とよばれます。難しいのは責罪ですが、犯罪を犯したり、意図的に悪いことをするほかに、つい出来心で不正をしたり嘘をついてしまうことがあります。また、人間は自分が意図する意識するにかかわらず、心ならずも誰かを傷つけていたり、不快な思いをさせていることがあります。それらの根底にあるのが責罪です。
こうしてみると、限界状況は哲学者や思想家が問題にする特別な事柄ではないことが分かります。そこで、大切なことは限界状況に直面した場合、どのように対処するかです。ヤスパースは、人間は限界状況のなかで、はじめて本来の自分に気づくと言いました。仕事も人間関係も順調、経済的にも心配はない。そのような状況では思いもしなかった自分の本当の姿が、病気や死を覚悟したとき、あるいは不慮の事故に遭遇したり思いがけない不運に見舞われた場合に自分の本当の人格が表れのです。ヤスパースによれば、私たちは、そこで自分の無力さや限界を知るのです。つまり、限界状況により自分自身を知り、しっかりと向き合うことができる。毎日の生活然り、部活動然り、受験また然りです。
親というものは、自分の子どもに苦労をさせたくありません。困難な状況にもおきたくありません。しかし、人間は生きている限り、いつかどこかで必ず壁に突き当たるものです。それを本当の自分を知り、自分と向き合い、自分を向上させる基点となることを伝えるのが本当の親というものです。勿論、教師はそのことを冷静に、客観的に教える存在でなくてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第79号、平成26年1月24日.
デューイ J=Dewey
アメリカの哲学者、教育学者。1859~1952。アメリカのバーモント州の食料品店経営者の家庭に生まれる。バーモント大学に進学してダーウィンの進化論の影響を強く受ける。卒業後はペンシルベニアで高校教師を務める一方、哲学を学んだ。心理学、倫理学、教育学などを広く研究し、一時期はヘーゲル哲学に傾倒するが、W=ジェームズの心理学の影響を受け、プラグマティズムの思想家としての方向性を定め、35歳でシカゴ大学主任教授となり、37歳の時、教育実験学校を開設した。その後、コロンビア大学哲学教授となり、民主主義社会における哲学と教育を唱える。1919年、60歳の時、中国と日本を訪れ、講演し、大正デモクラシーに沸き立つ日本の思想界にも影響を与えた。主著『哲学の改造』『学校と社会』『民主主義の教育』など。
*ダーウィン(1809~89)
イギリスの生物学者。測量船ビーグル号に乗り込み、5年間南アメリカ、ガラパゴス諸島、オーストラリア、ニュージーランドの自然環境、生活風俗を観察・研究し、帰国後、「自然淘汰=適者生存」の仮説を立て、生物は個別に創造されたのではなく、他の種から進化したという生物進化論を提唱した。主著『種の起源』。
*ヘーゲル(1770~1830)ドイツの哲学者。第48~50号参照。
*W=ジェームズ(1842~1910)
アメリカの哲学者、心理学者。ハーバード大学の教授として、心理学と哲学を担当し、真理の基準は実用性にあるというプラグマティズムを確立した。主著『プラグマティズム』。
17世紀の初頭、イギリス本国からピューリタン(プロテスタントのカルヴァン派)の人々が移住して以来、アメリカ人の気質として知られているのが勇気と行動力を源としたフロンティア精神でした。その精神とイギリスの伝統的な経験主義や功利主義、さらに進化論の影響を受けて形成されたのがプラグマティズムです。プラグマとはギリシャ語で行為、行動を意味し、行動主義とか実用主義と訳されます。これは哲学や思想と言うよりも、その日常的現実的性格から生活信条と解釈した方がよいと私は思っています。『プラグマティズム』の著者W=ジェームズによれば、知識は行動の過程で検証され、有用とされれば真理であり、宗教も現実生活に役立つのであれば真理であり、神も存在すると説くものでした。つまり、徹底した現実主義、実用主義の立場です。
プラグマティズムの完成者とされるのが、今回紹介するデューイです。彼は93年という、当時としては驚異的な長寿で、1919年、60歳にして来日し、当時の知識人に大きな影響を与えました。それどころか、第二次世界大戦後の日本の教育はアメリカの民主主義教育を理想として構築されたのですが、それはデューイの教育学を基礎とし、「学校は社会である」ということばは今日でも、学校教育における基本的理念の一つとなっています。 私たちは学校で何を学び、何を身につけるのか。いつも言っていることですが、勿論、その第一は学力、自分が目的とする大学や就職先に入るための、さらには社会人としてふさわしい知識や見識をもつことです。次には各自の個性や特性を活かしそれぞれの才能や特技を伸ばすことで、部活動などはそのためにあります。そして三つが、「学校は社会」すなわち社会性・公共性の習得です。学校は小さな社会、というよりもあらゆる社会のモデルであり、法や制度により秩序が保たれ、組織により運営されている民主主義社会にあっては、学校もその理念を実現するものでなくてはなりません。
我が国ではバブル経済崩壊後、以前にも増して国民の政治的無関心、あるいは公共性・規範意識の欠如が問題となっています。そこで、あり方生き方教育、キャリア教育最近では「市民性(シティズン・シップ)教育」などが唱えられています。それを学校で行うというのは、そもそもがデューイの教育観からきているのです。体験重視や問題解決学習などもデューイの教育方針ですが、その一方で、彼は知性の大切さも説いています。しかもその知性は、知識や学説を基にさらなる発展をめざす「創造的知性」と呼ばれるものです。市民性教育などは今後、学校教育で取り上げられることと思いますが、「市民(シティズン)」とは何かをしっかり、把握しなければなりません。特に留意すべきはこの十年ほどのイギリスの「市民性教育」の背後にある伝統的歴史的市民意識についての認識です。ロンドンのシティに住む人々は経済力はある。しかし、王侯・貴族やその他の旧勢力に負けずに、社会を変革し、政治や外交の担い手となるためには、知識や見識そして他者への優しさや思いやり、つまりジェントルマン・シップが求められた。近代市民社会におけるこのような「市民」について正しく理解することが大切です。究極のところ、やはり、知性と教養を身につけるのが教育の本流であると私は思うのですが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第78号、平成26年1月17日.
シェンキェヴィッチ H=Sienkiewicz
ポーランドの小説家。1846~1916。ロシア占領下のポーランドの小貴族の子に生まれ、早くから作家活動に入り、写実的な長編小説を多く書き、歴史小説、愛国小説を本領とした国民的小説家。特に、ローマ皇帝ネロのキリスト教徒の大迫害と殉教を描いた『クォ・ヴァディス』により世界的名声を得、1905年、ノーベル文学賞を受けた。第一次世界大戦中、難民の救済活動に従事するが、祖国独立を目前にしてスイスで客死した。
*ネロ(37~68・在位54~68)
ローマ皇帝。治世の就任当初はセネカ(博学多才にして政治的力量をもった哲学者。ネロの家庭教師、政治顧問を務めるが、晩年はネロの暴政を𠮟責し政界を退いたが、ネロ追放計画に荷担したとされ、自殺した。)らの補佐により帝国の繁栄の基礎となる善政を行ったが、母親との確執や妻との不仲など私生活の不安定さから異常な行動をとり、特にキリスト教徒迫害により、史上最悪の暴君と言われている。その一方で、周辺諸国からは名君と讃えられ、ローマ市民からも慕われていたという記録も残っている。
*ペテロ(?~64?AD)
初期キリスト教の中心人物。十二使徒のひとりで筆頭弟子ともいうべき人物。イエスが逮捕されたときは、3度もイエスを知らないと言った「弱きペテロ」であったが、イエスの死後、エルサレム教会の指導者として伝道し、ローマで殉教した。カトリックでは彼を初代ローマ教皇(法王)としている。
シェンキェヴィッチはロシア占領下のポーランドに生まれました。この国は東ヨーロッパ平原の南西にあり、広大な平野に恵まれていたため、ローマ時代から常に外敵からの侵入という悲劇にみまわれるという悲運の歴史をもっています。シェンキェヴィッチの代表作『クォ・ヴァディス』は帝政ローマの迫害に耐え最後に勝利したキリスト教徒の姿を通して、当時独立を失い、失意のどん底にあった祖国の人々を励ます目的で書かれたといわれています。作品のアウトラインを簡単に記しましょう。
退廃的な宮廷生活をおくり、あらゆる享楽を尽くしたネロは新たな興趣のために、ローマに火を放ち、それをキリスト教徒のせいにして大迫害を行なう。しかし、愛を支えとする彼らは屈せず、ネロは軍にも背かれ、自殺する。その間、物語は理想のヒロイン・リギアと初めは彼女への肉欲だけが目的であったが後にキリスト教に回心し、真の愛に目覚めていく青年貴族・ヴィニキウスの恋愛を中心に展開し、最後は窮地に陥ったリギアが奇跡的に救われ、二人がローマを離れ新しい旅立ちをするところで終わる。ちなみに、『クォ・ヴァディス』は1952年に映画化されています。監督はヴィヴィアン・リー主演の『哀愁』やグリア・ガースン主演の『心の旅路』などの名匠マービン・ルロイ、配役はヴィニキウスにロバート・テーラー、リギアにデボラ・カーという古き良きハリウッドを代表する美男美女スターで、これぞハリウッド史劇という作品でした。
上記のことばは題名の由来となったもので「主よいずくに行き給う」の意味で、それはイエス=キリストの直弟子ペテロのエピソードに由来します。イエスの死後、弟子たちのリーダーとなったペテロは布教のためローマに行きました。しかし、ネロの大迫害に地獄絵となったローマを見て、たまらず逃げ出し、イスラエルに戻ろうとします。すると、向こうからどこかで見た人が来る。すれ違いざま、ペテロはその人がイエスであることに気付き、「クォ・ヴァディス・ドミネ」と叫びました。すると、イエスは「おまえが捨てたローマへ」と答えたのです。「おまえがローマの民を捨てるのなら、私が行って再び十字架にかかる」というのがイエスの真意でした。そのことばにより我に返ったペテロはローマに戻り、逆十字架刑で殉教しました。伝承では、その地にローマ=カトリックの総本山サン・ピエトロ寺院が建てられました。
ペテロが復活したイエスに出会ったというのは勿論、象徴的な表現です。その真意を探りましょう。この人のことを思い出せば、弱い自分が強くなれる、情けない自分が逞しくなれる、過ちを犯さないですませられる、自分のよいところが出せるようになる。それが信頼される人、尊敬される人なのです。イエス=キリストに並ぶべくもありませんが、「あの先生のことを思い出せば、自分は大丈夫だ」、そんな思いを抱かせる教師になりたいものです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第77号、平成25年12月20日.
メ ー テ ル リ ン ク M=Marterlinck
ベルギーの詩人、作家、哲学者。1862~1949。ベルギーの富裕なカトリック教徒の家に生まれる。初め、法律家であったが、のち、パリに遊学し、象徴主義の詩人たちの影響を受け、自らも神秘的象徴的傾向の詩をつくった。さらに、小説、評論も手がけ、1911年にノーベル文学賞を受賞する。1919年に結婚し、アメリカに渡り、作家活動を続けるが、その後フランスに移り、ベルギー国王から伯爵位を受けた。第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス、ベルギー侵攻を逃れ、ポルトガルのリスボンに渡り、さらにアメリカに亡命し、戦後フランスに戻り、ニースで死去した。代表作『青い鳥』は古今東西の子どもとおとなに与えられる名作である。
*象徴主義
19世紀後半にフランスで起こった文芸思潮。自然主義に反対して、事実をありのままに描かず、理想世界を喚起し、象徴による内容表現をとった。代表的詩人にはボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボー、イギリスのオスカー=ワイルドなどがいる。
*イソップ(アイソポス・620?~560?BC)
古代ギリシャの童話・寓話作家。『イソップ物語』の作者。
*アンデルセン(1805~75)
デンマークの童話作家。代表作は『即興詩人』、『絵のない絵本』など。
*グリム兄弟・兄ヤコブ(1785~1863)、弟ウィルヘルム(1786~1865)
ドイツの言語学者、作家。『グリム童話』の作者でともにゲッチンゲン大学、ベルリン大学教授を歴任した。
*『星の王子さま』
フランスの小説家サン・テグジュペリ(1900~44)の名作。「大切なものは眼に見えない」「人は一度でも面倒をみたものには責任がある」など珠玉の名言がある。
メーテルリンクは多才な人物で、本業は弁護士で、爵位も与えられていました。哲学者でもあり、汎神論(世界や自然は神のあらわれであり、神的な生命のある統一体であるとする)の立場から神秘主義を説いています。今回も作品名を名言として紹介します。
『青い鳥』は少年少女向けに何度も映画化されたり、演劇やミュージカルでは頻繁に上演され、なかでも1976年のアメリカ映画はエリザベス・テーラーがお母さんと昼の女王の二役、ジェーン・フォンダが夜の女王役という豪華版で、記憶に残っている作品でした。
あらためて、簡単にプロットを記しましょう。
貧しい木こりの家の兄妹チルチルとミチルはクリスマス・イブの夜、夢をみる。魔法使いのお婆さんがやって来て、娘の病気を治してくれる幸せの青い鳥を探してくれよう頼んだのだ。二人は犬や猫、砂糖やミルクの精と一緒に“思い出の国”や“夜の御殿”“墓地”などを訪ね歩くが、青い鳥を見つけるがすぐに消えたり、死んでしまったりする。
クリスマスの朝、チルチルとミチルが見た現実はこれまでとは全く違う美しいものだった。一緒に冒険した犬や猫は友だちで、砂糖やミルクも大切な仲間。一晩の夢が二人を大きく成長させた。そこへ隣のお婆さんが病気の娘のために鳩を貸してくれと頼みに来た。何と自分の家に青い鳥はいたのである。娘の病気が治って、お婆さんが青い鳩を返しにきた時、鳥は飛んでいってしまった。
青い鳥は幸福の象徴であり、幸福とはささやかなもので日常生活の至る所にあるということを、他人を幸福にすることが、自分にとっての幸福で、それが真の幸福であるをこの童話は伝えています。そして、これはまた、子どもが青年へとなっていく物語でもあるのです。私個人としては、二人が“思い出の国”で、死んだお祖父さんとお祖母さんに会う場面に、印象深いものがありました。死者は生きている人が思い出してくれるとき眠りから覚めてよみがえるのです。
イソップをはじめアンデルセン、グリム兄弟の作品、また『星の王子さま』にしても、童話は子どものためのものであると同時に、それを読んで聞かせるおとなのためにあります。勿論、童話だけではありません。私たちが使っている教科書や教材も、生徒のためにあるとともに、教師がそこから学ぶためにあるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第76号、平成25年12月12日.
プ ル ー ス ト M=Proust
フランスの小説家。1871~1922。J=ジョイスとともに現代文学の祖とされている。パリ郊外で、医師の父、ユダヤ系の富豪の出身である母のもとで生まれた。経済的には恵まれ、若くして、社交界や文学サロンに出入りしていたが、生来病弱で終生病苦との戦いが続いた。パリ大学では法律を学んだが、在学中から文才を発揮し、卒業後、文学研究、評論活動、翻訳などをして、社交界や文芸サロンに参加した。30才を過ぎた頃、両親が相次いで他界し、それを機に、フランス文学、というよりも20世紀ヨーロッパ文学の最高峰とされる全7編からなる『失われた時を求めて』の執筆に着手した。作品は死後、出版された。
*J=ジョイス(1882~1941)
アイルランドの小説家。現代文学の創設者と評価されている。敬虔なカトリック信者の家に生まれ、ヨーロッパ各地を転々とし、晩年はパリで過ごした。ギリシャ古典の形式を枠組みとして各挿話ごとに文体を変化させ、意識の流れを綴る内的独白体を完成させた。代表作は『ユリシーズ』など。
「世界文学の傑作は?」と問われると、皆さんは何をあげるでしょうか。ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』、ゲーテの『ファウスト』、ユゴーの『レ・ミゼラブル』、スタンダールの『赤と黒』、トルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』、ディケンズの『二都物語』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、シェークスピアの一連の作品。映画ファンならM=ミッチェルの『風と共に去りぬ』やスタンベックの『エデンの東』でしょうか。それらに加えて、文学の専門家が推奨するのがプルーストの『失われた時を求めて』で、これは20世紀最大の傑作とされています。
今回は作品名をそのまま名言として紹介します。プルーストはこの一作に生涯を費やし、13年間、自室にこもり、病苦と戦いながら執筆した。作品の三分の一は死後に発表され、生前は草稿のみで終わっています。多様な読み方が可能な作品ですが、ストーリィの展開の面白さや主人公の人間的魅力で読者を引き付けるとはいいがたく、簡単に言うとわかりにくい作品で、私はこれほど難解な文学作品はないと思っています。読者が、作品を映像化し、絵画や映画など観ているようにすると分かりやすいかもしれません。
『失われた時を求めて』は、語り手である「私」が一杯の紅茶を口にして思い出した少年時代の回想から始まります。毎年休暇を過ごした田舎町にある二つの散歩道。一つはパリのブルジョワの別荘に向かう道で、その家には「私」の初恋の少女が住んでいた。もう一つは中世以来の名家の館に続く道で、「私」のあこがれはこの二つの道であった。世紀末から第一次世界大戦へと向かう時代を背景に、没落に向かう貴族社会とそれを見つめる「私」の記憶と意識を印象派の絵画のように描かれています。作品全体をつらぬくテーマは、「時」により失われた個人の人生をどのようにして真実のものとして捉えるか、です。その手がかりは「忘却」で、人は忘れることにより事柄を純粋に記憶できる。そして、偶然の出来事から潜在意識のなかに埋もれていた過去の思い出がよみがえるとき、自己の人生の真実が見えるとします。作品にある例をあげると、今、一口飲んだお茶の味から昔、祖母がいれてくれたお茶を思い出して、楽しい気分になり、子どもの頃の自分を思い出す。いわゆる、“ふと思い出す”というものです。なるほど、偶然が思い出させてくれたことのなかに、過去の人生の真実と歓喜があるかもしれません。『失われた時を求めて』は、現実とも幻想ともつかぬなかで、初恋の女性の娘と出会った「私」が少年時代のあこがれの二つの道が結び合わされ、時を超えた永遠の存在を知る、というところで終わります。
現代文学の祖として高い評価を得ているプルーストも、当初は『狭き門』の作者アンドレ=ジイドに酷評されたそうです。新しさはしばしば反感をもたらします。しかし、真に改革的なものは必ず伝統に根ざしているのであり、ジイドも後年は自己の過ちを謝罪しています。まさに「時」と「永遠」ですが、生徒たちには、時流に乗った一過性の話題作と眞の名作との違いを見極める目を養わせたいものです。そのためには、伝統と古典を学ばなくてはならない。これはそれほど難しいことではありません。まずは、現代文や古典の教科書に載っている作品、日本史や世界史に記されているものを読むことです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第75号、平成25年12月6日.
ロ ダ ン Rodin
フランスの彫刻家。1840~1917。写実主義を代表する芸術家で、ミケランジェロに強い影響を受け、近代彫刻を確立した。苦学して創作に励むものの、なかなか評価を得られずにいたが『青銅時代』を発表し、名声を得る。写実のなかに喜怒哀楽の感情、内面的生命の躍動を表現し、彫刻に絵画的美を醸し出したことも評価される。代表作は『考える人』『カレーの市民』など。
*ミケランジェロ(1475~1564)
レオナルド・ダ・ヴィンチとともにルネサンスを代表する芸術家。特に彫刻・壁画に優れ、『ピエタ』、『ダヴィデ像』システィナ礼拝堂の『天地創造』『最後の審判』など。
*高村光太郎(1883~1956)
彫刻家、詩人。高村光雲の子。東京美術学校(現東京芸大)を卒業後、フランス、アメリカに留学。ロダンに傾倒する。帰国後、彫刻家として活躍するとともに、文芸雑誌『すばる』『白樺』の同人となり、格調高い詩を発表した。詩集に『智恵子抄』がある。
*『12人の怒れる男』
1957年制作のアメリカ映画。監督S=ルメット、主演H=フォンダ。スラム街で起こった殺人事件で父殺しの容疑で裁判にかけられた少年をめぐる陪審員の物語。古き良きアメリカの正義を描く名作。出演したすべての俳優の名演技と12人が一室で演じるという舞台劇風の演出も見事である。
ロダンはルネサンス以降、最大の彫刻家といわれ、身近なところでは、NHKの番組終了の画面やCMでも登場する『考える人』の作者が彼です。ちなみに『考える人』は『地獄の門』というヨーロッパ伝統の“門”の装飾彫刻のひとつで、この門のなかに『三つの影』、『うずくまる』、『接吻』などがあります。『考える人』は門の上部中央にあり、放蕩と背徳、絶望の世界をみつめ、思索しているのです。ロダンはこの作品において、知的に挫折した人間の姿を表現したと言われています。しかしながら、ロダンははじめから天才として脚光を浴びた人物ではありません。国立の美術学校を受験しては何度も不合格となり、コンクールに出品してもさんざんな評価だったそうです。
上記のことばは彼から強い影響を受けた高村光太郎が翻訳した『続ロダンの言葉』からの一文であり、これに続いて「自分の感ずるところを表現するに決してためらうな。たとひ(え)、公定思想(高く評価されている伝統的な価値観や思想)と反対であることがわかった時でさえもである。おそらく、最初君たちは了解されまい。けれども一人ぼっちであることを恐れるな。友はやがて君たちの処へ来る。」と続いています。力強く、勇気を奮いたたせてくれる名言で、私個人としては大いに引用したいと思っています。こうした文章からロダンの並々ならぬ自信がうかがわれます。それは、真に自分と自分の人生を考え、悩み、迷ったすえに、やはり、この道以外にはないとの確信からきているのです。
芸術家の本分は真実を伝えることであると言われています。勿論、対象を単に正確に表現するという意味ではなく、内からの真実です。このことは芸術家にかぎらず、すべての人間は真実を語らなければなりません。教師は生徒や学生に、親はわが子に、先輩は後輩に、大人は子どもに真実を語らなければなりません。さらに、我々の一人ひとりが真実に従った生き方をしなければならないのです。そのときたとえ理解されなくても、自分がたった一人になっても真実を語り、実践する勇気をもたなくてはならないのです。孟子曰く「自ら省みて、直くんば、千万人と雖も吾行かん」。『12人の怒れる男』というアメリカ映画がありました。陪審員としてたった一人で他の十一人を説得して、無実の少年を救うという物語です。
真実を求め、真実と向き合うことは私たちに大きな試練を与えます。そして、真実を知るためには、その力をもつためには、確かな学力を身につけなければならず、若いうちにはひたすら勉学に励むことが大切なのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第74号、平成25年11月29日.
バ ル ビ ュ ス Barbusse
フランスの詩人・小説家。1873~1935。第一次世界大戦前後に反戦的・人道主義的な作品を書いて有名になり、その後、平和運動、社会改革実践運動を行った。さらには共産主義に身を投じ、フランス共産党に入り、ソ連訪問中に病死した。代表作は『地獄』『砲火』など。
*ドストエフスキー ロシアの文豪。第66~67号参照。
*『友情』
白樺派の代表的作家である武者小路実篤(1885~1976)の青春小説。友情と恋愛をテーマとした名作。
*『破戒』
島崎藤村(1872~1943)の代表作。我が国における自然主義文学の先駆的作品で、部落民問題を背景に近 代日本人の自我の確立をテーマとする。
*『車輪の下』
ドイツのノーベル賞作家H=ヘッセ(1877~1962)の代表作。ヘッセ自身の自伝的小説で大人や社会との相 克の中で苦悩する青年期の心理を描いた不朽の名作。
*ゲーテ ドイツの文豪。第38~41号参照。
バルビュスは日本ではあまり有名ではなく、また、ソ連が崩壊して共産主義が思想的にも経済的にも過去のものとなってしまったので、今後もさして注目されることのない人物かもしれませんが、残したことばが至言であるため、あえて紹介しました。これは『地獄』からの一文であり、ここでいう苦しみを、単なる不運や不遇、具体的には貧困やその他の境遇による苦悩に限定してはいけません。たしかに、それらも苦しみには違いない。と言うよりも、最も分かりやすい苦しみかもしれません。しかし、幸福が究極には心のあり方に帰すると同じく、苦しみもまた、内面の問題なのです。したがって、幸福が各人各様であるのと同じく、苦しみも個人によって異なっています。では、苦しみとは何か。
私は端的にいって、苦しみとは自分が自分らしく生きられない、生きていない、あるいは行動できない、行動していないことから生じるものではないかと思っています。大学受験に失敗したことも、会社や人間関係への不満も、失恋もこの一点からきているはずです。
「一般的にいって、苦しみと悩みは、偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、常に必然的なものである」。これはドストエフスキーのことばですが、、その人間が高い精神をもっていれば、必ず苦しみが付きまとうのです。いわゆる、挫折や絶望です。そして、その克服の充実感や満足感が真の幸福なのでしょう。何に苦しむか、悩むか、どれほど深く苦しめるか悩めるか。それがその人間の価値とレベルを決定します。『若きウェルテルの悩み』や『友情』から恋の悩みを知り、『破戒』や『車輪の下』から自我の確立や生きることの難しさを学ぶ。そして、「人間は努力するかぎり迷うものだ。」というゲーテのことばをかみしめる。反論を承知で述べますが、学業への専念、教養への関心、そして自己実現への意欲は内面的苦悩を克服する大きな要因であると私は思います。
現代の高校生は総じて自分の学校生活に満足している生徒が多い。それは最近の学校教育が個々人の満足度を重視しているからですが、教育は一般企業におけるサービスの提供ではなく、生徒や保護者はいわゆる顧客ではありません。教育のめざすところは、ただ満足していればよいというものではないのです。教師は生徒の友だちではなく先生です。親も子どもの友だちではなく、父であり母なのです。教師は生徒にとって物わかりのよい気楽な存在であってはなりません。ときには彼らの壁となり、場合によっては難題を与える存在でなければならないのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第73号、平成25年11月22日.
O= ヘ ン リ ー O=Henry
アメリカの小説家。1862~1910。本名はウィリアム=シドニー=ポータ-。ノースカロライナで生まれ、4才で母と死別し、叔父叔母のもとを転々とし、15才で店員となり、様々な職業を転々とする。テキサスで牧場で働いたのち、銀行員となって安定した生活をするかに見えたが、横領の疑いで逮捕され、3年余の刑務所暮らしをする。その間、獄中で短篇小説を書き、出所後、ニューヨークに出て、人気作家となる。しかし、多作と飲酒が原因で10年余りの活動の後、死去。彼の作風はユーモアに富み文体は平易で、巧妙なプロットと意外な落ちを特徴としている。代表作は『最後の一葉』『賢者の贈りもの』『よみがえった改心』など。第71号の脚注でも紹介した。
“アメリカのモーパッサン”と呼ばれる短篇の才人、O=ヘンリーは獄中作家で自己の感性のみで大成した人物でした。10年間に創作した短篇は約280という大変な数で、その功績を讃えたO・ヘンリー賞はアメリカの短篇小説家の最高の賞で、新人の登竜門。我が国で言えば芥川賞のようなものとなっています。
彼はテキサスの銀行に勤めていた25才のとき結婚して、本業のほかに本名のポーターの名で、フリーのライターとして投稿したり、自分で雑誌をつくったりしていました。その後、新聞社の専属記者兼コラムニストとなり、銀行員との兼業をしていましたが、34才のとき、横領の罪で告発され、逃亡してニューオリンズに移ります。横領について、彼は無実を主張し、現在に至るまで真相は不明ですが、近年の研究では、どうやら業務上の不手際であったようです。逃亡生活を続けていた彼は、妻の重病を聞きつけ、テキサスに戻り、彼女の死後、オハイオのコロンバスで逮捕されました。しかし、この一連の不運が小説家としての彼を大きく成長させることになります。釈放後、ニューヨークに移り、O=ヘンリーの名で次々とすぐれた短編小説を発表、作品集として出版し一躍人気作家となったのです。
さて、上記のことばは彼の代表作の題名そのままであるが、さわやかな感動を与える名作であるので、簡単に紹介しましょう。
善人で真面目に働いているが、貧しい若い夫婦がいた。二人にはそれぞれ大切な宝物があった。夫には金の時計。ただしそれをさげる鎖がない。妻には長い美しい髪。しかし、それをけずる櫛がない。愛し合っている二人はお互いに、宝を引き立たせるものを贈ろうと考えていた。妻は夫に金の鎖を夫は妻に綺麗な櫛をと。クリスマスが近づいた。二人は意を決して宝物をお金に換えた。妻は自慢の長い髪を売り、夫は時計を売り、それぞれ、金の鎖と綺麗な櫛を買った。クリスマスイブの晩、妻はプレゼントを用意して夫の帰りを待ち、夫はプレゼントを片手に息をきらせて急いで家に駆け込んだ。妻の髪は短く刈られており、夫のポケットには時計がない。二人の贈り物は結局は役に立たずに終わってしまった。しかし、二人は互いの愛を今まで以上に確かめ合うことができた。
「賢者の贈りもの」とは、キリスト教では「愛するもののために、無私の精神をもって贈る、あるいは交換する贈りもの、それによって物質を超えた至高の愛が確かめられるような贈りもの」のこと、つまりは、こころの優しさ、あたたかさです。O=ヘンリーには全く異なる傾向の作品もありますが、一貫しているのは当時のニューヨークの名もない庶民を主人公としている点です。『賢者の贈りもの』の若い夫婦や『最後の一葉』で病気の女学生を励ますため、自分の命を捨てて生涯唯一の傑作である蔦の“一葉”を描いた老画家のの姿に彼のメッセージがあります。
私は教師たるもの、つとめて美しいこと、きれいなこと、正しいことを説かなければならないと思っています。人間というものは悪いこと、醜いこと、卑怯なことをいつの間にかおぼえてしまう本性をもっています。世間は厳しい。世の中には不正や醜悪なことがたくさんある。だからこそ、学校だけが、教師だけが語り続けなければならない美しいこと、きれいなこと、正しいことがあるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』第72号」平成25年11月15日.
ホ イ ッ ト マ ン W=Whitman
アメリカの詩人。1819~92。アメリカの国民的大詩人で、アメリカロマン主義の代表者。ニューヨーク州のロングアイランドに生まれ、学校教育は小学校しか受けていない。印刷職人、大工、小学校教師を経て詩人となる。また、志願看護兵として南北戦争に従軍した。戦後は内務省の役人の任にあったが、病気のため退職する。その生涯は不遇であったが、自我の主張平等主義、民主主義、同胞愛などの精神に基づいた作品を残した。代表作は『草の葉』など。
*O=ヘンリー(1862~1910)
アメリカの小説家。様々な職業を転々とし銀行員になったが、横領の疑いで逮捕され、3年余の刑務所暮らしをする。その間、獄中で短篇小説を書き、出所後、ニューヨークに出て人気作家となる。作風はユーモアに富み人間愛に満ち、文体は平易で、巧妙なプロットと意外な落ちを特徴としている。代表作は『最後の一葉』『賢者の贈りもの』など。
*『シェーン』
1953年制作のアメリカ映画。監督J=スティーブンス。主演アラン=ラッド。西部劇の名作。ガンプレイや決闘場面の迫力だけでなく大自然の美しさと人間愛・家族愛を描くとともに、南北戦争中に成立したホームステッド法(公有地で5年間定住した者には無償で土地を与える自営農地法)を時代背景とした西部開拓史ドラマ。
*武者小路実篤 第69号脚注参照。
*太宰治(1909~1948)
昭和前期の小説家。広い教養に裏付けられ、かつ独特の感性とエスプリで、文壇史上特異な多くの名作を書いた。その一方で、私生活は放蕩憂愁で、苦悩の果てに自殺した。 代表作は『富嶽百景』『斜陽』『人間失格』など。
ヨーロッパがニーチェやドストエフスキーらによって、ニヒリズムの到来と精神的・政治的危機意識のなかでの実存主義の時代をむかえていたのに対し、アメリカはホイットマンやO=ヘンリーらがアメリカン・ヒューマニズムともいうべき人道主義的な作品を描いていました。19世紀のアメリカは第二次アメリカ市民革命ともいうべき南北戦争(1861~65)があり、その復興と新たな国家理念の形成に国民全体が燃えており、また、西部においては、名作西部劇『シェーン』にみられるような、土地をめぐる牧畜業者などの先住開拓民と開拓農民との対立など、ニヒリズムどころの騒ぎではなかったようです。
ホイットマンはアメリカ固有の明るさ、正義感をキリスト教精神に基づいて気高く、雄々しく謳いあげました。武者小路実篤は自身の代表作『友情』のテーマについて、「ホイットマンのまねをして結婚したものも万歳、失恋したものも万歳と述べた」と語っていますが、それほどに日本でも明治・大正期の文学者、小説家たちに大きな影響を与えました。
さて、上記のことばですが、この後に「人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。」と続きます。まさに名言中の名言で、いつの時代にもどこの国でも、広く多くの人々に伝えたいことばのひとつです。のどが渇いている時ほど水がうまく感じ、空腹の時の食事はどんなご馳走よりもおいしい。また、病気になった時にこそ健康のありがたさを知るものです。同様に、太陽の暖かさは寒さに震えた人ほど強く感じ、人生の苦悩を知る者ほど生命の価値と他人への思いやりを持つものです。
太宰治は『人間失格』の中で「やさしい人とは憂いを知っている人」と述べました。悲しみや苦しみを知っているから他人に優しくなれる。努力し、挫折し、幾多の試練を味わった人こそ他人の立場が分かる。初めから才能やセンスの良さで出来た人と努力に努力を重ねて出来るようになった人。達成感や満足感がどちらの方がより強く感じているかは明白です。
私たち教育者は、何かが出来なくて苦しんでいる人、自分の才能や学力に自信をなくしている人、他人から認められなくて不満に思っている人に、その苦しみが感謝と思いやりの心をつくり、真実を観る力を養い、自己を向上させるということを、いつも伝えなくてはなりません。
矢倉芳則「 校長通信『地平遙かに』第71号、平成25年11月8日.
バ ル ザ ッ ク H=Balzac
フランスの小説家。1799~1850。モーパッサン、ゾラとともにフランス自然主義の代表的人物で、彼自身は写実主義から自然主義への過渡期に位置する。富裕な官吏の子に生まれ、法律事務所に勤務するが、事業を志し様々な職種に就く。しかし、いずれも失敗して、文学の道に入った。その経験が功を奏して、彼の題材はフランス全土にわたる政治的・経済的・社会的・風俗的あらゆる分野におよび登場人物も多彩であった。代表作は『谷間の百合』『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』など。
*モーパッサン(1850~93)
フランスの小説家。代表作は『女の一生』など。
*ゾラ(1840~1902)
フランスの小説家。生理学の成果を取り入れて、決定論的に人間を分析し、遺伝と環境のもとにある人間を描こうとした。代表作は『居酒屋』『ナナ』など。
*写実主義
社会と人間の有り様をありのままに、個人的な主観や感情よりも客観的な表現を主とする。バルザックのほか、スタンダール、フローベルらがいる。
*自然主義
リアリズム。社会と人間の現実をありのままに直視するとともに現実社会の矛盾をとらえて、批判的に表現する立場。ゾラ、モーパッサンのほか、ロシアのツルゲーネフ、トルストイらがいる。
「ビアン=ション!ビアン=ション!あいつを呼んでくれ、あいつがいれば助かる」。バルザック臨終のときのことばとして伝えられています。ビアン=ションとは実在の人物ではなく、彼の作品『人間喜劇』に登場する医者、つまり、バルザックの創作上の人物でした。死の床にあって自らがつくりあげた医者に助けを求めるとはあきれるほどの作家魂です。作中人物の人格はときとして作者の意志に関わりなく自己発展するもののようです。 シェークスピアの作中人物は、その作品の傾向自体から言えることですが、まるで実在の人物のような迫力をもち、作者の方が作品の人物に操られているのではないかという気にさえさせます。ゲーテの『ファウスト』の主人公ファウストも第1部から第2部に移るにつれて、人物の自己発展に作者が物語の展開を合わせたかのようであり、『源氏物語』の主人公たちにも同じようなことが言えます。
紹介したことばが記されている『ゴリオ爺さん』の主人公は、二人の娘のために財産を使いはたし、自分は安下宿で極貧の暮らしている老人と、同じ下宿に住み、巧みに世渡りをして立身出世を夢見る貧乏貴族の若者です。老人は百万長者であったが、娘たちを貴族に嫁がせたためほとんど無一文になり、なおも父にわがまま放題の娘たちに盲目的な愛を注ぎ、僅かに残った金すら使いはたします。娘たちは感謝するわけでもなく、病身の父の世話はおろか、見舞いにすら来ない。貧乏貴族の若者は、仕方なく、老人を看取り、葬儀を行い、パリの街に向かって「さあ、勝負だ」と出世を誓う。名作であるには違いないのですが、何とも複雑な後味を残す作品でした。
このことばは、愛を高みに登ること、憎しみを坂を下ることに喩えて、さすがに適切な表現です。高いところに登ると休みたくなる。それはまた、余裕であり、高いところに立つと周囲を広く見渡せる。しかし、登るまでは辛く、苦しい。愛とはそのようなものです。一方、坂道を下るのは楽で、自然に足が進む。しかし、あまりに急な坂は危険で、ひとつ足を踏み外すと、怪我をし、ときには生命を落とす。憎しみも同様です。憎しみは激しいエネルギーを生み、強固な意志をつくりますが、過度の憎しみはさらなる憎しみを生み、他人を傷つけるだけでなく、自己を損ない、失い、破滅させます。
ついでながら、憎しみや怒りをもたない人はいませんし、場合によってはもたざるをえないこともありますが、人間関係において明らかに相手より上位ある者や責任ある立場にある者はその表現に気をつけなければなりません。怒鳴り散らしたり、他人や物に当たり散らしてはいけません。恫喝や脅迫はもってのほかです。それが品位というであり、勿論、校長にもそれが強く求められるのは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第70号,平成25年11月1日.
ト ル ス ト イ L=N=Tolstoi 第68号に同じ。
トルストイは16歳のとき、大学に入学するが、当時のロシアの大学は彼の期待を裏切り、2年足らずで中退し、モスクワから遠く南に離れた自家の領地に引きこもって、農業改革を試みた。しかし、大失敗して、失意のなか、放蕩無頼の生活をおくり、兄によりそこから救われた。兄はトルストイをコーカサスに連れて行き、そこで美しく雄大な自然にふれ、立ち直った、それからは軍人として務める一方、小説を書き、新進気鋭の作家として高い評価を得た。28歳で軍隊をやめ、翌年のヨーロッパ旅行で、ギロチンによる死刑執行を見て、彼は西欧文化とその精神に絶望する。帰国後、34歳で16歳年下のソフィアと結婚し、やがて、神の存在や人生の意義について悩み、宗教に救いを求めた。晩年は近代西洋文明を批判し、無政府主義を説くが、現実と理想との矛盾に苦しんだ。なお、トルストイは近代日本の文学者たちのも大きな影響を与え、特に白樺派の武者小路実篤は、彼の影響を受けて「新しき村」の建設に取り組んだ。
*白樺派
明治末から大正期にかけて文芸雑誌『白樺』に参加した文学者・作家のグループ。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎ら学習院出身者を中心とし、個性の尊重や自我の確立、生命の躍動を謳いを人道主義、理想主義を掲げた。
*武者小路実篤(1885~1976)
白樺派の理論的指導者で代表的小説家、随筆家。トルストイに傾倒し、封建的因習を批判し、人道的・理想主義的な作品を描いた。また、その実践の場として宮崎県に共同農場「新しき村」を建設した。画家としても高名。代表作は『友情』『その妹』『お目出たき人』など。
「人の一生はしばしば、川に喩えられます。山の奥深くからわき出た一滴の水が、小さな流れとなり、しだいに勢いを強め、水かさを増し、谷を抜け、平野にたどり着き、やがて大きな河口をつくり、静かに海へと入る。流れが川そのものであるように、人のありようがその人自身をつくるということです。そして、それぞれに、人生の歩みと目的があるように、学校にもまた、進むべき道があります」。お聞き覚えがあると思いますが、10月5日の「30周年記念式典式辞」の冒頭で私が述べたことばです。
「しばしば喩えられる」と言いましたが、『天平の甍』や『闘牛』などで知られる小説家井上靖は次のように述べています。「人間でもその立派さというものは川と同じではないでしょうか。川の流れが河口に行く着くように人間も生涯の大部分を終えてある地点に来たとき、その人間の過ぎ来し方のありようが、私などにどうも問題となるようです。河口がいくらりっぱでも、そんなことにはたいして驚かされません。やはりその人間がそこへ来るまでの長いその人の歴史のありようがその人を美しくも醜くも見せます」。井上靖が言わんとするところは、人生の意義は「何をしたか」にあるのではなく、「どのように生きてきたか」にある、ということです。ちなみに、私は人生のそのときどきの在り方がその人そのものであると言いたかったのです。
井上靖は知っていたでしょうが、人間を川(河)に喩えたのはトルストイが本家本元のようです。紹介したことばは『復活』のなかの一文で次のように記されています。「人間とは河のようなものである。どんな河でも水そのものは同じだし、どこまでいっても同じ水であることに変わりはないのだが、それぞれの河がある時は細く、ある時は早く、広いこともあれば、静かなこともあり、時には清く、時には冷たく、ある時は濁り、ある時は暖かくなるものだ。人間もこれと同じである」。さすがの名文です。
この文から読み取れるトルストイの主張は、「平等」です。西洋においては、「神の下の平等」が信仰と救済の観点から説かれており、これは現実生活での不平等とは無関係に、結局は神の国ではみな幸福という宗教的平等です。やがて、これは「法の下の平等」となり、近代市民社会では法や制度における万人の平等が唱えられました。ただし、ここでも個人の能力や資質、境遇などは問題にはなりません。トルストイは人間存在そのものを見つめ、「人間はその本質において平等である」と説くのです。生来の能力や資質あるいは境遇において差異があるのは事実です。しかし、喩えてみればそれは大きな川と小さな川、流れの速い川と遅い川があるようなもので、すべての川は水の流れであり、いつかは海へと入るようなものなのです。そこで、大切なことは人、それぞれの存在として、そのときどきを真摯に生きることの積み重ねが善い人生だと知ることです。生徒たちはそれぞれの希望の大学を目指し、やがて職業に就きます。大学に一流も三流もありません。各大学には一流の学生と三流の学生がいます。「職業は平等」だと教師は心底から確信しなければなりません。政治家にも医者にも社長にも、一流のものと三流のものがいるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第69号,平成25年10月25日.
トルストイ L=N=Tolstoi
ロシアの小説家。1828~1910。ドストエフスキーとともにロシア文学を代表する世界的文豪。名門の伯爵家に生まれる。幼い頃に、両親と祖母と死別し、内省的な性格であったと伝えられている。大学教育に失望し、退学、実家の領地での農事改革に失敗、自暴自棄となったあと、兄に保護され、砲兵隊将校として勤務しながら、著作活動に入り、好評を得る。その後、軍務を退いて小説家に専念する。前期は芸術性、後期は宗教性を基調とし、苦悩のなかに救済の道を愛と知に求めた。その格調の高い作風は古今東西屈指と評価される。その一方で、社会的な活動にも積極的に取り組み、農奴解放、財産放棄、無抵抗主義などを唱え、後年は原始キリスト教への回帰を主張し、ロシア正教会から破門され漂泊のなかで没した。代表作は『戦争と平和』『復活』『アンナ・カレーニナ』など。
*ドストエフスキ(1821~81) 第65,66号参照。
*ロシア正教会
東ローマ(ビザンティン)帝国の時代に成立した東方キリスト教会の一派。東方教会の総主教はコンスタンチノープル(ビザンティウム)のギリシャ正教会が中心であったが帝国の崩壊により、モスクワにロシア正教会が成立 した。ちなみに、西ローマ帝国におけるキリスト教がローマカトリックである。
*クリミア戦争(1853~56)
ロシアの南下政策に対するオスマン・トルコ、イギリス、フランス、サルジニア連合軍との国際紛争。結果的にはロシアの敗北に終わり、帝政ロシアは著しく衰退した。この戦争はまた、ナイチンゲールの活躍でも知られている。
*原始キリスト教
ローマ=カトリック成立以前のキリスト教。イエス=キリストの死後まもなくエルサレム教会を中心に、ペテロなどの直弟子たちやパウロらによって伝道され、その後形成された教え。キリスト教の基礎となった。
ドストエフスキーが、無神論者と思われるほど神の存在について思索を深め、世界の真相を探究しようとしたのに対し、トルストイは神の存在を人間と世界のすべての前提として、いかにして神の愛を地上に実現するかを求めた人物でした。トルストイは名門貴族の子に生まれましたが、幼い頃に両親と死別し、富裕な生活をおくるものの、内省的な性格であったようです。彼の生涯の転機となったのはクリミア戦争で、その際、彼いわく、“偉大な思想”に気付き、軍人をやめ、文筆活動に入りました。。そして、最後には学問・芸術・社会・国家・教会さらには家族からも離反し、末娘と弟子をつれての放浪の生活をおくることになります。
彼が批判したのは物質的・精神的あらゆる意味での“人類の貧困さ”でした。凡人には計り知れない高みでありましょうか。社会的には西ヨーロッパにはるかに遅れ、やがて、社会主義革命という急速な転換をせざるをえなかった帝政ロシアの時代と土地を超えすぎたと言えるでしょう。晩年は原始キリスト教に傾斜し、ドゥホボール教徒事件に際し、原稿料のすべてを彼らに渡したこともありました。ドゥホボール教とは原始キリスト教の一派を自称し、地上権威一切の否定、神の下の無抵抗主義を唱えたものでロシア政府は彼らに迫害、殺害を繰り返し、国外追放を決定しました。しかし、彼らは移住するにも旅費がないためにトルストイがすべてを提供したのです。これなどは彼の生活と思想をものがたる典型的なエピソードで、「ムジーク(農民)の真実のみがロシアの救いである」と述べ、ロシアの大地をかぎりなく愛しました。
上記のことばは放浪の果てに小さな駅で息を引きとる直前、弟子のセルゲイに言ったものです。小説家といっても様々なタイプがありますが、自分自身がもつ財産と思想の豊かさを恵まれない人々のために捧げようとした人はそうそういるものではありません。言っていることと行っていることが一致しているからこそ、このことばは感動を与えます。
「真実を愛している」。真実とはたったひとつではない、人により時代により国により真実は異なる。こんなことを言う人がいますが、こういうときに奇妙な相対主義を論じてはいけません。自分が何かを決断し、行動するとき、自分をよく知っている人々が「それでよい、君を応援する」と言われるようなことする。それが真実というものです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第68号 ,平成25年10月17日.
ド ス ト エ フ ス キ- F=M=Dostoevskii 第66号に同じ。
ドストエフスキーは、25歳で小説家としてデビューした当初から高い評価を得、早々に人気作家となった。初めは写実主義的な作風であったが、しだいにロマン主義的傾向を帯び、空想的社会主義のグループに近づいた。28歳のとき、革命思想家の事件に連座して、シベリアに流刑となり、ここでの過酷な生活が彼のその後に大きな影響を与え、空想的社会主義を離れ、民衆との結びつきを基盤とした土壌的社会主義に傾く。出獄後、軍隊で勤務し、最初の結婚をするが、病弱な妻との生活は精神的にも経済的にも苦痛であった。43歳のとき、妻と兄が死に、事業の失敗、賭博による損失など多額の借金をかかえる。この間、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』を書いたが、私的な手紙のほとんどは借金に関するものであった。晩年は経済的にも安定し、二度目の妻との関係も良好で、彼女の協力により『カラマゾフの兄弟』などを完成させている。
*マルクス(1818~83)
ドイツの哲学者、経済学者。エンゲルスとともに科学的社会主義を唱えた。その理論はマルクス主義とよばれ、思想界のみならず政治的経済的に20世紀の世界を席巻した。主著『共産党宣言』『資本論』など。
社会主義は、ソ連の崩壊と冷戦の終結により、すでに過去のものになりつつありますが、20世紀には政治・経済はもとより、哲学・思想においても一大潮流でした。社会主義を私有財産制の廃止と経済力の均等化という点から見れば、古代ギリシャにまでさかのぼることができます。純粋に学問的な社会主義といえば、マルクス主義ですが、哲学・思想としてのマルクス主義は、現代に至るまで、登場していません。マルクスによれば、社会主義は資本主義の制度的崩壊により必然的に生まれるものですが、ソ連でも中国でも、実際は資本主義が成立することなく封建制・農奴制から一足飛びに、社会主義体制が成立したのです。
マルクスが『共産党宣言』を発表したのが、1848年、ドストエフスキーが革命運動に連座してシベリア流刑となったのは1849年のことです。19世紀は西欧先進国で資本主義の問題点が続出し、各分野での知識階級が社会主義について考察していたことがうかがえます。そして、イギリス、フランス、ドイツでは議会政治のなかで、社会福祉や労働者の待遇改善を漸進的に発展させ、帝政ロシアは革命への道を進んだのでした。
今回紹介したことばも、『カラマゾフの兄弟』からのもので、この作品は表面的には横暴残忍極まりない資産家の父とその息子たちを主人公とし、親子・兄弟・男女の愛憎うごめく人間ドラマと父殺しの真犯人を探るというサスペンス小説です。しかし、その真のテーマは「神は存在するか否か」であり、無神論の提起です。次男イワンは徹底した無神論者で、三男アリョーシャは神学校の学生です。イワンとアリョーシャが敬愛するゾシマ長老との迫真の論争がこの小説の大きな読みどころです。ゾシマ長老は「社会主義の根底にあるのは無神論である」と言いますが、その解釈はかなり難しい。社会主義は歴史も社会の構造も経済(生産と生産関係)にあるとします。経済の仕組みや考え方が政治、思想、文化を形成する。すなわち、物質的なものが精神や理念をつくるのであり、精神や理念が絶対的なものであるのではない。したがって、神が世界を支配しているのではなく、人間の活動・労働こそが世界を成り立たせている。私はここに、社会主義と無神論の相依相即関係があると考えます。
「もし、神がいなければすべてが許される」。ドストエフスキーは無神論的実存主義者の一人とされていますが、『カラマゾフの兄弟』のイワンは自分の思想が異母弟の父殺しを引き起こしたとして発狂し、老婆殺しの犯罪をおかしながらも、判事の冷静な追求をかわした『罪と罰』のラスコーリニコフは、家族のために娼婦となったソーニャのキリストへの信仰と純粋な魂の前に自己の過ちを認めます。無神論者なるがゆえに孤独と苦悩があるのです。そのことに耐えうる人間がどれだけいるか。私たちの周りにも、伝統や権威に対決できるくらい強くあれ、自分の信じる道を進め、と言う人がいます。単純な反抗の意味であれば論外ですが、いわゆる自由主義教育、個性化教育の理念からであったとしても安易に口にできないことだと私は思います。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第67号,平成25年10月11日.
ド ス ト エ フ ス キ- F=M=Dostoevskii
ロシアの小説家。1821~81。トルストイとともにロシア文学を代表する世界的文豪。帝政ロシアの肩書きだけ貴族の貧困医師(貧民救済病院の医師)の子として、モスクワで生まれる。16歳のとき、サンクトペテルブルクに出て、工兵士官学校に入り、卒業後は陸軍中尉となったが、1年足らずで退役。以後は文筆活動に専念する。デビュー以来、小説家として高い評価を得ていたが、空想的社会主義に近づき、1849年、連座して、4年間シベリア流刑となった。この間、空想的社会主義から民衆を基盤とした土壌主義へと転換し、出獄後結婚する。以後、人間の本性を実存的にとらえ、人間の内面的心理的矛盾の相克と人間性回復をテーマとした小説を発表する。晩年は経済的にも家庭的にも安定した生活をおくった。代表作は『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマゾフの兄弟』など。
*トルストイ(1828~1910)
ロシアの小説家。文学のみならず、政治的にも影響を与えた文豪。代表作は『戦争と平和』『復活』など。
*空想的社会主義
19世紀初頭に成立した社会主義。資本家の個人的人道主義と実践により労働者の待遇改善や経済的平等を企図する。資本主義への科学的考察が欠如しているとしてマルクスやエンゲルスにより批判されたが、ヒューマニズム的視点からの社会主義として見直されている。代表的人物はR=オーエン、サン=シモン、フーリエなど。
前号までのニーチェの項で紹介したドストエフスキーは、映画やテレビドラマにもなった『罪と罰』や『カラマゾフの兄弟』などの名作で知られる世界的文豪です。彼の時代のロシアは農奴制による圧政と初期資本主義的搾取の抑圧に苦しむ大衆と革命思想をもつインテリゲンチャ(知識階級)がロシア革命前夜の矛盾・混迷した社会に生きていました。
ちなみに、当時のロシアでは資本主義が成立せず、革命によりいきなり社会主義へと移行し、資本主義の弊害から必然的に社会主義革命が生じるとしたマルクスの理論とは当初から異なっていました。それはともかく、いつの時代でもどこの国でも言えることですが、疲弊混迷した社会においては、深く人間を見つめ、真実を知っているものほ ど孤独と絶望のなかで生きることになります。ドストエフスキーもその一人でした。
彼の生涯は波乱に満ちたものであり、賭博好きの性癖もあって貧困生活の毎日でした。思想的には半ば冤罪ともいえるシベリア流刑後、人道主義による社会改革の可能性に見切りをつけ、人間本性を非合理的実存(冷静な理性的判断にかぎらない存在)とする立場にありました。彼の作品と作中人物はニヒリスト、無神論者、粗暴な放蕩主義者、敬虔なキリスト教徒と多彩を極めます。『罪と罰』において、自己の非凡性(自意識過剰ですが)をもって超人となろうとした主人公の孤独と不安さらには救済を、『カラマゾフの兄弟』においては神の存在の有無をも含めたあらゆる人間心理の可能性と親子・兄弟・男女の愛憎を描いています。
上記のことばは『カラマゾフの兄弟』の次男、無神論者イワンのことばで、サルトルをして、「すべての実存主義の出発点である」と言わしめた名言です。神がいないとは、すべての存在と価値の既成基準がなくなり、生存の目的・意味が喪失するということです。善悪・正邪・美醜はその背後に価値基準を定める絶対的な判断即ち人間の良識の根拠となる絶対者がいなければなりません。それが神でした。その神がなくなると、すべての価値と権威は失われる。それがニヒリズムです。この精神的状況は個人の孤独・不安・絶望を生じさせますが、その一方で、真の自己のあり方を旧体制・旧思想に縛られることなく、追求することも確立することも可能です。ニーチェが「神が死んだ」時代に目指すべき超人を説いたのはそのためでした。しかし、それは並大抵のことではありません。
さて、歴史はいつも戦争と平和、そうでなくとも混乱と太平の繰り返しの譜で、現代日本はそのいずれともつかないやっかいな時代です。精神的状況においてはニヒリズムに近いものがあると私は思います。「神」とよべばあまりにキリスト教的ですが、伝統や慣習、既成の価値観と見れば、私たちの日々の生活と無縁ではありません。ちなみに、私が今、気になっているのは、ことばの乱れと造語です。若い世代のそれはいつものことで、そのうち収まるのですが、研究者や専門家が用いる新語には少しばかり危うさを感じています。かなり前から言っていましたが、教育用語としての「不易流行」は明らかに解釈の間違いです。また、この数年、教育の専門分野で、動詞の名詞化、文法に反する用語の続出に戸惑っているのですが、混迷に拍車がかからないことを願っているところです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第66号 ,平成25年10月3日.
ニ ー チ ェ F=W=Nietzsche 第63号参照。
ニーチェの後半生は、哲学的にはショーペンハウエルと、実生活においてはワーグナーと絶縁し、彼に心酔する何人かの弟子たちはいたものの、当時の才媛ルー=サロメとのスキャンダルと失恋など世間的にも醜態をさらし、友人たちのほとんどが彼のもとを去って行った。さらに、持病の偏頭痛が激しくなり、進行性麻痺症が加わって、ついに発狂し、痴呆状態で死去した。晩年、ニーチェがワーグナー夫人のコジマに宛てた手紙には自分が、インドでは仏陀として生まれ、古代ギリシャではディオニソス神であり、アレクサンドロスやカエサルは自分の化身であった、などと記し、「愛するアリアドネへ、ディオニソスより」と結んでいる。死後、彼にとって最も気の毒であったことは、ヒトラーが「超人」にあこがれ、ニーチェと同じく、ワーグナーに心酔して、ドイツ人が優等民族であると唱え、ユダヤ仁を迫害したことである。ちなみに、ニーチェは、ヨーロッパに根強くあったユダヤ人差別を批判していた。
*アリアドネ
ギリシャ神話に登場するクレタ島の王女。アテネがクレタに敗れ、奴隷となった多くの若者がクレタの迷宮に住む怪物ミノタウロスの餌食になっていた頃のこと、アテネの王子テセウスはミノタウロスを倒すために奴隷になりすまし、クレタやって来た。テセウスに恋したアリアドネは迷宮に入る彼に糸玉をもたせた。怪物を退治したテセウスは、その糸をたどり迷宮から脱出し、アリアドネを連れてアテネに向かうが、その途中立ち寄った島で、アリアドネに欲情したディオニソス神は彼女を奪い、テセウスはディオニソスの求めるがまま彼女を捨て、アテネに帰った。
*小泉信三(1888~1969)
経済学者、教育学者。慶大卒業後、ヨーロッパに留学し、帰国後、慶大教授、慶應義塾長を歴任する。今上天皇の皇太子時代の教育責任者も務めた。主著『価値論とマルクス主義』『共産主義批判の常識』など。
ギリシャ神話の神ディオニソスはローマでは酒神バッカスとよばれています。その出自は、どうやらギリシャ本土ではなく、北方トラキア地方の土着の神であったようです。酒の神にふさわしく、強い生命力と猛々しい欲望の神で、怖れられるが故に信仰されました。いわゆる「ギリシャ悲劇」は、ディオニソスの祭典のときに演じられました。ニーチェは『悲劇の誕生』のなかで、文化や思想の類型をアポロン型とディオニソス型に分類し、前者は知性と調和、後者は情欲と混濁を根幹にもつと論じました。ニーチェはディオニソスこそがより根源的なもので、人間の本来の姿はここにあるとするのです。
ニーチェは“神が死んだ”ニヒリズムに時代に新たな価値観を創造し、力への意志を持って逞しく生きる存在を「超人」とよびました。超人のイメージの根底に、ディオニソスがあったことは間違いありません。ちなみに、ニーチェはソクラテスをアポロンの子とよび、知性を人間の尊厳としたソクラテスから哲学は堕落したとまで言っています。イエス=キリストとソクラテスを逆らう、それもまた超人の表れなのですが、ニーチェという人物、何とも厄介な人であったようです。
超人は「汝為すべし」という権威や伝統のに従うラクダのような忍耐力と権威や伝統に抵抗し「我は欲す」というライオンのような強く自由な精神を経て、無心に遊ぶ幼子のような純粋無垢な心をもつ存在であるとニーチェは説きます。そのような精神の発展段階を経て成長したものが超人となれるのです。「一切は死んでいく、一切はふたたび花咲く、存在の年は永遠にめぐっている。…一切は別れ合い、一切はふたたび会う。存在の円環は、永遠に忠実におのれの在り方をまもっている」。『ツァラトゥストラはかく語った』にはこのように記されています。
今あるすべての出来事は永遠の昔にあったことで、これからも永遠に繰り返される。世界が滅び、宇宙が消滅した瞬間、ふたたび同じ宇宙が生まれ、同じ世界が開ける。歴史がまた寸分違わず繰り返される。私たちは同じ人間として何度も同じ人生をおくる。意味もなく目的もなく、同じ事が繰り返される。これを永劫回帰と言い、これこそがニヒリズムの極限です。問題はそれからで、もし同じ人生が繰り返されるとしたならばその事実に耐えられるか。「これが人生か、さればもう一度。」と運命を愛せるか。ニーチェはかく問い、ここにおいて、永劫回帰の絶望は積極的な人生観に変容します。「もう一度生まれ変わっても同じ人を愛したい、同じ人を友としたい」。小泉信三は戦地に赴く息子に「もう一度生まれ変わるとしても自分として生まれたい。結婚するならば、また君のお母さんとする。もしも子どもが授かるならば、もう一度君を息子に迎えたい。」と言いました。後悔にない毎日をおくることが最大の幸福なのでしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第65号,平成25年9月27日.
ニ ー チ ェ F=W=Nietzsche 第63号参照。
ニーチェは早くから才能を発揮し、古典学者として学者たちから認められ、25歳の若さで、バーゼル大学の員外教授になっている。ニーチェの思想形成に影響を与えたのはヘーゲルと同時期にベルリン大学で教鞭を執ったショーペンハウエルであった。ニーチェが説く「権力への意志」はショーペンハウエルの「生存への盲目的意志」を出発点としている。もう一人は音楽家のワーグナーで、初期のニーチェはワーグナーの楽劇を絶賛し、彼の音楽こそ世界の真相であり、人間が本来もつべき理想的生き方の体現であると絶賛した。ニーチェとワーグナーはかなり親しく交流していた時期もあったが後年は絶縁している。その後ニーチェは独自の思想と独断的姿勢のゆえに周囲から孤立し、持病の偏頭痛の悪化に苦しみ、35歳のとき大学を辞職し、後半生は波乱に満ちたものになった。
*ショーペンハウエル(1788~1860)
ドイツの哲学者。理性を人間の尊厳とする西洋近代哲学を批判し、生存への盲目的意志を人間の本質とする「生の哲学」を説いた。彼によれば、生存への意志は常に飽くなき欲望を追い求めるから人生は苦悩に満ちたものである。この立場を厭世主義(ペシミズム)という。主著『意志と表象としての世界』『自殺について』など。
*ワーグナー(1813~83)
ドイツロマン派を代表する作曲家。歌劇を総合芸術として大規模化した楽劇の創始者。ゲルマン神話を題材に神々と英雄、人間たちが織りなすドラマを壮大かつ深淵に描いた。代表作は『タンホイザー』『ローエングリン』『ニーベルングの指輪(「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」』など。
*ドストエフスキー(1821~81)
ロシアの小説家。トルストイと並ぶリアリズム文学の代表者で、人間性を深く探究した大作を書いた。代表 作は『罪と罰』『カラマゾフの兄弟』など。
教義や教会の体制あるいはイエス=キリストについての解釈という観点からキリスト教を批判した人たちはいました。また、神の存在を否定する無神論や神を自然そのものであるとか理性の働きとしてとらえる汎神論や理神論なども歴史上、何度も登場しました。しかし、イエスが説き、キリスト教がその支柱とした神による無差別平等の愛、無償の愛、自己犠牲の愛、そしてその愛を信じて人間が相互に実践する隣人愛を、弱者への甘やかしとして低級な道徳と弾劾したのはニーチェが最初の人物でした。そのキリスト教批判で最も有名なことばが「神は死んだ」です。
『ツァラトゥストラはかく語った』には次のように記されています。一人山にこもって思索を続けていたツァラトゥストラは下山する途中、森の聖者に出会いました。聖者は「人間のところには行くな、森にとどまるがよい。」と言います。ツァラトゥストラが「あなたはここで何をしているのか」と聞くと、聖者は「歌をつくり、歌を歌う。そうして神を讃えているのだ。」と答えました。ツァラトゥストラは聖者にお辞儀をして、ふたりは子どものように笑いながら別れるのですが、一人になったツァラトゥストラは心のなかでこう言います。「こんなことがあるのだろうか!あの老人の聖者はもりのなかに閉じこもっていて、まだ何も聞いていないのだ!神が死んだことを」。
ツァラトゥストラとは古代ペルシャの宗教ゾロアスター教の始祖ゾロアスターのことで、ゾロアスター教は善と光の神アフラ・マズダと悪と闇の神アーリマンが世界と人間を支配し、最後には善と光の神が勝利するという宗教です。ゾロアスター教は、キリスト教よりも遙か昔に成立し、ユダヤ教やキリスト教に大きな影響を与えました。ニーチェはそのゾロアスターを語り手としてキリスト教を批判し、神が死んだニヒリズム時代に、新たな価値観を創造する新たな人間(超人)の到来を告げたのでした。
「神」は権威や絶対的価値基準を象徴するもので、「神は死んだ」とはこれまでの権威や価値が失われたことを意味します。ドストエフスキーは「もしも、神が存在しないとしたら、すべてが許されるであろう。」と言いましたが、神を既成の秩序、道徳、規則、しきたりなどと置き換えてみると、この命題もかなり現実味を帯びてきますし、教育のテーマにもなります。何をしても許される、何をするかは自分しだいだ。もし、そのような状況に生きるとすれば、自信を持って行動できる人がどれほどいるでしょうか。「権威に縛られない」「慣例を打破する」などはことばでは簡単ですが、現実にはどれほど難しいことか。「神は死んだ」からはその厳しさを知らされます。そして、ニーチェの思想にはまだ続きがあります。それは次回に述べましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第64号,平成25年9月20日.
ニ ー チ ェ F=W=Nietzsche
ドイツの哲学者、古典学者。1844~1900。キルケゴールと並んで実存哲学の祖とされている。ドイツのザクセン州にルター派の牧師の子として生まれ、父から厳格な宗教教育を受けた。幼くして文学や芸術に才能を発揮し、ボン大学とライプチヒ大学で古典文献学を学び、25才の若さでスイスのバーゼル大学の員外教授となった。その後深い学問的教養に基づいて近代文明、特にキリスト教倫理を批判し、ニヒリズムの克服と超人の思想を説いた。35才で持病の偏頭痛悪化のため、退職し、著作に専念するが、病の進行とアルコールや薬物の過剰摂取により狂気となり、痴呆の状態で死んだ。20世紀の小説家、芸術家、哲学者たちに大きな影響を与えた人物のひとりである。主著は『悲劇の誕生』『権力への意志』『この人を見よ』『ツァラトゥストラはかく語った』など。
*キルケゴール(1818~55)
デンマークの哲学者。第60号参照。
*ニヒリズム
虚無主義と訳される。生存の目的、生きることの意義などすべての価値は無意味なもので既成の価値観を否定す る思想。歴史的には19世紀のロシア文学のテーマから始まる。
ニヒリズムは虚無主義と訳され、一般にも「ニヒル」という語で時々耳にしますが、本来は格好のよい意味ではなく、前述の注釈にあるとおり退廃的な精神状況及びそこから発生した思想を意味します。“ニヒリズムの哲学者”といわれるニーチェですが、彼の主張はニヒリズムの時代に生きる人間がいかにしてそれを克服し、自己を精神的に高めるかにありました。その意味では、彼の思想的目的は他の哲学者や思想家たちと同じ地平にあるのですが、思想内容があまりに個性的かつ特異であるがため、信奉者が多いとともに誤解されていることも多々あります。
世紀末が生んだ稀代の天才ニーチェはその生涯も波乱でしたが、思想はそれ以上に衝撃的で、西洋二千年の歴史と文化に挑戦する雄大なものです。まず、彼はキリスト教を徹底的に否定します。それも教会の教義であるとか、各宗派の解釈についてではなく、イエス=キリストの教え、つまり隣人への愛や弱いものへのいたわりを批判したのです。
『権力への意志』には次のように記されています。「キリスト教本来の歴史的影響、宿業的な影響は、逆にまさしく利己主義を、個人的な利己主義を、極端に(個人の不死という極端にまで)上昇せしめたことである。…この普遍的な人間愛が、実際には、すべての苦悩する者、出来そこないの者、退化した者どもの優遇なのである。事実、それは人間を犠牲にする力を、責任を、高い義務を、低下せしめ弱化せしめてしまった」。ニーチェによれば、人間は本来“権力への意志”をもち、すぐれたもの、支配するものになりたいというエネルギーをもっているのです。しかも、それは単なる生存欲や自己顕示欲ではなく、生物が本来的にもつ生長欲に起因するものです。言うなれば、根源的向上心であり、これがあったからこそ人類は進化し、発展した。しかし、キリスト教が普遍倫理となるにおよんで人類の堕落が始まった。キリスト教は劣ったもの、怠惰なもの、弱いものの味方で優れたもの、強いものへの怨恨感情(ルサンチマン)をもつ“奴隷の道徳”である。やがて、それは創造や革新を否定し、無気力で無責任なニヒリズムの世界を造り出した。価値が失われ、権威が崩壊し、人々は暗闇のなかに放り出された。これがニーチェの説くところで、そこからどのように立ち上がるか。それが問題なのです。
ニヒリズムの克服という表現をとれば、かなり深刻な事態と受け止めざるを得ないのですが、思想とはそもそも、現実からかけ離れて生まれるものではありません。ある時代や国、そこに生きている人たちが何かしら感じている問題意識や危機感が収斂されたに過ぎないのです。私たちも普段の生活のなかで、具体的現実的な悩みからストレスを感じたり、一時の気晴らしに逃避することがあります。教育現場においても、生徒も教師も誰もがその可能性をもっています。あるいは、何がということはないのだが漠然とした不安にかられることもあるでしょう。その小さな心の歪みが、気がつくと自己嫌悪を引き起こし、自暴自棄に陥ったり、反対に他者や社会への憎悪や攻撃の形をとることになります。それが生じてからでは遅い。そのために、日々、どのように自己と向き合い、他者と接するか。ニーチェの問題提起は意外に身近なところからきているのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第63号,平成25年9月13日.
キルケゴール S=Kierkegard 第60号参照。
レギーネ=オルセンはキルケゴールの伝記や解説書に必ず登場する“永遠の女性”である。彼よりも10歳年下で、婚約者がいながらキルケゴールに熱愛され、彼女も彼を愛し、前の恋人を捨て、キルケゴールと婚約した。しかし、結婚を間近にひかえた頃、キルケゴールから一方的に婚約を破棄され、自殺まで図るというどん底を経験する。失意の彼女を救ったのは以前の婚約者シュレーゲルである。彼はまことに寛大な人物で、かつて自分のもとを去ったレギーネを暖かく迎え、彼女と結婚した。キルケゴールが死ぬ直前、シュレーゲルはデンマーク領西インド諸島総督に任じられ、レギーネとともに、コペンハーゲンの港を去った。港に向かう夫妻とキルケゴールはすれ違っても一言のことばも交わさなかったという。実際のレギーネはかなりの情熱家、芯の強い人かもしれないが、肖像画からは清楚な人柄が感じられる。ちなみにシュレーゲルは数年後、帰国して、後にはコペンハーゲン市長になっている。
私が学生の頃は、実存主義は哲学科ではかなりの人気がありました。二ーチェやサルトルは独文科や仏文科でも研究されていたので、特に男子学生には、彼らの書物をもって歩くのがファッションのひとつでもありました。作家の野坂昭如さんがCMで「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか。ニ、ニ、ニーチェかサルトルか。みんな、悩んで大きくなった。」と唄っていた時代のことです。私はと言えば、かなり生意気な学生で、「ニーチェやサルトルなどはそれほどの難しい哲学者でも思想家でもない。デカルト、カント、ヘーゲルを学ばなければ…。」などと友人たちと議論していました。
キルケゴールについてですが、彼の著書を日本で翻訳した齋藤信治先生(北大、神戸大を経て当時は中央大の教授でした)が私の大学の非常勤講師として講義をもっておられたので、私は喜び勇んで受講し、何度か直接質問したこともありました。その著書が『死に至る病』で、現在でも岩波文庫から出版されている翻訳哲学書の名作です。紹介したことばはこの書の一句で、キルケゴールのことばとして最も有名なものですが、ここで記されている「死」とは一般的な意味、すなわち身体の死ではなく、身体が死んでもなお終わらない完全な死のことです。彼によれば、絶望は三つに分類されます。一つめは絶望して自己を見失っている状態(自己喪失による絶望)、二つめは絶望して自己自身でありたいと思わない状態(自己嫌悪による絶望)、三つめは絶望して自己自身であろうとしながらもそれができない状態(究極の絶望)です。キルケゴールにとっては神と自己との関係は永遠に続くものであるから、身体の死は些細な出来事です。彼にとっては、神を信じてキリスト者として心正しく生きようとしても生きられないことが絶望なのです。
キルケゴールの人生は私たちには勿論のこと、敬虔なキリスト者としてもきわめて特殊な例です。また、何が原因かによって、絶望とその後のあり方についても多様です。勿論、病気や災害、事故などによる場合は、簡単に論じるべきではありません。したがって、ここではその原因が自分自身の生き方あるいは自分の日常生活のなかでの社会的責任や対人関係を原因とするものにかぎりましょう。
原因が自己自身にあるか、他者にあるか、あるいは社会的要因や不運にあったとしても、そもそも、絶望の淵から立ち上がることは並大抵の努力でできるものではありません。勿論、私たち教師やおとなは、どのような逆境にあっても不遇にあっても希望を持ち続けることを説くべきですし、それを忘れてはいけません。精神の強さを育成することは教育の大きな課題です。その一方で、私たちは、生徒や子どもたちが絶望に陥らない環境をつくり、人間関係を築くすべを教えなければなりません。例えば、いじめ問題で「早期発見」という用語がありますが、これはいじめによって、自殺などより大きな事件・事故を防ぐためのものであって、「いじめ」があったこと自体がだめなのです。私はいじめについての認識と指導理念が深まれば、この用語は消えていくと思います。その他、非行事故も起こってからどうするかではない。常日頃から、起こらないような雰囲気をつくり、親や教師の姿勢を示すことが大切なのです。言うは易く行うは難し、と言われるかも知れませんが、自分の都合や感情に左右されずにいつも自他に誠実で、励ますべきときに励まし、慰めるべきときに慰める。悪いことは悪いと叱り、よいものはよいと褒める。当たり前のことを言い、当たり前のこと行えればよいのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第62号,平成25年9月5日.
キルケゴール S=Kierkegard 第60号参照。
キルケゴールの苦悩は絶対の存在だった父への失望から始まった。一代で財をなし、貧しい芸術家たちを保護し、信心深く勤勉な父が、実は貧しさのなかで神を呪い(これがキリスト教徒最悪の罪である)、病身の妻の世話をしている女中(のちに後妻となり、数年後キルケゴールを産んだ)と内縁関係であったことの裁きに怯えていることを知った。キルケゴールは父への反抗から放蕩生活に入る。しかし、自暴自棄の生活は何の解決も与えない。そのようななかで出会ったレギーネとの恋。婚約者と別れさせてまで、彼女との結婚を切に望んだ。しかし、レギーネへの愛にすらも不安を抱き、一方的に婚約を破棄し、彼女を捨てる。その後、悔恨と彼女への真の愛の成就のため、彼は思索と著述に専念する。しかし、彼の独自の思想と他を排撃する生き方は周囲には受け入れられず、レギーネとも絶縁し、孤独な生活が続いた。世間からの嘲笑と疎外のなか、益々「例外者意識」を強めた。心身とも疲れ果て、路上に倒れ、病院に運ばれたとき、ポケットには一枚の硬貨も無かったと伝えられている。
人間は一人ひとり固有の存在である。キルケゴールの思想的出発点はそこにあり、それゆえ、「人間はいかにあるべきか」、「人はいかに生きるべきか」という問いに対する答えは各人の主体的真理に係わるものであるとするのです。哲学や思想は、一見難しそうに思えるのですが、そもそも、ひとりの人間が考えたことですから、その人の人生や人となり、あるいは時代背景を把握すれば必ず理解できますし、勿論、私たちにも通じるものです。
キルケゴールは古今東西の哲学者・思想家のなかでも、とりわけ、その思想内容と人生が深く関わっている人物です。前述した人物欄にも記しましたが、彼のなかは父母への愛憎が自己否定と自己弁護の様相をもって錯綜してました。尊敬していた父への失望、愛していた母への嫌悪のゆえによる反抗と放蕩生活、その一方で、自分がふたりの子であるという厳然たる事実。享楽への逃避が何の解決にもならないことはよく分かっている。しかし、両親を恨まずにはいられない。その自己矛盾のなかで出会った清楚な女性との恋。しかし、愛すれば愛するほど、自分に自信が持てずに不安になる。ついには、彼女から逃避せざるを得ない。一般的に考えれば、わがまま、自分勝手極まりない、あきれた男です。ちなみに、学生時代の私は、キルケゴールに共感することはないまでも関心はあり、教師になってからはついこの間までその生き方をかなり否定していました。しかし、最近は、自分の弱さと罪深さを痛感し孤独のなかで生きるしかない彼の苦しみに哀感をもつとともに、すべての人間が多かれ少なかれ抱く不安と絶望を、日常生活で安穏と生きている私たちに“合わせ鏡”を差し出しているかのように思えるようになりました。
紹介したことばはキルケゴールの著書名ですが、彼の人生観を示した語でもあります。当たり前のことですが、現実生活のなかにいる私たちは、いたるところで何らかの選択をしなければなりません。今日は何を食べようかとか、映画を観るか音楽を聴くか、などは大きな問題ではないのですが、人生にはここぞという決断に迫られ、全身全霊をかけてひとつの行為を選び取ることが必ずあります。当然、迷いもし、悩みもするのですが、最後には「あれか、これか」を決めなければなりません。私の人生で言えば、やはり職業を決めるとき、結婚するときであったかと思いますが、もう少しさかのぼると、高校を卒業するときの進路決定が最初の「あれか、これか」でありました。
私たち教師は、毎年、数多くの生徒たちの「あれか、これか」に係わっています。教師とは、他人の人生に参加する職業なのです。私たちのことばと行動が生徒の人生に大きな影響を与えます。人間形成においても、ときには一生を左右することもあります。勿論、最後の決断は本人が決めなければなりません。「それは本人の問題だ」「自分の人生は自分でしか決められない」「自分の好きなようにするのが一番だ」。確かにそれも立場のひとつでしょう。しかし、私はここで、自由とか自主性の名のもとに、すべてを生徒や子どもに任せることは、教育ではないと思っています。最終決定は各自のものであるとしても、私たちは教師として、おとなとして、人生の先輩として、やがて彼らが向かうべき将来と厳しい現実を見通し、ときには、壁になって課題や試練を与えなくてはなりません。また、自分の若き日の夢や希望、さらには失敗や挫折を語ってあげなければなりません。そのうえで、「あれか、これか」を彼らに委ねるのが私たちの職務でなないでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第61号,平成25年8月30日.
キルケゴール S=Kierkegard
デンマークの哲学者、詩人。1813~1855。ニーチェと並んで実存哲学の祖として評価され、今なお、人気のある哲学者である。コペンハーゲンの富裕な商家に生まれ、父の希望で牧師を志したが、22才頃から自己の存在に多くの疑問を持ち、思索と著作に耽る。コペンハーゲン大学を卒業後、ベルリン大学に留学するが、当時ヨーロッパ哲学の主流であったヘーゲルの観念論を批判し、客観的真理の探究よりも主体性を重視した哲学を提唱し、真実の自己を求めて、「神の前の単独者」として生きることを主張した。一方、私生活では、父への反抗や放蕩三昧の生活、婚約者への一方的婚約破棄事件、マスコミとの対立、デンマーク国教会との抗争などを引き起こし、孤独と絶望の生活をおくり、父の遺産を使い果たし、身体的にも精神的にも疲弊して死んだ。主著『死に至る病』『あれかこれか』『不安の概念』など。
*ニーチェ(1844~1990)
ドイツの哲学者、古典学者。キルケゴールとともに実存哲学のもう一方の祖とされている。キリスト教の教義、イエスの教えそのものを“奴隷の道徳”と批判し、既成の価値を破壊して、新たな価値を創造する超人を説いた。 主著は『悲劇の誕生』『力への意志』『ツァラトゥストラはかく語った』など。
*ヘーゲル(1770~1832)
ドイツの哲学者。第48~50号参照。
*サルトル(1905~1980)
フランス実存主義の哲学者、小説家、劇作家。ノーベル文学賞を受賞し、第二次世界大戦後の思想界のオピニオンリーダーとして活躍した。主著『存在と無』『実存主義とは何か』『嘔吐』など。
現代でこそ、各人の個性重視だとか主体性の尊重などと言われていますが、これは西洋でも20世紀以降のことでした。確かに個人の権利とか個人主義の思想はありましたが、科学やその他の学問における真理が客観的・普遍的であるように、人間としての生き方や価値に係わることも同じであるとされていました。人間の定義にしても、「人間は社会的動物である」「人間は考える葦である」のように、人間一般を表しています。フランス実存主義のサルトルは「人間とは~である」の「~」にあたる部分を本質、その本質を概念規定の根幹とするものを本質存在とよびました。例えば、「ナイフは何かを切るものである」という定義においては、「何かを切る」がナイフの本質であり、その本質がナイフの存在を支えている。大きさや形が異なっても、「何かを切る」ことによりナイフはナイフであるのです。では、人間はどうなのでしょうか。
キルケゴールの時代に主流であった理性主義の哲学は「人間とは~である」と規定し、「人間は~として生きるべきである」など、客観性・普遍性を強調していました。しかし、そもそも、人間は一人ひとり固有な存在であり、一律に概念規定される本質存在ではない。彼はここに注目します。つまり、人間は現にここに存在することそのものに意味がある現実存在、すなわち実存なのです。キルケゴールの思想的出発点は学問的にはヘーゲルの客観的・普遍的観念論と神の企図による必然的歴史観への批判ですが、それ以上に、自分が他の人とは異質な人間であるという「例外者意識」が大きな要因です。
紹介したことばは彼の『日記』からの一節で、正確には「重要なのは、私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生き、かつ死ぬことを願うような理念を見出すことである。いわゆる客観的真理を私が発見したとしても、それが私に何の役に立つというのか。」と記されています。キルケゴールはそれまでの哲学や宗教を学び、牧師の資格までもっていた人物です。したがって、自分勝手に個性や主体性を主張して、自分にとって都合のよいことを求めているわけではありません。彼独特の「例外者意識」にしても、両親への複雑な愛憎や自身のコンプレックスのゆえです。それらを十分に内省したうえでの「主体的真理」の追究であることに注目すべきでしょう。
教育に関連しては、このことばから二つのことが学べると思います。まず、「人間は一人ひとり固有の存在であるから、その個別性・主体性を尊重しなければならない」ということです。その根拠となるものは「平等」で、特に、教育者は「すべての職業は平等」という職業観・社会観を心の底から実感していなければなりません。ところが、これがなかなか難しい。しかし、この意識がなければ本当の意味での個別性・主体性の尊重はあり得ません。次は「万人が自由であるから主体性・個別性を主張できる」ということで、それには真の意味での「自由」、則ち自分の社会的責任と自律心が前提としてあります。個別性・主体性は尊重すべきですが、そのためには高いハードルを超えなければなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第60号,平成25年8月23日.
アレクサンドル=デュマ A=Dumas 第58号参照。
息子のデュマ・フィスは貧しいお針子との間に生まれた私生児で、7歳のときに認知された。彼の性格は大筋で父親に似て、自由奔放、天真爛漫、豪放磊落、放蕩三昧にして面倒見がよく世話好き、そして浪費家。さらに文学の才能も見事に受け継いでいた。そのフィスが『椿姫』の初演の大成功にあたり、「まるであなたの作品の初日かと思うほどの大好評です」との電報への返事が残っている。「私の最高傑作は息子よ、お前だ」。このことばを親の子に対する所有化とか人格誹謗などと言ってはならない。強い絆で結ばれた親子関係があればこそのものである。この17年後、デュマ・ペールは息子の家で、稀有な“巨人の生涯”を終えた。
*黒岩涙香(1862~1920)
明治から大正期の小説家、ジャーナリスト。日刊紙『万朝報』の創設者で当時を代表する文化人。翻訳小説には『巌窟王』のほか『ああ無情』(ユゴー作『レ・ミゼラブル』)などがある。
*孟子(372?~289?)
古代中国の思想家。孔子を祖とする儒家思想の代表的人物。人間は生来、他者への憐れみや悪を憎む心、他者に譲る心などをもっているという性善説や為政者の人徳による王道政治を説いた。
『三銃士』とともにデュマ=ペールの傑作とされるのが『モンテ=クリスト伯』です。これは謀略により牢獄に閉じこめられた青年エドモン=ダンテスが、14年後、恩人の神父の遺体になり替わり首尾良く脱獄し、モンテ=クリスト島の秘宝を手に入れ、巨万の財産を得て帰郷し、自分の地位や婚約者を奪った3人の男たちを破滅させる復習劇です。このように紹介すると、いかにもおぞましく怨念に満ちた暗い作品と思われがちですが、主人公の人柄と劇的な構成により、読者には痛快感をあたえるのです。
主人公ダンテスは牢獄で知り合ったファリア神父から様々な教育を受け、その教養と財力を駆使して、あるときは船乗り、ある時は大富豪、あるときは名門貴族、ある時は神父に変装して社交界を翻弄する。しかして、その正体はモンテ=クリスト伯爵。活劇タッチのプロットです。復讐する相手には容赦しないが、その家族には出来るかぎりの情けをかける。伯爵がダンテスだったと知り、また、自分の夫の正体を知って絶望したかつての婚約者メルセデスとその息子(仇敵の子)を救う。そして、モンテ=クリスト伯ことダンテスは復讐を終え、係わった人々に莫大な財産を残し、いずこへともなく去って行くところで物語は終わります。この作品、我が国では黒沢涙香が『厳窟王』の名で翻訳し、古くから親しまれています。ちなみに、デュマがパリ郊外に建てた王侯貴族の屋敷にも負けない邸宅はモンテ=クリスト荘とよばれていました。
さて、紹介した名言は、獄中で囚われの身となったダンテスにモンテ=クリスト島の秘宝を教え、かつさまざまな知識と教養を与えたファリア神父のことばで、詳しくは次のように記されています。「極めて単純な、やってもかまわないようなことでも、私たちの自然の欲求は、やっていいことの線を踏みはずさないように、私たちに注意してくれるのだ。…悪い考えを素質として持って生まれた人間でないかぎり、人間の性質は悪を嫌がるということだ」。欲求や欲望が悪や罪の元凶で、理性によりそれらを抑えるというのが一般的ですが、ファリア神父は、そもそも人間が悪や罪を嫌い憎むのは自然な欲求からくるのだと言うのです。孟子の性善説に一脈通じるようですが、「悪い考えを素質として持って生まれた人間」がいる可能性を述べているあたりは、デュマの厳しい人間観が見られ、そのような悪人を退治する主人公が益々光を放つといったところでしょうか。
人格教育、現代の教育用語で言えば、人間としての「あり方生き方教育」の出発点は「人間をどのようにとらえるか」にあります。そして、たとえ人間の本性が悪であったとしても、それが教育によって克服できる、つまり、法や刑罰によってではなく、語ることばによって、あるいは示す行為によって、必ず悪を正すことができるという信念がなくてはなりません。例えば、「いじめは人間の本能に起因するからなくならない」という判断は教育者には許されません。たとえ本能であろうともそれに打ち克つところに人間としての尊厳がある。教育の本質はそのような願いにあります。いつか戦争のない平和な世界をという思いと同じく、「人間の性質は悪を嫌がるもの」であることを忘れてはいけないのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第59号,平成25年8月16日.
アレクサンドル=デュマ A=Dumas
フランスの小説家、劇作家。1802~1870。フランスロマン主義の代表的文豪。同名の息子をデュマ・フィス(小デュマ)といい、今回紹介する父をデュマ・ペール(大デュマ)という。パリ郊外の小さな町に生まれ、父は黒人との混血の軍人。ナポレオン配下の名将として知られたが、後年不遇となり、デュマも幼少から生活苦を味わう。15歳で公証人事務所の仕事に就く傍ら文学に関心をもち、はじめ劇作家として活躍し、44年、『三銃士』が大ヒットしその後、生涯で91の戯曲と250の小説を書いたといわれている。代表作は『モンテクリスト伯』『アントニー』など。
*アレクサンドル=デュマ=フィス(1824~1895)
デュマ=ペールの私生児。フランスの小説家、劇作家。代表作は『椿姫』など。
*バルザック(1799~1850)
フランスの小説家。自然主義を代表する人物。代表作は『谷間の百合』など。
*『仮面の男』
1998年、アメリカ映画。主演L=デカプリオ、共演J=アイアンズ、J=マルコビッチ、J=ドパルデュー、G=バーン。
その全作品を読んだものは世界中に一人もいないと言われるほどの多作家であったデュマ・ペールはその生涯、人生においても稀に見る巨人でした。豪放磊落にして生涯一度も妻を得ず、放蕩の限りを尽くし、これまた浪費家で知られるバルザックをして狂気の沙汰と言わしめたモンテ・クリスト館の建設、そこでの王侯さながらの生活、劇場の設立、新聞の発行、さらにはフランス二月革命に参加するなど休む間もなく行動しました。そのうえ、現在の額で何十億とも思われる資産を使い果たし、それでも旺盛なエネルギーは最期まで衰えず、終(つい)には「お前の家で死にに来た」と息子の門を叩いたと伝えられています。
デュマの傑作といえば『三銃士』で、何度も映画化、テレビドラマ化され、最近ではNHKの人形劇として子どもたちにも知られるようになり、10年ほど前にヒットしたL=デカプリオ主演の『仮面の男』もそのシリーズの一つです。原作はフランス・ブルボン王朝のルイ13世からルイ14世の治世、イギリスのピューリタン革命を時代背景として、稀代の政治家リシュリューら実在の人物が登場する一方、魅力的な悪女の元祖ミレディが活躍するなど活劇としても面白く、また人間ドラマとしても優れた作品です。勿論、映画やテレビドラマはそれぞれに脚色され、原作とはかなり異なるものもありますが、どれも面白い。だからこそ名作とよばれているのでしょう。
今回紹介した“One for all,All for one.”は現在、ラグビーの標語として知られていますが、元々は『三銃士』に登場する銃士隊の合言葉で、フランス語では“Un pour tous,Tous pour un.”と言います。映画などでは、アトス、ポルトス、アラミスの三銃士と若きダルタニアンが天に剣をかざして唱える場面でお馴染みです。どんなに優秀な、屈強な強者ものでも一人の力では為しえないことがあります。だからこそ、支え合い、助け合うチームワークが大切なので、国王陛下の銃士隊は何よりも仲間を大切にするという意味です。それが、ヨーロッパの貴族たちに愛好されたラグビーの精神として受け継がれたのでした。
個々の生徒を知らない人には、本校生は皆、「大麻高校生」という大きな概念でとらえられます。これを連帯責任として理解するだけではなく、「自分こそ大麻高校生だ」と意識して行動することが大切なのです。仲間とともに生きることに人間としての尊厳があるのです。自分の一言で学校全体が認められる、自分の小さな好意が本校生徒すべてにつながる。見知らぬ人に大麻高校の生徒は立派だと感心されるようになる。そして、そこに自分自身の誇りをもつ。私は昨年の着任早々、生徒に“One for all,All for one.”の話をしました。自分は皆に支えられている、自分こそがまた皆を支え、皆が自分に期待している。互いにその自覚をもつ。そのような生徒を育てていこうではありませんか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第58号,平成25年7月19日.
J=S=ミ ル J=S=Mill
ミルは24才のとき、人生相談に来た人妻のハリエットと知り合う。二人は互いに愛し合い、尊敬し合って、22年後にはれて結婚した。ミルの研究書のなかには20年以上におよぶ純愛を美談としているものもあるが、彼女は人妻で、夫との間には二人の子どももいた。ミルとの関係は不倫以外の何ものでもない。ハリエットの夫テイラーはロンドンの富裕な薬剤商であり、温厚・誠実で世間の評判もいい好人物である。ハリエットはどうやら、たぐいまれな美貌とかなりの才能に恵まれてた活発な、言ってみれば時代には早すぎた女性だったようである。テイラーは妻の去った家庭を守り、子どもを育てながら、彼女の帰りをひたすら待ち続けた。彼の死後、ミルとハリエットは正式に結婚した。おそらく、公に記されていないいろいろな事情も背景もあったであろう。ともかくも、ミルの人生と思想に決定的な影響を与えたのがハリエットであったことは間違いない。
*他者被害の原則
ミルの『自由論』に記された自由の根本的原則のこと。自己の自由を主張するにあたっては他者の反論や批判を受け入れなければならず、他者に被害を与えないことにより自己の自由は社会から認められるとした。これは 近代的自由論の帰結として、現代においても、個人の自由の大前提となっている。ちなみに、近年の生命倫理や 終末医療に係わる自己決定権もミルの自由論が背景にある。
前号でも述べましたが、功利主義の創始者とも言えるベンサムは、幸福を現実的・物質的にとらえました。彼によれば、寒さに凍えることなく、飢えに苦しむことなく快適に生きることが、幸福の出発点であり、清貧のなかでの心の幸福などは、普通の人々にはできない相談だ、ということになります。ミルも基本的にはこの立場をとり、かつ、人間は他者に害をおよぼさないかぎり、自己の個性を自由に表現し、行動することができるとします。これが、「他者被害の原則」で、現代の自由論の原型となっています。ミルはさらに一歩踏み込み、たとえ現実・物質面において、艱難辛苦があろうとも、精神の高みと喜びがあるとするのです。それが「精神的快楽(質的快楽)」です。では、ミルが求めた真の幸福とは何でしょうか。
紹介したことばは、『自伝』の中の一節であり、正確には「自分自身の幸福以外の何か他の目的、例えば他人の幸福とか人類の改善とかあるいは何らかの技術とか研究でもよいが、そういった目的に心を傾注する人々、それを手段としてではなく、それ自身を理想的目的として、そういったことがら従事する人々だけが幸福である。」と記されています。そして、「人にしてもらいたい思うように他人のためにし、わが身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいというナザレのイエスのことばこそ、功利主義道徳が理想的に完成したものである。」とも言っています。
幸福とは物質的豊かさが前提ではあるが、それだけでは十分ではない。幸福とは生きていることの満足感充実感のことである。単に自分ひとりのためにではなく、その存在や行為が他の人々のためになっているという思いである。そのことによって、人から誉められるというのではなく、その行為そのものに価値があるから行なっているという喜びである。これがミルの幸福論です。ではそうした喜びとは何なのでしょうか。私が思うには、ふたつのことがあげられます。ひとつは自分の仕事や行為が社会や仲間に貢献している、あるいは何らかのかたちで誰かの役に立っているということ。もうひとつは自分に心から愛する誰かがいて、その人が自分を信じ、頼りにしてくれている、自分の存在が誰かの支えになっているということです。
私たち教師がこのような幸福観を語るとき、とかく世間知らず、綺麗事などの批判を受けがちですし、特に延々と続く経済不況の時代にあっては、白々しく思われることがしばしばあります。なるほど、世の中は厳しい。世知辛い。だからこそ、教師だけが語り続けなければならない“きれいごと”があります。今にしてなお、私は「幸福とは自分以外の誰かの人生に善い関わりができること」であると思っています。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第57号,平成25年7月12日.
J=S=ミ ル J=S=Mill
イギリスの哲学者、経済学者。1806~73。イギリス功利主義哲学の大成者。ベンサムの親友であり、支援者であった父の英才教育を受け、3歳でギリシャ語、4歳でラテン語を学び、、12歳でアリストテレスの論理学を理解するなど早くから秀才の名をほしいままに、し17歳のとき、東インド会社に入り、以後、イギリスの政財界と深い関わりをもった。その一方で、16歳ですでに功利主義協会を設立し、翌年には名実共に指導者となり、マスコミ等でも活躍した。52歳のとき、東インド会社廃止により、公職を退いて著述や研究に専念するが、59歳のとき、下院議員となっている。彼は功利主義の目的を社会的幸福の実現にあるとし、そのためには良心と隣人愛からの社会的献身が必要であると説いた。その一方で社会改良主義を打ち出し、普通選挙法や婦人参政権を主張した。主著は『功利主義』『自伝』など。
*功利主義
19世紀のイギリスで成立した哲学思潮。価値の基準を有用性におき、幸福とは快楽であるとする。アダム=スミスの経済学と即応して発達し、ベンサムの「最大多数の最大幸福」論により確立した。第55号参照。
J=S=ミルはベンサムとともに、イギリス功利主義哲学の代表的人物です。「功利」(utility)とは、「役に立つこと」「便利なこと」の意味で、功利主義は幸福とは快適で便利な生活をおくることであり、人生の目的は「快楽(快さ)」であるとしました。ベンサムはそれを物質的・量的なものとして強調しましたが、後継者のミルはそれに加え、快楽には人間と動物、人間のなかでも個人による質的な差異があり、人間の尊厳と品格にふさわしい精神的快楽を説きました。たとえ現実・物質面において、艱難辛苦があろうとも、人間には精神的な喜びがあるということです。
このことを端的に表したのが上記のことばであり、前後を正確に紹介すると、「満足した豚であるよりは不満足な人間の方がよく、満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスの方がよい。」と記されています。
東洋でも、「衣食足りて礼節を知る」と言われるように、普通の人間にとって、衣食住をはじめ物質的に満ち足りていることが、幸福の大前提です。寒さに震え、飢えに苦しんでいるのに幸福感をもてというのは無理な話です。凍えることのない衣服があり、雨風をしのぐ住居があり、空腹を満たす食べ物があってこそ、人は生きていけるのですから、安心し快適に暮らせることが幸福の大本にあることに間違いありません。問題は物質的豊かさが実現したあと、どのようにあるべきか、です。
ミルが活躍した19世紀のイギリスは、ベンサムが求めた物質的豊かさや快適さが特定の階級にかぎらず、いわゆる庶民レベルにまである程度、実現した時代でした。さながら、我が国における高度経済成長期のようなものです。経済的繁栄期に人間としての幸福をどこに求めるか、これこそがその後の国家と国民のありようを定める一大事なのです。我が国では、「豊かな心の育成」が教育界で本格的に問われるようになったのはバブル経済崩壊後のことで、残念ながら遅きに失した感じがします。かく言う私も、日本教育会北海道支部の依頼で、小論『心の豊かさを育てる教育のあり方』(ここでもミルを扱っていましたが)を発表したのは平成9(1997)年2月のことであり、その遅さを悔いるところではあります。しかし、ともかくも今なすべき最善を尽くさなければなりません。
生徒に提示する学校教育の究極の課題は「どんな人間をめざすか」です。ミルのことばはその道標のひとつであり、とりもなおさず、私たち教師やおとなが、折にふれて自問自答すべきことです。では「不満足なソクラテス」とはどのような人か。ソクラテスの弟子プラトンは『ソクラテスの弁明』のなかで、師のことばとして、次のように記しています。「世にも優れた人よ。君は知力においても武力においても偉大な市民でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて恥ずかしくはないのか。評判や地位のことはことは気にしていても思慮や真実のことは気にかけず、魂を優れたものとすることに気もつかわず心配もしていないとは」。
さて、ミルがめざした真の幸福とは何でしょうか。それは、誰もが頷かざるを得ない生き方で、学校教育の指針ともなるべきものなのです。それについては次回、述べましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第56号,平成25年7月4日.
ベ ン サ ム J=Bentham
イギリスの哲学者。1748~1832。弁護士の子としてロンドンに生まれ、生来病弱であったが、教育熱心な父の英才教育を受け、4才でラテン語、7才でフランス語をマスターし、ヴァイオリン、ピアノなどにも才能を発揮し、天才の名をほしいままにした。12才でオックスフォード大学に進み、18才で法律学の学位を得た。24歳のとき、父の仕事を継いで弁護士となり、父の死後、多くの遺産を受け継ぎ、それにより生涯、研究活動に専念できた。後年は研究と著述に専念する一方で、政治改革や選挙法改正運動にも係わった。功利主義思想の先駆者で倫理思想としては個人主義、政治思想としては民主主義思想の基礎付けをした。主著『道徳及び立法の諸原理序説』『憲法典』など。
*功利主義
19世紀のイギリスで成立した倫理思想。価値を有用性・実用性に求め、経済力に支えられた現実的・物質的幸福の視点から近代市民社会の理想を唱えた。
*職業召命観
ルターやカルヴァンなどのプロテスタントの指導者により提唱された職業観で、すべての職業は神から与えら れたもので、職業はそれ自体貴賤はなく平等であるという思想。第13号参照。
19世紀のイギリスは、国内での産業革命の進行、国外でのインド植民地をはじめとする海外市場の獲得など、いわゆる“世界の工場”としての進歩と躍進の時代でした。功利主義の思想はプロテスタントの職業召命観や経験論の立場から、こうした社会と経済の発展に即して生まれてきたものです。功利主義は基本的に幸福追求の立場から個人の幸福と社会全体の幸福とを調和させようとするものです。では幸福とは何でしょうか。
紹介したことばは『憲法典』からの一語で、前後の文を正しく記すと次のようになります。「あらゆる政治的共同体の正しく適正な目的はその社会を構成するすべての諸個人の最大幸福、つまり、いいかえれば、最大多数の最大幸福である」。この真意は中世封建社会や絶対王政の下での“少数者の最大幸福”(具体的には王侯貴族あるいは特権階級の利己的幸福 )ではなく、万人の政治的・経済的・社会的幸福をつくりあげることです。一般に近代市民社会の理論的基礎付けはモンテスキューやルソーらのフランス啓蒙思想によるとされていますが、彼らが政治的改革を契約思想によって展開したのに対し、ベンサムは経済的充実、現実の生活の豊かさという観点から論じたのでした。
ベンサムによれば、幸福とは快楽です。すなわち、生活の便利さ、快適さ、楽しさであり、これは古代からある幸福論の立場のひとつで、もちろん、現代においてもかなり有力なものです。ベンサムは快楽を物質的現実的に捉え、計算可能なものであるとしましたが、注目すべきはその快楽のもたらす範囲を重視していることです。したがって、単に個人的な快楽を指すのではなく、社会全体の豊かさを求めていることとなります。ベンサムは現実を踏まえて、まず物質的な豊かさの確保を考えたのでした。
「衣食足りて、礼節を知る」という格言がありますが、経済的基盤があってこそ倫理や道徳が説かれることは事実です。近年、教育界では、「1960年代の高度経済成長により、日本は物質的な豊かさを得たが、その代わりに精神的な豊かさを失ったとされ、だからこそ心の豊かさを身に付けさせなければならない」と言われています。しかし、このように叫ばれたのは、1990年代で、バブルが崩壊し、すでに日本が慢性的な不況に陥っていた時期でした。むしろ、経済の困窮が精神の荒廃につながっていったような気がします。そもそも、豊かさを「物の豊かさ」と「心の豊かさ」に分けること自体が間違っているのかもしれないとさえ思う今日この頃です。
アリストテレス曰わく、人生の目的は幸福です。したがって、教育においても幸福とは何かをしっかり教え、考えさせることが大切です。先人たちはかく語ります。「本当に心を満足させる幸福は、私たちのさまざまな能力を精一杯行使することから、また私たちの生きている世界を十分に把握ことからうまれるものである(ラッセル・イギリスの哲学者、数学者)」。「幸福とは、自分の魂を立派なものと感じることである(ジュールベール・フランスのモラリスト)」。そして、カントは言います。「私たちは他人のために幸福を求め、自分自身のためには完全性を求めるべきである」。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第55号,平成25年6月28日.
ハ イ ネ C=J=H=Heine
ドイツの詩人。1797~1856。ジュッセルドルフの貧しいユダヤ人の子に生まれる。ヘルダーリン、シュレーゲル兄弟らとともにドイツロマン主義の代表的詩人で、ゲーテ、シラーの後を継承する人物。後年、自由主義と国民主義の時代精神の流れのなかで、その傾向の作品を書いた。鋭い感覚と技巧を持ち合わせ、さらにドイツ古典哲学に関してもすぐれた研究をした。なお、彼はベルリン大学でヘーゲルから哲学を学んだことでも知られている。また、社会や時代精神を批評する視点も持ちあわせ、風刺やウィットに富んだ作品も多い。代表作は『歌の本』『ドイツ冬物語』『ドイツ古典哲学の研究』など。
*ヘルダーリン(1770~1843)
ドイツの詩人。叙情詩に優れ、ドイツロマン主義屈指の才人で、ヘーゲルにも影響を与えたが、発狂して晩年は不遇であった。
*シュレーゲル兄弟…兄ヴィルヘルム(1767~1845)、弟フリードリッヒ(1772~1829)
ドイツの詩人、言語学者。詩作のほか、兄はシェークスピアの翻訳、兄弟ともにサンスクリット語の研究で功 績を残した。ハイネは彼らの弟子にあたる。なお、兄はスウェーデン国王の秘書も務めていた。
*ドイツロマン主義
19世紀の前半、古典主義に続いて成立した文芸思潮。個性と自由な発想を特色とし、音楽ではシューベルト、シューマンらが代表である。
*孟子(372~289BC?)
儒家の思想家。五倫(親・義・別・序・信)や四徳(仁・義・礼・智)などの徳目を論じ、性善説の立場から道徳を唱えた。政治思想としては君主の人徳による統治(王道政治)を主張した。
*荀子(298~235BC?)
孟子と反対の立場に立つ儒家の思想家。性悪説の立場から教育の必要性を説き、まずしつけや外的規範を徹底することにより道徳心の育成をめざした。後の法家の思想に影響を与えた。
*カント(1724~1804)
ドイツの哲学者。第44~47号参照。
ハイネを論じる場合、まず彼の詩を記すのが当然ですので、『ドイツ冬物語』の一節を紹介しましょう。「娘はうたった、恋と恋の悩みを、献身とそして再会を、苦しみがすべてなくなるあの天上のよりよい世界での。娘はうたった、この世の涙の谷を。たちまち消え去るよろこびを、たましいが栄光を受け、永遠の歓喜に酔う彼岸を。娘はうたった、古いあきらめの歌を。あの天国の子守歌を、民衆という大きな赤ん坊が泣き出すと眠りこませるあの歌を。・・・新しい歌、もっとすてきな歌を、おお、友よ、ぼくはきみたちにつくってやろう!ぼくらはこの地上で、かならず天国をつくり出そう。」
きわめて抽象的ですが、なにやら心がなごむ、さわやかな詩で、これがロマン主義の真髄です。ハイネは日本でも人気があり、明治時代、北村透谷も島崎藤村も与謝野鉄幹も彼にあこがれました。
ハイネは、ドイツ古典哲学の研究者でもあり、今回紹介したことばは、第46号のカントの思想に通じるものです。鉄は剣、銃、核兵器など何でも意味します。意志をもたない物体は扱う人間の手で善くも悪くもなります。機械は極めて正直で人間に従順で、責任は人間にあります。同様のことは社会や世相についても言えます。「こうなったのは社会が悪い」「周囲や環境の責任だ」とよく聞きます。しかし、犯罪を犯すのも、凶器を振るうのも社会や環境ではなく、その個人なのです。
そこで問題なのは人間存在についてなのですが、その究極のテーマは本性が善か悪かということで、孔子にはじまる儒家思想を発展させた孟子は性善説、荀子は性悪説を唱えました。孟子は、人間には生来、善なる心があり、悪は環境のまずさにより生じるのだから、間違った道を進ませないために教育が必要であるとしました。荀子は反対に、人間は生来、自己中心的であり、そのために争い・憎しみが絶えず、それを正すために教育が必要であるとしました。どちらも教育の大切さを説いていることに違いはありませんが、私はといえば、どちらかというと荀子に肩をもちたい気がします。
人間の原点は動物であるから本能・欲求から完全に自由にはなれません。多くの宗教や哲学も実はここから出発します。だからこそ日頃の教化によって知的にも情的にも、かくあるべく努力しなくてはならないのです。そして、幸いなことに人間には悪を正す可能性が大いにあります。感情の素直さや穏やかさも教育によって何とかなるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第54号,平成25年6月21日.
ユ ゴ ー V=Hugo
文学者として最高級の評価と名声を得たユゴーであるが、私生活においては両親の不仲、妻の不倫、彼自身もまた女優と逃避行するなど恵まれたものではなく、政治家としての人生も波乱に満ちていた。オルレアン公ルイ=フィリップの後ろ盾で爵位を授かり、貴族に列せられるが、二月革命で、王政は崩壊して、ルイ=フィリップはイギリスに亡命した。政界に残ったユゴーは、当初、ルイ=ナポレオンを支持するが、独裁化した彼と対立し、ルイがナポレオン3世として皇帝に就くとユゴーはベルギーに亡命し、この地で『レ・ミゼラブル』を完成させた。その後、ユゴーは英仏海峡の諸島を転々とし、ナポレオン3世の失脚後、帰国した。
ちなみに、ユゴーは世界で一番短い手紙の主として知られている。『レ・ミゼラブル』の出版にあたって、「?」と出版社に送った。その返事が「!」であった。ユゴーもさすがであるが、返事を出したラクロワという事業家も大したものである。
*ルイ=フィリップ(1773~1850・在位1830~48)
ナポレオン1世の失脚後に復活したブルボン王家を打倒した七月革命(七月王政)により即位したオルレアン家の王。当初、「国民の王」と称したが、後に反動化した。オルレアン家はルイ14世の弟フィリップを祖とする。
*二月革命 第52号参照。
*ナポレオン3世(ルイ・ナポレオン) 第52号参照。
幼い甥や姪を飢えから守るために、ジャン=ヴァルジャンはパンを盗み、19年間徒刑場で過ごし、46歳のとき、ようやく釈放される。ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れた年のことである。惨めな前科者に救いの手をさしのべる者はおらず、ジャンはある教会に身を寄せた。しかし、徒刑で染みついた邪悪な心により、かれは銀の燭台を盗み、とらえられる。しかし、教会の主ミリエル司教は、盗まれたのではなく自分が与えたのだと言って彼を赦した。これを機に彼は立ち直り、名を変えてとある町に住み、人望を得て市長にまでなる。しかし、前科者の社会復帰は許されていなかった。ジャンの正体を疑う警部ジャベールは彼を追う。折しも、ジャンと間違ってとらえられた男がおり、一夜の苦悩の末、彼は自らの正体を明かし、その男を救う。市長を退き、再び徒刑についたジャンであったが、そこを逃れ、かつて市長時代に知り合った薄幸の女性ファンティーヌの遺児コゼットを見つけ、その子を悲惨な境遇から救い出した。
愛する娘ともいうべきコゼットとのパリでの暮らしは、ジャンに初めて人間らしい幸福感を与えた。しかし、ジャベールは執拗に彼を追い詰める。やがて身を隠している間にコゼットは美しく成長した。町でひっそりと過ごす二人の前にマリウスという気鋭の青年が現れた。ほどなく、彼とコゼットは愛し合うようになる。ジャンは嬉しくも寂しくも二人を見つめる。ときは七月王政後の動乱期。マリウスは共和派の一員として反乱に加わり、ジャンもその場に駆けつけ、スパイ容疑で捕らえられていたジャベールを逃がした。ジャンは傷ついたマリウスを助け出し、再びジャベールとまみえるが、ジャベールは二人を守り、悔悛の思いでセーヌ川に身を投げた。コゼットとマリウスは結婚し、ジャンは一人残される。しかし、ジャンの正義と愛を知ったマリウスはコゼットと共に訪れ、二人の愛に包まれ、ジャンは息を引き取る。枕元にはミリエル司教から贈られた銀の燭台があった。
この作品の特色は同時代の出来事がそのまま物語に記されていることです。過去のことではなく、現実と向き合い、考えつくし、人類の未来にかぎりない夢と理想を求める。これこそがロマンティシズムの真髄です。ユゴーは、悪は文明の只中にあって人間が人間にもたらしたものである、と言います。神が造ったのでもなければ、自然の摂理でもない。人間が人間に与えたのであるから、その悪は人間が根絶しなければならない。これこそが未来の私たちに与えたユゴーからのメッセージです。
「地上に無知と悲惨があるかぎり、本書の如き書物も無用ではあるまい」。紹介したことばは『レ・ミゼラブル』の前文にある一句です。ミゼラブルは英語のmiserable、「哀れな」「惨めな」の意味で、ここでの無知とは善悪・美醜・真偽をわきまえる力の無さとらえるべきでしょう。無知と悲惨の原因は物質的貧困と精神的荒廃であり、その元凶は愛の欠如です。たとえ悪に染まった人間であっても、善の心を芽生えさせる何かを見つけることがある。善の心を育ててくれる誰かに出会うことがある。その誰かになれたら最高です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第53号,平成25年6月13日.
ユ ゴ ー V=Hugo
フランスの詩人・小説家。1802~85。ナポレオン配下の軍人の子に生まれ、幼少期には各地を転々としたが、少年時代からはパリに住んだ。若くして文学を志し、20歳で作家としてデビューする。はじめはロマン主義、のちにはそれに加えて人道主義的な作品を描き、文学にとどまらず、広く社会に影響を与えた。家庭的には妻との不仲や娘の死など恵まれず、40歳頃からは政治に関心をもち、政界に進出し、二月革命後、国会議員となるが、ナポレオン3世の帝政のとき国外追放となるなど波乱の時期をおくるが、この間に名作『レ・ミゼラブル』を完成させた。帝政崩壊後、故国に迎えられ、平穏な生活のなかで哲学的な詩作の毎日をおくり、死にあたっては国葬が営まれた。代表作は『レ・ミゼラブル』のほか、『ノートルダム・ド・パリ』『九十三年』など。
*二月革命
1848年にブルジョワと労働者が七月王政(1830年に成立したオルレアン家の王政)を打倒した革命。その後、労働者の勢力は衰え、ルイ・ナポレオンが大統領になる。
*ナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)
1808~73(在位1852~70)。ナポレオン1世の甥。各階層の対立に乗じ、ナポレオンの名声を利用してニ月革命により大統領になり、51年クーデターにより皇帝に就き、第2帝政を開く。オスマントルコとロシアとのクリミア戦争干渉に成功し、国民の支持を得るがプロシア(ドイツ)に敗れ、イギリスに亡命した。
ドラマ性、人物描写、時代背景などを総合した完成度において、文学史上ベストテンに入るといわれている『レ・ミゼラブル』の著者ユゴーは、国葬までおこなわれた著名人であり、政治家でもありましたが、妻との不和、娘の事故死など家庭的には不遇でした。当時としては極めて長寿だったのですが、皮肉にもそのため、妻、娘、息子に先立たれ、息子の未亡人と孫たちと晩年を過ごしました。彼が活躍した時代は、西ヨーロッパの政治的・社会的激動期で、彼自身、自由主義から社会主義へと思想的転向の道を進んだ波乱の人生をおくったのです。
上記のことばは人間の尊厳を讃えるものとして、よく用いられています。人間は大自然のなかではちっぽけな存在で、大洋・大空に比すべくもない。しかし、人間は科学をつくり、芸術を生み出した。人間は本来、偉大なものなのである。こう書くといかにも安直な人間讃美ととらえられるかもしれませんが、実は極めて奥が深いのです。そもそも、自分を否定的にとらえて何になるというのでしょうか。めげていてもふてくされてもどうなるものでもありません。いつまでも閉じこもっていたり、這いつくばっているわけにはいかないのです。たとえ、他人や周囲の責任であったとしても、自分の人生は自分のものだから、困難や不運を克服し乗り越えるのには自分の意志と努力によるしかない。そこに人間の尊厳、自己の存在意義があるのです。
さて、ユゴーの代表作『レ・ミゼラブル』はナポレオンの失脚から、七月王政、二月革命を経て第二共和制へと向かう激動の時代を背景に主人公ジャンと彼を取り巻く善悪様々な人物たちの人生をとおして、悪の告発と人間の善への成長を讃える大河小説です。実社会の悪や不正を冷静にみつめ批判する一方で、善へと向かう未来へのかぎりない期待が描かれます。ジャン・バルジャン、ジャベール、コゼット、マリウスらの登場人物たちは時代や国を超えて通じる人間像です。特にジャンに善と徳の道を歩ませたミリエル司教の無償の絶対愛には心を動かされます。この作品を踏まえた上で上記のことばをかみしめると、これがいかにすばらしい名言であるかを感ずることができるはずです。
ユゴーは人間への限りない信頼をもっていました。まさに、ロマンティシズムの真髄です。自分をみつめること。自分を愛すること。自分を大切にすること。自分を信じること。すると、自分の周りにいる人が見えてくる。自分にとって誰が大切な人なのか、自分を本当に愛してくれているは誰なのか。その真実が分かってきます。繰り返し言いますが、教育の本質はロマンティシズムです。教師にとっても親によってもそれが欠かせない理念です。なお、作品のプロットとそのなかのことばは次号で紹介しましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第52号,平成25年6月5日.
フ ィ ヒ テ J=G=Fichte
ドイツの哲学者。1762~1814。ドイツ観念論におけるカントの後継者。ドレスデン近郊の貧しい農家(職人とも伝えられている)の子に生まれ、近くの教会での説教や読書などで知識を得、その才能を認めた貴族の保護のもとで、イエナ大学に進学する。その後も貧困のなかで暮らし、スイスで家庭教師などをして生計を立てた。その頃、カントを知り、彼の哲学に傾倒し、当時70歳をすぎていたカントを訪問し、提出した論文が認められ、カントの推薦で出版、翌年、イエナ大学教授に就任する。しかし、神概念に関する主張が無神論者の批判を受け、失職する。その後、ベルリンに移り、ナポレオンの侵攻に際しての愛国的講演が評価され、ベルリン大学教授、総長を歴任した。カントの影響を受けつつも、フィヒテが説く「自我」は知的なものにとどまらず、行動的・熱情的で、前進してやまず、自我に反対するものをつくり、それをこえるというロマン主義的傾向をもつ。主著は『知識学』『人間の使命』など。また、講演録『ドイツ国民に告ぐ』も有名である。
ちなみに、ヘーゲルはフィヒテの後任としてベルリン大学に行き、終生、フィヒテを尊敬した。ヘーゲルの墓はフィヒテの墓の隣りに建てられ、現在では両家夫妻は並んで眠っている。
近代哲学はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」ということばに象徴されるように、思考する理性的存在として人間、即ち自我意識をもつ個人の尊厳を根底とするものでした。個人の尊厳の基本となったのが「自由」です。自由は近代国家形成のなかで、封建的因習や前近代的権威からの解放をめざし、政治的・経済的・社会的権利の獲得として展開しました。しかし、各人がそれぞれの自由を主張すると、当然、欲求の衝突、利害の対立が生じ、自己の自律、自制心、他者の尊重、つまり内面的な高尚さが求められることになります。カントはその内面の自由を道徳として論じました。
フィヒテはカントの思想を継承して、上記のことばを述べ、さらに「他人も自由であるように、あなたの自由を制限しなさい」と言っています。他人の運命を自己の運命と考える精神をもってこそ本当の意味での自由を確保できるし、国家も独立できるとするのです。つまり、他者との係わりにおいて他者への配慮があってはじめて自由が成立するということです。自由が自己の自由であるには他者の自由を尊重しなければならない。自他に責任のともなうものであり、自由に行為するとはその行為に責任をもつということです。自由を得るにはそれに値する資格が必要です。それは他者も自分と同様に自由を欲しているという事実を認められる寛容さをもつことにほかありません。ところが、このことは意外なほど定着していない。そこでフィヒテは教育の重要性を説きます。フィヒテが残した有名な演説禄『ドイツ国民に告ぐ』はナポレオンによるベルリン占領下での教育論でした。
フィヒテは、独立を失い、国民としての自覚も誇りも失いつつあるベルリン市民ひいてはドイツ国民に、現在を受け止め未来を切り拓くための個人の自立と国家の独立を説いたのです。ある種のナショナリズムなのですが、彼は軍事力の拡大や自民族中心主義を唱えるのではなく、教育により危機を乗り超えようとしました。その目的は利己心を抑制できる真に自由な人間の育成です。
国家の真の再建は国民一人ひとりの精神的再生なくしてはあり得ず、それは教育によってのみなされる。彼はその主なものとして、まず、学校を「共同社会」とすることを挙げます。学校を社会とすることで、生徒自身が社会秩序を生み出し、秩序を維持する精神を涵養するのです。次に、男女平等の教育方法を提唱します。これは19世紀初頭という時代にあっては画期的なことでした。その次に、幼年期から学習と労働と身体が統一されるような教育内容を提案します。知育に加えて、体育の充実と勤労の精神の育成を強調しています。さらに、教育は国民教育であり、国語を重視し、自国の文化を学ぶとともに、政府が教育理念とあるべき人間像を示す必要があるとしています。このことは現代日本の教育論でも考察しなければならないことでしょう。
時代の転換期や国家の危機的状況にあっては、やはり教育がよって立つところなのでしょう。勿論、教育は職場でも社会でもなされ、何よりも家庭教育が大切であることは言うまでもありません。しかし、私たち教師は職業として教育に携わっています。私たちのすべてが専門職としての自覚をもって、求めるべき人間像と教育を大いに論じ合いましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第51号,平成25年5月31日.
ヘ ー ゲ ル G=W=F=Hegel 第48号に同じ。
ヘーゲルはゲーテの推薦でイエナ大学の講師となるが、ナポレオンがイエナに侵攻したために、大学は閉校になり、彼も職を失った。生活が困窮するなかで、彼が執筆したのが、最大の主著『精神現象学』である。友人の紹介で、一時、新聞社に勤めるが、ほどなく、高校の校長になり、その後ハイデルベルク大学、ベルリン大学の教授となった。ベルリン大学への就任は文部大臣から直々の招聘であったそうであるから、彼の名声は当時から、かなりのものであった。結婚をしたのは40歳をすぎた頃であり、家庭的にも恵まれた生活をおくり、ベルリン大学総長で公職を終えている。
ヘーゲルの弁証法について補足します。ここに、一人の農夫がいたとします。農夫の前には広大な荒れ地がありました。農夫は懸命に働き、荒れ地を果樹園にしました。果樹園は、農夫という正と農夫の前に立ちはだかった荒れ地という反を止揚した合なのです。ヘーゲルはここで、自由を論じます。
ヘーゲルによれば、自由とは自分のめざすものになり、自分が表したいものを表すという、精神の働きと行動のことです。荒れ地を果樹園にした農夫は自由を実現したことになります。自由であるから荒れ地を果樹園にしたいという自分の目的に向かえることができ、それを自分の意志で行えたということも彼が精神的に自由であったからです。もし、法や制度で土地利用が制限されていれば、彼には開墾する自由が求められなかったのであり、自身の意志が弱かったのであれば、自己実現の自由を自ら放棄したことになるのです。
さて、ヘーゲルはこのような自由の実現を、国家や民族全体のものとし、世界のすべての人が自由になることができ、各人が自由を実現することが絶対精神(神)の目的であるとします。そして、万人の自由を実現する舞台が歴史なのです。ヘーゲルによれば、歴史は一人の自由から少数者の自由へ、さらに万人の自由へと向かっている。これが神の定めた必然で、真理を知るとは必然を予見することなのです。
「ミネルヴァの梟は夕暮れどきに飛び立つ」。ヘーゲルの『法の哲学』の序文にあることばです。ミネルヴァはローマ神話における知恵の女神、ギリシャ神話のアテナーにあたります。梟は女神の忠実な使者で、夕暮れになるとアテナーは梟を飛ばしてアテネの町の一日の出来事や人々の様子を探らせ、明日への知恵を磨いたと伝えられています。ヘーゲルは哲学を梟に見立て、絶対精神が一つの時代の目的を完成させ、歴史的展開を終えたときに哲学は初めて、その時代の何たるかを、歴史の意味を、絶対精神の意図を理解できるとしました。例えば、第二次世界大戦の敗戦をもって明治以降の近代化の功罪を認識できる、東西冷戦の終結により20世紀後半のイデオロギー対立の真相が理解できる、ということです。
私たちは、すべてみな時代の子であり、時代という大いなる力のもとに生きています。歴史の意味はそれを企図する永遠の絶対精神により与えられ、それぞれの時代の夕暮れどきにすべては明らかになる。確かに私たちが時代がもたらした意味と意義を知るとき、その時代はすでに終わりを告げているのかも知れません。原発問題もまたしかりでしょう。しかし、教育者は、佇んでいたり、静観してはならない存在です。真実を知るために休むことなく学ばなくてはなりません。勿論、一人の力は無力です。だから、志を同じくする仲間が大切です。
そもそも教育とは、子どもや生徒に夢と希望を与え、自己のもつ可能性を説くものでなければなりません。そのためには教師が大いなる情熱と高志を持たなければなりません。「友よ、太陽に向かって努力せよ!人類の救済が熟する日も近い。さえぎる木の葉や枝がなんだ。太陽のもとまで突き進め!」。これもまた、ヘーゲルのことばでした。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第50号,平成25年5月24日.
ヘ ー ゲ ル G=W=F=Hegel 第48号に同じ。
ヘーゲルの活躍した19世紀の前半は、市民革命から自由主義・国民主義へと歩んだヨーロッパの激動の時代であった。この時代は各分野に歴史上の頂点に立つといっても過言ではない人物が登場した。哲学においては、ヘーゲルとならぶドイツ観念論の代表者シェリング、当時は反主流派で不遇であったショーペンハウエル。彼らはのちに、それぞれキルケゴールとニーチェという実存哲学の祖に影響を与えた。文学では、すでに紹介したゲーテとシラー。ゲーテはヘーゲルを高く評価し、公私にわたり援助した。童話のグリム兄弟もこの時代である。美術ではダヴィッド、ドラクロア、ミレー。音楽ではベートーヴェン、シューベルト、ショパン。そして、政治においてはあのナポレオンがいる。ちなみに、ヘーゲルはナポレオンの活動に神とも言うべき絶対精神の意志をみて、神はナポレオンを通じてヨーロッパ全土の自由を与えているとした。ベートーヴェンもまた、ナポレオンを称賛し交響曲3番『英雄』をつくった。しかし、彼が皇帝に即位したことに失望し、楽譜を破ったと言われている。
*シェリング(1775~1854)
ドイツの哲学者。カントの哲学を継承し、すべての事象が絶対者(神)の表れであるとした。
*ショーペンハウエル(1788~1860)
ドイツの哲学者。理性主義の哲学を批判し、生存への意志を強調した「生の哲学」を説いた。
*キルケゴール(1813~55)
デンマークの哲学者。ヘーゲルに代表される理性中心の哲学を批判し、個人の主体性を重視した思想を説き、不安と絶望のなかで、神の前の単独者として信仰に生きる思想を展開した。主著『死に至る病』など。
*ニーチェ(1844~1900)
ドイツの哲学者。当時の西欧社会がニヒリズムに陥っているとし、キリスト教道徳を批判した。「神は死んだ」と述べ、既成の価値観を否定して新たな価値を創造する超人を説いた。主著『ツァラトゥストラはかく語った』。
ヘーゲルはこの世界のすべての事物や事象には存在とその発展・成長を支える根本的な原理があるとしました。それが弁証法です。弁証法とは、本来は対話法・問答法を意味するのですが、彼はそれを存在論に適用したのです。その弁証法にはふたつの特色があります。ひとつは、「すべてのものは本来あるべきはずの状態へと変化・発展する」ということです。例えば、芽がつぼみとなり、つぼみが花と開き、花は実を結びますが、その過程は必然であるということです。私たちは、それを当たり前のこととして受け入れていますが、ヘーゲルはそこに「必然」を見出すのです。
ふたつめは、「変化・発展とは今ある状態を否定する」ということです。つまり、芽がつぼみになるとはつぼみが芽を否定し、つぼみが花となるのは花がつぼみを否定したからなのです。ヘーゲルは個人の精神も社会の出来事も人類の歴史もすべて、このように理解します。例えば、王政を否定することにより貴族政治が、貴族政治を否定することにより民主政治が成立したというのが歴史における政体の変化・発展であるのです。さらに、変化・発展とは自己と対立するものを見出し、対立するものを克服するという構造をもっているとします。これが有名な「正・反・合」の論理です。
「正(テーゼ)」は「反(アンチ・テーゼ)」によって、より高次のものである「合(ジン・テーゼ)」へと進む。ヘーゲルはあらゆるものはこの弁証法の原理によって存在し、発展していくとしました。「反」は「正」に対立するもの、否定するものですが、「反」があってこそ「正」は「反」を包摂して、より大きく、高く、優れた「合」となるのです。
教育の基本構造も、ここにあります。私たちは同じ状態にあり続けていては、成長しませんし、進歩もありません。高飛びで150㎝を跳べる選手がいつもそのバーだけを跳んでいたら、そこまでの選手に終わります。彼が次に立ち向かう160㎝のバーがなければ、彼の選手としての飛躍はありません。学問研究や受験勉強においても、自己の壁となるもの、自分がかなわないものと対峙してはじめて、自己の能力や力量が自覚され、それらを克服することでより高次の人間となるのです。勿論、人格の高さや人間性の豊かさについても、このことは当てはまります。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第49号,平成25年5月17日.
ヘ ー ゲ ル G=W=F=Hegel
ドイツの哲学者。1770~1831。ドイツ観念論の大成者と同時に近代西洋哲学の完成者とされている。ドイツ南部のシュツットガルトに財務官の子として生まれる。少年時代からギリシャ古典文化に親しみ、チュービンゲン大学で神学と哲学を学び、フランス革命に熱狂した学生時代をおくった。卒業後、イエナ大学やハイデルベルク大学で教壇に立ち、46歳の時、ゲーテの推薦でベルリン大学教授となる。その後、同大学総長となり、当代随一の学者としての地位を確立する。世界の本質を精神とし、弁証法によりすべての事象の発展を説き、世界史の目的を自由の実現であるとした。ドイツ観念論の大成者であるとともに、近代哲学の帰結をなす人物である。主著『精神現象学』『歴史哲学』『法の哲学』など。
*弁証法…ヘーゲルによればすべての存在は自己と矛盾、対立するものを通して「正―反―合」の形をとり、より高次の段階へと進み、本来あるべきものへと発展する。
*ゲーテ…1749~1832。ドイツの詩人、文学者。第38~41号参照。
*カント…1724~1804。ドイツの哲学者。第44~47号参照。
*パスカル…1623~62。フランスの哲学者、数学者。第22~23号参照。
ヘーゲルはカントにより確立したドイツ観念論(理想主義)と西洋近代哲学そのものの大成者として高く評価されています。彼の哲学の主たるテーマは自由であり、それは近代市民社会の形成という時代の要請でもありました。前号まで紹介したカントは近代において本格的に自由を取り扱った哲学者でしたが、自由をあくまでも個人の内面のものとしていました。自由は道徳と深いつながりをもち、自己の欲望や本能を理性によって抑制することであり、道徳的な意志の自律、つまり、欲望や本能に支配されないことが真の自由であるとしたのです。カントの説く自由は、一般にいう自由とはむしろ反対の意味で、何やらごまかされたような気がしますが、西洋哲学で論じられる自由は、カントの影響を強く受けています。それをより近代的な意味で取り上げたのがヘーゲルでした。
ヘーゲルによれば、自由は単なる理念や内面的な道徳、自律ではなく、現実的なものあるいは現実となるべきものです。自由とは自分が何ものにも制約されることなく、自分の意見を述べることであり、自分のしたいことができること、なりたいものになれることです。とすれば、各人のそれぞれの自由を保障する法律や制度が整備されなくてはならない。こうして近代の社会体制が出来上がるのです。つまり、自由の実現が法や制度を必要としたということです。
さて、上記のことばですが、世界の根源(存在の始源)が精神であるとする考え方を観念論(それに対し物質を根源とするのが唯物論)と言いますが、精神とは何かとなるとなかなか難しい。へーゲルはその本質を自覚であるとしました。例えば、机は精神をもたない。なぜなら、机は自分が机であることを知らないからである。バカバカしい例示のようですが、人間の特色は実にここにあるのです。以前、紹介したパスカルは「宇宙がこれをおしつぶす時にも、人間は人間を殺すものよりも一層高貴である。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っているからである。」と述べましたが、これも精神の自覚を意味します。ヘーゲルはさらに、その自覚は自分以外のものを通して、さらに自分以外のものへの働きかけを通して為されるとするのです。例えば、農夫は自分がつくった作物のなかに、自分の技量と努力を見る、詩人や画家は自分の作品を通して自分の才能を自覚するのです。自分の能力や性格などもそのようにして知られるのです。 学校での学習も、ある意味で自己の内面にあるものをいかにして表すか、表されたものを起点にさらなる成長・発展を目指すかということにあります。例えば、何も書かれていない答案用紙に名前を書くことにより、答案用紙は自分の分身となり、答案を通して自分の学力が分かります。その得点をひとつの目安として次の段階へと進みます。勝敗が決まるスポーツにおいては、それが一層明確になるはずです。また、友人を通して自分の人格を知ることもできます。自分の友が善良で立派な人物であれば、自分もまたそれなりの人間です。こうした精神の自覚が人間を向上させます。そして、それが人間の尊厳とよばれるもののひとつなのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第48号,平成25年5月8日.
カ ン ト I=Kant 第44号に同じ。
カントの用語で、しばしば用いられることばが「コペルニクス的転回」である。コペルニクスはポーランド(当時は東プロシア)の天文学者で、自然科学のほかに医学、神学を学び、聖職者でもあったが、アリストテレスやプトレマイオスが唱えた天動説や宇宙有限論を否定し、地動説を提唱した。カントは彼自身の認識論を天動説から地動説へ代わるような大きな転回であるとした。以後、ものの見方や価値観の大きな転換を「~におけるコペルニクス的転回」とよぶようになった。ちなみに、コペルニクス自身は当時の教会の実態を把握し、自説を公表せずに一生を終えた。
カントの生涯はきわめて地味で目立たないものであった。大学を卒業後しばらくは家庭教師として各地を転々としていたが、以後は故郷から離れず、職業も教師であった。一生結婚せず、複雑な人間関係もトラブルもない。その死は穏やかなものであり、最期のことばは「これでよい。」であった。
*コペルニクス(1473~1543) 第17号脚注参照。
カントの時代、哲学のテーマの一つは中世の神学において自明のこととされていた神の存在、霊魂の不滅、世界(宇宙)の始まりについて、理性によりいかに考察するかということでした。神の存在については、かのデカルトが論理的に証明しているほど、真剣かつ盛んでした。カントの理性批判の出発点はここにあり、彼はこのようなテーマに人間理性がいかに係わることができるかという観点から理性能力について吟味したのです。その結果、我々の理性が認識しうるのは現象(我々にとってそのように認識できるもの)のみであって、物自体(事物そのもの)は知り得ないのであり、したがって、現象でもなく、経験もできない神、霊魂、宇宙については理論理性の対象外であり、それは実践理性(意志に働きかけ、いかに行為するかを命ずる理性)の対象として、道徳や信仰に係わることであるとするのです。
カントは物自体と現象、理想と現実を峻別します。彼にとっては「かくあること」と「かくあるべきこと」とは異なっており、両者が一致するかどうかは問題ではありません。人間にとってあるべき生き方は、それが現実において恵まれていたり、快適であったりすることは無関係で、道徳的に生きているか否かにあります。幸福とは人間として自他ともに是認されうる生き方をすることであり、極言すると、その身はいかに貧困不遇であっても、道徳法則に従って生きているのであれば、幸福であるのです。
そもそも、カントは幸福を学問的に論じるものではないとしています。というのは、幸福とはきわめて個人的な主観によるもので、個々人によって何が幸福であるかが分からないからです。例えば、ある人にとっては金持ちになること、ある人にとっては地位を得ることが幸福かも知れません。しかし、生まれたときからそれらをもっている人にとっては幸福でも何でもなくごく普通のことなのです。それぞれがめざすもの、求めるものによって幸福は異なります。しかし、ここで、厄介なことがあります。いかに幸福が個人的なものであり、人により異なっているとはいうものの、勤勉に働き、真面目で誠実に生きている人が不遇に生きている現実は何とも悲しいものがあります。このような事実にどう向き合えばよいのでしょうか。
カントはそれでも言います。たとえ現実的物質的ににどれほど貧しく苦しい生活をしていても、道徳的に正しい人はそれ自体で、誰よりも幸福である。いかなる豪奢に対しても、人間として誠実であることに勝る幸福はない。彼はさらに言います。私たちは現実の幸福(財産、地位、名誉など)を求めてはいけない。「幸福を求めるのではなく、幸福に値する人となりなさい」。このことばには、厳しさと気高さに満ちた真の理想主義が示されています。他人からほめられるために善行を為すのではない。善行を為すべきであるから為すのである。周囲の人々から認められたいのならば、認められるにふさわしい行いをしなさい。尊敬されたいのであれば、尊敬されるにふさわしい人になりなさい。それが本当の意味での自己肯定感、自尊心であることを伝えてください。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第47号,平成25年5月1日.
カ ン ト I=Kant 第44号に同じ。
*F=ベーコンと経験論 第15,16号参照。
*デカルトと合理論 第18,19号参照。
*コペルニクス的転回
コペルニクスの地動説にちなんだカントの認識論の用語。カントは人間が事物を「認識する」とは対象である 「事物そのもの(物自体)」をそのまま受け入れるのではなく、人間の認識の仕組み(感性や悟性の枠組みと機 能)にしたがって、「事物」を現象として「つくりあげる」ことであるとした。
カントは大学を卒業(中途退学という説もある)したあと、定職につけず、家庭教師や大学の私講師(教室を借りて講義を行い、受講した学生から授業料をもらう私的な教師)して生計を立てていたことはよく知られているが、どうやら少年時代から、同級生に勉強を教えて収入を得ていたらしい。また、競馬の予想をして、勝った場合は配当金の一部をもらうというアルバイトもしていた。天候や馬場状態と出走馬の特徴を観察分析して勝ち馬を絞っていたようだ。存外、生活力が旺盛で、逞しくかつしたたかに生きる一面も持ちあわせていた。身体が小さく、虚弱であったわりにはさしたる大病もせず、80歳まで生きたのは当時としては極めて長寿である。
科学者として学問の道に入ったカントは、哲学においてはまず、「人間は何を知りうるか」「事物をどのようにして知るのか」をテーマとしました。当時の哲学はF=ベーコンを祖とする経験論とデカルトを祖とする合理論が二大潮流でしたが、カントは、前者は経験を重んじるあまり人間の理性能力に懐疑的になり、後者は理性に絶対的な信頼をおくために、しばしば独断に陥るとし、人間の理性の能力を吟味したのです。経験論も合理論も目的は正しい知識を得ることが目的であり、カントはそのためには「理性が知りうる対象は何か」と「人間はどのようにして事物の存在や本質を知るのか」を明らかにする必要があるとしました。その結果、彼は人間理性の認識能力は現象と経験しうることのみであり、それも事物それ自体を知るのではなく人間の感覚機能や思考傾向に合うように認識するとしました。このことを哲学史ではカントの“コペルニクス的転回”とよんでいます。
カントは自然界の法則はいつでもどこでも誰にでも当てはまるものであるとしました。例えば“1+1=2”は普遍的真理です。同様に、個々人の内面の問題である道徳も普遍的でなくてはなりません。行為の具体的内容つまり何を為すべきかは時代や国、その他の状況により異ならざるを得ません。したがって、道徳の法則は行為をする際の動機つまり心のあり方を問うものです。
さて、ここでカントは、理性を、論理、数学、科学など事物を知るはたらきをする「理論理性」と万人から是認され、自分自身でも納得できる行為をする「実践理性」に分類します。道徳は勿論、「実践理性」の領域であり、かつ「理論理性」が知り得ないもの、つまり、神の存在や魂の不死についての切込口になるとします。
前号で紹介したその普遍的法則の基本方式のひとつは、自分がある行為をなそうとするときに、それが万人に認められ自分自身も満足し納得できるようにするということでした。『道徳形而上学原論』にはもう一つの基本方式が記されており、それが上記のことばです。これもまた、表現が独特で難解なのですが、簡単に言えば、自分の利害損得のために能力や権威を発揮するべきではなく、また、他人の能力や地位を手段として利用してはいけないということです。ここで説かれる目的とは理想としてめざすものであり、例えば、自分の友人が優しい人であれば、自分もまたその優しさをもつように努める心のあり方のことです。「神が完全であるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。」というイエス=キリストのことばに通じます。
人間も自然界に生きているかぎり、自然法則つまり本能や欲求に支配される存在です。このことは教育問題の本質でもあります。「いじめ」にしても、突き詰めていけば、本能の発散と欲求充足のはけ口に他なりません。本能や欲求に起因するから、いじめは自分よりも弱いものに向けられ、いじめるものは自分よりも強いあるいは周囲に一目置かれている人には従順です。そこが、人間に共通する弱さであり愚かさであって、その克服は「私たちは何を知りうるか」「私たちは何を為すべきか」を探究することにつきるのです。人間が人間であることの尊厳を教える。それは同時に自分自身の価値に気づかせることであり、私がいつも言っている「自己肯定感」の育成の出発点です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第46号,平成25年4月26日.
カ ン ト I=Kant 第44号に同じ。
カントははじめ、天文学やその他の自然科学の研究者として出発した。特に、「星雲説」とよばれる宇宙生成の学説で有名であった。自然科学の本質は自然界における原理や法則の普遍性である。かれの学問的傾向は自然科学からの影響を強くもち、哲学においても普遍性や普遍妥当性を大きな特色としている。また、彼の性格もきわめて几帳面で真面目で、質素倹約を旨とし、健康に留意して暴飲暴食はせず、規則正しい生活をおくっていた。町の人たちはカントの行動をみて、時間を知ったと伝えられている。さらに、神経質であったらしく、授業のときの学生の身なりや態度が気になることもあったらしい。その一方で、豊富な知識と深い見識のゆえに、話題は豊富で、授業は学生たちを退屈させないユーモアとウィットに富んだものであった。誰とでも会話ができ、自宅に友人たちを招いてホームパーティを開いていた。ちなみに、好物はワインとチーズであると記されている。
「それを考えること屡々(しばしば)にして、その時間が長ければ長いほど、いつも益々新たにしてかつ増してくる感嘆と崇敬の念をもって私の心を満たすものがふたつある。それは我が上なる星のちりばめく空と我が内なる道徳法則である」。カントの道徳論の主著『実践理性批判』最終節の冒頭にある一文です。天文学と哲学をきわめたカントにふさわしく、また俗世間から離れた堅物の哲学者というイメージを払拭した名文です。無限に広がる星空とその片隅にある地球に生きる小さな人間。人間一人ひとりの尊厳は大宇宙と比べてもひけをとらない。近代思想の金字塔である人間の尊厳、個人の尊重を高らかに謳ったことと、それを道徳という内面の世界に求めた高邁な精神を素直に受け止めたいと思います。
道徳法則とは、キリスト教や仏教の戒律あるいは儒教の徳目のように行為の具体的な内容を示す規範ではありません。カントは道徳にも自然法則と同様の普遍性・客観性を求めましたから、道徳法則はいつでもどこでも誰にでもあてはまるものでなくてはなりません。そうすると、それは具体的な内容ではありえない。例えば、通勤の途中、誰かが倒れていたとします。そのとき、その人は何をなすべきか。これにはたくさんの対応があるでしょう。その人が医師であれば医師としてなすべきことがありますし、教師であれば教師の、また倒れている人が自分の学校の生徒であるかないかによっても、対応は異なります。そこでカントは、道徳とは行為の内容や結果に係わるものではなく、行為をする際の動機つまり心のあり方を問うものであるとするのです。
上記の一文は『道徳形而上学原論』に記された道徳法則の基本方式のひとつです。表現が難しいのがカントのカントたる所以ですが、格率の意味が分かると簡単です。格率とは行為をするときの個々人の傾向のことで、例えば、「自分は久しぶりに友人にあったら、まず握手をする」のであれば、それはその人の友人に対する行為の格率です。また、「自分は曇り空ならば必ず傘をもつ」のであれば、それはその人の天気に関する行為の格率です。これらの例であれば、どちらでもかまわないのですが、道徳については「あなたの行為の格率が常に普遍的な法則と一致するようにしなさい」とカントは説くのです。つまり、自分がある行為をなそうとするときに、それが万人に認められ自分自身も満足し納得できるようにするということです。したがって、何をなすべきかではなく、自他に恥じないような心をもって行為するのがカントによれば、真の道徳なのです。
「その人となり、地位はふさわしく、行いはしかるべく」とカントは言います。高校生ならば高校生にふさわしい行いをしなければなりません。これを誰に指示されてするのではなく、自らの意志で行う、これが自律です。「ふさわしい何か」などという議論はカントにとって問題外です。普通に教育を受け、社会生活をおくっている人であれば、本当は分かっていることであり、「ふさわしさ」を問うのは怠惰か自尊の無さゆえです。高校生たるにふさわしくを伝える。そのためには、教師が教師にふさわしい品位をもち、しかるべき行いをすべきであることは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第45号,平成25年4月19日.
カ ン ト I=Kant
ドイツの哲学者。1724~1804。東プロシアのケーニヒスベルク(現ロシア連邦・カリーニングラード)の馬具職人の子に生まれ、ケーニヒスベルク大学へ進み、苦学して自然科学、哲学を修めた。卒業後10年間、郷里周辺で家庭教師をし、その後、ケーニヒスベルク大学の私講師を経て、46歳のとき、教授に就任、さらに総長をつとめた。初めは宇宙物理学や自然科学の研究を中心としたが、のちに哲学に転じ、多くの著書により、ドイツ観念論を完成させ「すべての哲学はカントに入り、カントから出る」といわれた。主著『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『道徳形而上学原論』など。また、『永遠平和のために』では、国際連盟・国際連合の基礎となる世界的組織の設立を述べている。
*ドイツ観念論
日常的・功利的価値よりも超越的・普遍的価値に人生の理想と目的を求め、内省的・観念的な方法をとる哲学 思潮。一般に、経験論と合理論を総合したカントの批判哲学により確立し、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルに受け継がれた。なお、倫理学および文化面を強調してドイツ理想主義ともいう。
*『エミール』
ルソー著。1762年刊行。孤児エミールが周囲の人々の暖かい善意に包まれて成長していく物語風教育論。ロマン主義文学の先駆としても評価され、青年期を「第二の誕生」とよぶなど数々の名言がある。また、ここで描か れた人間のがありのままにもつ自然なあり方を尊重する教育観が「自然に帰れ」というスローガンとして、後世 伝えられることになった。ルソーについては第34,35号参照。
「それ以前のすべての哲学はカントに入り、以後のすべての哲学はカントから出る」と言われているように、カントは近代哲学の最高峰にあり、認識論、存在論、道徳論、美学、政治思想などあらゆる分野を体系的哲学として構築した人物です。このように紹介すると、いかにも名門の出自であるかのように想像しがちですが、彼は馬具職人の子に生まれ、少年時代は極貧の生活で、苦学して大学に進んでいます。父を亡くしたときは葬式の費用さえなく、日記には「寂し、貧し」と記されています。
彼の貧困生活はその後も続き、家庭教師や私講師(大学からの給料をもらわず、教室を借りて授業し、学生から直接授業料をとる教師)を経て、正式の教授になったのは46歳のときでした。当時としてはかなり遅咲きです。また、身体的にも虚弱で、芸術や文学の才能にもさして恵まれるものはない。そんな彼が、ただひとつ誰にも負けず、また自己の存在証明になったのが学力でした。そのためか、若き日のカントは無学な人、無知な人を見下すところがあったらしい。ところがあるとき、彼はひとつの書物に出会います。フランスの天才的思想家ルソーの『エミール』でした。時計の針のように規則正しい生活をしていたカントが時間を忘れて読み耽ったこの書には、人間の価値が財産や地位は勿論のこと才能や学識にあるのでもなく、人格そのものにあることが記されていました。
上記のことばは『道徳形而上学原論』の冒頭にあるもので、カントの道徳論の根幹を端的に表したものです。彼はここで、真に善と言えるものは、いわゆる善さあるいは徳とよばれているもの、例えば、知恵や勇気や健康などではなく、これを用いる意志の善さのことであるとします。頭の良いこと、知識のあることはそれ自体では単なる一能力にすぎず、それを用いる意志が善くなければ、かえって最大の悪ともなりえるのです。例えば、知識のあるものが犯罪を犯したならばどのようなことになるか。
学問や教育の目的は善意志を身に付けることであるとカントは説きます。知識や学識はそれ自体大切なものです。しかし、ただもっていればよいというわけではありません。より楽しく、より豊かに生きるにはそれを正しく用いなければいけません。その正しさを善を学び、教えるのが学問であり教育なのです。そして、それらは相依相即の関係にあります。知識や学識は善意志をより強固にし、善意志は知識や学識をさらに深め高めます。そこから本当の意味での教養が生まれます。教養とは学歴のあることでも単に学識のあることでもありません。広い視野に立ち、他人の立場や気持ちを理解できる素養のことです。か弱い人や虐げられている人たちに思いやりとやさしさを向けられる品性のことです。生徒にはこのような人間の尊厳を教えましょう。難しいことではありません。どんな人間になりたいか、何にあこがれ何をめざすか、誰を友とし誰を愛するか、そのような想いをもって、日々、勉学に励むことを伝えればよいのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第44号,平成25年4月12日.
ベートーヴェン Beethoven
ドイツの音楽家・作曲家。1770~1827。ドイツのボンで音楽一家の子として生まれた。幼児から宮廷の歌手兼楽長であった父の英才教育を受けて育つが、17歳で母と死別し、その後は父の酒乱に悩まされるなど、家庭的には恵まれなかった。若くして、モーツァルトに絶賛され、22歳のときウィーンに留学、彼の死後、当代随一のピアニストとして、社交界の花形となったが、しだいに耳が衰え、30歳頃にはほとんど聴力を失った。以来、一人孤高の生活をおくることとなるが、そのころから、比類のない楽曲をつくりあげる。彼の音楽は近代市民社会の自由と人間の尊厳を表現したものでクラシックの最高峰と評価されているとともにロマン派の先駆者としても位置づけられている。特に、ワーグナーは交響曲9番の詩と音楽の融合に感銘し、強い影響を受けたと語っている。代表作はピアノソナタ『月光』、交響曲3番『英雄』、5番『運命』、6番『田園』、9番『合唱』など。
*ワーグナー(1813~83)
ドイツロマン派を代表する音楽家で、歌劇を総合芸術として大規模化した楽劇の創始者。ゲルマンの神話や伝説を題材とした作品を描き、壮大なスケールのドラマと甘美的かつ荘厳な作風は他に類がない。代表作は『ニーベルングの指輪』、『ローエングリン』、『タンホイザー』など。
前号でも述べましたが、音楽史上最高峰に立つモーツァルトとベートーヴェンは音楽的特徴も人生観も対照的です。一口に言えば前者は「華麗」、後者は「荘厳」でしょうか。ともに英才教育を受けたところは共通しますが、モーツァルトがその生涯の悲惨さはともかく、天才の名をほしいままにしていたのに対し、ベートーヴェンは聴力喪失という音楽家として、決定的なハンデを負っています。それを克服したがゆえに、彼はモーツァルトならあり得るはずのない、道徳や倫理の教科書にも偉人として取り上げられることになりました。
遺書や日記、書簡がたくさん残されているためか、ベートーヴェンには文学者かと思われるほど名言が多く、交響曲『運命』のはじめに出てくる主題についての「かく運命は戸をたたく」「私は人類のために、甘美な酒をもたらす酒神だ。そして精神の神々しい陶酔境を人間に味わわせることのできるのはこの私だ。」「王侯貴族は大勢いるが、ベートーヴェンは一人しかいない。」「もしも美しいまつげの下に、涙がふくらみたまるならば、それが溢れ出ないように、強い勇気をもってこらえよ。」など音楽家としての自信と誇り、人間としての不屈の闘志と忍耐と勇気を示すことばがたくさんあります。
その彼も、聴力を失ったときには、さすがに絶望して自殺を考え、遺書を書きました。しかも、このときは障害に加えて恋人との別離もあり、失意の極みでした。しかし、自分の苦悩を告白することにより、彼は絶望から立ち上がったのです。とかく、人間は不運に見舞われると、「どうせ俺なんか」「私なんて…」と卑下するものですが、事態がそれで好転するわけではありません。生きていれば何とかなるかもしれない。この素朴なところに彼は帰って行ったのでした。ここで、ひねていてもどうにもならない。そして、「おまえを苦しめている不幸を頭のなかから追い払うためには、仕事に没頭するより良い手段は見つからない」と自己の本領に打開の道を求めたのです。
彼の音楽は一般に、市民革命の燃えるような情熱と自由と人間の尊厳を高らかに表現したものととして評価されています。モーツァルトの音楽が宮廷の貴族的精神の表象であった以上に、ベートーヴェンは時代精神を代表したと言えるでしょう。しかし、彼の音楽の真価は、それ以上に、自己の苦悩や運命と闘う強靱な意志を表わしたことにあります。それゆえに、その作品は時代を超え、世界中の人々に感動を与えているのである。
上記のことばは、私たち教師には、ある意味で馴染みのあるものです。多くの偉人たちが困難に耐えて逆境に打ち克って生き抜くことの大切さを説いています。厄介なことに、若い時代にはしばしば、このような先人のことばや生き方に批判的懐疑的になり、「それは成功した人の綺麗事」と揶揄する傾向があります。しかし、本当に誠実な人。努力しようとしている人、自分の人生をよりよいものにしたいと思っている人は、必ずこのようなことばに耳を傾けます。成果なき努力は認められない。結果を出すことは大切です。現在の学校教育では必須の目標でしょう。その一方で、私たち教師は生徒たちの形に表れない、記録に残らない努力を評価することも大切です。俗に、「斜に構える」ということばがありますが、まっすぐに人と向き合い、自分と向き合う。肘をついたり、足を組んだり、斜めの姿勢で他人の話を聞く者は表面的には上手く世渡りしても、真に実のある人生を生きているとはとても思えません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第43号,平成25年3月22日.
モーツァルト Mozart
オーストリアの作曲家、演奏家。1756~91。「天才」の代名詞とされる。クラシック期の大音楽家で、幼少の頃より、父の英才教育を受け、オーストリア・ハプスブルク家の宮廷音楽家として活躍した。交
響曲、室内楽、ソナタ、歌劇など音楽のあらゆる分野において才能を発揮し、クラシック期のみならず、全時代を通じての頂点に位置する。しかし、晩年は悲惨で壮絶な死を遂げ、墓もなく共同墓地に埋葬された。ウィーンの市街から少し離れたところにブルク公園という静かな憩いの場がある。そこにト音記号の花壇を前にモーツァルトの像が立っている。墓すらない悲劇の天才に、音楽の都ウィーンの人々がおくった優しさを感じる。代表作は交響曲、ピアノ協奏曲のほか、オペラ『フィガロの結婚』『魔笛』『ドン・ジョバンニ』など。
*ハプスブルク家
13世紀以来、神聖ローマ皇帝を代々継承したヨーロッパ屈指の名門。16世紀後半にスペインとオーストリア に分かれ、スペインは1700年に消滅したが、オーストリアは第一次世界大戦まで続く。モーツァルトの時代は 女帝マリア=テレジアとその子ヨセフ2世が皇帝であった。
*ベートヴェン(1770~1827)
ドイツの作曲家、音楽家。モーツァルトと並ぶクラシックの巨匠。交響曲、協奏楽など各ジャンルに優れた作品を残した。
*マリー=アントワネット(1755~93)
オーストリアハプスブルク家の王女で、ルイ16世の王妃。フランスの財政窮乏の張本人として革命の激化により処刑された。
*『アマデウス』
1989年製作アメリカ映画。監督M=フォアマン、主演F=M=エイブラハム。ウィーンの精神病院で、かつての宮廷音楽家サリエリが嫉妬と憤怒からモーツァルトを追いつめ、死に至らせたことを回想するドラマ。モーツァルトの実像と彼の死についてのかねてからの疑惑に切り込んだ話題作。
クラシックはもとより全時代を通じての音楽の双璧といえば、モーツァルトとベートーヴェンですが、両者は全く対照的です。ベートーヴェンが若い時から耳が不自由で音楽家としての決定的なハンデを努力によって克服したのに対し、モーツァルトは幼少から天才の名をほしいままにした自由人でした。6才で演奏、10才でオラトリオ(聖譚曲)、11才でオペラを作曲した彼は25才のときには、すでに円熟期に入っていました。しかし、彼の浪費癖による生活苦と病苦(アルコール中毒とも薬物中毒ともいわれる)のため、特に晩年は皇室や貴族たちとの離反から、経済的にも苦しい毎日をおくりました。
アメリカ映画『アマデウス』の大ヒットによりクラシックファン以外にも、その当時はモーツァルトブームが起こりました。映画のなかでも描かれていましたが、モーツァルトは、音楽史上類を見ない才能の持ち主で天才とは彼のためにあるとさえ言われた反面、生活能力はなく、放蕩、傲慢、贅沢で、人格においては劣悪きわまりないという悪評があります。しかし、それはどうやら、彼の妻の日記や手紙を根拠とするようです。真相はともかく、モーツァルト夫妻は仲が悪かったそうです。
死の間際、神経衰弱のなか、最後に書いたのがレクイエム(鎮魂曲)で、それはある人物から依頼され、モーツァルトはその人物を死の使いと思っていました。その曲は彼自身のレクイエム(鎮魂曲)ともなり、作品は未完に終わりました。悶死した彼は共同墓地に埋葬され、稀代の天才としてはあまりに哀れな最期でした。モーツァルトの死の2年前、フランスで革命が起こり、彼の死の2年後、幼いとき彼が憧れたマリー=アントワネットが人民の名のもとに処刑されました。ふたりの死とともに絶対王政と宮廷文化は終焉を迎えたのです。
今回紹介したことばはモーツァルトが19才のとき、母にあてた手紙のなかの一文で、底抜けの明るさが感じられます。心身ともに彼の人生で一番良い時期でした。天才であっても青年は青年。何ごとにも純粋多感で意欲的、その一方で傷つきやすく、自分に自信がもてない。だから自分の才能、働きぶり、存在が他人や周囲から認められることが何よりも嬉しい。天才は誰からも教えられることがない。天才に苦言を呈する人はいない。それ故、天才は孤独なのです。いつも言っていることですが、私たち教師は天才のためにではなく、普通の人々のために存在します。モーツァルトのような天才ですら、若い時代には喝采をあびて万歳をする。いわんや、凡人においては。教師の本分は、いかにして生徒の自己肯定感を育てるかにあります。ただし、自尊は必要であっても慢心はいただけません。自己肯定感や自尊感情をもつにはそれなりの努力と真摯な心構えが必要です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第42号,平成25年3月15日.
ゲ ー テ J=W=V=Goethe 第38号に同じ。
*グノー(1818~93)
フランスの音楽家。『ファウスト』第一部をモチーフにして『ファウスト』を作曲した。
*シューマン(1810~56)
ドイツの音楽家でロマン派の代表的人物。交響曲、室内楽曲やピアノ曲に名作を残した。
*リスト(1811~93)
ハンガリー出身の音楽家。ドイツロマン派の代表的人物。ピアノ曲『愛の夢』で知られる。
*マラー(1860~1911)
ウィーンで活躍したボヘミア出身の音楽家。『交響曲第8番・千人の交響曲』では『ファウスト』第二部の最後の詩が歌詞として用いられている。
ゲーテは数々の恋愛で知られるが、クリスティアーネという女性と正式に結婚している。ゲーテ39歳のときに出会い、彼女との身分違いの恋愛がすでに宰相を務めていたワイマール公国の宮廷や社交界から反発され、7歳年上のシュタイン夫人との関係も破局した。クリスティアーナとの間には5人の子がいたが、正式に結婚したのは18年後の1806年のことであった。この年、フランス軍がワイマールに侵攻し、ゲーテ宅が襲われた。クリスティアーネは警護の兵士とともに身を挺してゲーテを守る。この出来事のあと、ワイマール公国元首の立ち会いのもと、二人だけの結婚式が行われた。その2年後、ゲーテはナポレオンと会見、時代は大きく変わっていった。クリスティアーネは美しく心優しい女性で、生涯ゲーテを愛し、51歳で亡くなった。しかし、彼の恋愛遍歴は妻の死後も続き、80歳で失恋している。なお、ゲーテは自身が長寿であったこともあり、妻だけではなく5人の子どもにも先立たれている。
「すべて移ろい行くものは仮象に過ぎない。地上で力足りず心及ばなかったものも、天上ではできごととなり、名状しがたきものがここに成し遂げられた。永遠の女性がわれらを高みへと引き上げ昇らせる」。『ファウスト』の最後にある「神秘の合唱」の詩です。悪魔メフィストはファウストの魂を持ち去ろうとしますが、ファウストに愛され、彼がゆえに罪を犯し、我が子を殺し、狂死したグレーチヘンは天使となり、聖母マリアにファウストの救いを願います。マリアは「さあ、高い空にのぼっておいで、あの人はおまえに気づいたら、ついてきます」と語り、グレーチヘンにファウストを天上に導くようにと励まします。かくて、物語は終わり、最後のこのことばで結ばれるのです。
地上の出来事はすべて、永遠な神の心の表れにほかならず、人間が地上で知ること、為しえることはすべて不完全で浄福が得られるものではない。それが実現するのは永遠の世界すなわち天上界であって、地上から天上へとのぼる救いも神の愛によってなされる。「永遠の女性」とは神の愛を具現化するものであり、気高く清浄な愛、すべてを受け入れる愛、見返りを求めない愛、罪人を受け入れる愛です。その愛は天上における永遠の象徴として聖母マリア、地上においては聖母の永遠に女性的なものを宿した現実の女性により実現する。詩聖ゲーテの面目躍如、ここにきわまるとでも言いましょうか。さすがです。ちなみに、『ファウスト』は音楽家たちにも大きな影響を与え、グノーの歌劇をはじめシューマン、リスト、マラーの交響曲などがよく知られています。
『ファウスト』はかならずしもキリスト教的価値観でとらえられるものではありませんが、物語の終盤はキリスト教的な世界観と救済観に彩られています。悪魔と結託し、多くの、それも罪のない人々を犠牲にしたファウストがたやすく救われてなりません。そのような人物の救いは、彼の犠牲になり、被害を受けた人からしか与えられません。ファウストの場合は、グレーチヘンの赦しととりなしによってしか、救われないのです。
一頃、教育においても、「父性原理」と「母性原理」というタームが用いられたことがありました。簡単に言うと、前者はきびしさや裁き、後者は優しさや赦しのことです。教育にはその両者がなくてはなりませんが、実のところ、これらは対立するものではありません。同じ根から生えた2本の幹で、それぞれの幹にはたくさんの枝がある。喩えて言えば、そんなところでしょうか。きびしさは「厳しさ」ですが、「厳」には「おごそか」の意味もあります。やさしさは「優しさ」ですが、「優」には「すぐれる」の意味があります。教育を超えて、人間の内奥に眼を向けると、人を赦す、特に過ちや罪を赦すことは処罰するよりも難しい。ゲーテは愛とともに魂の救済を求め続けた人でした。救いは「永遠の女性(女性的なるもの)」を拠りどころとする。その解釈にはいろいろな立場があり、賛否・是非もさまざまでしょうが、私としては、ゲーテが求め続けたロマンと理想を尊重したいと思っています。これこそが、教育者にとっても身に付けるべき精神でありましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第41号,平成25年3月8日.
ゲ ー テ J=W=V=Goethe 第38号に同じ。
ゲーテの最後のことばは「もっと光を」であった。名言はとかく省略されやすい。ゲーテの臨終のことばは特に長い。「あの美しい女の顔が…見えないかね。あの黒い巻き毛の!すばらしい肌をした…ほら、あそこの闇をバックにして…。さあ、よろい戸を開けなさい。光を…もっと光を!」。ここまでくると怖ろしいほどの情熱である。ゲーテの偏愛遍歴は生涯そのものであった。若き日のはかない恋。『若きウェルテルの悩み』に登場するロッテのモデルとなった婚約者のいる女性との失恋。心底愛して婚約までした女性との破局。年上の人妻との激情。その他諸々。そして、73才にして19才の女性との恋愛。彼女はゲーテの地位や財産を目当てとするのではなく、彼そのものを愛し、ゲーテの家族さえ承知してくれるのであれば、いつまでも彼のそばにいたい、と語ったそうである。さらに、かのナポレオンすら勝者の立場にありながら、敗戦国の宰相ゲーテに尊敬の念を示した。このような人を人生の達人という。
ゲーテのライフワークであり、近代文芸史上、最高作とされる『ファウスト』はヨーロッパで伝説の人物とされている大学者ファウストを主人公とし、ヨーロッパ近代精神を体現した作品です。演劇をはじめオペラ、バレエ、交響楽など幅広い芸術の分野でも扱われています。ゲーテはすでに26歳の時から執筆に入り、約60年の歳月をかけて、全作が出版されたのは彼の死後のことでした。アウトラインを簡単に紹介しましょう。
ある時、悪魔メフィスト・フェレスが天上界に来て、神の世界に挑み、神が最も信頼している学者ファウストを誘惑してもよいかと迫る。神はファウストを信じ承知した。メフィストはファウストと賭けをする。あらゆる快楽を与える代わりに、ファウストが「時をとまれ」との感嘆の声を発したならば、魂をもらい、悪魔の世界に引き入れるというのである。メフィストはまず若さを与え、青年となったファウストはグレーチヘンという女性との恋に喜びを得た。しかし、その成就はならず、彼女は狂死する。恋愛の小世界に満足できなかったファウストは、事業がすべてだ、として行動の巨人となる。皇帝の危機をメフィストの策略により救い、恩賞として譲られた海辺の土地に“自由な民と共に自由な国”を建設するすることを生涯の目的とした。その過程で多くの仲間を死なせ、彼自身も盲目となる。メフィストは手下にファウストの墓穴を掘らせるが、ファウストは志を同じくする人々の喜びの声を確信し、至高の時を得る。その歓喜のなかで、「今こそ言おう。時よとまれ、お前は美しい、と。」と言って息を引きとった。ファウストの魂をメフィストが持ち去ろうとしたとき、ファウストにより死に至ったグレーチヘンが天使となって、聖母マリアにとりなしの歌を唱い、聖母の御心を受けて、神はファウストを天上に昇らせる。
ほとんどの日本人にとって『ファウスト』は難解の書であると思われます。その理由はと言えば、まず、実在の人物とされるファウストが当時のヨーロッパの人たちには馴染みのある存在で、その名を聴いただけである程度のイメージを持てるのに対し、日本人はどこの誰かが分からないということです。次に、作品の形態は戯曲であるが、文体はほとんど詩であり、過去・現在が往還し、神の国・人間界・地獄が一元的に登場し、ギリシャ神話の世界までも舞台となることなどが挙げられます。さらに、当時のヨーロッパの精神的基底が自我の確立と拡大、理性による自然の理解と支配にあり、人生の勝利を自己の力で勝ちとることにあり、日本人の人生観・世界観とは大きく異なることが最大の難点でありましょう。また、悪魔と結託しているのですから、明らかに罪を犯しているという主人公の人物像も、善人とは言えず、きわめて厄介なのです。
上記の一文は、『ファウスト』のプロローグとも言える「天上の序曲」にある神のことばです。ここでの努力とは道徳的なものでも禁欲的なものでもありません。自分が求めるもの、めざすもの、愛するものに向かってひたすら歩み続けることです。失敗や挫折は当然あります。自分では気づかない罪を犯すこともあります。それどころか、時には意図的に不正を行うこともあるかも知れません。人間とはそういうものです。しかし、神は続けて言います。「善い人間は暗い衝動に駆られても正しい道を忘れることはない」。人間は罪を犯します。過ちもあります。邪心をいだき、迷いもする、汚れもする。しかし、正しい人間は必ず、正しい生き方に帰ってくる。このことばこそ、人間への大いなる信頼であり、私たち教師やおとなが、生徒と子どもに対して持ち続けるべきものではないでしょうか。信頼こそ人を育てる最良の手立てであることを忘れてはいけません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第40号,平成25年2月28日.
ゲ ー テ J=W=V=Goethe 第38号に同じ。
ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を著すきっかけとなった出来事を研究者たちは「ウェルテル体験」とよんでいる。まず、23歳のとき、既に婚約者がいる美しくて家庭的な女性との苦しい恋愛と彼女の婚約者の友人の自殺事件がそれである。作品はその2年後に刊行された。その翌年、ゲーテは、自作のウェルテルとは異なり、自殺などはせずに、ワイマールに移り、7歳年上の人妻と深い恋愛関係に陥っており、「ウェルテル体験」は続く。二人の女性の名はともにシャルロッテであり、自作のウェルテルが愛した女性の名はロッテである。その後もゲーテの恋愛遍歴は生涯続き、恋愛による精神的葛藤や挫折を契機に、詩や小説に表し、自己を高めていった。彼のこのような心理的あり方は、精神分析学における防衛機制の「昇華」の例としてあげられている。最後の「ウェルテル体験」は73歳の夏のことで、相手の女性は何と17歳。ゲーテが死んだのは翌年の春であった。
*防衛機制
オーストリアの精神分析学者フロイト(1856~1939)によって唱えられた無意識(深層心理)による自己防衛の働きのこと。人間は欲求不満や葛藤などに対して無意識のうちに精神の安定を図る。例えば、『イソップ物語』に登場するキツネがブドウを取れなかったときに「どうせあのブドウはすっぱいんだ」と自分に言い聞かせるようなこと(これを「合理化」という)である。防衛機制にはいくつかの類型があり、「昇華」は失恋などによる心の痛手を小説や絵画などの創作に向け、精神的に高次のものへと高めることであり、ゲーテの活動はしばしばその例として用いられている。
*百科全書派
『百科全書』の執筆・編纂に関わったフランスの啓蒙思想家や学者たちのことで、ディドロ(1713~84)、ダランベール(1717~83)らを中心とする。自然科学的・唯物論的な進歩主義・啓蒙主義を刊行の理念とし、近代化の推進に大きく貢献した。
『百科事典』とは自然科学・人文科学・社会科学・文学・芸術・時事問題などあらゆる分野における人物・用語・事項を簡潔に記した書物で、中国では14から16世紀頃の明代につくられ、ヨーロッパでは10世紀頃の東ローマ帝国において、かなりのレベルものがあったようです。『百科事典』的書物は、このようにその起源は古いのですが、現代の本格的な『百科事典』は18世紀後半に成立した『百科全書』からはじまります。約30年にわたり編纂されたもので、項目ごとにアルファベット順に記載され、これがその後の『百科事典』の構成の基本となりました。この事業に携わった啓蒙思想家学者たちを百科全書派といい、ヴォルテールやルソーもそのメンバーです。
『百科全書』は絶対王制下で刊行されたもので、著者のなかにはルソーをはじめ、官憲からの弾圧を受けたものもおり、また、途中何度か発禁処分を受けましたが、ときには非合法的に出版され、学者たちだけでなく市民層にも普及し、その合理的・進歩的内容はフランス革命の精神的基底を形成したとされています。学問にかぎらず、あらゆるものは先人の努力と労苦を基に成り立ち、私たちがその恩恵を受けていることを忘れてはいけません。
『百科全書』が編纂されていた時期はゲーテの青年時代で、彼にとってこの書は目指すべき賢人の象徴であったと思われます。上記のことばは彼の書簡に記されており、真の賢人は専門的な分野に精通し、その深い知識や見識により、あらゆることに関する知恵がわき出て、聴くものに多くの示唆と意欲・関心をもたせ、それに加えて、適切な指示や助言を与えてくれる、それは『百科全書』の如き存在で、賢人とはそのような人のことである、という意味です。反対に言えば、広い知識や見識をもつことが自己の専門性を深めることになります。
「新しい学力観」という用語が、少し前、教育界を席巻していました。「知識・技能」と「関心・意欲・態度」を分け、後者に力点をおくものでしたが、両者は車の両輪、コインの裏表です。また、「単なる講義でななく、生徒に活動させる授業」というフレーズもありましたが、言うまでもなく「講義」をしっかりできることが、その授業の前提にあります。さらには、「活動」の意味も考えましょう。「活動」には「知的活動」があり、それは「聴く」ことからはじまります。広く学び、深く考える。これこそが学問と教育の普遍的原理ではないでしょうか。最後に、教師にとって「専門」という語を簡単に用いることは厳禁です。せめて「専門」ではなく「好き」と言っていただきたい。「自分の専門は○○であるから△△はできない」という人にかぎってその実、「専門」からほど遠い人を私は何人も知っています。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第39号,平成25年2月22日.
ゲ ー テ J=W=V=Goethe
ドイツの詩人、文学者。1749~1832。フランクフルトの富裕な官僚の子に生まれ、16歳でライプチヒ大学に入学し、法律を学んだ。25歳のときに発表した『若きウェルテルの悩み』によって名声を得、シラーとともに“シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤の時代)”の運動を指導し、ドイツ古典・ロマン主義文学を支えた。ドイツ文学のみならず近代世界文学を代表する人物。その関心と才能は多方面におよび、自然科学者、弁護士や政治家としても秀で、ワイマール公国の宰相もつとめた。その深遠な思想、格調高い文章は世界の文学史上、最高峰にあり、イタリアのダンテ、イギリスのシェークスピアとともに、世界3大文豪と言われている。代表作は『若きウェルテルの悩み』や数々の詩の他に『ファウスト』、『ヘルマンとドロテーア』など。
*シラー(1759~1805) ドイツの詩人、小説家、文学者。第36号参照。
*ワイマール公国…プロシア王国内の領国のひとつ。王国は1806年のナポレオンの侵攻によるライン同盟により事実上崩壊し、ドイツ連邦を経て、1871年のドイツ帝国に統一される。ゲーテは1775年にワイマール公カール=アウグストに仕え、79年に宰相となった。
*カント(1724~1804) ドイツの哲学者 第19号、34号脚注参照。
*キルケゴール(18113~55)
デンマークの哲学者。実存哲学の代表的人物。従来の哲学を批判して、人間一般に通じる客観的真理ではなく、 自己のみの主体的真理を説くとともに、神の前に一人立つ宗教的存在に自己の生き方を求めた。晩年はデンマー ク国教会と対立するなど不遇の中で死んだ。主著は『死に至る病』『あれかこれか』『不安の概念』など。
シェークスピアと同じく、作品や書簡のことばだけで何冊もの本ができるほど、ゲーテは珠玉名言の大家です。すぐれた文学者であれば誰にでも言えることですが、彼らが探究したものは人間と人生についての真実と真理であり、ゲーテは詩や小説を通して、いわゆる哲学的課題を論じました。彼自身、作品のなかで、哲学が人間や人生の問題を難解に表現していることを批判し、哲学は誰にでも解るものでなければならないと述べています。勿論、ゲーテは哲学に精通し、カントの研究者としても優れていました。『若きウェルテルの悩み』は古今東西屈指の恋愛小説として有名な作品で、純情多感な主人公の恋と失恋と死が、季節の移り変わりとともに描かれています。主人公ウェルテルは富裕な市民階級の出身で、容姿才能ともに恵まれ、教養豊かにして清新な情熱家。彼は美しい女性ロッテと出会い、恋をします。彼女は母親代わりに8人の弟妹を育てている心優しい人でした。しかし、彼女には婚約者がいます。彼女への恋情と社会規範との葛藤、残存する封建的因習への抵抗と挫折のなかで、ウェルテルは自ら死を選ぶのです。ゲーテは恋愛を表のテーマとして近代黎明期に生きる青年の自我とその崩壊を表したのでした。
上記のことばは『若きウェルテルの悩み』からの一句ですが、哲学に関心のある方は、キルケゴールの名著『あれかこれか』を思い浮かべたことでしょう。ゲーテの詩や小説の影響を受けたキルケゴールは、自身の著書の題名をここから用いたとされています。また、彼の代表作『死に至る病』も、『若きウェルテルの悩み』にある「君はわれわれが“死に至る病”とよぶものを承認するであろう。」からとったもののようです。
さて、キルケゴールの『あれかこれか』については、別の機会にし、今回紹介したゲーテのことばは、人生智として納得できるものです。私たちは、日常生活において、○か×か、AかBかの評価や判断をすることが多いのですが、食事の注文や買いものなどはともかく、善悪や美醜あるいは自分の人生を左右する場合は簡単にはいきません。例えば、人間には必ず長所と短所があり、状況によりそれらがしばしば反対になることもありますから、二者択一や二極判断は本来的に難しいのです。勿論、私たちはどちらか一つを選ばなければならない、また、生徒に選ばせなければならないことがあり、そこが問題です。
そもそも、確実な評価や判断は不可能であって、結局のところ、より好ましいものより良いものへの可能性を選ぶしかないのです。ありふれた結論になりますが、そこで大切なのが評価・判断を支える知識と見識、視野の広さです。経験も大切ですが、ただ経験すればよいというものではなく、経験から何を学んだかが重要です。私たち教師は、深い知識と見識、広い視野から、生徒たちを適切な助言をすることが求められます。自分のことは自分で決める自主性・自立性は勿論、大切ですが、彼らの“あれかこれか”の判断にあたって、助言してこその教師、教示してこそのおとなではないでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第38号,平成25年2月15日
シ ラ ー F=Schiller 第36号に同じ。
医学論文の執筆と並行してシラーはデビュー作であり傑作である『群盗』を発表する。権力や封建的因習と戦う盗賊団の若き首領を主人公としたこの作品は、市民革命の気運のなかで、特に学生たちから熱狂的な支持を得た。しかし、軍医をやめ、各地を転々とするシラーは経済的に困窮し、彼の熱烈な支持者とその友人たちの庇護を受けた。彼らの善意への感謝と友情はのちに、ベートーヴェンの交響曲第9番『合唱』の『歓喜の歌』の詩を生むことになる。29歳のとき、初めてゲーテと出会うが、互いによい印象はもたないまま別れた。しかし、シラーの才能を見抜いたゲーテは翌年、イエナ大学の歴史学教授に彼を推薦した。その5年後、再会した二人は本格的な親交を続け、二人に間には1000通を超える書簡が交わされた。晩年、シラーは貴族の称号を得、名実共にドイツ文学界の最高峰にのぼった。二人の友情は生涯続き、シラーが死の直前、劇場に行ったとき同行したのもゲーテであった。
*『群盗』
1781年、匿名で発表したシラーの戯曲。マンハイムでの初演は青年たちの拍手と歓声が鳴り止まなかったと伝えられている。弟の奸策により地位と財産を失った青年カール=モールは腐敗堕落した権力者に抵抗する学生たちとともに盗賊団をつくり、義賊として活動するが、社会を正すためとはいえ無法な行為を手段としたことを悔い、自己の犯した罪を償うべく出頭する。当時のドイツの社会的状況への青年シラーの抗議でもあった。
*ヘーゲル(1770~1831)
ドイツの哲学者。ベルリン大学教授、学長を歴任。カントにはじまるドイツ観念論を発展させ、近代哲学の完成者と評価されている。精神の目的は主著『精神現象学』『法の哲学』『歴史哲学』など。
シラーとゲーテはドイツのみならず世界文学を代表する盟友です。評論家の亀井勝一郎は、シラーを登山家、ゲーテを遊山家と評していますが、なるほど、シラーにはストイックで高邁な精神が感じとることができます。。
シラーとゲーテはいかにも青春時代からの親友のようなイメージがありますが、二人が本格的に交友したのはシラーが35才の時で、ゲーテはすでに45才でした。一般に“生涯の友”は、若い時代の友と思われていますが、互いの人格を尊重し、その目的や使命を共感したもの同士には、年齢に係わらず、友情が成り立つのです。逆に言えば、人格が高潔で、常に人生の目的をもち、使命感に燃えている人はいくつになっても友情を育むことが出来ます。私事、私にも高校・大学時代から今でも親しくしている友人がいますが、幸いにも、教員になってから、さらには教頭・校長になってから、新たに出会ったり改めて知った人に友と呼べる感情をもつことがしばしばあります。
さて、今回紹介したことばは、友情や広く人間関係についての金言です。シラーとほぼ同時代の哲学者でカントの後継者であるヘーゲルは「相互承認」ということばで人間存在や自己意識について論じています。ヘーゲルによれば、人間が生き生きとした人生をおくるためには、自分が他者に認められ、自分もまた他者を認めるという相互関係が前提にあるのです。自己は他者との関係の中で、自己の何たるかを意識し、他者から認められることによって自己を知るのです。認められるとは、人格として認められることですが、私は人柄・能力・適正など広くとらえてもよいと思います。人生の目的や職業の選択などはすべて、自己を知ることからはじまります。自己を知るとは、単に自分の思い込みであってはなりません。他人からの理解や評価に基づいて客観的に自己を認識することなのです。人間は集団生活のなかで生きるのですから、他者は極めて大切な存在であり、他者なくして自己はあり得ないのです。したがって、自己を知るとは他者との関わりの中にいる自己を知ることです。そこでシラーは言います。自己を知るためには他者がどのような態度や行動をとっているかを見なければならない。なぜ、その人がそのような態度や行動をとっているかを理解するためには、自分自身の心のあり方を考えて見ればよい。以前にも言いましたが、他人は自分の鏡のようなものです。こちらが怒れば向こうも怒り、こちらが笑えば向こうも笑います。私たちは「あんな奴は認めない」「あいつとは組みたくない」などとしばしば言いますが、おそらく相手もそう思っているはずです。若い人たちにこの真理を伝えてください。真の意味でのコミュニケーション能力は人付き合いのうまさではありません。互いの人格を尊重し合う力です。そのために自己を振り返り、他者を優しく見ることが何よりも大切ではありませんか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第37号,平成25年2月8日.
シ ラ ー F=Schiller
ドイツの詩人、劇作家、小説家。1759~1805。軍医の家に生まれ、陸軍大学で学び厳格な教育を受け、軍医助手となるが文学に関心をもち、『群盗』で成功をおさめ、軍から逃亡、友人の援助を得ながら、文学者として名声を高める。ゲーテとともに“シュットルム・ウント・ドランク”の時代をリードしたドイツ文学の最高峰にある文豪。歴史、哲学にも優れた業績を残し激動の時代に自由と抵抗の精神を謳いあげた。また、歴史上の人物の行為や心理を生命あるものとして捉えた崇高な作風で知られる。代表作は『群盗』のほか『オルレアンの少女』、『ウイルヘルム・テル』など。
*ゲーテ(1749~1832)
ドイツの詩人、劇作家、小説家、政治家。ドイツのみならず世界文学の最高峰に位置する人物。シラーの盟友であり、後援者。政治家としてもワイマール公国の宰相を務め、ナポレオンとも会見している。代表作は『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』など。
*シュットルム・ウント・ドランク
18世紀後半にドイツで起こったドイツロマン主義の文芸運動。封建的因習や不合理性を排除し、人間の尊厳を説いた。その理念や主張はしばしば、青年期の情熱と心理に喩えられる。
自分自身のことを考えてみても分かるとおり、人間というものは、乗り超えるべき課題や目標がなければ真面目に事に取り組みません。例えば、高校入試や大学入試がなければ、真剣に勉強などしないのが一般です。そして、試験勉強によって学力が身に付くのも事実です。さらに、苦手な科目や、不得手な分野があるから一層努力するのです。
人生においては、よほどの稀な人を除いて、誰もが不運や災難に見舞われるものです。勿論、なかには自然災害や病気、不慮の事故など、自分の力ではどうにもできないことがありますが、それについての考察は別の機会に行うとして、ここでは、私たちの普通の日常生活における人間の生き方として、教育のあり方としてとらえてみましょう。
「艱難汝を玉とする」、「鉄は熱いうちに打て」、「若いときの苦労は買ってでもせよ」などと、諺や格言でも、災難や不運は人間を成長させると言われています。その一方で、何の苦労もせずに恵まれて育ったことを“温室育ち”とか“箱入り”と、僻み妬みもあってか、あまり良くは言われないようです。確かに、何らかの困難や辛苦が人間を成長させることは間違いありません。そして、挫折や困難を克服するためには努力が必要です。それが苦労であるか否かは個人のとらえ方ひとつで、何が苦労なのかは、程度も質も個人的な主観にもよります。何もせずに日々安穏として一生をおくれるものなど一部の特権階層を除いてほとんどいないし、その彼らにしても経済的に恵まれているというだけで、自己に向上心や目的があれば、苦労はつきないのです。問題は努力の過程で不運に見舞われたときです。不運の定義は厄介ですが、思いもよらず不条理に投げ出されること、と私はとらえています。理由が思い当たらない挫折といってもよいでしょう。
上記のことばは、文豪シラーの名言中の名言で、不運に見舞われたとき、そこからどう立ち上がるかで人間の真価が決まると彼は言うのです。立ち上がり方でその人間の性格や品性が分かります。いつまでも社会や他人を恨み続け無益な毎日をおくるか、新たな希望を見出だそうとするか、そこが堕落と向上との分岐点です。不運に打ち克ち、自己を向上させた人間は、やがて幸運さらには真の幸福をつかむにちがいありません。
シラーの作品には一貫して、破滅敗北する主人公を精神的勝利者たらしめる高貴さが記されている。たとえ、不運に翻弄されても敢然と自己の使命を全うするヒロイズムがそこにあります。教育者はそれを綺麗事と笑ってはいけません。学校だけが語りうる綺麗事を自信をもって語りましょう。飽くことなく、理想を求め続けるその気高さを生徒に伝えるロマンティシズムこそ教師の真髄です。
矢倉芳則「校長通信「『地平遙かに』第36号,平成25年2月1日.
ル ソ ー J=J=Rousseau 第34号に同じ。
ルソーの活動と功績の分野は社会思想にとどまらず、文学・教育・芸術など広範囲におよんでいる。小説『新エロイーズ』はロマン主義文学の先駆的作品として評価され、ベストセラーにもなっている。また、音楽家としては多くのオルガン曲を作曲し、日本では『むすんでひらいて』と名付けられている童謡も彼の作曲によるものである。教育者としては名著『エミール』を著し、「子どもは小さなおとなではない」という視点から子ども固有の成長の論理に基づいた教育論を展開している。ただし、彼は実践家ではなく、『エミール』も彼の現実の生活とは正反対のもので、あくまでも思想的に描かれた作品であった。哲学者や思想家が実際の生活と思想内容が異なっていることはよく見受けられるが、ルソーほどかけ離れている人物もめずらしい。
母を知らず、父とも少年時代に離別し、各地を点々とし、小間使いや下働きをしているうちにパリに出て、社交界で貴族の婦人の愛人生活を続けたルソーは、下宿先のお手伝いで貧しいお針子のテレーズと事実上の結婚をし、いわば妻と愛人との二重生活をしていました。しかも、精神的にも経済的にも父親となる自信のない彼は、テレーズとの間に生まれた5人の子を次々と孤児院に送っています。ルソー自身が恵まれない家庭で育ち、特に父への憎しみを抱いていたためと、彼に同情的な見方をする人もいますが、ルソー自身に親としての自覚が欠如していたことは否定できません。ちなみに、ルソーは「目立ちたがり屋」で、他人からほめられることを常に求め、自分の思い通りにならないと他人を許せず、その結果、友人を失い、結局は孤独の中で死んでしまったようです。
その彼が残した作品が、皮肉にも教育学の不朽の名作『エミール』です。この書は5編からなる物語風の教育書で、全編を通じてエミールという子どもの発達段階に即した教育が語られ、第5編はエミールの妻となるソフィのための教育、つまり女性教育についても論じられています。私にはルソーの、我が子への贖罪の書と思痛いのですが、エミールは孤児という設定で、ここにも父親の理想は描かれていません。
さて、今回紹介することばは、その『エミール』第4編に記されているもので、青年期の特色をあらわす名言です。第4編の青年期は特に優れた作品で、時代を超えて感動を与えてくれる。正確には「われわれはいわば二度生まれる。一度は生存するため、二度目は生きるために。一度は人類の一員として、二度目は性をもった人間として。」と記されています。青年期は“自我のめざめ”ともよばれる。自分自身を見つめ直し、将来を考え、あるべき生き方、理想を求める時期であるというのがルソーの主張です。反対に言えば、そのような精神の成長があるから、つまり第二の誕生があるから青年なのであって、真の青年とは悩み、挫折し、闘い、立ち上がり、新たに進む人のことです。
青年の名に値しないただの若年層ではあまりに悲しい。近年の青年を見て、このように嘆くおとなもいることでしょう。そこでルソーは青年期についてこう言います。「いまこそ人間が真に人生に対して生まれるときなのであり、人間のなすどんなことも、彼(青年)にとって無縁ではなくなるのである。世間一般の教育が終わるこの時期(当時における児童教育)こそ、まさに我々の教育の始まるべき時期なのだ」。では、私たちは青年に何を教えるべきなのでしょうか。決して難しいことではありません。君は誰を友とし、誰を愛するか、どんな人から頼りにされたいか、どんな人から愛されたいか。親として、教師としておとなとして、その想いの強さを伝えさえすればよいのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第35号,平成25年1月25日.
ル ソ ー J=J=Rousseau
フランスの哲学者、文学者。1712~78。スイスのジュネーブで、時計職人の子として生まれ、10才の時、父が軍人との諍いを起こし家出したため、一家は離散し、天涯孤独となる。13才頃から徒弟奉公などをして各地を放浪ののち、16才のとき、ヴァラン男爵夫人と出会い、庇護を受け学問や芸術を学び、30才頃、パリの社交界に入り、そこで貴族の婦人たちの寵愛を受けジゴロのような生活をする。その間も独学で哲学、文学、歴史、音楽を学ぶ。その後、ディドロらの百科全書派の学者たちと親交をもち、百科全書の編纂に係わるが、革新的思想により政府から追われ、貧困の中で死んだ。著書は『社会契約論』『人間不平等起源論』『エミール』『告白録』など。
*ディドロ(1713~84)
フランスの啓蒙思想家。『百科全書』編纂の中心人物で、生涯の大部分をそれにささげた。主著『自然の解明についての随想』など。
*百科全書派
1751年に刊行されたフランスの百科事典に係わった思想家たちの総称。民衆に合理的進歩的な考え方を植え付け、革命の精神的支柱となった。
啓蒙思想家の第一人者であり、かのカントにすら深い感銘を与えたルソーは母を知らず、父とも少年時代に別離するという不幸な生い立ちの人物でした。各地を点々とし、小間使いや下働きをしているうちにヴァラン男爵夫人と出会い、年上の美貌の貴婦人との親子のような奇妙な恋愛が10年ほど続きます。その間、彼は独学で諸学を学び、一部の専門家には注目されるようになりました。やがて、夫人との破局、パリに出て、社交界に出入りし、多くの学者や文化人と交流をもち、『百科全書』の執筆などに加わったものの、革命思想への弾圧からの逃亡と貧困の日々が続きました。その一方で、貧しいお針子のテレーズとの間に5人の子をもうけ、次々と孤児院に送る不誠実な人生をおくります。
*カント(1724~1804)
ドイツの哲学者。近代最高の哲学者として評価され、今なお、研究者が絶えず、研究領域が拡大している人物。認識論において、人間の認識能力を批判的に考察し、それを受けて、道徳論や宗教論、芸術論を展開した。主著『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『永遠平和のために』など。
現実の社会と自分が求めた理想との矛盾、理想の自己と現実の自己との矛盾。彼の苦悩は迫害によるものではなく、自己内部での矛盾による被害妄想であったようです。その彼が人間社会の最も理想的な状態は自然であるとしました。文明社会とりわけ産業の発達と経済の成長が、人間の良き本性を失わせているというのです。
上記のことばは世界史や倫理、政経の授業でお馴染みの名言ですが、実はルソーの著書にはこのことばはありません。『人間不平等起源論』にある「自然人」の概念や『エミール』における文明批判の立場を端的に表現した標語なのです。ルソーの思想がフランス革命の理論的支柱になったことは広く知られているところです。勿論、革命は思想だけで成立するものではなく、経済や軍事、外交的側面、権力の構造など多くの要因をもっています。また、物質的な豊かさが人間性の荒廃や心の貧しさを生むなどと安直なことは言えませんが、ルソーが民主主義政治に大きな影響を与えたことは確かです。
ルソーのことばは、フランス革命前夜の絶対王政時にのみ当てはまるものではありません。現代に生きる私たちにも語られていることなのです。「自然に帰れ」を教育や人生の視座から考えると、常に人間としての原点、出発点、基本を考えなければならないということです。思うに、自然を“あたりまえのこと”“当然のこと”ととらえてみてはどうでしょうか。「あたりまえとは何か」、「当然とはどんなことか」などと理屈を言わずに素直に考えてみましょう。そうすると、いじめや体罰の問題など昨今の教育課題解決の糸口も意外と自然に見つかるかも知れません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第34号,平成25年1月18日.
ロ ッ ク J = L o c k e 第32号に同じ。
ロックは教科書では社会契約説の思想家としての登場するが、ホッブズと同じく、イギリス経験論の哲学者であり、知識の源泉は経験にあるとし、道徳については認識論や道徳論についても感情的側面を重視し、他者への共感が道徳的感情を育て、それにより規範意識や善悪の判断基準が形成されるとした。ちなみに、彼は大学を卒業する際、牧師、弁護士、医師、学者の道があったが、シャフツベリー伯爵との出会いにより、学者になった。なお、シャフツベリー伯爵はホイッグ党の中心人物であり、ロックもホイッグ党との関わりのなかで、活動し、政治思想を論じた。
*デカルト(1594~1650) 第18、19号参照。
*F=ベーコン(1561~1626) 第15,16号参照。
はじめに、第32号でのロックの人物紹介について間違いがありましたので、訂正します。ロックのオランダ亡命はシャフツベリー伯爵の亡命に随行してではなく、伯爵の亡命の翌年のことで、その年に伯爵は死去しています。ロックはその後もオランダに留まり、名誉革命の翌年に単身、イギリスに帰国しています。したがって、伯爵とともに帰国したのではありません。私の記憶違いで、書いた後、気になって調べ直しましたところ、間違いであったことが分かりました。深くお詫びします。今後、十分気を付けますので、変わらぬご愛読をお願いします。
さて、今回紹介することばは、経験論の哲学者としてのロックをあらわす代表的な名言です。ロックは人間が生まれながらに、観念や善悪の判断力をもっているとするデカルト的な合理論を否定し、観念や知識はすべて、感覚と内省に基づく経験から生じるとし、複雑な知識も単純な知識の複合であるとしました。彼はF=ベーコン以来のイギリス経験論を完成させ、近代科学の方法論や価値観の思想的支柱を形成することとなりました。勿論、単に経験すれば知識や認識能力が身に付くのではなく、それらを思索することが大切なのは言うまでもありません。
ロックは宗教においても、絶対的あるいは単一的な立場ではなく、各人の境遇や体験を尊重し、他者を認めない偏向した信仰を批判します。彼は『寛容論』において、イギリスの革命期におけるキリスト教各派の対立に憂慮し、各人の内面のおける信仰心は国家やその他の外的権力による強制や干渉があってはならず、人は他者の信仰について互いに寛容であるべきであると説いています。
教育は勿論、ロックの立場から出発します。運動能力や芸術的センスについては先天的な要因は強いかも知れない。また、記憶力や計算力にも能力的な差はあるでしょう。しかし、学習せずに数学の定理を知っているものはいませんし、それを発見した学者にしても、長い時間をかけての研究の結果としてたどり着くわけです。英単語や古語をはじめから知っていた人などいるわけがありません。一般的な学校においては、まずは、学習すること、教えることが大前提にあるのです。
学校教育には二本の柱があります。一つは知識、思考力、判断力、表現力すなわち学力の育成、もう一つは、社会性・公共性・規範意識を育てることとその前提となる価値観の涵養です。その価値観とは自由・平等・寛容を人間のあるべきあり方とすることです。いみじくも、ロックはこの二つの柱を国家的・社会的規模で論じたのです。
これまで、私は何度か述べてきましたが、現代の教育が民主主義社会を理想とし、その社会に生き、かつ発展させる資質を育成することを目的とするならば、私たち教師は民主主義の教育観をつくった土壌である近代精神について学ぶ必要があります。第一段階としては本家本元のヨーロッパ近代、第二段階は我が国の近代である江戸時代末期から明治・大正期について、その時代に政治家、哲学者、科学者、文学者さらには起業家や軍人たちが何をめざし、何を考えたか。その探究なくして、現代社会の問題点や課題は明らかにならず、勿論、改善への方策も見当たらないと思います。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第33号,平成24年12月25日.
ロ ッ ク J = L o c k e
イギリスの哲学者、政治学者。1632~1704。イギリス南部のリントンの生まれで、父は新興地主層(ジェントリー)出身の弁護士であった。敬虔なピューリタン(プロテスタントのカルヴァン派)の家庭で育ち、オックスフォード大学で医学と哲学を学び、卒業後、母校の講師などを経て、有力貴族であるアシュリー卿の侍医兼秘書となり、政界と係わることにもなる。その後、アシュリー卿はシャフツベリー伯爵となり、大法官の地位に就いたが、王政復古後の王党派と議会派の政争より、オランダに亡命し、ロックもほどなく亡命した。伯爵はオランダで死去したが、数年後、名誉革命が起こり、ロックは帰国し、『統治論(政治二論)』を著し、その後は新政府の高官に就いた。彼の思想は名誉革命を理論化するとともにアメリカ独立革命やフランス革命に大きな影響を与え、名声はヨーロッパ中に広まった。主著は『寛容論』『人間悟性論』など。
*名誉革命 第26号参照。
ロックは政治思想史上、ホッブズの後を受けて社会契約説を展開したとされていますが、両者は人間観も、政治観も対照的です。ホッブズは人間の本性は悪、自然状態は危険であるとし、ロックはその反対です。このような違いはまた、彼らの生涯と時代の動きと関連しているようです。ホッブズはイギリスがスペインを破って世界の覇者になりつつある年に生まれ、壮年時代まで絶対王政下ですごしました。50歳を過ぎた頃、ピューリタン革命が勃発し、その著書が王政支持と見なされフランスに亡命、そこで皇太子の家庭教師となり、帰国後、王政復古により皇太子が即位して、国王の絶対的権力による秩序の安定という彼の政治理論がとりあえずは実現します。ロックは青年時代にピューリタン革命を経験し、民主制の理想に燃え、仕えたシャフツベリー伯爵も議会派の中心人物でした。王政復古により、イギリスを離れますが、名誉革命により帰国し、彼自身も政府高官として活動し、彼が唱える議会制民主主義は着実に進んでいきました。
ロックは、「近代民主主義政治の父」とよばれ、彼により代議制民主政治の理論が確立されました。国民主権、権力分立、抵抗権(革命権)、基本的人権の尊重などは近代民主主義思想の中心概念として現代に至っています。彼によれば、人間が生まれながらもつ権利(自然権)とは生命・自由・財産の権利であり、自然状態は理性的でこれらの権利が保持されていたが、財産の所有をめぐる争いが生じ、自然権をより確かなものにするために契約が必要となるのです。まず、政府の最高機関は議会であり、例えば銀行に預金し必要があればいつでも引き出すように、人民は自然権を政府に信託する。政府は法のもとに人民の自然権を保障し、もし政府が人民の権利を害し、権力を濫用するならば人民は政府に抵抗し、新たな政府を樹立することができる。これがロックの政治論です。
先日、衆議院総選挙があり、自民党が大勝しましたが、3年前は民主党が圧勝し、当時の鳩山代表はいみじくも「これは革命だ」と言いました。現代における抵抗権あるいは革命権は選挙であり、国民は自らの権利を損なう政府を打倒することができるのです。私は民主主義の特色を問われたとき、「人民が権力者をその地位から下ろすことができる制度」と答えています。その前提には政府の権力と国民の権利、政府の使命と国民の義務という関係があります。権力は使命の実現のために行使され、権利は義務と相依相即するということです。
これは政治の仕組みにかぎったことではありません。すべての職業と人民との関係においても成り立ち、勿論、私たち教師にも当てはまります。私たちの使命は何か、その力は何のために発揮されるべきなのかを今一度ふりかえってみましょう。言うまでもなく、生徒一人ひとりの自己実現のためです。学校は生徒のためにあり、教師の真骨頂は生徒に信頼され、感謝されることです。ただし、ここにもうひとつ、基本的なことがあります。政治において守られる人民が法を遵守し、義務を遂行するものであるのと同様、学校は善良で真摯な生徒のためにあります。そして教師の使命は誠実に学ぶ生徒を育てることです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第32号,平成24年12月21日.
ホ ッ ブ ズ T = H o b b e s 第30号に同じ。
ホッブズが生まれた1588年はスペインの無敵艦隊がおしよせたものの、イギリスは見事にそれをうち破り、これを機にヨーロッパの覇者がスペインからイギリスに移ったまさに時代の転換の年であった。。あくまでもエピソードであり、真偽のほどは定かではないが、そのとき、ホッブズの母は敵兵の上陸におびえながら我が子を産んだ。その母の恐怖が乗りうつったためか、ホッブズは幼いときから死の恐怖に駆られる性格であったという。そのせいか、彼の思想にはつねに恐怖感が大きな位置を占めている。自然状態は「万人の万人に対する闘争」状態であり、社会契約説の書『リヴァイアサン』は『旧約聖書』に登場する怖ろしい海の怪物である。なお、ホッブズは認識論の哲学者でもあり、F=ベーコンにはじまる経験論の代表的人物である。彼によれば知識の源泉は経験であり、生得的な観念はない。また、事物の根源は物質であるとする唯物論を説いた。
*無敵艦隊
国王フェリペ2世(1527~98)の時代に世界を席巻したスペイン海軍のこと。レパントの海戦(1571)でオスマン・トルコを破り、世界各地に植民地をもった。ちなみに、サッカーでもこのことばはスペインチームのニックネームになっている。
*孟子(372?~289?BC)
古代中国の儒家の思想家。人間の本性が善であるとする性善説を説き、本性をありのままに育てることにより徳のある人格が 形成されるとした。また、政治は君主の人徳によるものであるとし、それを王道と呼んだ。
*荀子(298?~235?BC)
古代中国の儒家の思想家。孟子とは反対に人間の本性が悪であるとする性悪説を説き、社会規範である礼にかなうように矯正することで徳が育成されるとした。彼の立場を社会的に展開すると法治主義になる。
ホッブズの社会契約説の背景にあるのは彼の人間観です。人間観には大別すると2つあり、人間の本性を善とするものと、悪とするものとがあります。日本では、儒家思想の孟子と荀子をそれぞれ、性善説と性悪説の代表としています。ヨーロッパでもこの類型がいたるところにみられ、同時代の思想家でも、後で詳しく述べますが、ロックやルソーによれば、人間の本性は善で、自然状態は平和であるとしています。それに対し、ホッブズは人間の本性をまったくの悪としています。
ホッブズによれば、人間は誰もが生来、自己保存の本能をもち、快楽を求め苦痛を避ける存在で、何よりも自分が大切で、自分の生命や自由、財産のためなら何でもするものなのです。それは後天的に矯正されるなどといったなまやさしいものではなく、よい環境で育とうが、どんなに高邁で深淵な学問を積もうが、いざとなれば、他人を見捨てて自分を守るのが本来の姿なのだと彼は言います。社会契約思想で説かれる自然権も、自己保存や自己利益のためなら何でもできる権利のことだとホッブズは言います。そのような人間の本質を的確に表現したのが上記のことばでした。
「人間は人間に対して狼である」。太古の昔から現代に至るまで戦争が絶えず、歴史上、策略や讒言で失脚したり、命を失った人は数知れません。ここしばらく、我が国においても隣国でのミサイル発射や領土・領海侵犯に恐々としているばかりでなく、政界では昨日の友は今日の敵となり、互いに相手を蹴落とそうとする。教育においても、いじめ問題はその数の多少に関わらず事態そのものは深刻化の一途をたどっています。このような現状をみると、ホッブズのことばはきわめて現実的であると言えるでしょう。
何度も言っていますが、私は人間の本性が善でも悪でも、教育にはあまり関わりがないと思っています。むしろ悪だからこそ、その意義と価値が高まるのではないでしょうか。人間の本性ではおぼつかない。だから、法やルールにより客観的に規定を示す。それでも網の目をくぐって悪知恵を働かせるものがいる。だから教育が必要となる。そこで、基本的な教師の姿勢が求められます。悪を許してはいけない。悪をなすものには、勇気を持って毅然と振る舞わなければならない。弱いものに強く、強いものに弱い教師。ウケをねらい、生徒をおだて、へつらう教師。世にこれほど見苦しいものはありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第31号,平成24年12月14日.
ホ ッ ブ ズ T = H o b b e s
イギリスの哲学者、政治学者。1588~1679。社会契約思想の祖とされる。イギリス国教会の牧師の子に生まれるが、少年時代に父と死別し、叔父に養育された。オックスフォード大学を卒業後、有力貴族の家庭教師として生計を立て、その庇護のもとに、ヨーロッパ各地に随行し、F=ベーコンの秘書を務めたり、デカルトやガリレイとも出会う機会を得た。ピューリタン革命の気運のなか、52歳のときに出版した『方角要綱』が絶対王政を擁護するものとみなされ、パリに亡命し、同じく亡命中であった皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)の家庭教師となった。その後、彼の無神論的思想がフランスでも危険思想と見なされ、イギリスに帰国し、晩年は研究と著述の日々をおくった。主著は『リヴァイアサン』など。
*社会契約思想
17世紀から18世紀にかけて、西欧市民革命の理論的支柱として登場した社会思想。モンテスキューやヴォルテールらの啓蒙思想と相俟って成立した。ホッブズ、ロック、ルソーらが代表的人物。
西洋史での近代とは16世紀から19世紀末までを指し、国家的には国民国家、政治的には立憲君主制や代議制にみられるいわゆる近代民主主義、経済的には資本主義、文化的には市民文化の形成などを特色としています。そのなかで、民主主義形成の起点となったのは進歩派の貴族と新興市民層(ブルジョワジー・商業資本家層)による市民革命で、市民革命の理論的支柱が社会契約思想です。
社会契約思想は、社会には人為による法のほかに、時代や国を超えて、いつでもどこでも通じる普遍的な自然法があり、自由や平等、生命の安全や財産の所有などが認められる生まれながらの権利があることを前提とし、その権利を人民との契約において、人民に与え、保障することが政府や為政者の役割であるとするものです。ルネサンスや宗教改革以降、教会や封建的地域共同体から離れて、個人としての自己を自覚した人々は社会生活においても自由や権利を尊重されることを求めたのでした。ここにおいて、国家のために個人があるのではなく、個人のために国家があるという近代的国家観が形成されました。
さて、上記のことばはホッブズが社会の自然状態を示したものです。彼によれば、人間はそもそも利己的な存在であり、生来もつ自然権は自己の欲求を充足させるために何でもできるという権利です。そうなると、自然権を思いのままに行使する自然状態は「万人の万人に対する闘争」の状態であり、人々は各自の欲望を満たすために互いに争い、恐怖と不安のなかで生きることになります。そこで、人々は自分たちの安全と平和のためにそれぞれの自然権の行使を放棄し、しかるべき権威を与えられた個人や組織に自然権を委ね、委ねられたものは統治者として国家を形成し、人民全体の意思を代表して平和と安全を守り、そのもとで人民に自然権を平等に配分する。人民は国家の命令、定めた法や制度には絶対に従わなければならない。人民の幸福と社会の安全と平和のためにはルールが必要で、個人の自由はそのルールがあってこそ保障される。これがホッブズが説く社会契約説です。
学校での簡単な例をあげましょう。体育大会が迫っているとします。どのクラスも練習がしたい。しかし、体育館は一つしかない。すべてのクラスが我先にと押し寄せれば、結局、どのクラスも練習できなくなる。だから生徒会で割当表が出されるというわけです。
学校は小さな社会、と言うよりもそれ自体独立した社会であり、教育は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して」行うものです。そのなかで見えてくるのは、個人の権利、個人の権利を守るためのルール、ルールを管理する者あるいは組織、ルールと管理するものを尊重する精神であり、それらを明確に認識させ、実践させるのが民主主義社会の教育です。
つまり、教育者およびすべてのおとなたちには、民主社会・民主主義思想形成の背景と意図について学ぶことが求められるのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第30号,平成24年12月5日.
ス ウ ィ フ ト S w i f t 第28号に同じ。
スウィフトは『ガリバー旅行記』があまりにも有名であるが、小説、評論、随筆、書簡など、たいへんな多作家であった。彼の作品のテーマやエピソードはほとんどが彼の人生と深く関わることや実際の出来事をモチーフとしている。『ガリバー旅行記』の小人の国に登場するかなりの人物は、当時の政治家たちなどのモデルがいると言われている。スウィフト自身も政治に強い関心をもち、イギリスとアイルランドの政界に出入りし、特にイギリスのトーリー党と親密であった。また、アイルランドにおいては、彼は小説家と同じくらい、独立運動の指導者としての評価が高い。
*トーリー党
17世紀後半、イギリス議会政治の成立期に設立された政党。王政復古により即位したチャールズ2世の後継者に弟ジェームズ(後のジェームズ2世)を推すグループで、トーリーとは“アイルランドの無法者”の意味である。イギリス国教会の聖職者や富裕地主層を支持者とし、後の保守党となる。一方、トーリー党に対立したのが彼らが名付けたホイッグ党で、こちらは“スコットランドの謀反人”を意味する。支持者は進歩派の貴族や都市商工業者で、この党が自由党に発展する。イギリスは、その後も現在に至るまで、二大政党制をとっている。
*ヒポクラテス(485?~425?BC)
古代ギリシャの医学者。科学的に病理を究明し、合理的な治療を行い「医学の父」とよばれた。一説によると、彼の学派は当時すでに脳外科手術を行っていたと伝えられている。
ゲーテがプロシアの宰相としてナポレオンと会談したことは有名ですが、トマス=モアは枢機卿、F=ベーコンは大法官、モンテーニュはボルドーの市長であったように、近代の哲学者や文学者たちは政治家であったり、政治に関係している人物がきわめて多いのです。スウィフトは高位高官には就けませんでしたが、どうやらそれをめざしていたことは間違いないようで、栄達に向けて、かなり努力し、画策したようです。
彼はまた、私生活も慌ただしく、妻、恋人、愛人とよべる女性も多く、彼にしか分からない愛称でよび(例えば、エリザベスをリズとかベスとよぶのは英語圏ではよくあることなのですが)、しかも、本名が同名の女性がいて、どちらも書簡に何度も出てくるものですから、女性たちの、そして彼自身の人物像も私たちを混乱させてしまいます。
さて、ガリバーの職業は医師でしたが、残念ながらスウィフトの晩年は死と隣り合わせの毎日で、最期には狂死してしまいました。皮肉にも、上記のことばは万人の座右の銘となる健康についての名言です。
健康に必要なものは、第一に快活。常に明朗で快活に生活することが何よりも大切です。その人がいるだけで周囲が明るく和やかになる。おとなたるもの、かくあるべし。憎悪、怨念、嫉妬はもとより、過ぎたことをいつまでも悔やんだり、ああだこうだと悩んだりするのは精神衛生上もよろしくありません。第二に勤労。働くことは生計を立てるためにだけあるのではない。自己の存在の証明であり、生きがいでもあります。よく働いた日、労働や勉学の充実感を味わった日に安らかな眠りが待っています。これに優る日常の快適さはないでしょう。第三が休息。働いた後の適度の休息です。休息は労働や勉学があってこそ意味があります。休み放しはかえって苦痛ですし、働き詰め、勉強のし通しでは逆に能率が下がります。以上の3つがあれば健康は保障されるとスウィフトは言います。
健康こそは最大の財産です。医学の祖といわれるヒポクラテスは「健全なる精神は健全なる身体にやどる」と言いました。このことばは、きわめて素朴な意味ですが、身体にも精神にも病気はあります。生来病弱な人も、事故で障がいをかかえた人もいるでしょうが、その人にとっての健康への道は開かれているはずです。ましてや、身心屈強なものは、健康を損なってはいけない。特に、私たち教育者は常日頃から、「健全なる身体」と「健全なる精神」に注意を払うべきです。心身ともに健康。当たり前のことなのでしょうが、なかなか難しい。自戒をこめつつ、お互い心してのぞみましょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第29号,平成24年11月27日.
ス ウ ィ フ ト S w i f t
イギリスの小説家、批評家。1667~1745。アイルランドのダブリンに生まれ、幼少の頃父と死別(彼が生まれたときに既に父は死去していたという説もある)し、極貧の生活をおくるが、伯父の保護により、進学する。ところが、素行が悪く、特赦で卒業し、イギリスに渡り、政治家の秘書をして過ごした。アイルランドに帰ってからは牧師となり、しばしばロンドンに赴いてに文壇や政界で活動するが栄進栄達はならず、アイルランドに戻り、一転してイギリスからのアイルランド独立運動の文筆の闘士となった。しかし、持病の悪化により、痴呆の状態で死んだ。その遺産は精神病院の建設のために寄付されたと伝えられている。代表作は『ガリバー旅行記』。
*アイルランド独立運動
アイルランドは16世紀以降、イングランドに侵略され、1649年のピューリタン革命以降、事実上の植民地となり、政治的・経済的・宗教的差別に苦しめられた。1801年にイギリスに併合されたが、その後、カトリック教徒解放法が成立し、第二次世界大戦後、完全な独立国となる。
スウィフトは鋭い風刺とユーモア、批判力と自由な発想をもち、イギリス古典主義を代表する作家です。古今東西の名作として知られている『ガリバー旅行記』は子どもの頃、誰でも絵本か何かで見たことがあると思いますが、その真のねらいはおとなのための童話で、気楽に読み過ごせないテーマを含んでいます。小人の国と巨人の国が有名ですが、その他にも知性のある馬の国に行っており、驚くべきことに日本にもガリバーは来ています。
ガリバーは、勿論架空の人物ですが、その経歴は作者自身に似ています。彼がはじめに行ったのは「小人の国」でここでは言語も通じ、風俗習慣も母国イギリスにそっくりであり、ふたつの政党の権力闘争も民主制草創期である当時のイギリス社会を風刺・批判したものです。ガリバーはミクロの世界に入り、高く大きなところから眺めることのできる人物になりました。だだし、細微なことには気がつきません。
一転し、彼は巨人の国に入り、拡大顕微鏡のように今度は本来みることのできない眼をもつことになりました。すると見たくもない、知りたくもない真実を知ることになります。美しく麗しいと思っていた女性の姿が、その肌の微細な面まで拡大されるのであるからきわめて異様です。マクロの世界では、小さなものが拡大されるのですから細なものはよく分かります。ただし、世界全体、それどころか一人の人間すら眺めることができません。当然、自国のことなど全体をとらえられるはずがない。巨人の国の王様に母国イギリスについて語ったところ、「おまえの国の歴史は陰謀、反逆、殺戮、革命、追放の繰り返しで、品性の卑しいものが統治者として優れたものである」と馬鹿にされる始末でした。風刺文学といわれるこの作品は当時の社会だけではなく、人間そのものの風刺でもあるのです。
さて、上記のことばは『ガリバー旅行』にある一句ですが、明らかに、虚栄心は自尊心から生じるものではありません。虚栄心とは見栄を張る、必要以上に自己主張する、意味なく目立とうとする、常に自分が注目されたがる自己中心的な感情で、しばしば自他を傷つけ損なわせます。しかし、自尊心は自己を高め、他者を尊重し、無償の愛と並んで人間として最も崇高な感情です。
私は以前から教育課題のひとつに、自己肯定感の育成をあげています。これは日常的および一般論的には自尊心すなわちプライドに帰一するものです。人間が誇り高く堂々と、自他に恥じない生き方をするためには、理性のよって本能や欲望を抑えることが大切であるとは、多くの哲学者や倫理学者が説くところです。勿論、そのことは正しいし、当然なのですが、私は学校教育現場においては、理性的道徳観とともに、自尊感情の育成が必要であると思っています。自分は頭が良いとか、美人だ、などと自信を持って言える人はそうそういるわけではありません。しかし、「自分は愚かではない」「他人からバカにされるような人間ではない」という思いは誰もがもっているはずです。私はその感情に素直になれる人を好ましいと思いますし、その感情を大切にできる人を信頼しています。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第28号,平成24年11月21日.
ヴ ォ ル テ ー ル Voltaire
フランスの文学者・哲学者。1694~1778。パリの商人の子に生まれ、初め文学者として世に出たが、当時の権勢者を批判して、かのバスティーユ牢獄に囚われたこともあった。その後、イギリスに亡命。帰国後、その経験をもとに『哲学書簡』を著し、フランスの封建制を批判し、イギリスを賛美したため再び弾圧を受けたが、プロシアのフリードリッヒ2世の招きでベルリンへ行き、彼に啓蒙思想を説く。特にカトリック教会の偽善を弾劾し、言論の自由と宗教的寛容を主張した。晩年はジュネーブで隠棲した。モンテスキュー、ルソーらと並んで、フランス革命に大きな影響を与えた。主著は『寛容論』など。
*フリードリッヒ2世(1712~86)
当時における西欧の後進国プロシアを欧州最強の軍事国家にした君主。フリードリッヒ大王とも証せられる。 啓蒙専制君主として法制の整備、産業の育成をし、対外戦争を繰り返すことによってプロシアの地位を高めた。 同時代最高の哲学者カントは彼を世界無二の君主と讃えた。
*モンテスキュー(1689~1755)
フランスの啓蒙思想家。ボルドーの貴族の子に生まれ、弁護士を経て、高等法院長官に就く。職を辞し、ヨ ーロッパ各地を歴訪して帰国。権力分立論を唱え、当時のフランスの政治体制を批判した。主著『法の精神』。
*ルソー(1712~78)
フランスの哲学者、文学者、啓蒙思想家。フランス革命の理論的支柱をつくる。そのほかにロマン主義文学 の先駆者としても評価されている。
*ホメロス(生没年不祥)
BC9世紀頃のギリシャの詩人。ギリシャに古くから伝わるトロイ戦争を題材に『イリアス』『オデュッセイア』を著し、神話の人物を通して人間としての理想的生き方を描いた。
日本人はことのほか占いが好きで、朝のワイドショーではどの番組でも必ず、「今日の運勢」なるコーナーがあり、繁華街では、怪しげな様相のプロ、セミプロが偉そうに坐っています。誰もが少なからず、自分の将来に不安をもっていますから人気があるのは当然だと思います。運命について語ることは存外、難しく、運命論者か否かということは無神論者か否かということ以上に厄介な問題です。人生は自分の手でつくりあげてきたと思ってはいても、心のどこかで運命の力を感ぜざるを得ないし、人間の一生などというものは自分の知らないところで勝手に決められていることも多いことも事実でしょう。
数年前、大ヒットしたアメリカ映画『トロイ』はホメロスの『イリアス』をモチーフにしたもので、ブラッド=ピット熱演のアキレウスとエリック=バナ好演のヘクトールの二人の主人公が神の定めた運命に敢然と挑戦し、友のため、愛するもののために命をかける物語でした。人間の運命は神によって決められており、神の意志を知る力は人間にはない。けれども人間はそれにもかかわらず、自己主張し、自己の信ずる道を歩きつづける。その努力によって人間は高貴な存在となる。運命に逆らえないかもしれないが、できる限りの力をふりしぼって生きることを理想とする。これがホメロスの人生観・運命観です。
ヴォルテールのことばもこれと同様です。失敗や挫折を運命として諦観せず、それを自分の今後の生き方の糧とするのが大切なのであり、不運を試練、刑罰とし、幸運を補償とする。誰の落ち度でも世の中のせいでもない。すべて自分は自分の責任であり、失敗や挫折もこれからの生き方の道標となる。私たちがなすべきことはどんなときにも希望を捨てずにひたすら生きることではないか。勿論、不慮の事故とか病気など、残念ながら自分の力ではどうにもならないものもあるでしょう。しかし、日常的に言う「運の良い悪い」は、自らのことばと行動によって何とかなるものがほとんどです。
ホメロスの主人公たちのように、“たとえ死ぬと分かっていてもたとえ敗れると分かっていても自己の責任と信念を貫く”、これほどの英雄精神とはいかないまでも、他人の力を借りずに自分の人生を自分でつくる、自分の不始末を他者や世間のせいにしたり運の悪さと言い訳けしない。そんな気概を若者に伝えることも教師の仕事です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第27号,平成24年11月15日.
デフォー D=Defoe
イギリスのジャーナリスト、小説家。1660~1731。ロンドンのピューリタン(カルヴァン派)の肉屋の子に生まれ、父は彼が牧師になることを望み、本人もそれを目指したが、あきらめて商人になり、イタリアやフランスにも渡り各種の事業を起こすが、すべて失敗した。1688年、名誉革命が起こり、ピューリタンに寛容なオレンジ公ウイリアム(オラニエ公ウィレム)夫妻が王位に就くと、新聞記者に転身し、『国策論』などを著し、評論活動に入る。その後、時事評論と小説を書き、本格的なジャーナリズムの世界をつくりあげ、晩年は長編小説を数多く発表した。代表作『ロビンソン・クルーソー漂流記』は古今東西の名作のひとつ。
*名誉革命(1688)
ピューリタン革命の挫折により王政復古で再び王家となったスチュアート朝の王政復古第2代国王ジェームズ2世の保守反動政治に対して、議会が廃位を決議、周到な計画により、無血での革命が成功した。王に迎えられたのが、オランダ総督のオレンジ公ウイリアム(ウイリアム3世)とその妻メアリー(メアリー2世・ジェームズ2世の王女)で、翌年、『権利章典』が出され、議会を中心とした近代政治体制が成立した。
作品は有名であるが作者が意外に知られていないことがあります。例えば、中国文学では、かの『三国志』の原作『三国志演義』、孫悟空が活躍する『西遊記』。作者はそれぞれ羅貫中、呉承恩です。西洋文学では『ロビンソン=クルーソー漂流記』や『ガリバー旅行記』で、『ロビンソン=クルーソー』の作者は今日の人物デフォー、『ガリバー』のスウィフトについてはまた後日紹介します。
デフォーはジャーナリズムという分野を確立し、小説家としては勿論のこと、ジャーナリストの先駆者としても重要な人物です。上記のことばは新聞記者として真理を重んずるのであれば、生命の危険すら覚悟しなければならないという意味で、彼の並々ならぬ決意が感じられます。将来、この世界に進もうと考えている生徒諸君も多いでしょうし、また皆さんの身近にもその関係者がいるかもしれませんので、今日はジャーナリズムやマスコミについて考えてみましょう。
現代は脱工業化社会あるいは情報化社会といわれています。産業の中心が「もの」から「情報」となった現代において、ジャーナリズムやマスコミが与える影響は、客観的に見て、教育現場などとは問題にならないほど大きいものです。いかに教師が教壇で熱弁をふるい、児童生徒に人としてのあるべき姿を説いてもその晩のバラエティー番組の馬鹿騒ぎや店頭の低俗雑誌の一ページでかき消されます。世間の価値観はマスコミの方針により形成されると言っても過言ではありません。それだからこそ、この仕事に就いている諸氏には、指導理念をもって慎重に情報を提供し、あるべき方向性を導く姿勢が求められるのです。取材やドキュメントと称しての「やらせ」、作為的な記事、番組づくりは論外です。
放送局も新聞社も雑誌社も企業であるかぎり、営利追求は当然です。しかし、ジャーナリズムやマスコミの目的、真の存在価値は、政府と民衆に正義と恒久平和を唱え、人々の自由と権利を守り、民主主義社会の崇高な理想の実現に関わることにあります。そのような職に携わる諸氏には仕事に天職として誇りをもってもらいたい。また、一般民衆としての私たちにも、情報を常に批判的に考察することが肝要です。ジャーナリズムやマスコミの動きを冷静に見ることが求められるのです。実に、これこそが教師の役目のひとつであると私は思っています。かつて、マスコミが独裁者に利用されたことがありました。ナチス=ドイツは当時における最新のメディアを駆使して世論操作を行い、戦争と迫害を正当化させました。我が国における戦中の大本営発表もまた然りです。その過ちを繰り返さないためにも今一度、デフォーのことばをかみしめたい。それはまた、人間としての普遍的な生き方でもあります。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第26号,平成24年11月8日.
ラ ・ フ ォ ン テ ー ヌ La Fontaine
フランスの詩人、思想家。1621~84。フランスのシャンパーニュに役人の子として生まれ、若くして神学を学び、古典に親しんだが、その素行は放蕩をきわめ、結婚しても仕事に専念しなかったため、生活は苦しかった。しかし、感性豊かで、詩の才能に恵まれ、フランス古典派の詩人としての評価は高く、後年は貴族の婦人たちの保護を受け、豊かに暮らした。また、典型的なモラリストで普遍的な人間の典型と人間性および社会の本質を深く考察した。世界的古典として知られている『寓話詩』は寓話の人物や動物を主人公にして、彼の思想を展開した名作である。代表作はその他に、小説『プシュケとキュピドンの恋』など。
*デモクリトス(460?~370?BC)
古代ギリシャの哲学者。BC6世紀に成立した自然哲学の帰結をなす人物で、万物の根源を分割不可能な原 子(アトム)であり、その組み合わせによって万物が形成されるとした。
*ソクラテス(470?~399BC)
古代ギリシャ最大の哲学者で「人類の教師」とよばれる。敗戦で荒廃したアテネの人々に、生きることの意義と価値を説き、「無知の知」を自覚して、真の知を愛し求めること(愛知)を唱えたが、政敵に告発され、死刑となった。
古代ギリシァの哲学者デモクリトスのことばに「多くの愚者を友とするよりは一人の智者を友とすべし。」というのがあります。また、デンマークには「善友の怒り顔は悪友の笑顔より尊い。」という格言もあるそうです。友情と友人については、生涯にわたり、特に若い世代には何度でも繰り返しさまざまな角度から考えてもらいたい事柄で、私たちも様々な角度からこのことを説かねばなりません。一般に友人とはどんな人のことをいうのでしょうか。学友や職場の同僚。ちょっと親しくなって食事を一緒にしたり、休日に遊びにいったりする間柄、共通の趣味や話題で過ごせる関係。社会人であれば、飲み仲間といったところでしょうか。しかし、もっと突き詰めるとなかなか大変です。
ラ・フォンテーヌは、ソクラテスを主人公として次のような寓話を書いています。ある時、ソクラテスは家を建てた。小さな家であった。ある人が言った。「先生のように有名な方にはふさわしくない家です」。ソクラテスは言った。「まことの友でこれをこのまま一杯にできたらありがたい」。ラ・フォンテーヌは語ります。「この名ほど世にありふれたものはなく、その実ほど天下に稀なものはない」。
真の友とは困ったときにはいつでも自分に勇気を与え、どんなときでも自分のためを思ってくれる人のことです。「はたして自分に親友はいるか」と生徒たちに自問させてみてください。青年期であれば、苦しみや悩みを打ち明け、片想いや失恋を感ずる友。大人であれば、難しい仕事を一緒に苦労して成し遂げ、互いにかばい合い、励まし合った仲間。彼らは精神を共有するから尊いのです。それが、互いの存在を高め合い安定させる友情を生むのです。友人は選ぶものです。無知で愚かなものではなく、賢くやさしい人を選ぶとよい。しかし、そのためには何よりも自分が賢くやさしい人にならなくてはなりません。「良い友だちがほしい」と誰もが言う。しかし、そのためには自分が相手にとって「良い友」になることが大切です。自分が「良い友」になっていれば、相手は必ず自分にとって「良い友」になっているのです。このことは是非、若者たちに伝えてください。そして、このことはおとなの社会でも、あらゆる人間関係に通じることです。
では真の友いわゆる親友とは何か。そう問われたとき、私は次のように答えています。今自分が一番大切にしているもの、大切にしている人。例えば、金や財産かもしれないし、記念の品、思い出の贈り物かもしれない。あるいは、両親や妻子、恋人かもしれない。その大切なものや人を安心して任せられる人。その人が親友です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第25号,平成24年11月1日.
ミ ル ト ン Milton
イギリスの詩人、小説家。1608~74。ロンドンの富裕な公証人の子に生まれ、ケンブリッジ大学に進学し、イギリス国教会の司祭をめざしたが、ピューリタン(イギリスのカルヴァン派)に傾倒する。卒業後、古典研究と創作活動に従事していたが、ピューリタン革命に参加し、クロムウェルのスポークスマンとして活躍した。失明して、王政復古後の晩年は不遇に終わったが、詩作と著述活動は衰えなかった。代表作は『失楽園』、『闘技者サムソン』など。
*ピューリタン革命(1642~49)
スチュアート朝絶対主義打倒を目的とし、クロムウェルが指導した史上初の市民革命。国王チャールズ1世は処刑された。カルヴァン派の市民が担い手であったが、彼の死後、挫折した。
*クロムウェル(1599~1658)
議会派の軍事権を握り、国王を処刑して、革命を指導したが、のちに軍事独裁制をしいた。彼の死後、革命は挫折し、王政復古(1660)となり、議会尊重を条件にチャールズ2世が即位した。
宗教改革のあと、ヨーロッパでは『聖書』を題材にした小説や戯曲が隆盛をきわめました。そのなかでも、ミルトンの『失楽園』はピューリタン文学の最高傑作とされています。失楽園とは『旧約聖書』の『創世記』にある人類の祖アダムとエバ(イブ)が楽園から追放される物語のことですが、ミルトンはその背後にある神と堕天使(天使から堕落した悪魔)と人間のドラマを描きました。ページを追うごとに、神への憎悪と復讐に燃える堕天使サタン(ルシファー)が極めて魅力的に描かれ、地獄の様子が天国よりも実在感があります。また、宗教的に深遠な内容と崇高美のゆえに高い評価を受け、18世紀のイギリスではシェークスピアよりも発行部数が多かったそうです。
天使の最高位にあったサタンは神がキリストを大天使よりも高位に置こうとしていることを知って、神に背き、配下の天使を率いて反逆する。しかし、3大天使(ガブリエル、ミカエル、ラファエル)の奮戦とキリストの威力の前に敗れ、地獄に墜ちる。サタンは神への復讐を誓い、神が創造し、エデンの園にいるアダムとイブを誘惑して、神に背かせようとした。サタンは蛇のなかに入り、思惑通り、人間を楽園から追放させることに成功する。しかし、神は定められた日にキリストを人間として地上におくり、人類を罪から救うことを決める。原罪に対する神の予告、イブを誘惑するサタン、アダムを誘うイブ、二人の悔い改め、そして、大天使ミカエルがアダムに諭す人間の歴史と救済。人類の祖アダムとイブには多くの苦難が待っているが、キリストによる救済を希望として神への信仰の道を歩むのである。
以上が『失楽園』のアウトラインですが、古代ギリシャ以来の叙事詩の原則どおり、「ものの半ば」即ち地獄に堕ちて悪魔になったサタンが復讐を誓うところから物語ははじまります。上記のことばですが、そもそも最高の天使ルシファーサタンが地獄の主となったのは嫉妬と憎悪です。神のひとり子キリストへの嫉みと憎しみが彼を堕落させ、神への復讐心がサタンをしてサタンたらしめたのでした。私たちの人生にしても心のあり方ひとつで人生は天国にも地獄にもなる。堕落天使、悪魔サタンは反面教師です。
人間の感情のなかで、最も醜いのは嫉妬とそこから生じる憎悪です。私たち教師は常に人間としての心のあり方を問う立場にあります。だから、自他に恥ずかしくないように感情をコントロールしなければなりません。突き詰めていくと、自分の心をつくるのは自分自身です。自分を自分で見て、みっともない状態であってはなりません。かなり前のことですが、薬師寺のお坊さんからこんなことばを聴きました。「世間は鏡、人も鏡。こちらが怒れば向こうも怒る。こちらが笑えば向こうも笑う」。最近、教育界でもコミュニケーション能力の育成が話題になっていますが、その方策は存外、単純なところにあると思いますが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第24号,平成24年10月26日.
パスカル Pascal 第22号に同じ。
*エセィessaisは随想、パンセpenseesは瞑想と訳される。パンセの意味は思考、考えることである。 三色すみれをパンジーpansyというが、この語源はパンセから来ている。花が下を向いて咲いている様子が、頸をかしげて考えている姿に似ているからだとされている。
幼少の頃から病弱で、生涯を哲学、科学、宗教の研究に費やしたパスカルであったが、2年間ほど、パリの社交界での生活を経験している。それは、パスカルの病気療養と気晴らしのためと、尼僧になりたがっていた彼の妹の気持ちを変えるために父が計画したものであった。パスカルの研究者たちの間ではこの時期を“パスカルの放蕩”と呼んでいるが、彼は決して享楽に耽ることはなく、交流した仲間たちも、学者や学問・芸術に関心の深い貴族や富裕市民で、普通の人から見るときわめて立派な生活で、ここから彼は、洗練された礼儀作法や広く深い教養を身につけ、人間がもつ細やかな情愛や繊細な精神について関心を持つようになった。
残された名言が似ており、ともに哲学者であり、数学者・物理学者であったためか、パスカルはデカルトとよく比較されます。パスカルは24歳の時、当代一の学者デカルトに会っています。その際、二人は真空について語り合い、デカルトはパスカルに新たな実験を依頼しています。また、デカルトはパスカルの健康を気遣い、いろいろと助言をしたようです。その頃、デカルトはすでに晩年を迎えており、パスカルは数学者・物理学者としての彼を尊敬していました。しかし、哲学者としては、特に神をめぐる問題については「デカルトをゆるせない」と述べています。勿論、デカルトは無神論者ではありませんが、人間理性の論証によって神の存在が証明できるとしました。つまり、理性により信仰が裏付けられるという立場をとったのです。
パスカルは信仰を理性とは別次元にとらえていました。それよりもパスカルが不満であったのは、デカルトが理性万能主義から人間をとらえており、人間の弱さや惨めさを自覚していないことでした。人間の悲惨さから救うのが神の愛と恵みであって、その悲惨さが分からないものは神を信じないものに等しいとパスカルは考えたのです。
さて、今回紹介することばは、前号の「人間は考える葦」と同じくらい有名なことばですが、私はユーモアやウィットではなく、パスカルの思想の特色を表す名言だと思っています。このことばが記されている箇所の小テーマは「むなしさ」で、「人間のむなしさを十分に知ろうとするならば、愛の原因と結果とを考えてみさえすればよい。その原因は、“何だか私には分からないもの”であり、またその結果は畏るべきものである。人の知ることもできないほどに小さなこの“何だか私には分からないもの”が、全地を、王たちを、軍隊を、全世界を動かすのである。クレオパトラの鼻、もしこれが低かったら地上の全表面は変わっていただろう。」と綴られています。パスカルは“何だか私には分からないもの”を恋愛感情ととらえているようですが、私は対象は何であれ、あるものへの盲目的な愛あるいはそこまではないにしろ、心情的なはたらき全般と考えた方がよいと思います。確かに、人間は理によって認識しますが、多くの場合、情によって動くものです。したがって、理性と感情の両側面のバランスをとることが、やはり人間としての正しいあり方に繋がるのでしょう。
そもそも、人間精神において、理性と感情は峻別できるものではありません。カント流に言えば、理性なき感情は盲目であり、感情なく理性は空虚である、とでもなるでしょうか。教育においても、勿論、このバランスは大切にしなければなりません。ホットな言動のうちにある冷静な思索、クールなたたずまいのなかに秘めたる情熱。特に、教師には感情を理論化して説明する力が必要です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第23号,平成24年10月19日.
パスカル Pascal
フランスの数学者、物理学者、哲学者。1623~62。幼くして、母と死別し、こどもの頃から病弱で一生病魔に苦しめられたが、早くから自然科学の領域で才能を発揮し、数学における「パスカルの定理」、物理学における「パスカルの原理」を発表した。一時期社交界にはいったが、31才のとき、宗教的回心をし、キリスト教精神に基づく人間論を展開する。回心後、ポールロワイヤル修道院で信仰生活にはいり、神と人間との思索に専念した。その思想はのちの宗教的実存哲学の先駆とされている。主著『パンセ』『愛の情念』など。
*宗教的実存主義
19世紀後半から20世紀前半の哲学の主流であった実存主義のうち、超越者との対面のなかで自己の本来的なあり方を求める立場。サルトルにより命名され、キルケゴール、ヤスパースらが代表である。これに対し、ニーチェ、ハイデッガー、サルトルらを無神論的的実存主義という。
*デカルト(1596~1650)
フランスの哲学者、数学者、物理学者。第18号参照。
パスカルはモンテーニュと並んでモラリストの頂点に立ち、かつ世界的知名度が高い人物です。また、彼はあらゆる分野にわたっての才人で、特に数学においては、12才でユークリッドの第32定理(三角形の内角の和が180度であること)を独力で解いています。ちなみに、私たちは定理として暗記しているので、三角形の内角の和が180度であると知っていますが、なぜ180度になるかに関心をもつものは数学の専門家以外にはほとんどいないのが実状です。また、パスカルは世界で最初に計算機を発明したことでも知られていますが、それは彼の父が税務署長で、その煩雑な金銭管理をみて、考え出したものだそうです。19才の時のときのことでした。
哲学においては、パスカルはデカルトの理性主義に反対し、心情を重視した人生観世界観を述べています。「思考に人間の偉大さがある」、「思惟によって私は宇宙を包容する」のほか、気のきいたところでは「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の顔は変わったであろう」など、彼には名言名句が目白押しですが、そのなかからやはり上記のことばをまず選びました。古今東西屈指の名言中の名言で、人間存在の真相と偉大さをこれほど正しく気高く表現したものも他にありません。主著『パンセ』は瞑想録と訳されていますが、フランス語では思考・思想を表す語であるらしく、その意味でもパスカルの立場を象徴的に表しています。ただし、彼のいう思考とは理性によるもののみのことではなく、心情も含めた総体的な全精神での思考です。
パスカルの思想は、人間は悲惨な存在であると同時に偉大で、偉大であると同時に悲惨であるというところから出発します。彼によれば、人間は死が必ず訪れることを知りながら気晴らしによって現実の自分を忘れようとしている悲惨な状態にいます。死すべき運命にあるから悲惨なのではなく、その現実から眼をそらし、気晴らしのために一時の享楽に耽ることが悲惨なのです。大げさな話ではなく、日常生活の至るところで、私たちは日々の苦しさや辛さから逃れようとし、現実からの逃避に走ることがあります。しかし、それに続けてパスカルは次のように言います。「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である」。宇宙は武装することなく人間を押しつぶすが、そのことを自覚していない。人間は押しつぶされてもそのことを知っている考える存在である。考えることをしなくなったとき、人間は尊厳を失うのです。 私たち教育に携わるものは、「考える」ということばを一日に何度もくり返しています。
私たちは「考えること」を何の検証もなしに、無条件に尊いものとしてしまいがちです。しかし、大切なことは何を、いかに考えるかです。パスカルが説く「考える」とは謙虚に自分のあり方を見つめ、自己の有限性を自覚しながら、人生をどう生きるかを考えるということでした。今さえよければいい、自分さえよければいいという観点からの「考える」は、人間として「考えること」に値しないのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第22号,平成24年10月11日.
モンテーニュ Montaigne
モンテーニュは領主の家に生まれ、父はワインで有名なボルドーの市長を勤めた政治家であったが、もともとはユダヤ系の富裕商人であった。すなわち、モンテーニュは子どものときから裕福な家庭で育ち、英才教育を受けて育った。彼自身、法律家で、ボルドー市長にも就任したが、特筆すべきは即位する前のナヴァール公アンリの侍従をつとめ、アンリがアンリ4世として王位に就くと、政治顧問に要請されるが、辞退して、著述と研究に余生をおくっている。モンテーニュはユーロが通貨となる前のフラン紙幣に肖像画が用いられるほど、フランスでは誰もが知っている有名な人物である。
*アンリ4世(1553~1610・在位1589~1610)
フランスブルボン朝の第一代の国王で、ユグノー戦争のさなか、ヴァロワ朝断絶後新国王として即位し、自身はプロテスタントであったが、カトリックに改宗し、戦争を終結させた。国王中心の中央集権体制を推進し、絶対王政の基礎をつくったが、カトリックの聖職者に暗殺された。モンテーニュはアンリの父とも親交があった。
*セネカ(BC5?~65)
古代ローマの哲学者。スペイン生まれでその博学多才によりローマ皇帝の廷臣となり、ネロの政治顧問をつとめるが、後年、彼の暴政を批判して辞職し、後に陰謀の嫌疑をかけられ自害した、主著『道徳書簡』など。
英語でもフランス語でもエセィ(essays , essais)は随筆、随想を意味しますが、これはモンテーニュの主著『エセィ』に由来しています。元来は、フランス語で「試み」という意味でした。『エセィ』は、日本語でも『随想録』と訳され、古今東西の名作中の名作で、学術論文や評論でも詩や小説でもないジャンルの先駆的作品として高く評価されています。しかし、随筆の成立は日本の方が早く、『方丈記』は13世紀初頭、『徒然草』は14世紀前半、『枕草子』に至っては10世紀にすでに成立しています。なお、『源氏物語』は世界初の長編大河小説ですから、当時の日本文学のレベルは世界一でしょう。
さて、『エセィ』のなかで最も有名で、またモンテーニュ自身のことばとしてもひときは輝いている名言が今回紹介する「私は何を知るか(ク・セ・ジュ)」です。このことばの意味はふたとおりに解釈されています。ひとつは自分の無知や有限性を知ったうえで、人間として何を知ることが出来るのかという問題提起で、もうひとつは自分が知っていることはたかがしれている、知っていると思っていても真実かどうか分からないという懐疑論です。『エセィ』全体およびモンテーニュの人生観を総合的に判断すると、どうやら、この両者を統合して理解すべきと思われます。
モンテーニュが生きた時代は、前号でも記したとおり、ヨーロッパが世界に目を向け、自国を強大にする絶対王政の確立期で、やがて来るヨーロッパ近代社会の黎明期でもあるのですが、同時に宗教戦争による大混乱の時代でした。特にカルヴァン派(フランスにおいてはユグノー、イギリスにおいてはピューリタン)とカトリックの争いは宗教の教義や信仰の問題を超えて政治的紛争となり、血で血を洗う凄惨な事態となりました。狂信や傲慢は人間性を喪失させるのです。
モンテーニュはまず、人間の能力にはかぎりがあり、不変の真理を認識することなどはできないという立場に立ちます。これは決して否定的な諦めではなく、自己自身を厳しく謙虚に見つめることです。その結果、「私は何を知るか?」という問いかけが人間としてのあり方であるとするのです。人間は真理に到達するのではなく、真理を探究し続ける存在であり、慢心を捨て、独断を避け、真理を求め続けなければならないのです。
私は長く教職について、いろいろな教師に出会っていますが、“カリスマ教師”とか“スーパー教師”などということばを好みませんし、そのような教師はあるべきではないと思っています。もし、そう自覚している方がいれば、是非お会いしたい。なぜなら、モンテーニュが言うように、そもそも人間とは不完全、無力な存在で、真理や理想を求め続けることにその尊厳があるからです。私はこれまでにも何度か、教師の力量とは「技量」・「信念」・「姿勢」のことであり、「姿勢」には「情熱」と「謙虚さ」があるといってきました。ちなみに、セネカは「私は教えるために学ぶ」と言っています。ソクラテスは「人は無知なるがゆえに知を愛し求めなければならない」と唱えています。孔子は弟子に「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなせ。これ、知るなり。」と説いています。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第21号,平成24年10月5日.
モンテーニュ Montaigne
フランスのモラリスト。1533~92。ボルドー市近郊のモンテーニュで生まれた。父はボルドー市長を勤めた。初め、法律家、政治家として活動し、郷里のボルドー高等法院の参議、裁判官などを勤めていたが、37歳で辞職して古典研究、旅行、著述に専念する。一時期、ボルドー市長にもなったが、ユグノー戦争に代表される混迷、転換の時代にあって、懐疑精神をもって人間を鋭くみつめ、考察した。フランスではパスカル以上に評価されている。主著は『エセィ』など。
*ユグノー戦(1562~98)
フランスのカルヴァン派(ユグノー)とカトリックの宗教戦争。これに諸外国が干渉して、フランス最大の 内乱になった。聖(サン)バルテルミーのユグノー大虐殺により、内乱は激化。ヴァロア朝が滅亡し、ユグノーのナヴ ァル公アンリがアンリ4世として即位し、ブルボン朝を建て、自らはカトリックに改宗し、ナントの勅令でユ グノーを公認し内乱を終結させた。ルイ14世はアンリ4世の孫にあたる。
*パスカル(1623~62)
フランスの哲学者、数学者、物理学者。「人間は考える葦である」の名言で知られる。モンテーニュとともに モラリストを代表する人物。主著『パンセ』。
16世紀から17世紀にかけて、フランスの思想界で異彩を放ったのがモラリストとよばれる思想家たちでした。モラルmoralはラテン語のモレスmoresを語源とし、モレスは元来、習慣・規範を意味しますが、転じて道徳を示すようになりました。現在、モラリストといえば、道徳的な人のことですが、思想史ではギリシャ・ローマの古典的教養とキリスト教の精神に基づいて、時代とそこに生きる人間の心理を見つめ、人間の生き方をユーモアとアイロニーを交えて探究した人々のことです。彼らは体系的な論文ではなく、随想やアフォリズム(箴言・警句)を用いました。ちなみに、日本では芥川龍之介の『侏儒の言葉』がアフォリズムの代表作です。なお、「倫理」と訳されているギリシャ語のエートスethosも原義は習慣・習性で、このことから分かるように、「道徳」や「倫理」の基底は私たちの足もとにあるのです。
モンテーニュの時代はルネサンス期で文芸の復興とともにヨーロッパの世界進出の時代でした。そこでヨーロッパ人が見たのは未開の原住民。当然のように野蛮人として、ときには人間とみなさないこともありました。そこでモンテーニュは、人間と人間性について考えます。人間とは何であるのか、人間らしいとはどういうことであるのか。明らかなことは、我々は誰一人、自分の意志で生まれてきたのではないということです。そして、大自然の様々な生きもののなかで、人間として生まれたということは他の動物と異なる人間として生きなければならないということです。我々は神でも悪魔でもない。善と悪を持ち合わせているのが事実である。とすれば、欠点や悪徳を善に転化させることが、為すべきことです。文明化やキリスト教徒であることは二義的にすぎない。原住民を酷使したり、虐殺したりすることこそ非人間的なのである。モンテーニュはこのように、当時の知識人や支配者層に訴えました。
近年の学校教育の課題のひとつに、人権に関する教育があります。これは社会的不平等や差別、歴史的国際的問題から「いじめ」など広範囲におよぶものですが、根底にあるのは、人間の尊厳の実現であり、さらにその奥には「人間とは何か」という問いがあります。人間が人間として認められるべきとの主張がなされるようになったのは、実のところ、ごく最近のことです。それどころか、個人の生命の尊重が人間の尊厳について最も大きな位置をを占めるとすれば、戦争、紛争はもとより経済的見地からも人権を損なわれている人は世界中に数え切れないほどいるはずです。
私たち教育者が心得ることの一つにあげられるのは、「未来に何を残すか、次の世代に何を伝えるか」です。私たちは常に基礎を築いているという意識を持たなければなりません。すべての人がいつの日か、それぞれの幸福を得る日、見果てぬ夢かも知れないが、その日が来るのを願い続ける。「人間とは何か」「私は人間であるか」の問いかけは、その夢の実現に欠かすことのできないものなのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第20号,平成24年9月27日.
デカルト Rene Desucartes 第18号に同じ
デカルトが生きた時代はフランスブルボン王朝の成立期で、ルイ13世、リシュリューなどアレキサンドル=デュマの『三銃士』に登場する人物たちとほぼ同世代である。この頃になると、中世以来の騎士・領主層から国王の廷臣となるもの、すなわち宮廷貴族が活躍する。さらに宮廷貴族のなかでも旧来の軍人すなわち“軍服の貴族”のほかに法律や経済の専門家として宮廷に仕える官僚、いわゆる“法服の貴族”も登場した。デカルトも法服の貴族の家柄であった。身分はそれほど高くはなかったが、学問に専念するだけの経済力には恵まれていた。デカルトは生存中から学者としての名声をもち、スウェーデンに招かれたのもクリスティナ女王のたっての希望からであった。
*ルイ13世(1601~43・在位1610~43)
父アンリ4世の後を継いだブルボン朝第2代国王で、ルイ14世の父。アンリ4世が暗殺されたため、幼くして即位し、成人してからはリシュリューを登用して国力を強化、フランス絶対王政を確立した。
*リシュリュー(1585~1648)
ルイ13世の宰相としてフランス絶対王政の基礎を築いた。宗教的にはプロテスタントを弾圧して新興市民層 をおさえ、かつ大貴族勢力をも制圧し、国王中心の中央集権体制を確立した。対外的にはドイツの三十年戦争に介入し、フランスの国際的地位を高めた。
*アレクサンドル=デュマ(1802~70)
フランスの小説家、劇作家。同名の息子をデュマ=フィス、父をデュマ=ペールと呼ぶ。壮大なスケールと緻 密な人物像を描き、多くの名作を残した。代表作は『三銃士』『モンテクリスト伯』など。
*カント(1724~1804)
ドイツの哲学者。近代最高の哲学者と言われる。経験論と合理論を縫合し、人間の理性能力を吟味した批判哲学を説き、認識論、倫理学、美学、政治学などにわたる体系的哲学を完成させた。主著『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』『永遠平和のために』など。
前号で記した座標軸には事実は不明ですが、エピソードが残っています。デカルトは低血圧症のためか、早朝が苦手で、在学していたラ・フレーシュ学院は寄宿舎制の厳しい学校で、早起きが日課でしたが、デカルトだけは朝寝坊が許されていたそうです。ある朝、ベッドに横たわり、ボッーとして天井を眺めていると、格子の梁の真ん中にハエが一匹とまり、デカルトはひらめいた。たて横格子の天井の梁。そこにとまるハエは点。それが座標軸の起こりだそうです。
今回紹介することばは『方法序説』の冒頭の一句です。良識あるいは理性とよんでもよいのですが、デカルトによれば、これは万人が生まれながらに等しく与えられている唯一のものだというのです。なぜかと言えば、これが少し皮肉な表現なのですが、他のものは何でも欲しがる人でさえ、良識については自分がもっている以上に望まないからです。
デカルトはきわめて論理的表現をとるのですが、論理的すぎるとかえって、詭弁に思えるから不思議です。このことばに続いて、次のようなことが記されています。よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつ能力、これが本来良識または理性であるが、すべての人において生まれつき等しい。意見の違いは良識の多い少ないではなく、方向性が違うからである。そして、デカルトはこう言っています。「よい精神をもつというだけでは十分ではないのであって、大切なことは精神をよく用いることである」。近代哲学の完成者と言われるカントが説いたことを、デカルトはすでに記していたのです。
すべての能力はそれ自体では良いものでも悪いものでもありません。後に知能の高いものが犯罪を犯したならば大変なことになります。大切なことはその力をどのように用いるかです。そう考えると、教育のねらいはより明らかになります。仮に記憶力や暗記力、語学や数学のセンスが生来のものであったとしても、何に関心をもたせ、どのように意欲を喚起させるかが教師の力量の一つとなります。新しい学力観が唱えられてしばらくの月日が経ちますが、意欲・興味・関心をもっているかどうかではなく、もたせるために私たちは何をどのようにすべきか考えなければなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第19号,平成24年9月20日.
デカルト Rene Desucartes
フランスの哲学者、数学者。1596~1650。フランス中部の中流貴族の子に生まれるが、幼少期に両親と死別し兄に養育された。10歳で、名門ラ・フレーシュ学院に入学し、スコラ哲学を学ぶ。その後、ポワチエ大学に進み、法律と医学を学ぶが、既成の学問に満足できず、卒業後、“世間という大きな書物”すなわち社会的見聞を広めることを決意し、各地を旅行したり、ドイツの三十年戦争に従軍したりした。その後、オランダに定住し、研究と著述の生活をおくった。晩年、スウェーデンに招かれ、その地で没した。真偽・善悪・美醜などの観念はすべてに人間が本性的に持っているもの(生得観念)であるとし、理性により論理的に考察することが真理や正しい知識を導くという合理論を唱えた。主著は『方法序説』『哲学原理』『情念論』など。
*スコラ哲学 第15号脚注参照。
*三十年戦争(1618~1648)
ドイツで起こった国際的宗教戦争。神聖ローマ帝国(ドイツ)におけるカトリックとプロテスタントとの宗教戦争に諸外国が関わり、国家間の利害や勢力に関わる国際戦争となった。
私事ですが、大学の哲学科に入学したとき一番最初に読まされた書物がデカルトの『方法序説』でした。デカルトから近代哲学が始まるのですから、今にして思うと、当然すぎることで、それほど難しいものではなかったのでしたが、当時の私としてはかなり苦痛な日々をおくっていました。お陰様で、以後、難解な書への抵抗はなくなりました。
近代哲学は、認識の根源を人間の理性や感覚的経験に求め、道徳的価値や判断を神学から独立させることを特色とし、人間の認識能力や道徳的実践能力についての探求を主としています。したがって、人間そのものについての考察が哲学のテーマとなったということであり、それらの課題に本格的に取り組んだのがデカルトでした。
17世紀のヨーロッパは近代化が進行していたとはいえ、思想界においてはまだまだ混乱の状態にありました。デカルトによれば、学問とは確実な原理に基づかなければなりません。確実な原理とは、いつでもどこでも誰にでも、是認されうるものであり、このことを普遍性といいます。デカルトはその普遍性のなかでも、特に万人が認めうるという点を強調して“明晰判明な原理”とよび、その確立を哲学の第一の課題としました。そのために彼がしたことはあらゆるものを疑うことだったのです。疑っても疑いえないものが見つかったならば、それこそ“明晰判明な原理”である。デカルトは既成の概念や通説、常識、さらには感覚、意識まで疑い尽くし、その結果、自分が何かを疑ている、何かを考えているとき、疑っているあるいは考えている事実は確かであるし、そうしている自分は間違いなく存在する。そうであるならば、確実な原理、“明晰判明な原理”とは考える自己、自己の思考すなわち理性ということになります。こうして生まれたのが名言「我思う、ゆえに我あり」です。デカルトは理性があらゆる認識と判断の基準であり、人間の本質も理性的思考にあるとします。ここに理性に重きをおく近代哲学が確立しました。さて、デカルトといえば、座標の考案者ですが、このことは彼の哲学課題である“認識と判断の確実な原理”と呼応します。図Aに点aがありますが、点aをどのように定位できるでしょうか。基準のない状況では「aは~である」と定めることができません。図Bを見てください。x軸とy軸をひくと不定位であった点aは「x軸から2、y軸から1にある」と定位できます。原理や基準がなければ、認識や判断は出来ない。座標軸はデカルト哲学の象徴でした。原理や基準があってはじめて私たちは認識や判断ができる。このことは、私たちの生活のあらゆる分野に通じるものです。そこで留意すべきは原理や基準を確立するには徹底的な議論と考察を必要とするということです。独断や偏見は論外であり、前例・慣行にも十分な注意をはらう必要があります。「これが本校の伝統だから」は善と正義と愛の観点から万人に是認されうるものでなくてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第18号,平成24年9月13日.
Galileo Galilei
イタリアの天文学者、科学者。1564~1642。ルネサンス期を代表するだけでなく、近代自然科学を確立した大学者。ピサの生まれ。イタリアのパドヴァ大学で教授となり、振り子の定律、物体の落下運動の法則を発見する。また、望遠鏡を発明して、月面の観測により天体が完全な球であることを提唱し、木星の4つの衛星を発見して、地球が宇宙とすべての天体の中心であることを否定してコペルニクスの地動説を支持した。そのため、ローマ・カトリック教会から2度の異端裁判を受け、自説を撤回させられ、破門された。ガリレイの破門が解かれ、名誉が回復されたのは死後359年経った1992年のことである。
*コペルニクス(1473~1534)
ポーランドの天文学者。観測計算により地動説を証明する。生存中は自身の学説がローマ・カトリック教会から異端とされること確信して公表せず、死後、著書の『天体の回転について』で発表した。近代的宇宙観は彼による地動説の提唱から始まる。
*プトレマイオス
2世紀頃のギリシャの哲学者、天文学者。宇宙の中心が地球であり、すべての天体はそのまわりを運行するという天動説を唱えた。
*アリストテレス(384~322BC)
古代ギリシャの哲学者。プラトンに師事したが、師の立場と反対に物事を現実主義的科学的にとらえるな思想を展開する。古代ギリシャ哲学の集大成者で後世、「万学の祖」と仰がれる。その宇宙観はプトレマイオスに受け 継がれた。主著『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』など。
*スコラ哲学 第15号脚注参照
*ブルーノ(1548?~1600)
イタリアの哲学者。地動説を唱え、「神は無限、宇宙も無限で、宇宙が神の表れである」という汎神論を唱え、ローマ・カトリック教会により異端とされ、火刑となった。
F=ベーコンがものの見方考え方の観点から哲学的に近代自然科学を提唱したとすれば、具体的に実験や観察を用いて数々の発見や発明をした科学者はガリレイが最初の人物と言えるでしょう。ガリレイの研究方法は、経験的事実を基に仮説を立て、実験・観察によってそれらを検証し、因果関係や数量的な原理を見い出すというものでした。ピサの斜塔からの実験で物体の落下運動の法則の発見したことなどは特に有名です。
ガリレイがローマ・カトリック教会から異端とされ、裁判にかけられたことは、当時のキリスト教の科学への弾圧の例としてよく知られています。ガリレイ裁判は彼が『天文対話』という作品のなかでプトレマイオスの天動説を否定し、地動説を唱えたことが原因で起こりました。この頃、教会ではアリストテレスの哲学を応用したスコラ哲学が絶対視されており、宇宙観については、地球が宇宙の中心であり、他の天体は地球のまわりを運行しているとしていました。神が創造した地球こそが宇宙の中心にふさわしいからです。このことに関してガリレイはブルーノが1600年に火刑になっているため、かなり慎重に対応していましたが、ついに宗教裁判となり、無念にも自説の撤回を余儀なくされました。
上記のことばは法廷を出たときの彼の呟きとされていますが、後世の伝記作家が記したもので実際には彼のことばではありません。だだし、たとえ、自分は屈しても真理は永遠であるというガリレイの意をくんだことばとして名言と言えます。ガリレイは失意のなかで生涯を終え、教会は墓を建てることさえ許しませんでした。このような悲劇はひとえに狂信からきています。しかし、真理は確実に勝利を得えました。近代的世界観の成立です。それと同時に、封建的因習や教会権力からの人間性の解放も行なわれました。
狂信による悲劇は過去のものではありません。戦争、それにともなう民間人殺害や捕虜虐待、あるいは拉致被害、カルト教団事件などをはじめその他日常の様々なトラブルもその原因の多くは自分の立場や考えが一番正しいとする思い上がりや偏見、それらを冷静に省みることのない迷妄にあります。これが狂信で、学校教育においてもこのことはしばしば見受けられます。狂信は良識を失わせる。良識の喪失は人間性の喪失です。ではどうすれば、狂信に陥らずにすむのか。話し合えばよいのです。他者の声を聴けば良いのです。
矢倉芳則,「校長通信『地平遙かに』」第17号,平成24年9月6日.
F=ベーコン Francis Bacon 第15号に同じ
ベーコンは生存中、政治家としても高名な人物で、ケンブリッジ大学を卒業後、グレイズ=イン法学院に進み、弁護士の資格をとる。その後、パリに留学したが父の急死により帰国、23歳のとき、国会議員に選出され、弁護士の仕事をしつつ、政治家としても活動した。52歳で司法長官となり、役人としての最高位である大法官に就任し、イギリスの絶対王政を支えた。しかし、後年、贈収賄事件で告発され、公職を追われる。余生は隠棲して研究と著述に専念した。ベーコンは65歳で風邪をこじらせて死んだと伝えられているが、風邪の原因は、寒い冬に日に鶏を料理しようとしている調理人からその鶏を買い、雪で冷却して腐敗を防止できないかどうか、すなわち冷凍保存法を実験したためであったと伝えられている。
*帰納法 第15号脚注参照
ベーコンは優秀な哲学者、科学者でしたが、その一方で、政治家として地位も名誉も財産も得た人物でした。いわゆる、研究一筋の実直な学者ではなく、当然ながら、世俗的関心も強く、権謀術数に長け、名声を得るとともに悪名も高かったようです。しかしながら、そのような人物だからこそ、当時の学問的方法に疑問をもち、実生活に有用なもの、現実に役立つものこそが価値あるものとする新しい学問観を創り上げることができたのです。
今回紹介することばは彼の主著『ノヴム=オルガヌム』に記されている有名なことばで彼の経験論哲学、実用主義的学問論を示す名言として知られているものです。彼は、学問は現実の生活を快適に、便利に、楽しくするための手段であり、知識は役に立つもの、有用なものであって、そのような知識は生きるための力になると言います。彼によれば、人間の生活をよりよいものとするために自然は欠かすことができないのです。人間に対峙する自然を観察し、実験し、その結果得たデータを検証して、自然なかにある法則や原理を発見し、人間の物質的な生活を改善することが本来の学問であり、その観点からすると知識は、当然、実用的なものとなるのです。
ベーコンのこの立場から近代科学の精神が生まれ、それが現代の科学偏重主義や環境問題の始まりだとする見方もありますが、ベーコンは上記のことばに続いてこう述べています。「原因を知らなくては結果を生ぜしめないから。というのは、自然とは従うことによらなくては征服されないからである」。つまり、自然との共存のなかに自然からの恩恵をけるのであり、自然に対する謙虚さが大切だと説いているのです。謙虚さにより、人間は正しい知識を得ることができる。では、どのようにすればよいのでしょうか。
彼は、正しい知識を得るには、私たちがもっている偏見や迷妄を打破しなければならないと説きます。ベーコンは、人間は誰もが4つのイドラをもっていると言います。イドラとは偏見・迷妄のことです。ひとつは種族のイドラ。例えば、地球は平面であると感じるような、人間であるかぎり本性的にもつ感覚的な誤りや錯覚のことです。ふたつめは洞窟のイドラ。環境や習慣によりつくられた個人特有のものの見方や考え方のことです。次は市場のイドラ。ことばの不適切な使用や誤解から生まれる誤まりのことです。最後は劇場のイドラ。伝統や権威を無批判に受け入れたり、信じ込むことです。これらを取り除いて初めて、実験・観察に基づく帰納法が成り立ちます。
社会が複雑化し、国際化や情報化が進展している現代においては、ベーコンの時代よりもはるかに、私たちもイドラをもたざるを得ません。この点からすると、正しい知識を得ることもより難しい時代に生きていることになります。原発事故、節電、環境破壊、領土問題、国際紛争、年金問題等々、いい加減なことを言う評論家が目立ちませんか。まことしやかに思われる記事を目にしませんか。教育の課題にしても、確かな学力、豊かな心、不易流行、危機管理、学校経営における民間的発想な等々、概念が一人歩きしてはいませんか。意味が不明確ではありませんか。だからなおのこと、イドラを除去しましょう。そのためには、逆説的になりますが、当然、広く学び深く考える姿勢を持ち続けなければなりません。それを生徒に期待するだけでなく、教師が求めなくてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第16号 平成24年8月28日.
F=ベーコン Francis Bacon
イギリスの哲学者、思想家、科学者。1561~1626。貴族の子にとしてロンドンに生まれ、13歳でケンブリッジ大学のカレッジに入学し秀才の名をほしいままにする。のちに政界入りし、下院議員、司法長官、大法官などの高位に就くが贈収賄事件に係わり、失脚して公職から離れ、学問に専念する。中世以来のスコラ哲学を批判し、帰納法を用いた経験論を提唱し、後の近代科学の基礎をつくった。主著は『ノヴム・オルガヌム』『ニュー・アトランティス』など。
*スコラ哲学
9世紀から15世紀にかけてのキリスト教哲学。アリストテレスの哲学をキリスト教教義に応用し、トマス=アクィナス(1225?~74)により大成された。「哲学は神学の侍女」が基本的な立場である。
*帰納法
個々の事象・事例を実験・観察によりデータとして集約し、検証して普遍的な原理・法則を導き出す方法。近代科学の方法の基礎となった。
*経験論
ベーコンにより提唱され、ホッブズ、ロック、バークリー、ヒュームら主にイギリスの哲学者、啓蒙思想家たちに受け継がれた哲学。実験・観察を重視し、知識の源泉、認識の根本は経験にあるとする立場。以後、イギリスの伝統的な思想となる。
当たり前ですが、高校生や大学生の本分は勉強することにあります。勉強には多様な意味が考えられますが、学校教育においては知育・徳育・体育が三本柱で、あらゆる教材は学問の成果を適用したものです。高校ではその基礎を学ぶため、文法や単語、年号や人物を暗記したり、計算問題を毎日のようにするので、この時代に勉強が楽しいと思う生徒はなかなかおりません。それがゆえ、学問とはつまらないもの、一部の優秀なものだけに必要なものと思っている人が多いのです。少し前のことですが、世界各国に進出している学習塾のCMに、小学生が「どうして勉強しなければならないのですか?」と問うものがありました。これは彼らにとって素朴で深刻な問いです。
学問や教育は民主主義の発達とともに普及していきました。民主主義とは、言うまでもなく政治の主権が一般民衆にあるという思想です。一部の王侯や貴族あるいは富裕階層が政治の担い手であるならば、学問はその人たちのものであり、教育も彼らだけが受ければこと足りたのです。しかし、現代の日本では、成年になれば選挙権をもち、一定の年齢に達すれば、政治家になる権利を誰もがもっています。また、裁判員制度が導入され、人の罪を裁く立場につくことにもなりました。無知で無見識なものに政治や裁判を任せるわけにはいきません。民主主義という高邁な理想を実現するために国民のすべてが教育を受け、勉強に励まなければならないというのが、私たちに課せられた義務なのです。
さて、今回紹介するF=ベーコンは、17世紀イギリスを代表する哲学者で、シェークスピアとの同一人物説があがるほどの才人です。特に近代科学的思考とその根底にある実用主義の学問観・教育観を提唱した代表的な人物とされています。彼によれば、学問は生活を豊かにし、発展させる実用的なものであるから、何よりも正確さが重視され、正しい知識を得ることが大切なのです。上記のことばは『随想集』の一節で、「楽しみは独りで閑居している時に、飾りは談話に、能力の錬磨は仕事の時に役立つ。」と続いています。今まで知らなかったことを知る喜び。昨日まで解けなかった問題が解けた成就感。一人でいても、テレビやパソコンがなくても、一冊の書物あるいは紙とペンだけで一日を過ごせる快感。誰とでも内容豊かな会話ができる誇り。旅行先で友人や恋人に名所旧跡の解説をする気どり。そう考えると学問をすること、その結果として知識を得ることは大いに世俗的、もっと言えば遊戯的でさえあります。学ぶことは愉しみです。ただし、学ぶにあたっては真剣でなければなりません。また、学識をひけらかしたり、衒(てら)ってもいけません。怠学を恥とし、勤勉家を心から尊敬しましょう。
「確かな学力」がここ数年、学校教育の大きな課題となっています。学力は記憶力、直観力、思考力、表現力など広範囲にわたる総合的知力ですが、知識が学力の基礎となることには間違いありません。とすれば、生徒に「確かな学力」を身につけさせるためには確かな知識が必要です。さらにそのためには、知識を得ることの喜びを感じさせることが大切です。前述しましたが、学校教育におけるあらゆる教材は学問の成果を教育に適用したものですから、私たち教師が博学博識を目指し、学問を愛するものでなければなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第15号,平成24年8月21日.
トマス=モア Thomas=Morer
イギリスの政治家、法学者、思想家。1478~1535。イギリス絶対王政の確立期に、代議士、下院議長を歴任し、ヘンリー8世の宰相となる。しかし、イギリス国教会設立の首長令に反対し、処刑された。また、ルネサンス期を代表する思想家で、カトリックの信仰に基づくヒューマニズムを説いた。その一方、異端者の処罰にはきびしかった。主著『ユートピア』では、当時のイギリスの囲い込み運動を批判して、私有財産制を廃止した共産主義的な理想国家を描いた。20世紀に入り、ローマ教皇から殉教者として聖徒に列せられた。
*ヘンリー8世(1491~1547)
イングランドの国王。エリザベス1世の父。王妃との離婚問題により、教皇と対立、イギリス国教会を設立し、修道院の財産を没収して、海軍力を増強し、イギリス絶対王政と対外進出の基礎を確立した。
*首長令
ローマ教会から独立して、イギリス国王がイギリス国教会の首長であるとした法令。
*囲い込み運動(エンクロージャー)
農民に割り与えられている開放耕地を囲み、まとまった耕地や牧草地にすること。イギリスでは16~17世紀における牧羊と18~19世紀における集約的農業のため行われた。これにより農民が土地を失って都市の賃金労働者となり、資本主義の基礎が形成された。
*イギリス国教会 第13号脚注参照
イギリス国教会の成立も広義ではローマ・カトリック教会に対する改革なのですが、他の宗教改革と異なり、国王ヘンリー8世が王妃と離婚し、彼女の侍女アン・ブリンと結婚するためにローマ教会から離脱しなければならなかったプライベートな問題から起こったものでした。その時、一人反対したのが宰相のモアで、彼はローマ教会からの離脱とともに当時の体制を批判したのです。当時は国王の一存で人間の生命などどうにでもなったのです。モアは当然のごとく処刑され、多くの犠牲をはらって王妃としたアンも3年後、姦通罪で処刑されました。なお、彼女の娘がイギリス第1期黄金時代のエリザベス1世です。
*エリザベス1世(1533~1603・在位1558~1603)
即位直後、イギリス国教会を確立し、宗教的混乱を収め、国力の充実を図った。スペインの無敵艦隊を撃破して、アメリカ大陸へ進出し、植民地とし、イギリスの国際的地位を築き、絶対王政の最盛期を実現した。
トマス=モアは『ユートピア』の作者として有名ですが、当時における超一流の人文学者・神学者であり、また政治家としても優れていました。『ユートピア』では1日の労働時間は6時間で、余暇は自由な活動と学問や芸術を愉しむために用いられ、私有財産制のない平等な社会が描かれています。後の社会主義の先駆的な思想と評価されたこともありましたが、私は、モアの思想は革命による経済や社会体制の変革ではなく、人間愛を基調とした権力者への訴えであったと思います。
さて、今回紹介したことばは、当時にあってはきわめて稀有なものであり、現代においても、当たり前のこととしてすましてはいられないことです。国際的テロ、局地戦争、民族紛争、非人道的行為ばかりでなく、衝動殺人、誘拐、さらには不可抗力の事故など、現代は万人が万人に対して加害者となりうる複雑かつ深刻な状況をもっています。この広い宇宙にあって、生物が存在するということ、人間が生き、文明を持つとあっては奇跡どころの騒ぎではない。そんな我々が、大切にしなければならないのは永遠の過去から現在へと続いた生命の進化の系譜であり、個々の生命そのもので、個人の生命は国家や社会の犠牲となってはならず、ましてや特定の個人の利益や名誉のために失われてはならないことは誰もが認めるところです。
私たち教員が心しておかなければならないのは、教育現場で人命が失われることを何としても防がなければならないということです。現在、報道されている大津市の中学校でのでのいじめによる自殺事件は深刻な議論を引き起こしていますが、このような事態に陥る前に状況を的確に把握し、毅然とした指導が必要なことは言うまでもありません。それがなぜ、できないのか。おそらく、私たちの知り得ない様々な理由があるのでしょう。私たち教師がなすべきことは、日頃から生命の大切さや人間としての尊厳を説き続けることです。教師は生徒に好かれなくてもよい。信頼されればよい。信頼はその教師が正しさや善さを貫くか否かで生まれます。勿論、教師だけにではありません。不正・不善を憎む。すべての教師とおとなに課せられた生徒と子どもへの責任です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第14号,平成24年7月24日.
カルヴァン J=Calvin 第12号に同じ
ルター派がドイツを中心に中部ヨーロッパの市民層や農民層に広まり、また、ローマ教会と対抗するために、諸侯など世俗権力と結びついたの対し、カルヴァン派は西部・北部ヨーロッパの新興市民層を支持層とした。カルヴァンの改革は活動当初から政治色が強く、政府も国民も神の意思に従い、法律も制度も『聖書』のことばに基づくという神裁政治の実現をめざしていた。このように見ると、カルバン派から市民革命が生まれたのは当然であった。ジュネーブにおけるカルヴァンの統治は飲酒・賭博・遊戯などが禁止され、違反者は厳しく罰せられるなど、彼の峻厳な信仰生活がうかがわれるものであった。
*イギリス国教会
イギリスの国家教会。国王ヘンリー8世が王妃との離婚問題で、ローマ教会と対立して創設した。教会の首長はイギリス国王であるが、教義はカトリックとほぼ同じである。
*M=ウェーバー(1864~1920)
ドイツの社会学者。近代社会学の確立者で、20世紀の政治学、経済学、法学等に大きな影響を与えた。カルヴィニズムと資本主義の精神の関連を論ずるほか、近代社会の組織構造を官僚制と規定したことでも知られる。主著は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のほか『経済と社会』など。
カルヴィニズム(カルヴァンの思想)はその後の西洋近代思想にきわめて大きな影響を与えました。西洋文化の根幹である個人主義はルターが説いた信仰の内面化(第10号参照)に端を発していますが、カルヴァンはさらにそれを徹底しました。また、近代民主主義の基本形態である代議制がカルヴァン派の教会制度にあったことは前号でも記したとおりです。
イギリス本国ではピューリタン革命(第11号参照)のあと、1660年の王政復古を経て、88年の名誉革命で議会制民主主義への道を進みますが、宗教との直接の関係はなく、それどころか、カルヴァン派は王侯貴族とイギリス国教会から弾圧され、多くの教徒が新大陸アメリカに移住し、彼らの働きにより1776年、イギリスから独立しました。一般には独立戦争と呼ばれますが、思想的には明らかに市民革命でした。アメリカではその後も『聖書』を基づく法律や社会制度が国家の理想とされ、各地区の教会が市民生活のよりどころであり、道徳教育の担い手となりました。
ところで、思想史的には、カルヴィニズムは代議制民主主義よりもむしろ、近代資本主義の成立に関連して論じられることが多いようです。ドイツの社会学者M・ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、近代資本主義の精神がカルヴァンの厳格で禁欲的な職業観と倫理観からきていると論じました。カルヴァンは当時、カトリックでは営利追求が神の御心に背くものであるとしていたのに対し、市民階級の商業活動・生産活動を道義的なものとし、司祭が布教するのと同様には労働者は勤勉に働き、商人は金を儲けるのが当然であると唱えました。神の定めは人間の知るところではなく、救済のあるなしもすべては神の意思のうちにあります。神の意思は人間には計り知れませんが、唯一、この世における神の意思は個々人に与えられた職業に表れているのです。したがって、各人の職業は神の思し召しで、どれもが天職です。このことを職業召命観と言います。カルヴァンによれば、自分に与えられた仕事に全力を尽くすことが、神への信仰であり、司祭が布教につとめるように、商人は商売にいそしむのです。かくして、利潤の追求が肯定され、彼らは神の御心にしたがって営利活動を行える。こうして、資本主義の精神的支柱が形成され、カルヴァン派が多かった西・北ヨーロッパで資本主義が発達したとウェーバーは論じました。
ここで注目すべきことは、営利追求にあたっても日常生活で守るべき道徳があり、カルヴァンは勤勉・倹約・節制が主なものであるとしました。これらは、普遍的な生活心得であり、私たちも日頃から生徒たちに説き、自分たち自身も心がけていることです。ただし、徳目とはどれもそうなのですが、言うは易く行うは難しで、実践が大切です。まずは、身のまわりと自分に係わることからはじめましょう。自分から進んで行いましょう。何よりも自己肯定感をもち、他者との円満な人間関係を築くことが大切です。教師という職業はは自分で“天職”と思わなければ、つとまりません。カルヴァン曰く、すべての職業は天職ですから、私たちこそ自分の職業を天職との自覚を持とうではありませんか。簡単に言えば、自分自身へのプライドにほかなりません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第13号,平成24年7月18日.
カルヴァン J=Calvin
フランスの宗教改革者。1509~64。検事の子に生まれ、古典語や法律を学んでいたが、神学と聖書研究に関心をもち、パリに遊学した。1533年、カトリックから回心してルターに共鳴してプロテスタントとなった。フランスでの迫害を避けるためにスイスのバーゼルに亡命し、その後、ジュネーブで宗教改革を行なう。さらに、市政全体の改革にまで進み、キリスト教都市建設をめざした。一時期、ジュネーブを追放されたが、ほどなく復帰して、以前より一層の実権を握り教会改革を進め、さらに教会を中心とした市民政治を実現した。その思想は西ヨーロッパの新興市民層(ブルジョワジー)に広がり、宗教のみならず、政治的・経済的にも後世に大きな影響を与えた。主著『キリスト教綱要』など。
*ピューリタン(清教徒)革命
1642~49。イギリス議会の多数派を占めたカルヴァン派(ピューリタン)が中心となって、国王チャー ルズ1世の専制政治を打倒した市民革命。王を処刑し、最高指導者クロムウェルのもとに共和制を樹立したが、 議会派内部の対立が起こり、クロムウェルが軍事独裁政治を行い、彼の死後、革命は挫折して王政が復活した。
以前にも述べましたが、ヨーロッパの近代はルネサンスと宗教改革から始まりました。前者は宗教的権威と前近代的因習から人間性を解放することを、後者はカトリック教会の制度的権威から自己の信仰の内面化を目的としたものです。両者を比べると、ルネサンスが貴族・大商人・文化人などの限られた階層によるものであったのに対し、宗教改革は広く一般庶民・農民にもおよび、政治・経済・社会的要素をもっていました。また、個人の内面的信仰による神の救済という立場が個人主義の思想を形成したのです。さらに、その中心人物であるルターとカルヴァンを比較するとカルヴァンの方がはるかに後世に政治的経済的影響を与えています。端的に言えば、17世紀のヨーロッパで成立した市民革命はカルヴァン派の信者たちから始まったものでした。
史上初の近代市民革命は17世紀イギリスのピューリタン革命ですが、ピューリタンとはイギリスのカルヴァン派の教徒のことです。革命の主力が彼らだったからこの名がつけられました。ちなみに、カルヴァン派はフランスではユグノー、オランダではゴイセンとよばれています。カルヴァン派の教会では、一般の信者から選ばれた代表者が、教会の運営にあたるという自治組織の形態をとっており、これは一種の代議制であり、近代民主主義の基礎を形成するものでした。
さて、上記のことばは予定説と呼ばれ、我々の運命は永遠の過去からすでに定められているという考え方です。きわめて残酷な思想ともとれますが、その真意は、当時の教会権威、世俗権力を否定して神の存在を絶対化することと、キリストを介しての神と人間との結びつきのなかにのみ信仰の価値を認めるということにありました。人間としての自由とあるべき生き方は、神の定めに従うことであるとの人生観です。加えて、救われたいがために信仰するのでは不十分であって、自分の定めの如何にかかわらず、神を信じるのでなければ真の信仰とはいえないということでもありました。救われるか否かにかかわらずに、ひたすら神を信じる。このようなカルヴァンの思想は神学的には敬虔な立場として大いに賞讃されるのですが、普通の人間にはあまりに厳格な教えで、キリスト教というよりも、律法主義に偏向したユダヤ教を感じさせるくらいです。
日常生活においても、凡庸な私たちには、無報酬で仕事をしたり、見返りを求めることなく何かに尽くすことは、そうそう簡単に出来るものではありません。たとえ自分の職業であったとしても、使命感や義務感のみでつとめることはきわめて困難です。しかし、真に価値ある生き方とは「~のために○○する」とか「~だったら○○する」という仮言的なものではなく、いついかなる状況でも、誰に対してでも確固たる信念でのぞむ生き方ではないでしょうか。私は教育者にとって大切な資質のひとつは信念であると思っています。勿論、信念はいつも通じるものではありません。ときとして一笑に付されることもある。けれども、たとえ、見返りはなくても、成果がなかったとしても、「自分はこれで教師をやっているんだ」という気概をもたなくては、生徒にも教師仲間にも認めてもらえないは言うまでもありません。カルヴァンの信仰の強さとまではいかなくても、私たちにも気力と意地は必要です。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第12号,平成24年7月10日.
ル ター M=Luther 第10号に同じ
ルターの改革はそれ以前からの反ローマ教会の動きに連動してのことである。イギリスのウィクリフ、ボヘミアのヤン=フスの活動やエラスムスの著述などが、その代表的なもので、いずれも世俗権力化した教会と腐敗した聖職者への批判であった。ルターの主張は救済は個人の内面的な信仰にあり、その拠り所は聖書にのみあって、万人は司祭と同等であるというものである。彼の教えは領主、市民、農民の各層に支持され、農民はルターの改革に触発されてドイツ農民戦争を起こし、領主層や教会と戦ったが、ルターは農民を弾圧する立場に立った。
*ウィクリフ(1320?~84)
イギリスの宗教改革者。教会からのイギリスの政治的宗教的独立を唱え、教会から弾圧されたが、国王の保護 の下に活動し、聖書の英語訳をつくった。
*フス(1369?~1425)
ボヘミアの宗教改革者。プラハ大学の学長。教皇・教会を批判し、自説を曲げずに火刑となった。その後、彼の信奉者たちが民族運動にまで拡大したフス戦争を起こした。
*ドイツ農民戦争
1524~25。ルターの宗教改革に共鳴した農民がトマス=ミュンツェルを指導者として、領主層に対し て起こした戦争。運動が過激になるにつれ、ルターは彼らから離れ、弾圧する側にまわった。農民たちはこれ を「ルターの裏切り」と呼んで非難した。
*エラスムス(1466~1536)
オランダ出身でルネサンス最大のヒューマニスト。聖書研究にすぐれ、ルターの改革には基本的には賛同したが、自身は教会の側に立ち、人間の自由意志を認ける点で、ルターと対立した。主著『痴愚神礼讃』など。
*ツウィングリ(1484~1531)
スイスの宗教改革者。富裕農民の子に生まれ、ウイーン大学、バーゼル大学で人文学を学び、聖書を研究す る。ルターに共鳴しチューリヒで宗教改革と市政改革を行った。その教義ははカルヴァン派に影響を与えた。
*ヤスパース(1883~1969)
ドイツの哲学者。ニーチェやキルケゴールの影響を受けるとともに、心理学、社会学、東洋思想を広く学び、宗教的実存主義を唱えた。第二次世界大戦中は妻がユダヤ系であったため、公職を去りスイスに亡命したが、戦後復帰し、バーゼル大学教授として活躍した。主著『哲学』『理性と実存』『世界観の心理学』など。
宗教改革者と聞けば、いかにも堅苦しい、きまじめなイメージをもつのですが、ルターは過激なまでの情熱家で、死を恐れずに教会権力と立ち向かったり、公会議に臨んだりすることは勿論、教皇や教会に対してだけではなく、しばしば、彼と基本的な立場を同じくする人々とも対立することともなりました。特に、エラスムスやツウィングリとの論争は有名です。
一方、ルターはユーモアとウイットにも富んだ人物で、かなりシニカルな面ももっていたようです。残された書簡や日記には「恋のない人生は死せるに等しい。」、「酒と女と歌を愛さぬものは一生バカのままだ。」とも言っており、「20歳で美しくなく、30歳で強くなく、40歳で賢くなく、50歳で金持ちでない人はもはや望みがない。」にいたっては、私の如きものは頭が重くなります。また、彼には音楽の才能もあり、多くの賛美歌や教会音楽を作詞作曲しています。さらには、現代では街中や各家庭でもお馴染みのイルミネーション(勿論当時はろうそくの灯りでした)もルターが考案したと伝えられています。
さて、上記のことばもルターの書簡にあるものですが、これはさすがに宗教家の面目躍如たるもので、20世紀を代表する実存哲学者ヤスパースが「私たちは至るところで限界状況に囲まれている」と言っていることに通じます。ヤスパースが論じる限界状況とは、死・苦・罪・争いなど、人間が自分の力ではどうにもできないことを指すのですが、ルターは端的に死と表し、私たちに警鐘を鳴らしています。
人間、いつ死ぬか分からない。間違いなく真実なのですが、これを常に意識しながら生活するのは容易なことではなく、そのように生きている人はむしろ特別な人でありましょう。しかし、いわゆる危機管理とでも言いますか、緊急事態への備えは常に大切なことです。東日本大震災は確かに天災で、ある種の限界状況でもありました。原発事故については今後の議論がまだまだ必要ですが、日常生活の心得としては、もしものときには自分自身で考え、判断し、行動できる力を養うことが大切というのが教訓でした。ルターのことばは、私たちが日常性に安穏として自堕落な生活をおくることへの戒めなのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第11号, 平成24年7月3日.
ル ター M=Luther
ドイツの宗教学者。1483~1546。アイスレーベンの鉱夫の子に生まれ、苦学して大学に進み、法律を学んだが、学生時代に友人の死と死に直面した恐怖を契機に神学を志す。卒業後、修道院に入り、聖書研究と信仰の本質について思索を深める。その後、ウィッテンベルク大学教授となり、1517年の10月30日、当時のローマ教皇レオ10世の贖宥符販売に対する抗議文を出し、破門にもめげず諸侯の保護のもとに宗教改革を断行し、プロテスタントを確立した。主著は『キリスト者の自由』『善行論』。
*レオ10世 第3号脚注参照
*贖宥符
それを買うと本人と家族の罪が許されるという符で中世以来、教会で販売され、レオ10世がサンピエトロ寺院修築のための販売したことで有名になった。
*プロテスタント
ルター、カルヴァンたちが起こした宗派をカトリックに対して呼んだもの。語源はドイツのルター派の諸侯が国王の禁教令に抵抗(プロテスト)したことに由来する。プロテスタントは西ヨーロッパ、北ヨーロッパの新興市民層(商工業資本家層)に広まり、経済的にも思想的にも近代を切り開いた。
*夏目漱石と個人主義
夏目漱石は『私の個人主義』のなかで、個人主義がエゴイズムと誤解されることを危惧し、自己の個性や生き方を主張するには他者のそれらも尊重しなければならないとして、倫理的理想主義的立場を主張した。
*和辻哲郎(1889~1960)
日本を代表する倫理学者。西洋思想が人間を社会に対立する個人として規定することを批判し、人間を他者や集団との関係において存する「間柄的存在」であるとした。主著は『人間の学としての倫理学』『風土』など。
宗教改革は16世紀の西ヨーロッパで成立し、ローマ・カトリック教会に対して信仰のあり方や救済についての神学上の問題と聖職者や教会の所領・財産などの社会的経済的側面を批判して起こった改革運動です。その代表的人物であるルターの改革の発端はレオ10世の贖宥符販売に対する抗議文を出したことからはじまります。彼の教えは、新興市民層(ブルジョワジー)の進出や中世封建制から絶対王政への展開を背景にして、領主、市民、農民の各層に支持され、後のプロテスタントを成立させることとなりました。
ルターによれば、救済は儀式や贖宥符にあるのではなく、個人の内面的な信仰にあり、その拠り所は聖書にのみあって、万人は司祭と同等であるというものです。上記のことばに表されるものを信仰義認といいます。信仰は個人の心のあり方にあり、救済を教会や司祭の権威や信徒集団への帰属にではなく、自己の内面に見出すという宗教意識から個人主義の思想が確立したのです。
日本人の行動様式や価値観が集団主義であるのに対し、欧米社会のそれは個人主義であると言われています。しかし、ヨーロッパも中世までは荘園を中心とした村落共同体が生活の場であり、集団における秩序の維持や規律が求められました。さらに教会が精神的より所であり、その点を加味すると、むしろ日本よりも集団帰属性が強いくらいでした。そのヨーロッパが価値観、思考及び行動傾向において個人主義を基本とするようになったのは宗教改革を始まりとします。個人の尊重・個人の尊厳という主張は個人主義から生まれたものです。個人主義は我が国においては、近代の西洋文化受容期に夏目漱石らによって論じられ、第二次世界大戦後、国家主義への反省から急速に重んじられました。近年、教育現場における個々人の興味関心に応じた学習指導や進路指導の工夫・改善などの個性化重視の教育観も個人主義を出発点とします。
教育は集団性と個人性のどちらも尊重しなければなりません。集団とは個人の集まりですから、個人を尊重せずして集団としての教育的効果はあり得ません。また、個人とは集団にあってこその個人ですから、集団における規律性や社会性を前提にすることによってのみ個性や独自性が実現します。個人と集団のどちらに重点をおくべきか。これはしばしば課題となるのですが、ここに教育の真髄と難題があります。それは、そもそも人間存在とは何かという根本的な考察がなされなければならないということです。和辻哲郎は人間とは「人が住む世間」であり、人間には個人と社会の両側面があるとしました。つまり個人と集団は対立概念ではなく、互いの存在を補償する相俟つ関係にあるのです。個人の個性・能力の伸張と集団の成員の調和的向上は矛盾なく共存する。それが学校教育の理想であると私は思うのですが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第10号, 平成24年6月26日.
シェークスピア W=Shakespeare 第8号に同じ
シェークスピアは1616年4月23日に52歳で没した。伝承が正しければ誕生日に死んだことになるが、真実はわからない。死因は感染症とも食中毒とも伝えられている。シェークスピアは生涯一人の妻との間に二人の娘と一人の息子に恵まれたが息子は早くに失ったらしい。シェークスピアの墓所は故郷のストラトフォードの教会にあり、記念牌が家族により設置され、執筆にいそしむ胸像が据えられている。墓石には彼自身による墓碑銘が次のように記されている。「願わくは、ここに埋められたる遺骸を暴き給うな。この石碑に触れぬ者に幸いあれ。我が遺骸を動かす者に禍あれ」。
*F=ベーコン(1561~1626)
イギリスの哲学者・科学者・法律家・弁護士で、政治家としても大法官(現在の司法長官)にもなっている。 経験論哲学の唱え、近代自然科学の方法論を確立した。人物とことば、功績ついては、後日紹介する。
シェークスピアは同時代の作家や学者に比べても、自身に関する記録がきわめて少なく、書簡や日記が残されていません。加えて、作品の内容が古典文学、哲学、歴史、法律など広い分野にわたり、専門的な知識や見識が記されており、伝えられているシェークスピアの学歴からは不自然ではないかといわれていました。そこで、古くから、複数の作家が皆シェークスピアを名乗っていたとか、別人のペンネーム説などがありました。特にF=ベーコン説は有名です。ただし、専門の研究者はこれらを完全に無視しています。学歴と才能は無関係で、知識や見識は大学に行かなくても身につくのです。
さて、彼の作品のなかでも屈指の名作とされているのが『ヴェニスの商人』です。物語を簡単に記しましょう。資産家で法律家の才媛ポーシャに恋したバサーニオは彼女と結婚するための支度金を友人であるヴェニスの商人アントーニオに頼みます。彼の全財産は船にあり、手元には金がない。しかし、友情に厚いアントーニオはユダヤ人の金貸しシャイロックから期日までに返さなければ自分の肉1ポンドを渡すという条件で金を借ります。アントーニオの船は難破し無一文になり、シャイロックはこれまでの恨みもあって、彼を裁判にかけます。一方、ベルモントに行ったバサーニオはめでたく、ポーシャと結婚することになりましたが、友人の危機を知りヴェニスに帰り、シャイロックに金を返そうします。しかし、金貸しはかたくなで、裁判官もついに彼の言い分を受け入れました。ただし、血は契約になかったから、肉をとるとき血を流したならばシャイロックの全財産を没収するとの判決を下します。シャイロックは訴えを諦めますが、裁判官はアントーニオの命を奪おうとした罪により彼の全財産を没収しました。正義感の強いアントーニオはシャイロックの減刑を求め、一件落着。裁判官は礼金の替わりにポーシャへの結婚指輪を求め、バサーニオは仕方なく渡し、再会したポーシャにわびました。ところが、裁判官は何とポーシャでした。かくして二人は結ばれ、物語はめでたしめでたしで終わります。
現代からみると何とも珍妙なプロットですが、喜劇としての展開と台詞が実にすばらしい作品です。紹介したことばは、バサーニオがポーシャの父の遺言である金、銀、鉛の3つ箱から指輪の入った鉛の箱を選んだときのものです。金の箱には髑髏とこのことばが書かれた巻物がありました。すでに、世界中で格言になっていることばです。「輝くもの、必ずしも金ならず」。表向き、うわべだけが立派であっても、中身が価値あるものとはかぎらない。真実を見抜く眼と判断する力をもてという戒めです。
私たちの日常生活の至るところで、このことばは生きています。善人は滅多にいない。しかし、善人らしい人は沢山いる。美しく見えるものと本当に美しいものは違う。正しく見えることと真に正しいこととは異なる。言いつくされていることですが、表面の豪華さに満足してはいけません。外壁は立派でも土台が弱い建物はちょっとした地震で崩壊します。真実や本当の価値を見つける力やそれをつくりあげる意志を育てるものが教育の目的なのです。そのために何が必要か。勿論、広く学ばせ、深く考えさせることです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』第9号」,平成24年6月19日.
シェークスピア W=Shakespeare 第7号に同じ
後世に名を残した小説家や画家には、その死後に有名になり、生存中は無名であったり、貧困のままで生涯を終えたものも多いが、シェークスピアはかなり早い時期から演劇界では知られていたらしい。28歳ころにはロンドンの劇団で活動し、俳優兼脚本家としてかなりの人気を博し、同時代の作家から妬もともとれる誹謗中傷を受けている。また、経営手腕もあったようで、有力貴族や大臣が彼の劇団のパトロンになり、驚くことに、国王ジェームズ1世が支援者を名乗っていた。シェークスピアの父は町長をつとめたこともあったが、没落して不遇の日々をおくっていたが、息子が有名になってからは貴族の紋章を得ている。それもシェークスピアが経済的にも成功していた証しである。
*ジェームズ1世(1566~1625/在位1603~25)
イングランド女王エリザベス1世に屈したスコットランド女王メアリ=スチュワートの子。エリザベス1世 に後継者がいなかったため、即位した。特権商人を使って財政を確保する一方、議会を無視し専制を行い、後 のピューリタン革命の原因をつくった。
シェークスピアの作品は史劇・悲劇・喜劇に分類され、いずれも名作の誉れ高いものですが、当時としては当然ながら、古い伝承や説話をモチーフにしているものや他の作家との競作、あるいは改作された作品もあります。依拠している原作品は古代ギリシャ・ローマと中世イングランドに大別され、マクベスもリア王も実在の人物ですし、有名なロミオとジュリエットもイタリアに伝わる物語で、シェークスピアの他にも同じ題材を扱っている劇作家がいます。今回、紹介したことばは四大悲劇のひとつ『マクベス』からの一句で、マクベスはシェークスピアとほぼ同時代の歴史家ラファエル=ホリンシェッドの『年代記』に記された領主で、実際にはそれほどの悪人ではなかったようです。プロットを簡単に記しましょう。
スコットランドの将軍マクベスとバンクォーは反乱軍を倒して凱旋する途中、3人の魔女に出会い、マクベスは「コーダーの領主、いずれは王となる」、バンクォーは「王にはなれないが子孫は王になる」と予言される。そこに国王ダンカンの使者が訪れ、マクベスはコーダーの領主となった。予言を一刻も早く実現したいマクベスは夫人と謀り、彼女の叱咤を受けて王を暗殺した。王子兄弟はそれぞれイングランドとアイルランドに逃げるが、父王殺害を疑われ、マクベスは王位に就く。マクベスはバンクォーの存在と彼の子孫が王となるという予言を恐れ、バンクォーと彼の息子を亡き者にしようとした。バンクォーは殺され、息子は逃げ延びるが、マクベスは彼の亡霊に怯え、気の強いマクベス夫人も不安に震える。マクベスは恐怖と責罪のなか益々暴君となる。やがて、有力貴族マクダフがダンカンの王子マルカムとともにマクベスと戦い、マクベスは夫人にも先立たれ、マクダフに首を切られ凄惨な死を遂げる。
『マクベス』には「目に見える恐ろしいものなぞ、心に描く恐ろしいものにくらべれば、ものの数ではない。」、「もう眠れないぞ。マクベスは眠りを殺した。」などの名台詞がありますが、上記のことばは、私たちの日常生活における教訓としても通用するものです。ここでいう「自然」とは普通のこと、当たり前のことであり、普通でないことをすると普通でない混乱が起こり、当たり前のことが行われないと当たり前でない事態が生じるというきわめて常識的な意味なのですが、これが実に深いのです。勿論、何が普通で何が当たり前か、それらは時代や国でも異なるし、個人の価値観によっても違うではないか、という議論もあるでしょう。しかし、そこまで追究するのは、かえって真理を見失います。今ここにある普通のこと、当たり前のことを認識すればよいのです。
マクベスの悲劇はあまりに異常ですが、私たちの身の周りにはこのミニチュア版がしばしば起こっているのではないでしょうか。嘘をつくと、その嘘を繕うためにさらに嘘をつかなければならない。道理に合わないことをすると非常識な事態を招く。教育においても、まずは普通のこと、当たり前のことを行い、それを守ることが大切です。混乱や不信の原因は意外に単純なことに原因があるものです。
矢倉芳則「 校長通信『地平遙かに』」第8号」 平成24年6月12日.
シェークスピア W=Shakespeare
イギリスの詩人、劇作家。1564~1616。イングランドのストラトフォードに生まれる。父は商人でのちに政治家に転身し町長にもなり、母の生家は地主階級で、幼少の頃は富裕な家庭環境で育った。18歳でアン・ハサウェイと結婚し子どもも生まれた。20歳頃からロンドンに出て、俳優、脚本家をしながら作家としての頭角をあらわし、1590年頃から各部門にわたる名作をつくりあげる。作品に記された名言・名句は他の作家の追随を許さず、人物描写については古今東西第一と評価されている。ただし、生涯自体は不明なところが多く、彼の作品論に比べ、本人の伝記や人物論はきわめて少ない。ある意味では謎の人物である。代表作は『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』の四大悲劇をはじめ、『真夏の夜の夢』『ジュリアス=シーザー』『ヴェニスの商人』など多数ある。
*ホメロス(BC9世紀頃)
古代ギリシャの叙事詩人。生涯には不明な点が多く、実在を否定する専門家もいる。トロイ戦争を題材とした 『イリアス』、『オデュッセイア』を著した。『イリアス』はギリシャの英雄アキレウスとトロイの勇士ヘクトールを主人公に神の摂理を受け入れつつも自らの意思で運命を全うしようとする人間の生き方が描かれている。
シェークスピアは知性と情念と機知のかたまりで、作品の傾向も史劇、悲劇、喜劇と各方面にわたり、主人公の人間像もきわめて多様です。そのため、理念の統一性と人生観・世界観の一貫性に欠け、思想的にとらえどころのない作家と論評されることもしばしばあるのですが、私が思うには、彼の関心は個々の人間の特徴にあり、作品の目的は登場人物の人間像の典型を徹底的に描き出し、それぞれの人間性を突き詰めるところにあったのでしょう。上記のことばは『ハムレット』にあることばで、この作品には「生きるべきか、死ぬべきかそれが問題だ。」、「簡潔は知恵の精神、冗漫は手足や虚飾だ。」、「悦びにふける者は悲しみにもふけるが習い。ともすれば、悲しみが悦び、悦びが悲しむ。」、「誰のことばにも耳をかせ、口は誰のためにも開くな。」、「弱き者よ、汝の名は女なり。」などが有名です。『ハムレット』のアウトラインを簡単に述べておきましょう。
デンマークの王子ハムレットは父王が急死し、母が叔父と再婚したことにショックを受け、失意の日々をおくっていた。そこへ、亡父の幽霊が現れ、母を誘惑し父を殺して王位を奪ったのは叔父であることを知らされ、復讐を命じられる。思慮深いハムレットはその幽霊が本当に父であるかを疑い、実行をためらい真相究明に向かった。叔父を油断させるために狂気を装い、恋人オフェーリアにも冷たく振る舞う。熟慮や策謀と不慮の出来事が相俟って、仇敵の叔父に復讐は果たすものの、恋人を狂死させ、その父を誤って殺し、母は自殺し、ハムレットもまた死んでいく。文武に才能をもち、世に類いまれな名君と期待された青年が、運命に翻弄されるという悲劇です。
さて、上記のことばはシェークスピアのことばとしてはそれほど有名ではありませんが、さすがの至言です。これは人間の自由意志と運命という古来からの哲学的課題と関わっているもので、人間は自分が何をなすべきか、いかにあるべきかを知っているし、目的に向けての行動する。しかし、その結果、自分がどうなるか、自分に関わる人たちがどうなるかを知ることはできない。これは、キリスト教神学者たちの人間観や救済観でも論じられ、古代ギリシャの作家ホメロスにまでさかのぼります。人間の知は未来の出来事や有様を予想できても、認識することはできません。しかし、だからといって、ただ立ちすくみ時が過ぎ行くのを待つわけにもいきません。そこが、難しいところなのです。
学校教育において、私たちはしばしば二つの意味での時間との戦いを強いられています。ひとつは、教育活動を限られた時間で行わなければならないこと、ふたつめは予知できない未来を想定しなければならないということです。 私たちは自分自身と生徒の「いかになるかを知らず」であり、さらに毎日の教育のなかでは、行動も判断も停止はできない。したがって、それぞれの時点で出来るかぎりのことを行い、可能な限りの推測をして決断することが求められる。しかし、それを実現するには、個人の力は余りに無力です。だからこそ、学校では教員相互の理解と協力が必要なのです。なぜ、学校教育ではチームワークが求められるのか。その答えは実にそこにあります。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』第7号」,平成24年6月5日.
セルバンテス M=d=Cervantes=S 第5号に同じ
セルバンテスの生涯は小説に劣らず、波瀾万丈で、レパントの海戦を片腕の自由を失ったほか、本国への帰還途中に海賊に襲われ捕虜になったり、税務官のときに税金を預けた銀行が倒産して、追徴金が払えず投獄されたりしている。『ドン・キ・ホーテ』が当時としてはベストセラーになったにもかかわらず、生活苦のため版権を安く売り渡していたため、自分の収入にはならなかった。亡くなった日はシェークスピアと同じ1616年4月23日であるが、当時は、イギリスとヨーロッパとでは暦が異なっていたため、実際には同日ではない。ちなみに、シェークスピアは『ドン・キ・ホーテ』を読んでいたと伝えられており、ディケンズをはじめセルバンテスの影響を受けた文学の巨匠は数多くいる。
前編の好評により登場した後編は物語の登場人物たちがすでに、前編を読んでいるという設定で、現実の出来事が虚構の小説のなかにとけ込んでいるという、当時としては画期的な手法で綴られています。現代ドイツ文学屈指の才人といわれるトーマス=マンはセルバンテスを絶賛しています。また、『ドン・キ・ホーテ』は金言名言の宝庫で、「光り輝くものがすべて金とはかぎらない」、「好機はそれが去ってしまうまで気づかれないものだ」、「分別よりも愚行の方がとかく仲間や追随者を呼び寄せる」、「恋は不思議なめがねをかけている」、「おお、嫉妬よ!限りなき悪の根源」、「生きているかぎり、希望はあるものだ」などがあり、「ローマは一日にしてならず」という有名なことばも『ドン・キ・ホーテ』に記されています。
ロシアの文豪ツルゲーネフはシェークスピアのハムレットを「疑念」、ドン・キ・ホーテを「信念」の典型として人間の性格の二大類型としました。ツルゲーネフはシェークスピアと同じくらいセルバンテスを高く評価し、一般に言われるように、ドン・キ・ホーテ型を狂気の象徴としてはいません。私はといえば、ドン・キ・ホーテの性格を「信念」よりも「夢」ととらえたいと思っています。
さて、今回紹介したことばはセルバンテスにかぎらず、多くの偉人たちにより語られてきたもので、王陽明の「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」もほぼ同じ意味ととらえてよいでしょう。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』第6号」平成24年5月29日.
セルバンテス M=d=Cervantes=S
スペインの小説家。1547~1616。マドリード郊外に貧しい外科医の子として生まれ、父が各地を転々としていたため、正規の教育は受けなかったが、早くから詩文の才能を発揮していた。1570年にイタリアに渡り、軍隊に入り、有名なレパントの海戦に参加し、英雄的な活躍をするが右手を負傷し、生涯不自由なままであった。不運にも帰国の途中、敵に襲われ奴隷となるが、自己を犠牲にしても仲間をかばう姿に敵も感動し、数年後解放された。しかし帰国しても、期待した官職が与えられず、文学の道に進む。その後、度重なる不運と不遇のなかで、名作『ドン・キ・ホーテ』を執筆し、名声を得るが、版権を安価で譲渡したため、生涯貧困に終わった。ただし、晩年の創作活動にはすさまじいものがある。
*レパントの海戦
1571年。スペインのフェリペ2世がヴェネチアとローマ教皇の協力を得て、オスマン・トルコを破った戦 い。これにより地中海の制海権はトルコからスペインに移り、スペインの黄金時代をむかえる。
スペイン文学の最高峰に立つセルバンテスのフルネームはミゲール・デ・セルバンテス・サアベドラ。名作『ドン・キ・ホーテ』は正確に言うと前編が『才智あふるる郷士ラ・マンチャの男ドン・キ・ホーテ』、後編がその10年後に書かれた『ドン・キ・ホーテ』です。当時の世相への皮肉や批判が盛り込まれていますが、何よりも深い人生智に満ちている名作で、そこにこの作品の真価があります。ラ・マンチャという片田舎に住む初老の男アロンソは騎士道物語に熱中するあまり狂気にとらわれ、自らを中世の騎士、田舎娘を高貴な姫君、領地の農夫を家来と思いこみ、やせ馬にまたがって旅に出ます。この主人公、ほかのことについてはまことに分別のある善人なのですが、こと騎士道となると狂気の沙汰で、粗末な宿屋は城、風車は巨人に見えるのですから始末に終えません。ことあるごとに「悪」をみつけ、それを自分が正さなければならないとし、数々の冒険をする。最後には友人たちの策により、領地に連れ戻されるが、自身は魔法にかかっていると信じている。ここまでが前編です。
後編では、もはや自己の狂気に欺かれることなく、城は宿屋、姫は田舎娘と知った主人公の悩みと思索が作品のテーマになります。物語は幾多の冒険と遍歴の末、「銀月の騎士」との決闘に敗れ、故郷に帰ったドン・キ・ホーテが病の床で夢から醒め、善良なアロンソとして死ぬところで終わります。かなり前の作品ですが、P・オトゥールとS・ローレンが主演したミュージカル映画では、このラストシーンが感動的で、思い出に残っています。
紹介したことばは、『ドン・キ・ホーテ』の重要なテーマのひとつである「狂気」について述べたものですが、セルバンテスは自己の可能性を自ら絶ちきって、現状に甘んじて生きることが「狂気」そのものであるとしています。先行する一文とともに記しましょう。「一体、本当の狂気とは何か。夢におぼれて現実を見ないのも狂気かも知れない。現実のみを追って夢を持たないのも狂気かも知れない。しかし、一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に、ただ折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことである」。名言・至言とはまさにこのことばです。
本校の3階の廊下にアメリカの教育学者で、『頭を使って豊かになれ』の著書で知られるナポレオン・ヒルのことばが掲げられています。「君にそんなことができるはずがないよ、とあなたに言ったのはだれですか。その人は、あなたの限界を定める資格を持つほど、大きな成功を収めたというのでしょうか」。ヒルはいわゆる成功哲学を提唱した人物ですが、セルバンテスが言わんとするところも、誰もが未知の可能性をもっていると信じてこそ、人生は生きるに値するということです。私たち教育者はここを出発点とすべきです。「木の価値は年輪にあり、人の価値はその人の見る夢の中にある」。これもセルバンテスのことばだったと思いますが、残念ながら記憶が定かではありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第5号,平成24年5月22日.
ピコ・デラ・ミランドラ Pico della Mirandola
イタリアの思想家、人文学者。1463~94。イタリアのミランドラ市の領主の子に生まれた。抜群の記憶力と洞察力に恵まれ、秀才の名をほしいままにした。古今の宗教・哲学を研究した成果を900の命題にまとめ、高名な学者や文化人を集めての討論会を企画したが、当時の教会教義に反するもの(地獄の非存在、聖母マリア崇拝や聖者崇拝は偶像崇拝であると否定するなど)があったため、ローマ教皇庁の反対で中止になった。しかし、その演説草稿は『人間の尊厳について』にまとめられた。その後、彼はフィレンツェに移り、プラトンを研究したが、流行性熱病のため31歳の若さで亡くなった。
*プラトン(427~347・BC)
古代ギリシャの哲学者。ソクラテスの後継者で、現実を離れて、永遠不変に実在するイデア(観念・理想)を説いた。また、当時腐敗堕落した民主制を批判し、哲学者が統治者となる哲人政治(哲人王)を唱えた。彼がアテネ郊外に創設した学園がアカデメイアで、学術や学校の名に用いられるアカデミーの語源となったことは有名である。なお、ソクラテスは書物を書いておらず、彼の思想はプラトンの著書により伝えられている。主著『ソクラテスの弁明』、『饗宴』、『国家』など。
イタリア・ルネサンスの才人、ピコは一般にはあまり知られていませんが、哲学史や倫理学史では必ず登場する人物です。その理由は、思想史上初めて本格的に「自由」を論じたからです。現代では考えられないことかも知れませんが、西ヨーロッパでも16世紀まで、日本では100年ほど前まで、特殊な動乱期を除いて、個人が自分の意志によって職業を選択したり、住居を定めたり、自分が愛する人と結婚するなどということは難しいことで、職業は世襲であり、結婚は身分の高いものほど、家同士の政治的・経済的意図により決められるのが一般でした。だから純愛をテーマとした『ロミオとジュリエット』は悲劇に終わらざるを得なかったのです。
このことは、純粋に個人の精神的な面においても同様でした。特に、ピコの時代はローマ教会の権力が強く、神の摂理の前には個人の意志は無に等しかったので、その当時にあって、彼は信仰と矛盾せずに、人間の尊厳を自由意志にあるとするために、「神は人間に鳥獣の爪でも牙でもなく、意志の自由を力として与えた」としたのです。さらにピコの偉大なところは、自由を各自の欲望に任せてのものではなく、自己の判断と行動を責任をもって為すという点を明らかにしているところにあります。現代でさえ、しばしばはき違えられることですが、自由とは単なる自己主張でも利害追求でもありません。
西洋思想ではピコ以来、500年以上にわたって自由が論じられています。自由には大別すると「解放の自由(~からの自由)」と「目的の自由(~への自由)」があります。前者は束縛を受けないこと、拘束からのがれることであり、近代西欧の市民革命を経て確立し、日本国憲法でも保障されている自然的自由と社会的自由で、人間として生きるための条件となるものです。また、法や制度により認められ、定められている基本的人権の中核でもあります。一方、人間の行為は外から動かされるだけでなく、内面的動機によってもなされます。これが「目的の自由」で、何を目指すか、何を選ぶか、何になりたいかという主体的な「自律の自由」のことです。どちらも責任と規律を前提としているのですが、「目的の自由」は各自の価値観とより強く結びついており、また、「自律の自由」は自己の行為の責任を他に転嫁できないので「解放の自由」よりも強く自己責任が問われます。フランスの哲学者のサルトルは、ある青年が、戦死した父や兄の意志を継いでナチスドイツへの抵抗運動を続けるべきか、年老いた母を守ってひっそりと暮らすべきかと、聞いたとき、「君は自由だ、選び給え。」と答えました。自由とはかくも厳しいものなのです。サルトルについては、いずれ詳しく紹介しますが、彼は第二次世界大戦の惨状とその後の復興のなかで、人間の自由について真摯に考察し、「人間は自由の刑に処せられている」とまで言った人物です。
教育基本法の第1条には、教育は「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」を期するものであることが記されています。つまり我が国の教育は民主主義を理想としているのであり、自由はその最も基本的な原理であるのです。そして自己の自由は他者の自由を尊重するところに成り立つ。この自明の理が人間尊重の原点であることを常日頃から説き続けるのが教育の基本なのです。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第4号,平成24年5月15日.
レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci 第1号に同じ
レオナルドは稀代の天才であるが、いわゆる孤高の才人ではなく、多くの友人がいて、また、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツゥア家、教皇アレクサンドル6世の子チェーザレ=ボルジア、フランス国王フランソワ1世などの庇護を受け、当時から国王、有力諸侯や貴族、軍人から高い評価を得ていた。近代的政治観の確立者とされるマキャベリとも親交をもち、ラファエロはレオナルドの作品を模写するなど、作風に影響を受け、代表作『アテネの学堂』に中央に描かれているプラトンはレオナルドをモデルにしているほどに彼を尊敬していた。また、フランソワ1世とローマ教皇レオ10世との和平交渉の締結役をするなど政界にも大きな力を持っていた。
*マキャベリ(1469~1527)
イタリア・ルネサンスの政治学者、歴史家。フィレンツェの外交官、政治顧問をつとめる一方、政治を道徳や宗教から切り離して考察し、近代政治学の先駆者として評価されるが、その冷徹なまでの現実主義は権謀術数主義と批判されることもしばしばあった。主著は『君主論』など。
*ラファエロ(1483~1520)
イタリア・ルネサンスを代表する画家。優美で繊細、完備にして格調高い画風を特徴とし、肖像画や宗教画 聖母子像に秀作を残した。代表作は『アテネの学堂』、『カルデリーノの聖母』、『小椅子の聖母』など。
*レオ10世(在位1513~21)
ローマ教皇。ロレンツォ・デ・メディチの嫡子。サン・ピエトロ寺院修築のために贖宥状(免罪符)を乱発 し、ルターによる宗教改革を引き起こしたことで知られる。一方、文芸の保護者としての功績をもつ。
ルネサンスはギリシャ・ローマの古典やそこに描かれる精神を理想とし、中世のキリスト教的世界観から人間性を解放して文学や美術が花開いた運動、つまり文芸復興と言われています。一方、この時代は火薬、羅針盤、活版印刷術のいわゆる三大発明に代表されるように、科学の黎明期でもありました。そもそも、人間性とはあらゆる人間の特性のことであり、肉体や感性、感情の讃美は芸術において、理性・意志やすべての精神の飛翔は哲学や科学において、開花されました。ルネサンスは芸術と科学の時代であったのです。レオナルドはその両方に卓越した才能を発揮した時代の申し子、まさに万能人でした。
今回紹介することばも、レオナルドの『随想録』からの一説で、科学者の面目躍如たる名言です。まず、科学を過去・現在・未来という時間的系列においてとらえ、それらを人間の精神活動に関連させています。過去と現在においては事物の観察、未来においては先見、起こりきたる事実の認識がそれです。さらに、人間の能力を絶対化せず、「可能なる」、「徐々たるものとはいえ」と表現しているところがさすがです。20世紀最高の科学者アインシュタインが「私たちは理性を神格化しないように努めなければならい」と言っていることに通じます。私はレオナルドが生涯かけて探究し、未来に伝え残したのは「人間とは何か」という問いではなかったか、そして、彼は芸術も科学も人間の精神活動における車の両輪、コインの裏表であると主張したかったのではないかと思っています。レオナルドの絵画が遠近法や幾何学的な構図により描かれていることはよく知られていますし、「私の芸術を真に理解できるものは数学者しかいない」という彼自身のことばからも、そのことは容易に理解できるでしょう。
さて、日本においては「人間性」ということばは、かなり情緒的・心情的な意味合いが強いのですが、西洋近代では、肉体とあらゆる精神活動のことで、とりわけ理性が大きな位置を占めるのです。言うまでもなく、人間と他の動物と異なる点は医学的には脳の発達、哲学的には理性の働きです。理性を発揮することにより文化や文明をつくりあげ、日常生活における快適さや利便性がもたらされたのです。
私は教育の最終的な目標は個々人の人格の完成にあり、そのためには、多くの識者と同じく、知・情・意の総合的な教授・指導・示唆が必要であると考えています。では、そのなかで何を最優先すべきかと問われたならば、「知」であると答えます。プラトンは意志と感情を二頭の馬、理性が二頭立ての馬車の御者であると喩え、アリストテレスも理性が感情や意志を統制することにより、道徳が形成されると述べています。また、仏教や朱子学でもほぼ同様のことが説かれています。ですから、若い時代には、まず第一に知を育てることが大切です。情や意は知に基づいて磨かれ輝きます。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』」第3号,平成24年5月7日.
レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci 第1号に同じ
史上最高の万能の天才といえば、レオナルドの名があがるが、勿論、彼にも修業時代があり、フィレンツェの工房では当時第一の芸術家と言われたヴェロッキオのもとで、ボッティチェッリらとともに学んだ。師の絵画の一部を担当し、すぐにその才能を認められ、工房の絵画部門を任せられるようになり、30歳頃、ミラノ公スフォルツゥアに仕え芸術家として独立した。その後、イタリア諸侯やチェーザレ=ボルジア、フランス国王フランソワ1世に仕え、名声を博し、フランスで死去した。ちなみに、国王や諸侯が彼を登用したのは、当然のことながら、芸術家としてよりも軍事家、科学者、医学者としてであった。
*ヴェロッキオ(1435?~1488)
イタリア・ルネサンスの彫刻家、画家、建築家。レオナルドの師としてその名を残した。レオナルドの才能を 知ってから、自身の限界を知り、絵筆をもたなくなったと伝えられている。
*ボッティチェッリ(1444?~1510)
イタリア・ルネサンスフィレンツェ派を代表する画家。人間美を讃える画風は後を継ぐルネサンスの芸術家た ちに大きな影響を与えた。代表作は『春』『ヴィーナスの誕生』など。
*チェーザレ=ボルジア(1475~1507)
イタリア・ルネサンス期の軍人、政治家。スローマ教皇アレクサンドル6世となる父の庶子として生まれ、教皇軍司令官をつとめ、教皇庁の重鎮やメディチ家と交流した。マキャベリは「容姿ことのほか美しく、勇猛果敢」と評し、『君主論』の中で、君主はチェーザレの如くたれ、と讃えている。
第1号と同じく、レオナルドの『随想録』からの一説を紹介します。「鉄は熱いうちにうて」ということわざがありますが、レオナルドのこのことばに由来するとも言われています。鉄も放置されれば錆がつき、水も汲まれたままでは腐敗するし、厳寒の地では凍りつく。人間の知力も使わなければ衰える。勿論、誰にでも分かり切ったことですが、自分のこととなると実践が難しい。ここが人間の弱いところです。
学校schoolの語源であるスコレーscholeはギリシャ語で「閑暇」を意味し、古代ギリシャの市民は仕事や家内の諸事を奴隷や召使いに任せて、自由で暇な時間を学問、芸術やスポーツに費やしたそうです。さすがは古代ギリシャ人で、この姿勢が史上稀に見る文化の隆盛を築いたのですが、「小人閑居して不善を為す」という格言のとおり、普通の人間は暇を見つけては遊びや享楽に耽るものです。経済の繁栄や物質の豊かさにおぼれ、歴史に埋もれていった民族はたくさんいたことでしょう。
「うちの生徒は教師から指示されないと勉強しない」。私たちはしばしばこのようなことばを口にします。どんな進学校の教師でも、否、私が知るかぎり日本一の偏差値を誇る大学の教員も言っています。天下の秀才三千人とも言われる孔子門下のなかでも、時間を惜しんで勉学に励んだのは、孔子をして「賢なるかな回や」と言わしめた顔回だけであったそうです。孔子は学問への意欲・関心・態度を、上知、学知、困知、下愚の4つに分類しています。上知とは生来の勉強家で教師に言われなくても自ら進んで学ぶこと、学知とは教わることにより自ら課題をもって学ぶ志をもつこと、困知とは必要に迫られて学ぶこと、下愚とは何があってもどんなときでも学ぼうとしないことです。孔子は上知と下愚は自分の及ぶところではないと言っています。つまり、ほとんどの人間は学知か困知であり、さらに学知も滅多にいない。困知が大多数であり、私たちの要求もそれで十分です。したがって、天性の才能を持ったものは別としても、一般の生徒にはとにかく学習の機会や課題を与えることが大切です。ひたすら用いなければ知力は退化するのですから。
教育界の近年のキーワードは「確かな学力」です。教師主導型の教育論は詰め込み主義であるとか知識重視などと批判され、一時期は個性化重視の教育が主流でしたが、近年、ようやくにして見直しが図られています。私は教師主導型教育の敬遠は、教師の責任回避につながると以前から言っていました。時代は私たちの真の力量を求めています。「確かな学力」はより鋭く知力を磨くことにより保障されます。そのためには教師自身の知力の錬磨が必要なのは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『地平遙かに』第2号」,平成24年5月1日.
レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci
イタリアの芸術家、科学者。1452~1519。イタリア・ルネサンスの発祥地フィレンツェ近郊のヴィンチ村の出身。したがって、名前の正確な訳は“ヴィンチ村のレオナルド”で、ヴィンチは姓ではない。彼自身は作品に“レオナルド”とサインしており、芸術の専門家も彼の名を“ダ・ヴィンチ”ではなく“レオナルド”と表記している。ヴィンチ家は土地の名を姓をとする名門の家柄である。父は公証人で富裕であったが、母の詳細は不明で、レオナルドは私生児であったと伝られている。幼少年期は教育を受けず自然のなかで過ごしたが、14歳頃、フィレンツェに出て、早くから画家としての才能を発揮し、さらに科学、医学、建築など各方面で天才の名をほしいままにし、フィレンツェ、ミラノで活躍した。代表作は『モナリザ』『最後の晩餐』『岩窟の聖母』『受胎告知』『洗礼者ヨハネ』など多数。
上記のことばは彼の著書『随想録』にあるもので、ルネサンスの万能人、近代において最も理想的な人間と讃えられた人物らしい名言中の名言です。ぐっすりと眠ることは我々の日常生活の素朴な喜びのひとつですが、では、どんな日が安らかな眠りをもたらすのでしょうか。
心配事、悩み事があったり、自分が誰かに嘘をついたり、何か悪いことをした日などは、正常な精神の持ち主ならば気になってなかなか眠れないものではないでしょうか。また、一日中ぼんやりと過ごし、仕事も勉強も運動もしなかった日などは寝付かれずに明け方になってようやく熟睡し、朝寝坊をしたり仕事中に居眠りしたりすることもあり得ます。反対に、真剣になって仕事や勉強に打ち込んだ日や運動・スポーツに汗を流した日などは家に帰って、食事をし、入浴を済ますと、さわやかな疲労感から自然と眠たくなるものです。こんな毎日だと朝もさわやかに目覚め、その日一日が快適なものとなる。不眠は不健康につながる。全力を尽くして頑張った褒美に楽しい眠りが与えられる。それが毎日の健康の源なのでしょう。
レオナルドはこのような毎日の眠りを、人生における安らかな死にたとえています。勿論、死についていつも考えることなどよほどの賢人しかできないことで、そこがレオナルドのレオナルドたる所以ですが、毎日の積み重ねが少しずつ人生という長い道のりを形成していくことは事実でしょう。苦労や困難はあっても、その日その日の充実感や達成感が人生そのものの喜びや満足感につながることは言うまでもありません。
教育においても同じ構造があります。学校教育には、教育課程の編成、授業改善、教員の資質向上など中期的・長期的目標があります。本校における「進学重視型単位制」に向けての取り組みもその一つです。それを今日このときのものととらえず、はるか先のこととして余裕をもちすぎると、上手くいきません。いつまでにAを実施する、そのために今日はaをする。何事においても、それが日々の充実感や達成感をもたらし、将来への成果の源です。ちなみに、学校における日常生活において、生徒と接する教師に求められる第一のものは、毎日一つで良いから「自分は生徒の心に残る何かを教えた」「自分はこのことで生徒に感謝された」、このような当たり前のことがあればよいと私は思っています。
矢倉芳則「 校長通信『地平遙かに』」第1号,平成24年 4月23日.
*ルソー(1712~78)
フランスの啓蒙思想家、哲学者、教育学者、小説家。スイスの時計職人の子に生まれる。生後まもなく母を亡くし、10歳のとき、父が逃亡したため、一家は離散となり、寄宿舎生活や徒弟奉公をして暮らすが、16歳頃から放浪の生活をおくった。職を転々とし、貴族の夫人に庇護されながら、独学でさまざまな学問を学び、百科全書派のメンバーとして、活動を開始し、社会契約思想や教育に関する書物を出版する。しかし、政府や教会から危険思想をもつ人物とされ、各地を転々とし、不遇の生涯を送った。主著は『社会契約論』『人間不平等起源論』『エミール』『新エロイーズ』など。
*百科全書派
18世紀フランスで発刊された『百科全書』編纂にたずさわった学者や思想家たちの総称で、近代的合理主義・啓蒙思想を知識の集大成の側面から啓発した。ディドロ、ダランベールらが代表である。
『清き山河』も今回で最後となりました。最終号はやはり、教育に関する名言で締めくくりたいと思います。ルソーは「自然に帰れ」の名言で知られていますが、実は彼の著書のどこにもそのことばはありません。彼の政治学や教育論が人間の自然状態を善きものとしているから後世、用いられたようです。ただし、かれは人間は教育によって初めて人間となるとしています。勿論、彼の言う教育とは学校教育にとどまるものではなく、家庭や職場、社会、互いの人格的交流のなかで育てられるすべてのことです。
紹介したことばは『エミール』にある一文ですが、今日、社会の著しい変化にともない、価値観や生活意識が多様化し、学校の役割も多岐にわたり、、教師にはあらゆる領域における指導が求められてきております。部活動、学校祭などの生徒会活動、ボランティア活動、ことばづかい、服装や頭髪などの身だしなみ、自転車の乗り方、その他のしつけ。これが学校の教師がすべきことかと疑問をもつ人も多いことと思います。しかし、これら全てが人間の生活に係わるかぎり、しかも、今日のように、すべての人間が学校に行き、小学生から大学生まで生活の大部分の時間を学校でおくり、人間関係もほとんどが学校における交友関係であり、親以外の大人で最も親しいのが教師である時代にあっては、教師の力量が問われることになるのです。民主主義、大衆社会、核家族、少子高齢化などさまざまな要素がつくりあげたものとして、今日求められる教師像があるのです。
私は、教師は極めて特別な職業であると思っています。全ての人が一人残さず、直接出会い長期間にわたって接する職業は教師以外にはないからです。だから、教師は自らの仕事に自覚と誇りをもたなければなりません。では、多岐にわたっている教師の仕事のなかで何に最も力を入れるべきか。つまり、教師の本分ですが、それは言うまでもなく授業をすること、勉強を教えることです。この一点が優れたものであれば、他の領域つまり、ことばづかいや身だしなみも自然とその教師の思うとおりになるのです。卓越した授業力に加えて、教師の人生観と信念と情熱があれば、より完璧です。
そもそも、学校は知識を得、教養を深め、識見を養うところです。努力することの尊さや正直であること潔さを伝えるところです。教師の本分は授業にあり、その真価は知らなかったことを知った喜び、出来なかったことが出来るようになった喜びを与えることにあります。それが自ずから人格を高めさせる人間教育につながります。いかに世間知らずと笑われようが、混迷・腐敗する社会において、学校だけが説き続けなければならない美しいこと、清らかなことがあります。
2年間87号にわたり、ご愛読いただきましてありがとうございました。『清き山河』は本日で終了しますが、またどこかで、何かのおりに皆さんとお会いしたり、拙文をお読みいただくこともあるでしょう。その際は、お声をかけていただければ幸いです。
最後に、いとことだけ付け加えます。教育は勿論、哲学や思想といっても、私たちの日常生活からかけ離れたものではありません。どんな人間になりたいか、何にあこがれ、何を目指すか、誰を友とし、誰を愛するか、それを考えるためのものなのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第87号,平成24年3月19日.
* ナーガージュナ(竜樹・150?~250?)
インドの仏教学者。大乗仏教の理論的確立者。南インドのバラモンの家に生まれ、初めは部派仏教の小乗系の部派に学んだが、のちに独自の道を歩む。『般若経』を重んじ、大乗仏教の根本教義を「空」の概念で表した。主著は『中論』など。
*アサンガ(無著・310?~390?) ヴァスバンドゥ(320?~400?)
インドの大乗仏教思想家で、二人は兄弟。ともにはじめは小乗仏教を学んだが、大乗仏教に転じて、唯識の思想(存在の実在性を否定し、すべての事物も事象も心によって生み出される)を説いた。
大乗仏教はブッダのことばと行為の真意を生きとし生けるもの、一切衆生の救済にあるとし、他者への慈悲の実践こそ人間として求められる生き方であるとしました。その実現を目指して万人を救うべく修行にいそしむのが菩薩です。観音菩薩、弥勒菩薩などの菩薩で、ブッダ(仏)をめざして人々に慈悲を施す将来の仏です。大乗仏教ではすべての存在は仏になり得るとしています。
大乗仏教の理論は3世紀頃、ナーガージュナという人物により確立しました。彼はブッダ(シャカ)が説いた「諸法無我」や「縁起」を徹底して「空」の理論を唱えました。あらゆる存在はそれ自体の存在性も特性もない。つまり、自分も「自分そのもの」はない。このことを「一切皆空」と言います。似たことばに「色即是空」があり、「色」とは物質・物体・形あるもののことで、「色」が「空」であるから、物にとらわれること自体がむなしい。ここから、執着や欲望を捨て、慈悲を尊重する生き方が生まれるのですが、現実には「自分」を「自分そのものがない」とするのはきわめて困難なことです。そもそも「実体がない」とはどういうことなのでしょうか。
「空」という概念は、私たちもそうでしょうが、欧米人為は理解しにくいもので、かなり日本文化に精通している人でも、「空」と「無」をほぼ同じ意味で捉えているようです。哲学的に比較すると、「空」は相対的存在の仕組み、「無」は絶対的非存在のことで、私は「空」を「有るが如し、無きが如し」と言っています。「空」は「空気」の「空」で、空気を見たり感じたりはできないが空気はあります。生きものは空気が無くては生きていけないし、生きものがいてこそ空気は存在すのです。また、「空」は「そら」です。地上から見上げると、天井のような「そら」があります。しかし、飛行機に乗って高く飛んでも「そら」には届かず、スペースシャトルで宇宙に行っても「そら」はない。周りはいつしか漆黒の闇に包まれ、地上に戻ると「そら」は再び見えてくるのです。あると思えばなく、ないと思えばある。存在の真理とはこのようなものであるとするのが、「空」の理論です。さらに、ナーガージュナの後を受け、大乗仏教の思想を発展させたアサンガ(無著)とヴァスバンドゥ(世親)は外界の事物は心の働きにより存在しているのであって、すべては意識の産物であるとしました。いささか極端な議論になりましたが。人生論として解釈すると、私たちに新たな視点を与えてくれます。
存在が実体が無く相対的で、外界の事物も他者も自己の認識にのみあるのであれば、人間関係も相手の思いも自分しだいになります。。相手の存在すら、自分の意識の内にあるのですから、相手の人柄も自分の心のもちようで決まります。ましてや相手への感情、あいつは生意気だ、意地が悪いなどは自分の あり方でどうにでもなるということになります。まず自分から声をかけてごらんなさい。最初は無視する人もいるかも知れません。でも何度も続けると、返事が返ってきます。よい友だちが欲しいなら、まず自分がよい友だちになればよいのです。愛されたいなら、自分から愛しなさい。こんな生き方があるということを生徒に伝えてください。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第86号,平成24年3月12日.
※調整中です。
* ブッダ( 463?~383?・BC) 79に同じ。
最初の説法(初転法輪)のあと、ブッダは教団をつくり、マガダ国やコーーサラ国をはじめ、インド北部・中部のガンジス川流域を巡り、貧富の違いを超えあらゆる階層の人々に教えを説いた。生涯を布教活動におくったブッダは80歳頃、ネパール近くのク シナガラで弟子や信者たちに見守られてこの世を去った。ブッダに死をを入滅という。
*大乗仏教
インドから中国・朝鮮・日本へと伝播した仏教。大乗とは大きな乗り物という意味で、他者への慈悲を強調し、個人の悟りよりも多くの人の救済を目的とする。紀元前1世紀から紀元3世紀頃にかけて成立した。
仏教の「無我」即ち自己へのこだわりを否定する人生観はわがままや身勝手を抑え、他者をいたわるというきわめて倫理的な生き方を説くことになります。しかし、この人生観が極論化すると自己の欲求・欲望の否定のみならず、自己存在そのもの、つまり自己の生命を否定する立場に陥ることになります。しかし、それは「我」への誤解から生じたもので「無我」の「我」は西洋思想でいう総合的な「自我」ではなく、「自我」のうちの欲にかかわるものです。日本語で言えば「我欲」が最も適切な表現でしょう。その欲が自己自身へのこだわりであるとするところに仏教の特色があります。では私たちは日常の生活のなかで何を心がければよいのでしょうか。それは、自分を他人と比較することなく、自分自身のなかに自分の目標を見いだし、その実現に向けて精一杯努力すればいいのです。
上記のことばは原始仏教の経典の一つで、ブッダのことばを記した『スッタニパータ』の一句です。また、同じく『法句経』には「私は万人の友である。つねに一切のものを傷つけないし、傷つけさせもしない」「自分の敵に対しても慈しみの心を起こさなければならない」と記されています。キリスト教のアガペーにも通じますが、仏教では人間以外のすべての生き物への慈しみ憐れみが説かれています。それが慈悲です。
SMAPのヒット曲『世界にひとつだけの花』に「ぼくら人間はどうしてこうも比べたがる」というフレーズがあります。他人との比較で卑屈になることがそもそもの間違いなので、歌詞は「世界にひとつだけの花」、「その花を咲かせるために一生懸命になればいい」、「もともと特別なオンリー・ワン」、なかなか良いことばが続きます。私は折に触れて、「唯一の存在であるがゆえに、私たちはそれぞれ尊い価値をもつかけがえのない存在なのです」と言い続けてきました。ありふれたきれい事に聞こえるかも知れませんがこれは真実です。親子は互いにかけがえのない存在です。夫婦や恋人もこの人こそはと思えるのが本当の関係です。逆説的になりますが、「私たちが皆、唯一の存在であるから価値がある」ということへのこだわりこそが無我の教えの真意を明らかにするのです。私たちが皆それぞれ唯一の存在であるから価値があるというこだわりこそが、他人を嫉んだり怨んだりしない、また、自分を卑下したり、損なったりしない健全な心を養います。自分に自信のあるものは他人に対して優しくなれる。と同時に、他人に優しく接することにより、自分が成長する。立派な人間になれる。
大乗仏教では、悟った人が慈悲を実践するのは勿論であるが、慈悲を行うことにより悟りに至れるとも説きました。悟ってから慈悲を行うとなると、いつまでも慈悲を行えない。それならば、まず慈悲を行う。そのなかで悟りが得られるというのです。どんな人でも出来る慈悲行を「無財の七施」といいます。「眼施」(優しい眼差しを向けること)、「和顔悦色施」(優しくほほえむこと)、「言辞施」(優しい言葉遣いをすること)「牀坐施」(席を譲ること)、「身施」(勤労奉仕をすること)、「心施」(穏やかな心をもつこと)、「房舎施」(一宿一飯を供すること)。これらが七施です。金が無くても、力が無くても、誰にでも出来る平凡な善行。その積み重ねが自分と自分を取り巻く人々の幸福をつくりあげるということを生徒に教えてください。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第84号,平成24年2月27日.
* ブッダ( 463?~383?・BC) 79に同じ。
ゴータマは35歳のとき、ガンジス川中流域のある村で、木の下で瞑想し、真理を悟りブッダとなった。のちにその村はブッダガヤ、木は菩提樹とよばれる。その後、ブッダは5人の修行者に教えを説いた。
*釈迦如来以外の仏には大日如来、阿弥陀如来、薬師如来などがある。ちなみに奈良の 大仏は大日如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来である。
*凡夫
煩悩にまみれた愚かな人間のこと。聖徳太子は自分が凡夫であることを自覚することにより仏の教えを受け入れられるとし、親鸞は煩悩具足の凡夫ゆえに阿弥陀仏への信仰が生まれるとした。
真理を悟った人のことをブッダといいます。ブッダは仏陀すなわち仏で、覚者、世尊、如来とも言われ、永遠の過去には何人かのブッダがいましたが、現世界でブッダとなったのはゴータマだけで、彼の種族の名をとって釈迦如来とよばれています。キリスト教と仏教との根本的な違いは、キリスト教ではキリストは唯一の神の子であり、人間がどんなに努力しても神の子キリストにはなれません。したがって、人間はキリストを信じることにより神の恵みに与り、救われるのです。それに対して、仏教では真理を悟った人がブッダであるから、可能的には誰もがブッダになれるのです。だから、仏教では学問や修行が求められるというわけです。
ブッダがブッダガヤの菩提樹の下で得た真理が何かについては諸説がありますが、後世の人々はそれを「四諦」としてまとめました。人生における4つの真理です。まず、「諦」ですが、タイとよび、意味は「あきらめる」ことです。「人生は諦めが肝心」のあきらめで、一般にはギブアップのことですが、「あきらめ」は「明きらめ」で「諦」は明らかにされた真理のことです。その第一は「苦諦」で、人生のすべては苦しみであるということです。第二は「集(じっ)諦」で、苦しみの原因は煩悩にあり、煩悩は我執つまり自分へのこだわりから生じるということ、第三は「滅諦」で、煩悩が絶たれ苦しみや悩みから解放されたことです。これらの真理をわきまえ知ることが悟りへの道で、それができないことを「諦めが悪い」と言います。そして、第四は「道諦」で、悟りに至る道は八正道という8つの実践であるということです。八正道は正しくものを見ることや正しいことば遣いをすることなどです。これは開拓でも禁欲苦行でもない程よさで「中道」ともよばれます。ここにおいて、仏教では、内面的な省察すなわち知的認識に加えて、日常生活における行が重視されることになります。
さて、「四諦」を認識し、「八正道」を実践して悟り(解脱)を得た人はあらゆる苦悩から自由になった人で、人格の完成者です。勿論、簡単なことではない。それどころか、誰にもできない。だから、ブッダはゴータマ=シッダッタだけなのです。我が国では、亡くなった人のことを「ほとけ」と言います。これはまことに見事な表現で、普通の人は死ななければ、煩悩がなくならない。生きているとは煩悩のなかにいるということである、との人間観が説かれています。亡くなった人は苦悩から解放された人である。だから尊い、だから日本人は亡くなった人のことを悪くは言わない。
生きていることは苦しむことである、人は生きているかぎり煩悩から逃れることはできない、自分が自分がというこだわりを捨てることもできない。キリスト教も人間を弱く罪深い存在としていますが、仏教も同様で「凡夫」と言います。以前にも述べましたが、人間関係のトラブルはすべて自分へのこだわり、我執、我欲が元凶です。よく言われるように青年期は自我が著しく発達する。その一方でおとなになりきっていないから利害も打算もなくストレートに自分を表現します。自己主張も自己否定も激しい。そこにほんの少しでも他人に心を配ると、人格も人生も大きく変わってきます。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第83号,平成24年2月20日.
* ブッダ( 463?~383?・BC) 82に同じ。
ゴータマは16才の時、縁戚のヤショーダラと結婚して、ほどなく子どもの生まれたが、29才の時、出家した。当時の王侯貴族の出家はめずらしくはないが、ゴータマは本格的にバラモン教に帰依し、修行の毎日をおくったが、禁欲苦行のなかでは悟りを得られないことに気付き、独自の道を探った。そして、35才の時、長い瞑想の後、真理を悟り、ブッダとなった。
*心の闇~「人の親の心は闇にあらねども子をおもふ道に迷いひぬるかな」
平安時代の歌人藤原為時(949?~1029?)の和歌。親が子を思う心は闇の道に迷うが如きもので、それほどに親が子を思う心は情け深いという歌意であるが、その一方で、分別を超えた情念が陥る危うさも説いている。ちなみに彼の娘は紫式部である。
キリスト教ではイエスが行った奇跡が信仰の大きな拠り所となります。即ち、イエスが神の子キリストであると信じることが心の救いにつながるとするのです。しかし、これまで見てきたように、仏教では、何かを誰かを信じることではなく、人間と世界の真理を正しく知ることにより心の安らぎを得る人をブッダ(悟った人)として目標にするのです。したがって、ブッダには経典には勿論、外典の資料にも奇跡伝承があまり見られません。と言うよりも、教祖にしては驚くほどエピソードが少ないのです。その中にあって、『パーリ経典』という古い文献には、ブッダの教えの本質が的確に記されています。
昔、舎衛城という町にゴータミーという若い女性が住んでいました。幼い息子との二人暮らしで、息子の成長だけを楽しみにしていました。ところがある朝、眼をさますと気の毒にも一晩のうちに、その子は死んでしまったのです。ゴータミーは、街中を狂ったように駆け回り、「どうかこの子を助けてください」、「誰かこの子を救ってください」と泣き叫びました。しかし、医者であろうが祈祷師であろうが、死んだ子を生き返らせることなど出来ません。可哀想に思ったある人が「祇園精舎にいるブッダならば、助けてくれるかもしれない」と言いました。藁にもすがる思いで、ゴータミーはブッダを訪ねます。「どうかこの子を生き返らせてください。そのためなら何でもします。」「では、この町を回り、今まで一度も死人を出したことのない家を見つけなさい。その家の庭に咲いている芥子の実を煎じて飲めば、この子は生き返る」。とブッダは答えます。喜んだゴータミーは町にある家という家を訪ね歩きました。しかし、死人を出したことのない家など、一軒もない。ある家では、去年父が死に、ある家では半年前に母が死んだ。そして、我が子に先立たれた母親もいた。ゴータミーは、生命あるものには終わりがあるということ、死は誰にでも訪れるのであり、我が子を亡くしたのは自分だけではないことを知りました。
彼女は不幸なのは自分だけだと思っていた。自分こそはこの世で一番哀れだと思っていた。しかし、人の世の真理とはかくの如くである。ブッダは自分から教条的にそのことを伝えるのではなく、ゴータミーが自ら悟るように導いたのです。生命あるものは必ず死ぬのです。それが定めなのです。ゴータミーは心底、そのことを理解した。これが悟りです。
生死に関わることは深刻さの次元が異なりますが、あらゆる判断の基点は、正しい事実認識にあります。つまり、真理を認識することですが、これがきわめて難しい。私たちはしばしば、かくあるべきだ、こうなってほしいという願望により、正しい認識を見失ってしまうことがあります。いわゆる「心の闇」です。
教育においても、私たちはここに陥りがちです。特に自分が時間をかけたこと、力を入れたことには熱い思いがある。しかし、そこから一歩抜け出して、事実は事実として受け入れることが結局は正しい方向に進むことになります。真実を知るのは悲しい、真理を得るのは苦しい。しかし、かなわぬ願いをもち、詮ないこと執着することの方がはるかに苦しく悲しい。その点で、仏教は厳しい教えですが、私たち教育者に不断の自己超克を示す教育哲学でもあるのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第82号,平成24年2月13日.
* ブッダ( 463?~383?・BC) 79に同じ。
ブッダになる前の少年ゴータマはある時、城の4つの門の一つを出ると、老人に会い、人は誰でも老いることを悟った。二つめの門を出ると病人を見かけ、人は誰でも病 気になることを悟った。三つめの門を出ると、死人を見て、人は皆、死から逃れられないことを悟った。最後の門から出ると、バラモンの僧侶に出会い、その神々しい姿に感 動し、出家を志した。このことを「四門出遊」という。古代インドにおいては、出家は王侯貴族たちが壮年になったときの慣習(日本でも平安時代以降、退位した天皇は上皇となり、出家して法皇となることが多かった)でもあったが、ブッダの場合はこの伝説をもって、出家の理由とされていた。
*縁起
「これがあるときかれがあり、これが滅びることによりかれが滅びる」とされ、存在するものも迷いも苦しみも固定的なものではなく、その原因・条件(因縁)を滅すればなくなるという教えである。
「四法印」の第一が「一切皆苦」。ふたつめが「諸行無常」、そしてその次が「諸法無我」です。「法」とはダルマ即ち真理、法則、存在のことで、「我」とは固定的・個別的な実体あるいは意識(各自の個人的な実体・意識を自我と言います)のことです。諸法が無我であるとは、すべての事物や事象は互いに依存して存在し、ひとつとしてそれ自体で自立しているものはないということです。
目に見えるもの、耳に聞こえるものは勿論、自然法則も社会の出来事も人間の肉体も精神も、さまざまな条件、原因・理由があるからその結果として存在する。いわゆる因果の法則で、生態系や食物連鎖のことを思い浮かべると分かりやすいでしょう。また、名称や概念は、それぞれ別なものとの区別のために必要だから便宜上つくられたもので、それ自体が固定的にあるものではない。例えば、男は女がいるから男であって、女がいなければ男ではない。教師は生徒がいるから教師であって、生徒がいななければ、教師はいません。
この存在に関する立場を、人間としての生き方として展開すると、他者への尊重、いたわりや思いやり、つまり慈悲に通じます。自分がいるのは親をはじめ無限とも言える祖先からの生命の結果であり、自分が生きていられるのは自分を取り巻く多くの人々のお陰である。人だけではないこの世界のすべての生き物のお陰で自分は生きていられる。とすれば、あらゆる存在は価値ある大切なものとなるのです。仏教の生命尊重は「輪廻」と「諸法無我」を柱としています。この立場は、仏教学の詳細な部分はともかく、「縁起」と同義に捉えてもいいでしょう。「縁起」とは「因縁生起」の略語で「縁りて起こる」こと。「縁起がいい」「縁起でもない」など日常語にもなっています。「因」とは直接の原因、「縁」とは間接的・副次的な条件のことです。
前回同様の話になりますが、青少年の「いじける」「ひがむ」「ふてくされる」の心理、程度が激しくなると非行や犯罪へと向かう心理的原因には、単純なことがたくさんあります。自分だけが怒られる、自分だけが無視される、自分だけが損をしている。この「自分だけが」という誤った被害者意識が無くならないかぎり、いつでも誰にでも、非行や犯罪に陥る可能性があります。誰がどうしたこうした、ああ言ったこう言ったなどのトラブルもつまらない拘りや思い込みから起こります。そもそも、自分は他人なしでは生きていけないという真理をつかむことが大切です。そして、苦悩そのものもまた、それ自体では存在しない、必ず原因や理由があり、それが明らかになり改善すれば、いずれは無くなるということを常日頃から説いて、精神の強い、神経の太い人間を育てましょう。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第81号,平成24年2月6日.
* ブッダ( 463?~383?・BC) 79に同じ。
ブッダの母マヤはブッダを産んでまもなく死去し、彼女の妹が王妃、継母となりブッダを養育した。ブッダが産まれたとき、仙人が「この子は世俗にあれば世界を支配する王となり、出家すれば永遠に世界のすべての人を救うブッダとなる」と予言した。そこで、父王シュドダナは出家心が起こらないようブッダにあらん限りの快適な暮らしをさせたと伝えられている。
*『平家物語』
鎌倉時代初期の軍記物語。作者は不詳。平清盛を中心に、平氏の栄華と源平の合戦を経ての滅亡を基軸に、台頭する武士と衰退へと向かう貴族の人間模様を仏教的無常観を根底として流麗な文章で描いた。
*鴨長明(1155?~1216)
鎌倉時代初期の歌人・文人。賀茂御祖神社の神職の家に生まれるが、神官としての道が閉ざされ、出家し、隠棲した。『方丈記』は1180年前後の大火・地震などによる世相を回想しつつ自己の不遇を見つめ人生の無常を描いたもので、清少納言の『枕草子』、吉田兼好の『徒然草』とともに日本三大随筆の一つとされる。他に歌論『無名抄』、説話『発心集』がある。また、歌人としても優れ、職制和歌集に25首の和歌が入っている。
「四法印」の第一が「一切皆苦」。ふたつめが「諸行無常」で、『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で知られています。鴨長明の『方丈記』にも無常観が記されています。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、淀みに浮かぶうたかたはかつ消え、かつむすびて久しく留まりたるためしなし。世の中にある人と住みかとまたかくのごとし」。この世にあるすべてのものは常に移り行き、一つとして常住不変なものはない。形あるものが滅び、人の心も移ろい変わる、それが真実である。
花は散り、草木は枯れる。風が吹くから花が散るのではない。花は咲くときにすでに散る定めだから散る。したがって、大切にしている物が壊れたり、なくなったりするは当たり前のことなのです。生きているものは必ず死にます。人が死ぬのは事故や病気が原因ではない。事故や病気はきっかけにすぎない。生あるものは死ぬ定めであるから死ぬのである。それが諸行無常の真理です。気の毒にも、我が子が先に死ぬこともあります。だから、子どもより先に死ねる人は幸せですし、自分の子が成人になるまで生きていられる、さらには親であるばかりか祖父母となれるのであれば、何と恵まれていることか。また、人の心は変わるものです。嘘をつかれ、裏切られる、それが人の世の常です。だから、中年になっても学生時代と変わらぬ友情を育み合える親友がいる人は幸いです。結婚して何年経っても、互いに睦び、いたわり、想い合える夫婦は幸せです。
若い世代は、否、すべからく人間というものはそのことに気がつきません。中学生や高校生が非行に走ったり、不登校や引きこもりになったりする原因のほとんどは、家族関係、友人関係、恋愛関係の破綻やもめ事です。人間関係の破綻や諍いは、誰にでもあり得ることなのです。人間の心は変わりうるもので、恋愛にも友情にも破局や終焉があります。そこを明確にしない、明らかにしない。それが「明らめ」が悪いというのであって、日本語では「諦め」を用いますが、元来は「事実を明らかにするということ」です。大切なのはその後の人間関係と自己の心の安定をどのように構築するかです。
仏教ではそこで、「慈悲」の心が説かれます。他人を思いやり、いたわる心です。八つ当たりや偏見、単なる好き嫌いでのもめごとは論外ですが、根拠あるトラブルでは、相手を咎める前に、相手の立場になってみることが大切です。なぜ彼は自分を避けるのか、なぜ彼女は自分を嫌うのか、その理由を相手の側に立って考える。そこから、思いやり、いたわりの心が生まれ、新たな人間関係が出来上がり、他人を憎まず、恨みもしない人生がおくれるのです。誰かに恨み、憎しみを持ち続ける人生ほど不幸なものはありません。「心の教育」や「人間関係のあり方」の原点はここにあると思うのですが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第80号,平成24年1月30日.
* ブッダ( 463?~383?・BC)
古代インドの宗教家で、仏教の開祖。北インドの小国の王子に生まれる。本名ゴータマ=シッダッダ。ブッダ(仏陀)とは悟った人、解脱者のこと。種族名をそのまま個人名とした釈迦(シャカ)が我が国では一般的である。その生涯は伝承によるものが多く真偽は不明であるが、16歳で結婚し一子をもうけ、何不自由ない生活をしていたが、29歳で出家バラモン教に帰依するが、難行苦行に疑問を持ち、独自の道を進んだ。35歳に説き、この世の真理を悟り、ブッダとなり、以後、生涯を布教と説法で過ごした。
*如来
如実(真如・真の智慧)より来るものという意味で、仏(仏陀)と同義である。歴史上は釈迦如来のみであるが、初期教団においてすでに過去に悟りを開いた如来が登場し、大乗仏教においては薬師如来や阿弥陀如来、密教において大日如来が信仰の対象になった。
キリスト教がユダヤ教を母体として成立したように、仏教はバラモン教を基礎に形成された宗教です。しかし、宗教という同じ概念ではとらえられないほど異なっています。仏教で理想とされるのはブッダになることで、ブッダとは仏、如来ともよばれ、世界と人間の真理を正しく認識することによりの人生における苦しみや悩みから解放され、心の安らぎを得た人、つまり悟りに至った人のことです。仏教にも神はいますが、唯一絶対の神ではなく、たくさんいて仏や仏の教えを守ることが主な役割です。ブッダは過去にもいましたが、歴史上ブッダとなった人間はシャカのみです。
真理を認識するという点では、仏教は宗教よりも哲学に近いかも知れません。しかし、哲学はあくまでも真理や原理、法則あるいは善、美などの価値を尊重するのに対し、仏教ではそれらを悟り、徳を得たブッダそのものを崇拝し、その人格に近づくべく努力することを目的とします。では仏教が説く真理とは何でしょうか。
仏教の基本的教説「四法印」、の第一が「一切皆苦」で、これが最初の真理です。この世の全ては苦しみであるということです。人間には生・老・病・死という避けることのできない苦しみがあります。人は必ず老いるのでして、どんなに強く逞しい若者でもいつかは衰えます。また、「病(やまい)」から逃れることもできません。医学の歴史、というよりも科学の歴史は人類と病気との闘いの記録です。ペスト、天然痘、コレラ、結核など、それらを克服してはまた癌やエイズなどの病気が出てきます。勿論、死に至る重病のほかにも、誰でも風邪をひくし、頭痛も腹痛も日常のことです。そして、たとえ病気にならなくても私たちには「死」が待っている。さらに生きていること自体が様々な苦しみや煩いに満ちています。高校時代はやれ宿題だやれ試験だと何かに追われているでしょうし、社会に出たら、なおのことです。このように、人間であれば誰にでもある苦しみを「生老病死」の「四苦」といいます。これらの他に、愛する人とは必ず別れが来る「愛別離苦」。その反対に、厭だと感じている人、嫌いな人と絶えず出会う「怨憎会苦」。欲しいものはなかなか手に入らず、この世はままにならないという「求不得苦」。身体から出る諸々の苦しみである「五蘊盛苦」。この4つを加えて「八苦」と言います。いわゆる「四苦八苦」です。
さて、高校生の挫折のほとんどは、不遇や不運が自分だけのもの、自分の苦しみは誰にも分かってもらえないと思いこんでいるところに起因します。人生は苦に満ちている。悲しいのは自分だけではない、不幸なのは自分だけではない。生きていれば、苦しいのが当たり前なのです。悩むのが当然なのです。そんな辛い切ない人生において、この人に会えてよかった、自分には楽しい思い出がある、喜びがある、とす思えたならば、何と幸運な人生であることか。些細な、小さなことに喜びを感じることのできる感性を育てることも教育の目標のひとつです。願わくば、この学校に入ってよかった、あの先生に出会えて幸せだったと言われるようになりたいものです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』第79号」平成24年1月23日.
* バラモン教
古代インドの民族宗教。紀元前1500年頃、中央アジアからインド北西部に侵入した アーリア人の司祭階級(バラモン)による自然崇拝の多神教。仏教の成立後もインド民衆に根強く残り、民間伝承や習俗を取り込んで、現在のヒンドゥ教の素地をつくった。
* ヒンドゥ教
インドの民族宗教で、バラモン教に民間信仰が組み込まれて、3~9世紀に成立した。現在のインド人の大部分はヒンドゥ教徒である。創造神ブラフマ、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァを一体三神の最高神とする。
インドはエジプト・メソポタミア・中国と並んで高度な古代文明が発祥したところです。推定で紀元前2500年頃、インダス川中下流域に繁栄したモヘンジョ=ダロ、ハラッパなど60以上の都市国家は、区画整理や下水道の完備もされた高度なものでした。しかし、バラモン教や仏教をつくった民族は彼らではなく、原インド人を支配したヨーロッパ系のアーリア人です。そのアーリア人は先住民を支配した際、後にカースト制とよばれる身分制をつくり、支配者と被支配者を区別しました。これは皮膚の色であるヴァルナと出自であるジャーティとからなり、細分化されて現在の数は4000以上におよぶといわれています。その基本となる階級は祭司のバラモン、王侯・武士のクシャトリア、庶民・商人層のバイシャ、隷属民のシュードラで、シュードラが被征服民です。さらにそれにも属せない不可触賤民もいます。そして、カーストの最高位バラモン階級がつくりあげたのがバラモン教です。
バラモン教は、呪術的・祭祀的傾向が強く、教義の中心は輪廻と業の思想です。輪廻とは人間であれ、他の動物であれ、あらゆる生き物は永遠の生命のなかで、無限に生と死をくり返すという霊魂不滅の生命観です。つまり、転生すなわち生まれ変わりの思想で、仏教にも受け継がれ、前世、来世など日本人にも馴染み深いものです。私たちの人生はただ一度限りのものではなく、死は眠りのようなもので、目が醒めて次の日が来るように、また新たな、別の生命となっている。ところが、必ずしも人間になるとはかぎらない。馬や牛、ハエや蚊になることすらありうる。 転生して何に生まれ変わるのかは、この世界での行いによると古代インド人は考えました。行いのことをカルマ(karma)といい、漢語では業と記します。行いが善であれば、次の世も人間になり、悪ければ牛や馬になる。もっと悪ければ、その牛や馬に踏みつけられるウジ虫や糞(ふん)に群がる害虫になる。この世での行為が原因となり、次の世での結果を生む。善い因は善い果ともたらし、悪い因は悪い果を生じさせる。このことを因果応報観といいます。
余程変わった人でなければ、次の世も人間に転生したい。馬や牛になどなりたくない。ましてやウジ虫やハエや蚊などは勘弁してもらいたい。したがって、バラモン教でも、はじめは善行を積むことにより来世も人間に生まれることを目的としました。すなわち、倫理的・道徳的な観点から輪廻転生と因果応報が説かれていたのです。日本ではこの観点に終始しますが、古代インドではそこからもう一つの観点が出来上がります。それは転生の拒絶、輪廻からの解放です。古代インドの人々は、基本的に厭世観が強く、現世を否定する傾向にあったようです。何に生まれ変わったとしても、たとえもう一度人間に生まれたとしても、苦しみから逃れることなど出来ない。生きていることそのものが苦しみである。この人生観はブッダにまで受け継がれます。生きることが苦しみであれば、生まれない方がよい。ここには、生きること自体がきわめて厳しいサバイバルであるインドの自然環境と社会体制が根幹にあります。
国際化社会に向けての異文化理解が教育の課題の一つになっています。この通信では、4月以来、宗教を題材としてきましたが、私は異文化理解の切り口は宗教とそこから生じる世界観・人間観が第一だと思っています。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第77号,平成23年12月19日.
* ムハンマド(570?~632) 74に同じ。
メッカからメディナへのがれたムハンマドはその地で、抗争を繰り返していたユダヤ 教徒とアラブ人の調停者として、人民の信頼を得、唯一神アッラーへの信仰を説き、メディナの実権を握った。その後、メッカからの攻撃を退け、630年に、メッカに大軍を率いて侵攻し、アラビアを統一した。メッカをイスラム教の聖地としたムハンマドは、632年、最初で最後のメッカ巡礼をはたし、生涯を終えた。
* 『クルアーン』 75脚注参照。
* メッカ
サウジアラビア西部の都市。人口約250万人。紅海から約80キロ内陸にあり、高温乾燥地帯で、年間を通して日平均気温は30℃、日最高気温は38℃を超える。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地。“~のメッカ”とよばれるようにメッカは中心地の代名詞である。
* メディナ
メッカの北方約400キロにある都市で、イスラム教第二の聖地。人口は約130万人。
イスラム教では、神は何ものにも形として表わされるものでもなく、その存在は他に並ぶもののない絶対者です。したがって、神の子である救世主(キリスト)もその聖母もありえません。信者にとって神への信仰は服従とも言えるもので、彼らは神・天使・預言者(ムハンマド)・経〈啓〉典(『クルアーン』)・来世・天命を信じることが求められます。これを六信といい、さらに信仰告白(神は唯一、ムハンマドは最大最後の預言者であると声を出す、礼拝(一日5回メッカへ向かって祈る)、喜捨(貧民救済のための金品奉納)、断食(イスラム歴9月に飲食を絶つ)、巡礼(生涯に必ずメッカのカーバ神殿に行く)の五行が義務づけられます。
今回紹介したことばも、『クルアーン』に記されたもので、前文を含めると「讃えあれ、アッラー、万世の主、慈悲深く、慈愛あまねき御神、審きの日の主宰者。汝こそ我らはあがめたてまつる、汝にこそ救いを求めまつる。願わくば、我らを導いて正しき道を辿らしめ給え。」とあります。イスラムはそもそも絶対帰依という意味で、神の存在は私たちが考えている以上に大きく、尊いものなのです。
ユダヤ教やキリスト教でも、人間は弱く、罪を犯す存在でとしていますが、イスラム教はより徹底した人間性弱説の立場をとります。イスラムの戒律はことのほか厳しい。それは人間が弱いものであるから、その弱さつまり本能や欲望にとらわれない状況をつくりあげることが必要だとしているためです。なるほど、これも危機管理の一つで、洪水が頻繁にある、だから堤防を築く。雪が多い、だから除雪体制に万全にすることと同じなのです。こちらは精神のレベルですが、だからなおのこと戒律によって教化するというわけです。
欠点や弱点を克服するところに個人としても人類全体としても成長や発展があるのであり、克服できないのであれば、それらが生じないように努力しなければならない。これはきわめて理にかなった考え方で、日常生活においても教育においても、大いに参考にすべきです。
非常時に備えて準備をする。いつでも起こりうることであれば、日頃から万全の体制を整える。自分の力では克服できない本来的な弱さであれば、それが生じないような状況をつくるように努力する。言われてみれば当然ことです。今ひとつ、イスラムの人間観から学ぶべきことは「私は弱い」という自覚です。「人間は弱く、罪深く、愚かだ」とはよく言われてます。しかし、この表現では「人間」という一般論の形をとるため、各人は自分のこととして内省しません。人間一般ではなく、「自分は弱く、罪深く、愚かだ」とどれだけの人が言えるでしょうか。ソクラテスが無知の自覚から真の知の探究が始まると言ったように、自分は弱いという自覚から真の強さが生まれることを生徒たちに教えるのも私たちの使命の一つです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第76号,平成23年12月12日.
* ムハンマド(570?~632) 74に同じ。
ムハンマドはメッカ郊外の洞窟で、天使をとおして、唯一神アッラーから啓示を受け、その後、何度か同じことが起こり、自分は神の使者であると確信した。メッカで布教活 動をするが、当時のアラビアの宗教は多神教であり、また、唯一神への絶対的帰依と神の前での万人の平等は大商人を頂点とする社会経済体制には受け入れられず、迫害され、ムハンマドと一族は622年、メッカからメディナに逃れた。イスラム教ではこのことを聖遷(ヒュジラ)とよぶ。
* 『クルアーン(コーラン』
イスラム教の経典。神がムハンマドに啓示した教えを記したもので、クルアーンとは読誦・暗誦の意味で、声を出して読むべきものである。教義や信仰箇条のほか結婚、遺産相続、子どものしつけなど日常生活の規則も示されている。
哲学者や宗教家は政治や経済に疎く、ましてや軍事には無関心というイメージが強いのですが、ムハンマドはそれらすべてに超一流の人物です。まずは商人としての才能があり、経済的地位を確立する。神の啓示を受けるという神秘的能力と多くの信者を得るというカリスマ性をもち、教団を形成・発展させる経営者としての手腕を有し、国家統治と民生安定、人心掌握の才があり、かつ軍事・戦略にも秀で、自らも武人として先頭に立つ気概も備えています。勿論、それぞれに参謀がいたのでしょうが、これだけ多岐にわたって優れた力を発揮し采配を振るえる人物は他にはいません。
天使があらわれ、神の啓示を受けた。これを後世の創作だとか、聖人伝の定番であると一蹴してはいけません。まれには、特別の感性のよって、普通の人なら感じ得ない何かを確信する才人がいます。天災や事故を「天罰」、「人類への警告」、「科学文明への警鐘」などど一般化して反省を促す人は多いのですが、きわめてまれには、それらを自分自身への、自分だけへの神の怒り、天の裁きととらえる偉人がいます。モーゼやダビデなどはそのような人物でした。また、富裕で生活に何の不自由もなく、高い身分にありながら、真理への探究心や万人救済への使命感をもち、多くの人々とともに生き、その苦悩を共有しようとする人もいます。一国の王子でありながら出家したシャカはそのような人でした。灼熱と砂漠の厳しい自然、飢饉もあれば疫病もある。大多数の人々は貧しい暮らしをしている。ムハンマドはそれらのことを自分の問題として、取り組み行動できた人物であったのでしょう。
今回紹介したことばは『クルアーン』に記されているもので、ムスリム(イスラム教徒)すべてに与えられたことばです。イスラム教ではキリスト教のように神と人間とを媒介する救い主(キリスト)は存在しません。ムハンマドは信徒の代表であり、信徒はそれぞれ神と直接につながり、祝福を受けます。また、これは宗教全般にいえることなのですが、イスラム教では人間を弱いものという立場をとります。人間は弱いから自分で自分を律することができない。だから、厳しい戒律や社会的制裁が必要だ。そこから法や刑罰が生まれます。しかし、それさえも破られる。それほどに人間は弱く、罪深い。ということは、人間であるという自体に問題がある。こうして超越者への信仰と救済が求められる。それが宗教の本質です。
さて、宗教に対して道徳はどのような人間観をもっているのでしょうか。端的に言えば、人間は強い存在という立場からはじまります。本来、人間は強い。自分で自分を正すこと、律することができる。それができないのは本人の努力が足りないためか、あるいは周囲がしっかりと教育しないからである。悪いことをしても罪を犯しても、立ち直る機会を与えなければならなし、人間にはそれに応える力がある。これが道徳主義の基本です。日本は明らかに、宗教よりも道徳に力点をおいた人間観をもっています。教育観や司法における懲罰量刑の基本的原理もここに由来します。であれば、強く正しい人間の育成、それが私たちの目標のはずです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第75号,平成23年12月5日.
* ムハンマド(570?~632)
イスラム教の開祖。アラビアのメッカに生まれ、早くに両親と死別し、叔父の家業を手伝いながら、隊商に加わり、各地を回った。25歳頃、メッカの富裕商人の未亡人ハディージャに見込まれ、仕事を任せられ、その後結婚して、一躍、メッカの大商人となった。40歳頃、神の啓示を受け、唯一神を信仰するイスラム教を開き、アラビア半島を統一、政教一体の国家を建設した。
* ベトナム戦争(1965~73)
米ソ冷戦のさなか、南ベトナムでの政府軍と南ベトナム解放民族戦線の間での内戦にアメリカが介入しておこ った戦争。アメリカは政府軍につき、65年、解放民族戦線を支援した北ベトナムを爆撃し、ソ連・中国が北ベ トナムを支援、ラオスやカンボジアにも戦火が拡大するなど国際紛争の様相を呈した。アメリカは53万人の軍 を派遣し、最新兵器を駆使したが、北ベトナム・解放民族戦線の激しい抵抗と国際的批判、国内反戦運動もあって68年、平和会議に臨まざる得ず、73年に撤退した。75年、北の猛攻により南の首都サイゴンが陥落、翌 年、北ベトナムによる南北統一がなされた。
* 『旧約聖書』に登場する人物や出来事については 44~52参照。
* イエスの垂訓 54、56~57、59参照。
国際的なテロ事件がイスラム教徒によるものであるため、この宗教そのものについても多くの誤解があるようですが、イスラム教は中東、アフリカをはじめ世界中に多くの信者をもつ世界宗教であり、テロに関わるものは一部の過激派だけです。なお、イスラム教、キリスト教、仏教を世界の三大宗教と読んでいます。アメリカでもイスラムは一大勢力で、ベトナム戦争への従軍を拒否してタイトルを剥奪されたボクシングの世界王者モハメッド=アリは有名ですし、オバマ大統領の父はケニア出身のイスラム教徒で、大統領のフルネームはバラク=フセイン=オバマ=ジュニアで、フセインというイスラム系の名が含まれています。
イスラムの開祖ムハンマドはイエス=キリストより500年以上も後に生まれた人物です。その生涯は伝承に包まれてはいるものの、彼が基礎をつくったイスラム帝国の世界史的な大きさと地位もあって、その生涯と人物像はある程度の正確性をもっています。ちなみに、キリスト教世界と対立するイメージがありますが、イスラム教では、ユダヤ教とキリスト教を系列の宗教とし、『旧約聖書』・『新約聖書』も尊重しています。また、アダム、アブラハム、ノア、モーゼ、イエスは神が使わした預言者で、最大にして最後の預言者がムハンマドであると説いています。神は唯一であり、ユダヤ教ではヤハウエ、イエスは主または父なる神とよびましたが、本当の名はアッラーだとしています。
さて、今回紹介したことばは、ムハンマドのものと伝えられていますが、出典は明らかではありません。日本でも山岳信仰がありますが、山は古今東西、聖なるものの象徴です。モーゼの十戒はシナイ山で授かり、イエスの垂訓も山上からなされました。ギリシャでも神々はオリンポス山の頂に住んでいます。その神聖なるもの、つまり神の愛や恵みが与えられないのであれば、自らがそれを求めていく、それを与えられるにふさわしく生き抜いていく。おそらく、このことばはムハンマドの精神として、伝え受け継がれたものでしょうが、イスラムの開祖にふさわしい積極果敢なものではないでしょうか。私たち自身の気構え、心意気として、また生徒たちの主体性・自主性を喚起する銘として是非、伝えておきたいと思います。
主体性・自主性とは勝手気ままな生き方のことではありません。目標に向かい、自らの力を信じて努力することです。私は、以前から「つまらない」「面白くない」という発言はやめにしましょうと言っていますが、幸福な人生、楽しい生活は自分からつくりあげるものであるということをここからも学ぶことができます。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第74号,平成23年11月28日.
* カルヴァン(1509~64) 72に同じ。
カルヴァンは古典学や法律をよく学び、その知識・見識より、宗教思想もより精度の高いものとなった。また、『聖書』のことばをもとに韻律を整え、賛美歌を作詞した。ルーも多くの賛美歌を作詞作曲したが、彼が『聖書』のことばを大胆に自由に自分のことばに直して作詞したのに対し、カルヴァンは『聖書』のままに作詞した。賛美歌はカトリックでも早くからオルガンの伴奏によって歌われていたが、当時のオルガンは楽器としては完成度が低く、カルヴァンは粗末な楽器では聖なる賛美歌にふさわしくないとして、無伴奏で歌わせた。このあたりにも、カルヴァンの敬虔な態度がうかがわれる。
* 神の愛(アガペー) 57参照。
* M=ウェーバー(1864~1920)
ドイツの社会学者。近代社会学の確立者で、近代社会が官僚制の原理により形成されていることを分析するなど、現代の政治学、経済学、法学等に大きな影響を与えた。主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、カルヴァンの職業観が近代資本主義の精神的支柱となっていることを説いた。
前回紹介したカルヴァンの予定説に関する引用文のなかに「なぜなら、すべての人は同じ状態には創造されていないからです。」という一文がありました。そうであれば、人間は平等ではないことになります。そもそも、イエス=キリストが説いた神の愛(アガペー)は、善人にも悪人にも分け隔てなく与えられる無差別平等の絶対愛でした。それなのに、神の定めにより、すべての人が同じ状態ではないとはどういうことでしょうか。ここにカルヴァン独自の救済観があります。人間は神の予定を知ることは出来ない。だから、信仰しても自分が救われるかどうかも分からない。だからといって、自暴自棄になったり、自堕落な生活をおくったりしてはいけない。救済は自分の意志や行為より与えられるのではない、神の定めだ、と諦念するのではなく、各自が救われるという定めを確信しなければならないのです。本当の意味での信仰とは、その確信なかに平安を得ることなのです。
では、私たちは何をよりどころとして、毎日を生きればよいのか。カルヴァンは各自の職業に、仕事に励むことだとします。「人間の社会生活は、神のよびびかけに応じて、それを実践する場であり、したがって、神の意志が実現され、神の栄光があらわれる場所でもある人間にとっては、この社会のなかで、神のよびかけに応じてひたすら勤勉に働くことが大切で、働くことのなかに救いがある」。職業は神が与えた召命(思し召し)で、英語ではcalling、ドイツ語ではBerufといいます。すべての人々は神に呼び出されてこの世での仕事、務めが与えられる。職業は私たちが、唯一、知りうる神の意志である。職業はすべて神が与えものであるから、それぞれに尊い。このことを職業思召命観といいます。
カルヴァンによれば、神が与えた職業は、神の栄光を実現するための場であり、職業に専念することこそが信仰の証であるとします。したがって、商人や職人の商業活動・生産活動は司祭が布教するのと同様に天職であり、労働者は勤勉に働き、商人は金を儲けるのが当然なのです。こうして、利潤の追求が肯定され勤勉・正直・倹約・節制による富の蓄積は神の保障を得ました。このことは、政治や経済の観点からも研究され、特に、M=ウェーバーが、カルヴァン派の多い西ヨーロッパ諸国で資本主義が成立したことに注目し、近代資本主義の精神が彼の職業観からきていると分析したことは有名です。
高校教育の大きな課題のひとつに、職業観・就労観の育成があります。特に本校はこの10年間、キャリア教育の充実に力を入れ、着実に成果を表しています。その目的は人間としてのあり方生き方にかかわるもので、職業の意義や勤労の尊さを学ばせることは勿論、日常道徳や職業倫理についても教えなければなりません。一見、職業とは無関係に思える宗教改革という思想史の出来事も、私たちの教育活動に大きな影響を与えていることを心にとどめておきましょう。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第73号,平成23年11月21日.
* カルヴァン(1509~64)
フランスの宗教改革者。検察官の子に生まれ、若くして古典語や法律を学んでいたが、神学と聖書研究に関心をもち、パリに遊学した。1533年、カトリックから回心してルターに共鳴してプロテスタントとなった。迫害を避けるためにスイスのバーゼルに亡命し、その後、ジュネーブで宗教改革を行なう。さらに、ジュネーブ市政全体の改革にまで着手し、キリスト教都市建設をめざした。一時期、追放されたが、ほどなく復帰して、より強い実権を握り改革を進めた。その思想は西ヨーロッパの新興市民層(ブルジョワジー)に広がり、宗教のみならず、政治的・経済的にも後世に大きな影響を与えた。主著『キリスト教綱要』など。
* 振興市民層(ブルジョワジー)
元来は、中世後期に封建領主から独立して成立してきた自治都市・自由都市に住む人々の総 称で、近代に入ると、王侯貴族と農民・都市の中小商工業者の中間に位置する富裕な商業資本家・大商人を指すようになった。特定の市の住民ではない。旧勢力に対抗しうる財力と権力をもち、フランス革命に代表される絶対王政を倒す革命(市民革命)の担い手となった。
* アウグスティヌ 68,69参照。
* パウロ 65~67参照。
70でも述べましたが、ヨーロッパの近代はルネサンスと宗教改革から始まりました。前者は宗教的権威と前近代的因習から人間性を解放することを、後者はカトリック教会の制度的権威から自己の信仰の内面化を目的とします。両者を比べると、ルネサンスが貴族・大商人・文化人などの限られた階層によるものであったのに対し、宗教改革は広く一般庶民・農民にもおよび、政治・経済・社会的要素をもっていました。その中心人物であるルターとカルヴァンを比較すると、カルヴァンの方が後世に、政治的経済的影響を与えていると思います。
上記のことばは予定説と呼ばれ、我々の運命は永遠の過去からすでに定められているという考え方です。「倫理」や「世界史」の教科書では、カルヴァンの重要用語とされていますが、この思想はアウグスティヌス、さらにはパウロにまで遡り、カトリックの神学者のなかでも、何度も議論されてきました。「私たちは、予定を、神の永遠の定めと呼びます。この定めにしたがって、神は何が各自に起きるべきかを決定します。なぜなら、すべての人は同じ状態には創造されていないからです。ある人には永遠の生命が、ある人には永遠の滅亡が予定されているからです。」(『キリスト教綱要』)
きわめて残酷な思想ともとれます。しかし、その真意は当時の教会権威、世俗権力を否定し、神の存在を絶対化することとキリストを介しての神と人間との結びつきのなかにのみ信仰の価値を認めるということにあります。また、人間としての自由とあるべき生き方は神の定めに従うことであるとの人生観を読み取ることも出来るでしょう。加えて、救われたいがために信仰するのでは不十分であって、自分の定めの如何にかかわらず、神を信じるのでなければ真の信仰とはいえないということでもあります。
教育においても、この立場を応用することが出来ます。神への信仰を自分が教師としてそこに立つ信念と置き換えてみてください。各自の信念が本当に教育の成果として実を結ぶものとなるかは、本当のところ、客観的に保障する何ものもありません。しかし、それでも私たちは立ちすくむわけにはにいかないのです。たとえ、それが結果として徒労になろうが、あるいは失敗に終わろうが、信念なくして教育は一歩も進まないのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第72号,平成23年11月14日.
* ルター(1483~1546) 70に同じ。
ルターの宗教改革の発端はレオ10世の贖宥符販売に対する抗議文を出したことによるが、実はそれ以前からの反ローマ教会の動きに連動してのことである。イギリスのウ ィクリフ、ボヘミアのヤン=フスの活動やエラスムスの著述などが代表的なもので、い ずれも世俗権力化した教会と腐敗した聖職者への批判である。
* ウィクリフ(1320?~84)
イギリスの宗教改革者。教会からのイギリスの政治的宗教的独立を唱え、教会から弾圧されたが、国王の保護の下に活動し、聖書の英語訳をつくった。
* フス(1369?~1415)
ボヘミアの宗教改革者。プラハ大学の学長。教皇・教会を批判し自説を曲げずに火刑となった。彼の信奉者たちが民族運動にまで拡大したフス戦争を起こした。
*エラスムス(1466~1536)
オランダ出身でルネサンス最大のヒューマニスト。聖書研究にすぐれ、当時の堕落した教会を批判した。宗教 改革の理論的基礎を築いたが、ルターとは一線を画した。主著『愚神礼讃』。
前号で個人主義について述べましたが、このことについて、少し補足しましょう。夏目漱石が『現代日本の開化』のなかで、明治維新以降の日本の近代化が外発的なもので、日本人には内発的開化が必要であると述べたことはよく知られていますが、漱石が近代化にあたり、日本人にとって最も必要な内発的要求は個人主義の理解でした。そもそも、宗教、政治、経済など多方面にわたる長い歴史的な経過のなかで、激しい戦争、抗争を経て、創り上げられた思想が簡単に身に付くはずはありません。特にその背景にある民主主義や資本主義がわずか40年足らずの間に一気に形成されたのですから、さすがの漱石もその難題への光明を見出すことはできませんでした。
そもそも、個人主義とは各人がそれぞれ、自分の判断と行動に自信をもってのぞむことであり、その意味でも個人主義確立への端緒が信仰心であったことは必然でした。しかし、やみくもに、根拠なくもつわけにはいきません。自分にはこれがあるんだ。自分はこれで生きているんだというよりどころがなければなりません。ルターは、個人はその信仰心により、個人となり、そのよりどころは『聖書』にあるとしました。当然といえば、当然ですが、実は当時の『聖書』は古典ギリシャ語やラテン語で書かれていて、一般庶民が読めるものではありませんでした。したがって、教会の儀式典礼や司祭の説教によらざるを得なく、ルターはそこのところをまず改革しようとしたのでした。そのために彼が行ったのが『聖書』のドイツ語訳で、これにより、誰でも『聖書』が読めるようになったのです。個人が個人として自立し、自律するためにはよって立つ何ものかが必要です。それなしに、ただ、権利だ、自由だ、個性だと叫んでは単なるエゴイズムに陥ります。漱石の苦悩はここにあったのです。
今や、日本でも、個人主義的な価値観や教育観を否定することは不可能です。であれば、どのようにして個人主義を真の意味で確立するか。私は教師主導型の教育方法の徹底と教師自身の姿勢の顕示、内容としては日本・東洋と西洋の比較思想・比較文化の学習が不可欠であると思います。勿論、長い年月がかかるかもしれませんが、教師がその気になれば、自分の生徒を変えることは以外に早くできるものです。勇気をもちましょう。
ついでながら、宗教改革者と聞けば、いかにも堅苦しい、きまじめなイメージをもちますが、ルターは過激なまでの情熱家、ユーモアとウイットにも富んだ人物で、皮肉屋でもありました。残された書簡や手紙には「恋のない人生は死せるに等しい。」「酒と女と歌を愛さぬものは一生バカのままだ。」などと綴られ、「20歳で美しくなく、30歳で強くなく、40歳で賢くなく、50歳で金持ちでない人は、もはや望みがない。」とも言っています。これなどは聞く方のこちらも頭が重い箴言でした。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第71号,平成23年11月7日.
*ルター(1483~1546)
ドイツの宗教学者。アイスレーベンの鉱夫の子に生まれ、苦学して大学に進み、法律 を学んだが、友人の死を契機に神学を志す。卒業後、修道院に入り、信仰の本質について思索を深める。その後、ウィッテンベルク大学教授となり、1517年の10月30日(の ちに宗教改革記念日となる)、当時のローマ教皇・レオ10世の贖宥符販売に対する抗議文を出し、破門にもめげず諸侯の保護のもとに宗教改革を断行し、プロテスタントを確立した。主著は『キリスト者の自由』『善行論』。
*贖宥符
十字軍への従軍を免除される寄付が始まりであったが、のちに、これを買うと本人と家族の罪が許されるという符で中世以来、教会で販売され、レオ10世がサン・ピエトロ寺院修築のための販売したことで有名になった。免罪符ともよばれている。
*プロテスタント
ルター、カルヴァンが起こした宗派をカトリックに対して呼んだもの。語源はドイツのルター派の諸侯が 国王の禁教令に抵抗(プロテスト)したことに由来する。プロテスタントは西ヨーロッパ、北ヨーロッパの新興市民層(商工業者)に広まり、経済的にも思想的にも近代を切り開いた。
*江戸時代における幕藩体制は藩主(大名)が領地と領民を支配し、独立した自治体を形成し、藩独自の通貨制度が あるなど中世の封建制度の特色をもっていた。その一方で、将軍家の権威と政治的経済的権力は西欧における絶対王政に近く、商工業も発達し、近代的特色ももっている。
歴史上、現代とは20世紀以降のことで、近代とは欧米では16世紀から19世紀まで、日本では明治時代というごく短い時代を指します。江戸時代は日本史独特の時代区分で、近世とよばれます。それは中世と近代の両方の特色が共存していたからです。では近代とはどういう時代のことをいうのでしょうか。西洋史ではルネサンスによる封建的因習からの人間性解放に始まり、市民革命と資本主義の確立を頂点とします。日本のことを考えてみれば、分かると思いますが、明治時代は江戸時代の身分制度が解体され、武士の支配が終わり、新しい政治体制が形成され、富国強兵・殖産興業のスローガンのもと、経済が発達し、現代から見れば確かに不十分でしたが、資本主義と議会政治、イギリスやドイツをモデルにした立憲君主制が成立しました。
精神史の観点からみると、人間としての尊厳、万人の自由・平等、基本的人権の尊重などが提唱されたのが近代の特色といえるでしょう。勿論、その実現にはその後現在に至るまで長い時間が必要とされるのですが、近代は人間が個人としてひとり一人、かけがえのない存在であるということを説いた時代でもありました。
さて、人間を集団の成員というよりは一個人として、その存在自体を尊重する立場を個人主義といいます。西洋の人間観は個人主義を基本とするとされていますが、ヨーロッパにおいても個人主義が登場したのは近代に入ってからであり、それはルターの信仰観に由来します。キリスト教は人間は本来的に罪をもっており、その救済は神とキリストの恵みによると説かれています。罪からの救いはどこにあるかという本質的な問いに対して、ルターは上記のことばで答えました。中世では教会のもとに信者がおり、信者は個人として神に関わるのではなく、教会を介してのみ恵みを与えられるとされていました。やがて、このような立場は教会を権威化させ、、教会の儀式・典礼に則ることが救いであるという偏向主義に陥ることになりました。それとともに、教会や聖職者は世俗化し、土地や財産の所有、ローマ教皇(法王)や大司教などの地位をめぐっての抗争や暗躍など、しだいにキリスト教本来の愛の教えからかけ離れていくことになりました。そこで、ルターが唱えたのが、上記のことばです。各人の内面の信仰だけが人間としての正しさであり、救いへの道である。集団や組織から独立して、純粋に個人として、自己と向き合い、神を信じる。個人主義の起源はここにあります。
かなり以前から個性化重視の教育が唱えられ、現在でも教育の方針とされていますが、個性とは個人の特性のことですから、まず、個人とは何かを発揮させなくてはなりません。個人が集団に対する概念として確立されたのはルターをはじめとするプロテスタントの成立です。しかも、それは信仰心のことです。私たちが個人あるいは個人主義さらには個性を論じる際には、このことを忘れてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第70号,平成23年10月31日.
* アウグスティヌス(354~430) 68に同じ。
若き日には放蕩無頼の生活をおくったが、19歳のときに、古典学者キケロを研究し、その後、善悪二元論のマニ教に傾倒するが、やがてローマに赴き、キリスト教に回心 し、洗礼を受け、修道士となり、のちに司教となった。古代キリスト教における最大の教父と崇敬される。
*マニ教 68の脚注参照。
*教父
キリスト教の正統な教義の確立につとめた古代キリスト教会の指導者のこと。キリスト教の正当性を示すために、ギリシャ哲学を応用した教父哲学を確立した。
*カント(1724~1804)
ドイツの哲学者。近代西洋哲学最大の人物と評価される。人間の理性能力を吟味し、認識論、倫理学、美学、宗教学などを包摂した体系的哲学を構築した。また、国際平和についても考察し、国際連合の必要性も説いた。主著は『純粋理性批判』、『実践理性批判』『判断力批判』、『道徳形而上学原論』、『永久平和のために』など。
*J=S=ミル(1804~73)
イギリスの哲学者、経済学者。実用性・有用性を価値におく功利主義思想を基礎としながらも、精神的充実感の大切さを説き、質的功利主義を唱えた。また、社会福祉や女性の地位向上にも尽力した。主著は『自由論』、『功利主義』など。
キリスト教の三元徳、信仰・希望・愛のなかで、アウグスティヌスは愛が最も大切であるとしました。神の愛は、太陽がすべての人に光を与えるように、善人にも悪人にも分け隔てなく、無差別平等に与えられるものです。さらに、神はその見返り、代償を求めない。私は、いろいろなところで、愛ということばがあまりに安易に使われすぎていることを述べていますが、見返り、代償を求めないことが愛の本質であることを特に強調したいと思います。そして、愛とは本来、能動的なものであり、「愛される」のではなく、「愛する」ことが愛なのです。
アウグスティヌスは、神が万人を無差別平等に愛するのは事実であるが、それは神の側からのことであり、愛を与えられる人間には、愛されるにふさわしい「愛の秩序」があるとします。それはまた、神と人間との関係においてだけでなく、人間と人間との関係においても成り立つものです。人間が神の愛に支えられているかぎり、人間にとっても愛は最も深い根源からわきあがってくる喜びです。しかし、愛すべきものと愛してはならないもの、大きな愛を与えられるのにふさわしいものとそうでないものなど、愛の対象には段階的な秩序あるとするのがアウグスティヌスの主張です。愛されることを求めるのではなく、愛されるにふさわしい、それに値するものとなることが、キリスト教における本当の愛の教えです。「愛の秩序」は愛するもの自身のための愛、他者自身のための他者への愛を経て、神への愛へと発展します。神への愛は完全な善である神のなかに自己を失うことです。自己を失うことが真の自己となるというパラドクスが信仰なのです。
近代哲学の最高峰に立つとされるカントは、「私たちは幸福を求めるのでは幸福に値する人間になること求めなければならない」と言いました。この立場はアウグスティヌスの愛の教えに起源があります。愛されることを求めるのではなく、愛されるに値する人間となる、それこそが人間としての理想的なあり方なのです。また、19世紀イギリスの哲学者J=S=ミルは、自らが説く道徳の根本はキリスト教の愛の教えであり、自分自身の幸福以外のほかの目的、他者の幸福や喜びなどに心を傾け、それ自体を理想的目的として生きている人だけが本当に幸福であると説いています。
過度の権利意識が横行し、与えられることが当然であるかのような風潮があります。誰かが自分に何かをしてくれるのをまつのではなく、自分が誰かに何かをしてあげることのなかに、そして、自分が恵まれる、与えられる、愛されるのではなく、自分が恵み、与え、愛することのなかに、真の幸福と喜びがあるということを教えなければなりません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第69号,平成23年10月25日.
* アウグスティヌス(354~430)
古代キリスト教の教父、神学者。アフリカ北部の地中海沿岸の小都市タガステに生 まれる。異教徒の父とキリスト教の母をもち、若き日には放蕩無頼の生活をおくった が、ローマ古典やマニ教などを学び、32歳のときキリスト教に回心した。恩寵、カリ タス、三位一体説などキリスト教の正統教義の確立者で、ローマカトリックにおけ 最も重要な人物である。主著『告白』神の国』など。
*マニ教
古代ペルシャのゾロアスター教を母胎としてマニ(215~276)が説いた宗教。善なる光の世界と悪なる暗黒の世界の二元論が説かれる。
*恩寵とカリタス
恩寵とは救いに値しない人にも与えられる神の恵み、無償の愛のことで、アウグスティヌスは原罪から人間 を救うのは神の恩寵以外にないとした。カリタスはアガペーのラテン語で、神の愛、隣人愛のことである。ちなみに、隣人愛に基づく慈善事業をチャリティという。
*三位一体説
神は唯一の存在であるが、父・子・聖霊という3つの位格(ペルソナ)をもち、父なる神は、子なるキリストとなってこの世にあらわれ、聖霊として愛を啓示するという教義。325年のニケーア宗教会議で正統な教義となり、アウグスティヌスの『三位一体論』により明確に定義された。
キリスト教はペテロやパウロをはじめとする使徒たちの伝道により、ローマ帝国からの迫害なかでも、急速に信者を増やしていきました。1人を殺せば、2人が信者になるという「信仰」の奇跡に、帝国も体制を維持するためについに、4世紀初頭にはキリスト教を公認し、4世紀末にはローマの国教とするに至ります。そうなると今度はキリスト教の側も国教にふさわしいあり方が必要となります。教会体制や組織構造の強化ばかりでなく、教義そのものを他の宗教や思想より優れたものとする必要が生じてきました。こうして、多くの宗教会議が開かれ、さまざまなの教説のなかから、正統とされる教義が確立されます。それが「カトリック」で元来は普遍的なものという意味です。
「ローマ・カトリック教会」とは教義として正統であるローマ教会という意味で、ペテロを初代教皇(法王)として、西ヨーロッパ最大というより世界最大の宗教として、現代に至るまで君臨しています。15世紀末に日本にザビエルが伝えたキリスト教もこのローマ・カトリックです。
そのカトリック確立の最大の功労者がアウグスティヌスでした。彼は『新約聖書』の『コリント人への第一の手紙』(第67号参照)にあるパウロのことばから、人間が身に付けるべき徳を「信仰」「希望」「愛」であるとして、それらを三元徳とよびました。ヨーロッパではギリシャ哲学でで唱えられた「知恵」「勇気」「節制」「正義」の四元徳(平成22年度第31号参照)が伝統的な徳とされてきましたが、これらが自己の内面に係わる自律的な徳であるのに対し、三元徳は神に支えられ、他者と理想的な未来に向かって実現される向上的・献身的徳であるといえましょう。
「心の教育」「人間としてのあり方生き方教育」が問われてしばらくの歳月が流れ、近年は端的に「道徳教育」が提唱されています。具体的に何を生徒に身に付けさせるかというと、様々な事項があげられますが、私は「勇気」「節制」「正義」「希望」「愛」などがきわめて分かりやすいものだと思います。古今東西の偉人賢人の生き方やことばのなかに日常生活や未来に向けての教育の指針を見いだすことが出来るのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第68号,平成23年10月17日.
* パウロ(?BC~64?AD) 65に同じ。
パウロは自らを“異邦人の使徒”と称し、小アジア、マケドニア、ギリシャをはじめ、ユダヤを離れて、ローマ帝国領内の各地を広く伝道した。スペインにまで赴いたという説もあるが、これには信憑性がない。パウロの出自の詳細は不明であるが、職人階級の出身で、生まれたときからローマ市民権をもっていたと伝えられている。
『新約聖書』には「パウロ書簡」とよばれているものが数多くあります。『ローマ人への手紙』、『コリント人への第一の手紙』、『コリント人への第二の手紙』、『ガラテヤ人への手紙』などが有名で、他にもパウロの書あるいはパウロの書とされるものを合わせると10書以上におよび、『パウロの黙示録』や『パウロ行伝』などの外典もあります。パウロなくしてキリスト教なし。ユダヤという狭い地域を越えての各地への伝道は民族宗教としてのユダヤ教を離れ、世界宗教としてのキリスト教をつくりあげました。そして、人間は本来的に罪を犯さざるを得ない弱く惨めな存在であるという人間観と、その罪はイエス=キリストによってのみ救われるという贖罪観はオリエントやギリシャ・ローマなどの宗教にはない教義を形成しました。
キリスト教は、一般に“愛の宗教”とよばれています。イエスの生涯と言行を伝えた『福音書』にも、勿論、愛の教えは記されていますが、神の本質が絶対愛であること、愛が人間として最も大切なものであることを協調したのはパウロです。その意味でも、キリスト教の事実上の創始者はパウロだと言えます。キリスト教は当初、ペテロやヤコブら生前のイエスと生活を共にした弟子たちが、イエスが十字架で死んだことを知っている人々を前に説いた教えでした。しかし、人間の生命にはかぎりがあり、弟子たちや、イエスと時代をともにした人々がこの世を去ると、イエスの存在も言行もやがては伝説となります。おそらくはユダヤ教の預言者あるいは教師の一人として、聖書の一書に『イエス書』などと残されたにすぎないかも知れません。パウロはイエスの存在と教えを、イエスを知らない人たちさらには未来永劫の全人類へ伝えるものとして、彼の教えの本質を愛と規定したのではないでしょうか。
今回紹介したことばは『新約聖書』の『コリント人への第一の手紙』の一句で、この前に次のような一節が記されています。「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。「すべてを信じる」とは、すべての人と出来事が神とキリストの愛の賜ものだと信じること、「すべてを望む」とは、その愛を信じてすべての人に救いがもたらされるのを望むこと、「すべてを耐える」とは、いかなる不運や不幸もすべては神とキリストの愛によるものと自己の運命を受け入れることです。
言うまでもなく、教育には愛が不可欠です。あらゆる教化も指導も愛があってこそ、教育です。パウロの述べる愛は教育の諸分野においても親や教師のあり方としても大切な心得です。「寛容」、「情け深さ」、「ねたまない」、「高ぶらない」、「誇らない」「不作法でない」、「自己の利益を求めない」、「いらだたない」、「恨まない」、「不義でない」、「真理を尊ぶ」。これらはすべて、教育に欠かせない心のあり方です。人間としてのあり方です。愛さえあれば、親による虐待やネグレクトも、教師の不祥事も起こりません。「愛がすべて」という語は現在、あまりに気軽に用いられていますが、蓋し、至言です。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第67号, 平成23年10月11日.
* パウロ(?BC~64?AD) 65に同じ。
パウロ(パウロス)はギリシャ語で、ユダヤ語ではサウロ。『新約聖書』の『使徒行伝(使徒言行録)』にはサウロという名も出ており、また、彼自身はパウロとも自称しているので、ギリシャ名とユダヤ名の両方をもっていたと思われる。出身は古代ローマの属州キリキアのタルソス(現在のトルコ中南部)であり、郷里はいわゆるユダヤ(カナン、現在のイスラエル)ではない。
*アガペー ~『マタイによる福音書』第5章~
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の異なるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれるからである。」
前回記したパウロの“回心”は『新約聖書』の『使徒行伝』に記されています。「なぜ、私を迫害するのか」という復活したイエスの声を聞いたパウロはその後、しばらく眼が見えなくなりました。そのとき、アナニアという名のイエスの信者が、パウロのために祈ると、パウロの眼から鱗のようなものが落ち、彼の眼は見えるようになったそうです。「眼から鱗が落ちる」とは真実を知った、本当のことが分かったという意味の格言ですが、これはパウロの回心のエピソードに由来しています。
今回紹介することばは『新約聖書』の『ガラテア人への手紙』の一句で、ガラテアとは古代アナトリア(現トルコ中部)にある地域、それには次のように記されています。「あなたがたは皆、イエス=キリストにある信仰において、神の子なのである。…もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、イエス=キリストにあって一つだからである」。
平等主義の思想の起源はいくつかありますが、西洋では大きく分けると二つの流れがあります。一つは古代ギリシャ哲学における理性主義で、すべての人は理性をもつことにおいて平等であり、世界の秩序を保っているのは理性であり、人間にも本来的に理性が備わっており、理性をもつかぎり、国家や民族に関わらず、皆平等であるという立場です。詳しくは、41(平成22年3月7日)を参照してください。もう一つはキリスト教における神の下の平等であり、『マタイによる福音書』の“山上の垂訓”にある、神はすべての人間を善人悪人の別なく等しく愛するというアガペーの教えからくるものです。これについては57を参照してください。パウロはイエスのこの教えから出発し、イエスを信じることにより、すべてに人は神に救われ、イエス=キリストの存在により万人は平等であるとしたのです。ユダヤ教ではユダヤ人は神に選ばれた特別な民族で、本来、平等思想はありません。「ユダヤ人もギリシャ人もなく」は、民族宗教であるユダヤ教から世界宗教であるキリスト教が生まれたことを端的に表すことばです。また、「奴隷も自由人もなく、男も女もない」は倫理学的な意味でも平等主義の始まりです。
ギリシャ哲学の理性主義とキリスト教の救済観が両輪となって、西洋近代では「神の下の平等」が「法の下の平等」となり、その法は理性に基づくとして、平等主義は開花しました。現代では「平等」は当たり前のように通用しています。なかには平等主義をはき違え、形式化・形骸化したものが幅をきかせ、過度の平等意識がかえって不平等に陥る例もあります。言うまでもなく、学校教育は平等が原則です。それは人間の尊厳、あるべき理想の実現を目指す上での平等であって、決して、量的物質的な均一・均等のことではありません。パウロの平等主義も愛と義に裏付けれたものであるのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第66号,平成23年10月3日.
* パウロ(?BC~64?AD) 前回に同じ。
原始キリスト教の神学者・伝道師。ローマ市民権をもつユダヤ人で、原罪論、贖罪論、三元徳をはじめ、後生のキリスト教教義の基礎を確立した。キリスト教の事実上の創始者も言える。伝道の途上で、ローマ政府により処刑される。
*三元徳
パウロが唱えたキリスト教が最も重んじている人間としてのあるべきあり方で、信仰、希望、愛のこと。アウグスティヌスが強調したことでも知られている。倫理学では、ギリシャ哲学の四元徳(知恵・勇気・節制・正義)と対比される。
*原罪
キリスト教の人間観の根底にあるもので、人間は悪をなさざるを得ないもので、神に背くものであるとしている。これは『創世記』におけるアダムとエバの堕罪からはじまるもので、人間の力では克服できない根源的な罪である。
パウロは英語名でポール。立教大学の“セント・ポール”は彼のことです。パウロはユダヤ教主流派の律法学者の出身で、イエスが生きていたころは、敵対するグループにおり、イエスの十字架刑後は弟子たちを迫害していました。そのパウロがキリスト教徒になるきっかけは、伝承によると、現在のシリアのダマスカスに行く途中、死んだはずのイエスの「なぜ、私を迫害するのか」という声を聞いたことだとされています。以後、パウロはイエスの復活と福音を信ずるものとなりました。パウロのこの体験以後、それまで信じていた宗教から別の宗教へと転じることを回心と言います。
古来から、パウロの回心については、イエスの声が聞こえたのは彼の幻聴であるとか、夢の中のことであるかなどと言われることもありましたが、それは大きな問題ではありません。大切なことは、回心の後、パウロが昔の仲間からは裏切り者呼ばわりされ、イエスの弟子からはスパイと疑われ、ローマ官憲からは反逆者とされながら、イエスの教えをイスラエルを越えて、ローマや小アジア、エジプトに至るまで広め続けた事実をどのように受けとめるかということです。伝道の距離は地球を3周するとも言われています。しかも、その大部分は歩いての旅でした。これほどにひとりの人間を転身させた“何か”に、私たちは真摯に向き合う必要があるのです。
さて、紹介したことばは『新約聖書』の『ローマ人への手紙』にある一文です。「私は自分がしていることがわからない。なぜなら、私は自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。…このことをしているのは、もはや、私ではなく、私の内に宿っている罪である」。ここからパウロはキリスト教の根本的な人間観としての原罪を説きます。原罪とは人間のもつ根源的な罪、人間である限り誰もがもっている心の弱さのことです。うそをついてはならないことは知っている。でもついてしまう。人を裏切ってはならない。だが、裏切ることもある。人に優しくしなければならないことは分かっている。でも我が身の方がかわいい。それが人間という存在なのです。原罪をもつ人間のどうにもならない悲しい真実だとパウロは言うのです。
自分は悪い人間である。弱く、意気地がなく、卑怯で、惨めな人間である。しかし、私は以前から言っておりますが、自分の悪さ、弱さ、醜さを自覚できる人こそ、本当は強い人、善い人、正しいではないでしょうか。これもまた、以前から述べていますが、教育の出発点はここにあります。まず、自分の悪いところ、弱いところを素直に認識する。そのうえで、改めるべきところを改める。それをなしうるから、進歩する。
言うまでもなく、私たち教師も全能ではありません。それどころか、生徒に嫌われてはいないか、保護者から頼りにされていないのではないか、同僚からバカにされてはいないか、そんな弱さや惨めさは多かれ少なかれ、すべての教師が経験したはずです。私はそれが当然だと思いますし、それでよいとすら感じています。教えるものも、教えを受けるものも勇気をもって、自分の悪さ、弱さを知る。そこから、教育がはじまります。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第65号,平成23年9月26日.
*『ヨハネによる福音書』
イエスの生涯と言行を記した4福音書の最後にある書。『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』 が内容が似ているため、共観福音書とよればているが、『ヨハネ』は内容、表現ともにことなり、4福音書の最後に書かれたとされている。ローマ・カトリックでは、伝統的 にヨハネはイエスの直弟子である使徒ヨハネとしていたが、近年の研究では、作者は別人で、イエスを主人公としながらも独自の宗教思想をもった人物との説が有力である。
*ことのは
平安時代の歌人紀貫之(?~945)が著した『古今集』「仮名序」の冒頭には「それ、やまとうたは人の心を種として、万の ことのはとぞ、なれりける」と記されている。
*『ダ・ヴィンチ・コード』
作者はダン=ブラウン(1964~)、2003年刊行。宗教象徴学者ラングトン教授を主人公に、『モナリザ』や『最後の晩餐』などのレオナルドの作品の謎を実在するテンプル騎士団やシオン修道会の活動を推理の糸に用いたサスペンス小説。アメリカ映画の同名の作品の原作。映画は2006年に年製作、監督はR=ハワード、主演はトム=ハンクス。イエスを冒涜するとして、ローマ教会が上映ボイコットを呼びかけるなど話題をよんだ。
『ヨハネによる福音書』の作者は“イエスが愛しておられた弟子”ヨハネであると伝えられていきました。そのヨハネはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にでは女性的な容姿に描かれたイエスに寄り添う弟子です。映画でもヒットした。サスペンス小説『ダヴィンチ・コード』では、その人物はマグダラのマリアであり、彼女はイエスの恋人で二人の間には子どもまでいたと描がかれていました。
『ヨハネ』は他の福音書よりもイエスのことばが多く記され、さらにイエスが神の子であることが強調されています。つまり、人間イエスというよりもキリスト(救い主)であるイエスを描き、後の三位一体説や贖罪論に通じる神学が論じられています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった」。『ヨハネ』の冒頭の有名な一節であり、哲学的には観念論を示す表現と言われています。観念論とは世界と存在のはじまりは精神であり、精神こそがあらゆるものの本質であるとする立場です。ギリシャ語で書かれた『ヨハネ』にある言とはロゴスつまり理性のことであり、これによる神は言であり精神であり理性であるということで、『旧約聖書』に登場した、人間を愛し、憎み、裁き、守り、語りかける神ではなく、イエスが説く父なる神でもありません。眼に見えない精神ならば、何ものにも姿を変え、かつ乗り移ることもでき、神は我が子をキリストとして地上におくることも、キリストがナザレの大工の子イエスになることも可能なのです。
さて、「初めに言があった」というこの一文はキリスト教文化だけでなく、西洋的な思考を端的に表すものとされています。日本では、ことばは“ことのは”つまりことがらの端、一部分という意味で、元来、ことばを感情や思考内容、事物や概念のすべてを表すものとはしていません。ことばは不完全であり、自然界の事象、事物にも人間の心や営みにもことばに表せない深い意味や真理があるとしているのです。西洋では、言は神であるから、ことばはすべてを表せます。ことばを正確に用いて、自分の意思をはっきり伝えるという生活態度もここから来ているようです。また、ことばや理性は神の本性ですから、会話が巧みで演説が上手いことは指導者としての資質ですし、理性的であることが人間としてのあるべき生き方としても求められます。
近年、学校教育においては、言語活動の充実が提唱されています。国語や英語だけでなく、数学や理科などすべての教科科目における言語活動の推進を特色とし、思考力や表現力と人間関係を形成する基礎的な力を育てるためには大切なことです。さらに、私たちは、これを機にことばそのものや日本における言語の特色についても考えてみましょう。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第64号,平成23年9月20日.
* ペテロ(?BC~64?AD) 62に同じ。
『ルカによる福音書』によれば、群衆に教えを説くために湖を渡らなければならなかったイエスが使った舟の持ち主がペテロで、それが二人の最初の出会いであるとされている。『新約聖書』には、ペテロはイエスの死後、エルサレムで弟子たちのリーダーとして活躍し、イエスの名において、奇跡的治癒(医療行為)を行ったと記されている。また、ペテロには妻や娘がいたようであり、晩年は妻とともに各地を伝道したと伝えられている。
*シェンキェヴィッチ(1846~1916)
ポーランドの小説家。帝政ロシア占領下の小貴族の家に生まれ、ポーランドの独立を生涯の願いとした。『クォ・ヴァディス』も当時のポーランドをユダヤに見立て、同胞を励ますために書かれた。この小説は何度か映画化され、特に1951年、マーヴィン=ルロイ監督、ロバート=テイラー、デボラ=カー主演の作品は名作の誉れ高い。
『福音書』をはじめ、『新約聖書』にはイエスの筆頭弟子としてのペテロの姿が描かれています。イエスの最期にあたり、3度も師を知らないと言ったペテロはイエスの死後、逞しく生まれ変わり、教団のリーダーとして活躍します。晩年も各地を伝道したと記されていますが、詳細は分かっていません。その彼を主人公としたのが、外典である『ペテロ行伝』です。
ユダヤ教の主流派との抗争、ローマ官憲からの弾圧に真っ向から対峙して一歩も退かないペテロは意を決してローマ帝国領内への伝道を試みました。次第に信者を拡大していったキリスト教ですが、当時のローマ皇帝は歴史上悪名高き暴君ネロで、自らの命令で放火した「ローマの大火」をキリスト教との仕業として断罪するなど、迫害の限りをつくしていました。ペテロはローマにいる信者を守るために来たのですが、想像をはるかに超える惨状にたまらず逃げ出してします。早朝の街道をエルサレムに向かって歩いていると、エルサレムの方からローマを目指して来る人がいます。どこかで見覚えのある人だといぶかしく思いながら、すれちっがったそのとき、ペテロはその人がイエスであることに気付きました。復活したイエスです。
「主よ、いずこに行き給う」。ペテロは問います。「お前が捨てたローマに」。イエスは答えました。お前が迫害を怖れて逃げ出し、多くの信者を見捨てるならば私が行くしかあるまい。そしてまた十字架に架かろうではないか。ペテロはまだ弱かった。イエスのことばに気を取り戻した彼は一緒にローマに向かいます。懐かしいイエスとの再会でした。ローマに着いてイエスに語りかけたペテロでしたが、そのときイエスの姿はありません。ペテロの幻だったのかも知れません。しかし、自分が苦しいとき、くじけそうになったとき、イエスが側にいて励ましてくれる。誤った道を正してくれる。それを確信したペテロは勇気をもって布教し、ついには捕らえられ、十字架刑に処せられます。ペテロは、十字架は「イエス=キリストの十字架」だとして、自分には畏れ多いと逆さ十字架で死にました。そして、彼の処刑の地にサン・ピエトロ寺院が建てられたされています。ちなみに、ノーベル賞作家シェンキェビッチはこの伝承をモチーフとしてネロ帝政下のローマを舞台にキリスト教と娘とローマの軍人との恋を描いた『クォ・ヴァディス』という歴史小説を書いています。
キリスト教が最も重要としているのはイエスの復活です。復活したイエスに出会ったあとのペテロの変貌は復活の意味の大きさを端的に示しています。イエスが生きているときには弱くだらしなかった人が、イエスの死と復活の信仰によって、強く堂々とした人物に成長したということに意義を見い出すのです。
この人のことを思い出せば、弱い自分が強くなれる、情けない自分が逞しくなれる、過ちを犯さないですませられる、自分のよいところが出せるようになる。それが信頼される人、尊敬される人なのです。イエス=キリストに並ぶべくもありませんが、あの先生のことを思い出せば、自分は大丈夫だ、そんな思いを抱かせる教師になりたいものです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第63号,平成23年9月12日.
* ペテロ(?BC~64?AD)
原始キリスト教の神学者・伝道師。イエス=キリストの直弟子。もとはガリラヤの漁 師であったとされる。本名はシモンで、しばしば、シモン=ペテロとも呼ばれる。ペテロはイエスがつけたニックネームで、岩のように強くたくましいという意味である。イエスの死後、エルサレムに教会をつくり、キリスト教の基礎をつくった。ローマ官憲により逆さ十字架で処刑された。ローマ・カトリック教会では彼を初代ローマ教皇(法王)としている。
*遠藤周作(1923~1996)
昭和を代表する小説家、評論家。キリスト教の日本での土着化を小説家としての使命と規定し、日本人の精神的土壌として矛盾なく信仰されうるキリスト教を論じた。その一方で、ユーモアとウィットに溢れる人柄で、テレビなどでも活躍した。芥川賞受賞。代表作は『白い人』、『沈黙』、『死海のほとり』、『イエスの生涯』など。
ペテロは英語名でピーター、ラテン語でピエトロ。ローマ=カトリックの総本山・ヴァチカン市の「セント・ピーターズ寺院(サン・ピエトロ寺院)は彼の名からつけられた者です。とペテロはイエスの筆頭弟子ともいうべき人物で、イエスも彼を頼りにし、教会を建てることを命じたほどでした。生来豪快で強靱、イエスのためなら生命を捨てる覚悟もありました。しかし、イエスは最後の晩餐のとき、ユダの裏切りを予言したあと、弟子たちの全員が自分を裏切り、逃げ回ると言いました。憮然とするペテロに対しイエスは言います。「お前も裏切る。明日の夜明け前にお前は3度私を知らならないと言う」。
やがてイエスはユダの先導でユダヤ教主流派が遣わした兵士たちに捕らえられました。イエスを気遣い、ペテロは大司祭カヤパの屋敷の庭に忍び込みますが。様子をうかがっているペテロをカヤパの女中が見つけ、正体を知られそうになります。「あなたはイエスと一緒にいた人だ」「私はそんな人は知らない」「いや、あなたはイエスの仲間だ」「私はあなたが何を言っているのか分からない」「あなたはイエスの弟子だ」。問いつめられたペテロは叫びます。「私はイエスという人になんか会ったこともない」。そのとき、鶏が鳴き、夜が明けました。ペテロはイエスのことばを思い出し、地に伏して激しく泣きました。 ここにイエスの教えの厳しさがあります。ペテロは自信満々でイエスを守り抜くことができると思っていました。しかし、イエスはペテロの慢心を厳しく指摘し、真実を示します。これを裁きだの叱責だのと捉えてはとんでもない間違いです。ペテロがイエスに代わり、弟子たちをまとめ、信者を導くには、自分の弱さと醜さを知る必要があったのです。この出来事があったからこそ、ペテロはのちに聖者として信仰の対象にすらなるのです。遠藤周作は『聖書のなかの女性たち』のなかで、ペテロに躓きを与えた名もなき女中をとりあげていますが、さすがの慧眼です。そして、キリスト教の畏怖すべきは、初代法王ペテロの弱さを伝えていることです。普通ならば、偉人伝として都合の悪いことは省くのですが、そうしないところにキリスト教の凄みと真骨頂があります。この厳しさと謙虚さと真実を見つめる姿勢こそ「父性原理」で これなくして真の成長も進歩もありえません。
私は今年度、ユダヤ教やキリスト教を題材とするにあたり、教育の現場でもしばらく前から取り上げられてきた「父性原理」について記述していました。もともと、教育心理学でいう「父性原理」と「母性原理」は宗教学のことばです。ユダヤ教やイスラム教に代表される遊牧系の宗教が前者で「切る」「裁く」「義」を、日本神道や大乗仏教などの農耕系の宗教が後者で「包む」「許す」「愛」を特色とします。キリスト教は「義」と「愛」を教えの両輪とし、教育の指針として見てもバランスのとれたものだと私は思います。その「愛」とは「甘さ」や「容認」ではありません。これらは最も非教育的な概念です。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第62号,平成23年9月5日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 54に同じ。
『ルカによる福音書』にはイエスの誕生以前のことや少年時代のエピソードなど、他の福音書に記されていない記述があるが、“エマオの奇跡”とよばれる弟子たちとの遭遇やエルサレムでの11人の直弟子との食事、弟子たちを前にしての昇天など、復活後についても詳しく記されている。
*民衆の動きで疑問が残るのは、あれほど圧倒的に民衆の支持があったイエスがなぜ彼らにより「十字架にかけよ」と叫ばれたのかである。様々な解釈があり、日本を代表するキリスト教作家の遠藤周作は『イエスの生涯』のなかで、現実において無力なイエスに失望した民衆の反動であるとしている。また、イエスの裁判での民衆はユダヤ教 主流派が集めた人々であるとの説もある。留意すべきはイエスはガリラヤを中心とした地域基盤をもっていた宗教家で、そもそもが反主流派であり、イエスにとってエルサレムは敵地であったということである。
*盗賊
『福音書』にはしばしば、盗賊という語が登場するが、これは泥棒ではない。むしろ反ローマの運動家のような存在で、その行動の一つに略奪をしたと見る方が適当である。イエスとともに処刑された二人の盗賊もローマの政 治犯に用いられる十字架刑をかせられたのであるから、ただの盗賊ではなかったはずである。
捕らえられたイエスはユダヤ教大司祭カヤパから、ローマのユダヤ総督ピラトのもとに送られました。イエスの罪状は自分をユダヤの王としたことで、メシアとはもともと、“ユダヤの王”という意味ですから、それが地上における現実の王であれば、ローマへの反逆罪となります。しかし、あまりにも無抵抗で、司祭たちの告発にすら無言で通すイエスに、ピラトは罪を認めず、赦そうと思いました。しかし、民衆はイエスを十字架にかけることを強く求め、暴動を恐れたピラトはイエスの処刑を決定します。ちなみに、十字架刑はローマの政治犯に用いられる処刑方法でした。
拷問により衰弱しきったイエスは炎天下のなか十字架を背負い、何度も倒れながら、ゴルゴタの丘とよばれる刑場に向かいました。路上にはイエスを罵倒し、物を投げつけた人々もいたと福音書には記されています。イエスは二人の盗賊とともに十字架にかけられました。そのうちの一人はイエスをなじり、もう一人はその男をたしなめ、イエスに救いを求めました。その彼にイエスは「あなたは明日の朝、私とともに神の国にいるだろう」と答えています。急に雷鳴がとどろき、雨が降って、あたりが暗くなりました。そして、イエスの最後のときがきます。
紹介したことばは『ルカによる福音書』にあるイエスのことばです。他の福音書にはなく、『ルカ』にのみ記されているため、後世の創作ではないかとされていますが、このことばこそ、救い主キリストたるイエスを的確に示しています。キリスト教の愛はアガペーとよばれ、これは万人への、さらには自分に敵対するもの、自分を憎むものにさえ与える絶対愛ですが、イエスは今自分を殺そうとするものにも、救いのとりなしをしているのです。第44号から第52号にかけて、私はユダヤ教の神を題材に「義」、「厳しさ」、「厳かさ」、「父性原理」などを論じてきましたが、イエスのその神の本質を「愛」であるとし、その「愛」を信じて、自らも万人を、見返りを求めずに愛することを説いたのです。
教育においても愛が唱えられることがしばしばあります。しかし、このことばはあまりにも多様にとらえられ、そのため収拾がつかなくなり、実態のない空虚なものになっていまいがちです。特に学校教育において、「愛」を根幹におくには、教師の人格・力量において相当高いレベルが求められます。私は安易にこのことばを教育にもちこむべきではないと思っています。そもそも、「愛」とは楽しいものでも、心地よいものでもありません。イエスでさえ、様々な試練と葛藤、文字通り、生死の狭間のなかで到達した境地であることを忘れてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第61号,平成23年8月29日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 54に同じ。
『マタイ』、『マルコ』に続いて、『ルカによる福音書』は他の福音書に記されていないイエスに関する記述がある。パプテスマのヨハネの母エリザベツ、彼女の出産、ヨハネの誕生、エリザベツとマリアが親族であったこと、天使のマリアへのお告げ、イエスの誕生などがさながら賛美歌のように綴られ、イエスが12歳のとき、エルサレ ムの神殿で、教師たちと議論したことが記されている。
イエスが平凡な宗教家であったならば、ユダヤ教の主流派もローマ官憲も、彼の存在を気にすることはなかったのですが、イエスは律法についても深い知識をもち、議論も巧みで、民衆を惹き付ける力もある。彼の周囲に次第に不穏な動きが起こるようになりました。それを察知したイエスの言動はあるときは激しく、あるときは苦渋に満ちて、自分の運命を予期したものになります。それを悟られまいとするためか、喩え話が多くなり、説教は難解をきわめます。そして、ついに自分が捕らえられ十字架にかけられることを弟子たちに語りました。イエス処刑の2日前のことです。
逮捕の当日、イエスは知人の家で弟子たちと最後の晩餐をとり、「この中に私を裏切る者がいる」と言いました。弟子たちはどよめき、「先生、まさか私ではないではないでしょうね」と口々に叫びます。弟子のひとりにイスカリオテのユダという男がいました。商人の出身で、教団の会計を任せられていたようで、かなり信頼のある人物だったと思われます。彼は「先生、私ではないですね。」と問い、イエスは「いや、あなただ。早く行って、自分のなすべきことをしなさい。」と答えます。ユダはその場を去り、ユダヤ教主流派のもとに駆け込み、銀貨30枚でイエスのもとに兵士を導く約束をしました。
ほどなく、イエスはゲッセマネという園で、最後の祈りを行います。そして、ユダが兵士を連れてやってきます。「主よ、安かれ」。ユダはイエスの頬に口づけしました。「友よ、何を死に来たのか。」とイエスは答えます。そのとき、兵士たちがイエス一行を取り囲みました。力に自信のある筆頭弟子のペテロは剣を抜いて、彼らと戦います。「ペテロよ、剣を納めなさい。剣をもつ者は皆、剣で滅びる」。イエスはペテロをこう諫めました。
「剣をもつ者は皆、剣で滅びる」。イエスのことばのなかでそれほど有名ではありませんが、これこそ、イエス=キリストの真髄を示す名言中の名言です。武力をもって覇権を取った者は、武力によりそれを奪われ、奸策により地位を得た者は奸策によりその場を追われます。これは歴史上、何度も繰り返された事実。そして、今後も起こりうることです。イエスのことばは、自らが、イスラエル人が求めていた地上の王ではなく、内面の救世主であることを表したものでした。
私たちの日常生活においてもこのことばのもつ意味は大きい。相手と同じ手段・手法を用いたならば、負の連鎖は限りなく続くのです。負の連鎖を絶つことは、人間としてのあり方生き方に係わる教育の使命のひとつでもあります。自分もされたのだから仕返しをしただけだ、やられたからやり返しただけだ、自分だって被害者だ。生徒の非行事故にかかわって、しばしば、遭遇する事態です。生徒や保護者の言い分も分からないではありませんが、真の正しさとは、自分の判断と行為にいささかの後ろめたさも悔いも迷いもないことです。一点の曇りもない生き方はそうそうできることではありません。しかし、判断や行為に「相手が~だからしかたがなかった」「悪いのは自分だけではない」という言い訳があれば、いつか必ず、自分もまた同じ過ちをすることになります。理想の生き方を示し続けることが大切なことであるのは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第60号,平成23年8月22日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 54に同じ。
イエスの生涯は、一般には『マタイによる福音書』を基本としているが、これに続く『マルコによる福音書』には、イエスの誕生について何も記されていない。『マルコ』が最も古い『福音書』とされており、現在残されているものの典拠となったと推定される『原マルコ』には、キリスト教の最も重要なイエスの「復活」についても記されておらず、十字架で死んだイエスの墓から、遺体がなくなっていたという不気味な記述で終わっている。
*動機説
ドイツの哲学者カント(1724~1804)の道徳哲学で説かれるもの。カントは道徳は行為の内容や結果 ではなく、動機の純粋性(善さ)の基づくとした。「何を 行う」かではなく、「いかに行うか」、「なぜ行うか」が重要であり、結果として道徳に適った行いをすることをは真の意味での道徳的行いではなく、行うべき(義務)であるから行うのが正しいあり方であるとした。
今回紹介することばは、57でもとりあげた『マタイによる福音書』第5章の「山上の垂訓」とよばれる教説の一文です。私は、これが法律や制度とは完全に異なる宗教の本質を示したものだと思っています。法律や制度における刑罰は、行為の事実やその有無を原則とします。「行ったこと」と「行おうとしたこと」とではまったく異なります。例えば、「殺人」と「殺人未遂」、「窃盗」と「窃盗未遂」とでは刑罰の性質が明らかに異なります。また、状況によりますが、「主犯」と「共犯」も軽重に大きな差があります。しかし、イエスは「殺そうと思ったこと」は「殺したこと」と同じように罪深い、と言うのです。上記のことばにある「兄弟」とは友人・仲間・同胞のこと。本来、自分を支え、助けてくれるはずの「兄弟」には、怒りをもつことさえ許されない罪であると説きます。キリスト教学ではこのことを「律法の内面化」とよび、倫理学や哲学では、「内罰主義」とか「動機説」などと表現し、行為そのものよりも行為にあたる心のあり方に重視する立場であるとします。宗教の本質のひとつは、このように法律や制度とは別の次元での価値判断をするところにあります。そして、これは今盛んに唱えられている「心の教育」のありかたのひとつでもあるのです。
近年の教育用語のひとつにある「心の教育」は一般には、他者への思いやりや奉仕の精神として理解され、具体的な実践にはボランティア活動などがあげられています。それはそれで大切なことののですが、善悪について深く考え、謙虚に向き合い、自己を省みて、厳しく律することこそ、「心の教育」に欠かせないものです。「天知る、地知る、人知る、我知る」ということばがありますが、自分の心を偽れないのは自分自身であることを生徒たちに教えましょう。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第59号,平成23年7月25日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 54に同じ。
イエスの最初の伝道で特徴的なことは、行く先々で奇跡を行っていることである。足の不自由な人が歩けるようになった、中風が治った、目の見えない人が見えるようになったなどの医療に係わるものである。当時の宗教家にしばしば見られるが、イエスにも医師としてのイエスの側面が見られる。
キリスト教の『新約聖書』のなかで、イエス=キリストの生涯と言行を記したものを『福音書』といい、記述者とされる人の名をとって、『マタイによる福音書』などとよばれています。一番早く出来たものでも、イエスの死後、60年以上後の作であるとされ、マタイの他に、『マルコ』、『ルカ』、『ヨハネ』があり、『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』は内容が似ていることから共観福音書と言われています。『ヨハネ』はそれらとは内容が異なり、イエスの生涯を記しながらも他の福音書に比べて神学書の色合いが強くなっています。今週のことばはその『ヨハネによる福音書』の第8章の冒頭の物語からのものです。
イエスが民衆に教えを説いていたある時、敵対するユダヤ教の律法学者が一人の女を連れてやって来ました。「先生、この女は姦淫の場で捕らえられました。モーセは律法でこのような女は石で打ち殺せと言っていますがどうなさいますか。」イエスへの挑戦でした。もし許せと言えばユダヤの律法を無視する反逆者となるし、石で打ち殺せと言えば、他の指導者とかわらず、庶民の味方のイエスではなくなります。さすがのイエスも考え込んで地面に何かを書き始めました。律法学者はここぞとばかり問いつめます。するとイエスは立ち上がって、「あなたたちのなかで、いままで一度も罪を犯したことのない人がこの女を石で打ちなさい。」と静かにいいました。しばらくして、一人の老人がその場を去り、一人ずついなくなって、女とイエスだけが残りました。「皆はどこへ行った。あなたを罰するものはいないのか。」「主よ、誰もおりません。」「私もあなたを罰しない。二度と罪を犯さないように。」この話は後世、書き加えられたもので、実際にあったことではないとされていますが、いかにもイエスにふさわしいエピソードです。自分のことを棚に上げる、ということばがありますが、我々はとかく、自分のことは差し置いて、他人を責め、自分を守ろうとします。それが人間の弱さというものです。イエスはそこのところを人々に訴えたのでした。
高校生に人間としてのあり方を教えるうえでもこのことは大切です。10のうち9まで自分が悪いのにあいての1のミスに責任をなすりつける。教師のしかり方が悪いなどと言う。それはその生徒の未熟さ、弱さにほかなりません。さらには、それに追い打ちをかける保護者や周囲の声があるとすれば、生徒を愚かにする以外の何ものでもありません。自分の非を、過ちを認められる人こそが真に強い人間であることを若い時代に教える必要を近年、特に感じます。
ことを深刻に考える必要はないでしょう。私たち教師が、普通に当たり前のことを伝えればよいのです。孔子のことばを借りれば、「自分がして欲しくないことを他人にしてはならない。」、イエスのことばを用いれば、「自分がしてもらいたいことを他人にしなさい」。これさえあればよいのです。そして、「私もあなたを罰しない。」ということばに、イエス=キリストの真の姿を私はみます。自分もまた、罪を犯す、だからこそ罪人を責めない、罰しない。ただ、彼らと共にいてその悲しみ、苦しみを担う。救い主とは悩み苦しんでいる人の思いを共に感じ、彼らと心をひとつにする人のこと。でも、キリストならいざ知らず、教師である私たちにはそれは最後の最後の心得です。普通の状況では普通のあり方、つまり、だめなものはだめ、他人を責める前に自分を省みよ、これが基本です。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第58号,平成23年7月19日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 第54号に同じ
『マタイによる福音書』には、イエスの誕生のあと、ヘロデ王の殺戮から逃れるため親子がエジプトに移り、ヘロデの死後、ガリラヤのナザレに帰ったと記されている。その後、イエスがどのような生活をしたかは不明である。
*ニーチェのキリスト教批判 54参照。
*聖母マリア
イエスの聖母。聖霊によりイエスを身ごもったと伝えられている。『福音書』には登場するが、原始キリスト教においては重要な位置にはなかった。しかし、キリスト教が地中海世界に広まるとともに、土着の大地母神崇拝、女性神崇拝と相俟って神格化され、ローマ・カトリックにおいてはキリストの聖母として深く信仰された。
*ルソー(1712~78)
フランスの思想家。政治思想においては国民主権による社会契約説を唱え、フランス革命の理論的支柱を構築し、教育においてはこどもの人間性を尊重した自然主義教育を提唱し、青年期を「第二の誕生」と命名した。また、文学や音楽にも才能を発揮した。主著は『社会契約論』『人間不平等起源論』『エミール』『告白』など。
『マタイによる福音書』の第5章にある「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものである。」(54参照)にはじまる「山上の垂訓」はキリスト教道徳の基本となるもので、その最後にあることばが、上記に紹介したものです。このすこし前に次のような一文が記されています。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださるからである」。「天の父」とは勿論、神のことで、これが無差別平等、万人への無償の愛、神の絶対愛、いわゆる「アガペー」とよばれるものです。
一般的にキリスト教は“愛の宗教”といわれていますが、それには、しばしば陥りがちな誤解があります。「愛」は「愛されること」「許されること」という意味での「愛」ではありません。イエス=キリストの説く人間としての生き方は、自分が愛されること、許されることを求めるのでもなければ、神が救ってくれる、許してくれることに依存することでもありません。そうではなく、神がすべての人を愛し、許してくれることを信じて、自分が相手を「愛せる」「許せる」人間となることを求めているのです。これはきわめてきびしい人間観です。上記のことばはそのことを、きわめて明確に伝えているのです。キリスト教の「愛」の真意は自らを厳しく律し、自他に甘えることなく、より完全な人間になって、万人を慈しみ、いたわることにあります。そうしてみると、以前、言及したニーチェのキリスト教批判はまったく、的はずれのものとなります。
さて、ここしばらくの間、“癒し系”なる造語が流行っていますが、そもそも「癒し」とはキリスト教の「愛」の諸相のひとつで、人間が人間に与え得る最高の「救い」、簡単に言えば、心の安らぎのことです。他者に「癒し」を与えられる人は「アガペー」の体現者であって、理想的な人間である。カトリックでは聖母マリアがその典型でした。自己実現をなし得た人が、他者に安らぎを与えられるのです。とかく、私たちは愛されること、恵まれることを望むものですが、ルソーが「愛されるには愛されるにふさわしい者とならなければならない」と言っているように、まず、自分そのもののを基点としなければならないのです。
生徒に生き方を説くときに大切なのはこの一点です。自分が愛さなくては誰からも愛されない、自分が許さなくては他人から許されない。「良い友だちがほしい」と彼らは言います。そのためには自分が相手にとって良い友だちにならなくてはだめです。若い時代は愛されることを求めがちです。周囲から注目され、ちやほやされたがります。もてたがります。しかし、自分が誰かを愛し、いたわることからはじめなければなりません。誰かを心から愛した人は、いつか必ず誰かから愛される人になると私は確信しています。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第57号,平成23年7月11日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 54に同じ。
イエスの誕生について、『新約聖書』「福音書」には父ヨセフが名君ダビデの子孫であることや母マリアが聖霊により受胎したこと、エルサレム近郊のベツレヘムで生まれたことなどが記されているが、これらは『旧約聖書』の預言書にあるメシアの即した記述であり、事実とは言えない。
*孔子 5~6参照
孔子は人間としての最も理想的な心のあり方を「仁」とよび、高弟の曾子(第7号参照)はそれを「忠恕」と解釈した。「忠」は自分の心に正直であること、つまり真心で、「恕」は他者の立場になり心を一つにすること、つまり思いやりである。
イエスはユダヤ教の律法主義を批判し、律法を文字のとおりにとらえるのではなく、その背後にある精神を尊重することを説きましたが、その姿は主流派や律法学者たちからは、律法やユダヤ教の伝統を軽視するかのように映りました。ある時、一人の律法学者がイエスのところに来て、「先生、多くの律法のなかで、守るべき最も大切なものは何ですか」と問いました。それに対してイエスは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と答えました。これにはさすがの律法学者たちも納得せざるを得なかったようです。今回、紹介した第二の戒めがいわゆる「隣人愛」で、後にキリスト教道徳の最高のものとして、「黄金律」とよばれるようになります。
イエスはこのことを「何ごとでも、自分のしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにせよ」と言い換えています。孔子はあるべき人間として、生涯かけて行うべきものを「恕」とよび、「己の欲せざる所、人に施すことなかれ(自分がしたくないこと、してほしくないことを他人にしてはならないし、させてもいけない)」と説きました。心的態度の方向性は異なるものの、本質は同じです。「隣人愛」といっても、決して大げさにも、難しくもとらえることはありません。自分がしてもらいたいことを他人にしてやり、してほしくないことは他人にもしない、ということです。愛するとは他者を「大切にすること」、「尊重すること」なのです。
さて、このような愛の教えを、きれいごとと否定する向きもあります。青年期は理想を求めるとともに現実の厳しさや醜さを痛感する時期ですから、特にその傾向が強い。まして、目標が満足に達成されなかったときはなおのことで、他人を愛するなど絵空事だ、と断ずることもしばしばあります。勿論、他人を自分自身のように大切にすることなどはできません。しかし、自分自身や自分の恋人・友人への想いの何分の一かでも他人に与えることなら可能ではないでしょうか。「全くない」のと「少しはある」のとでは大きな違いがあり、「少しはある」のであれば、「隣人愛」の入り口に達しているのです。
教育現場においても、以前から、あり方生き方教育のひとつとして、「豊かな心」や「他人を思いやる心」が唱えられています。私たちはイエス=キリストではないのですから、それを万人に向けられる広大無辺なものとしたならば、誰にだって手の届かない空虚なことばに終わってしまうでしょう。まず、自分の隣りの人、身近な人を大切にすることを教えなければなりません。隣りにいる人のよい所を見つけましょう。じっと見つめる優しさがあれば、その人のよさのひとつやふたつは必ず見つかるものだということを生徒たちに教えてあげてください。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第56号,平成23年7月4日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD) 54に同じ。
イエスの生年をBC4年とするのは、当時のユダヤ王ヘロデの死亡年を根拠としてい る。『福音書』のよれば、イエス生誕のときの王がヘロデであったから、生年はBC4年以前であると推定されるためである。イエスはヘロデによる殺害を逃れ、彼の死後故郷に帰ってと記されていることから、BC6~8年説が、近年では有力である。
*ユダヤ教主流派
ユダヤ教には多くの宗派があるが、『新約聖書』によれば、儀式典礼を重んじたサドカイ派や律法遵守を強調したパリサイ派などが主流派とされている。
古代ユダヤ教は有名な「モーゼの十戒」をはじめ宗教的儀礼から日常生活の隅々にいたるまでの膨大な数の律法があり、それらを守ることにより、神の祝福が得られるとされていました。しかし、人間は完璧ではありませんから、すべての律法を守ることなど出来ません。まして、貧困で日々の生活におわれている人は律法どころではありませんし、悪いこととは知りながら、法を破ることだってあるのです。たとえば、「安息日にはすべての仕事を休み、神を拝するために用いよ」という教えがありますが、貧しい人が仕事をしないで一日中休むことなど出来ないし、それどころか仕事すらない人もいる。そこで、イエスは律法の言外にある精神を読みとろうとしたのです。
この律法の真意は、日々の暮らしの厳しさのなかで、神を思うことの出来ない人でも一週間のうち一日は神のことを考えよう、神に感謝しようということなのだ、と説くのです。安息日に医者が仕事をせずに、患者に治療をしなかったらどうなるのか。イエス自身も医療にたずさわっていました。ある時、ユダヤ教主流派の一人がイエスの弟子に「あなたたちの師は安息日であるのに患者に治療を施した。これは律法に反するのではないか。」と咎めました。それを聞いたイエスは「安息日に人を生かすのと死なせるのとどちらがよいか」と反論し、「安息日のために人がいるのではなく、人のために安息日がある」と言いました。上記のことばはその本意を活かし、律法と人間との関係に拡大して伝えられたものです。
このことばは、すべての法や規則、制度の根底にある基本的な精神の表れです。あらゆる法や制度は善良な人間と彼らの権利や尊厳を守るためにあるのであって、その逆ではありません。善良な人間の尊厳や権利を害するために法や制度があるのではないのです。しかしながら、法や制度の不備により人々の生活が損なわれたり、「法律で決められているのだから仕方がない」というように、本末が転倒してしまうことがしばしばあります。これを法・制度の形骸化と呼びます。そこで、現代の民主主義国家では主権者である国民のために、法の制定が国会議員の職務として与えられています。彼らの職務領域は立法です。善良な人々を守るための法をつくり、不備で形骸化されていたものを改正することが彼らの仕事です。総理大臣を目指すことではありません。
したがって、学校における校則や内規も、生徒や生徒の学習やその他の活動、教師の教育活動を促進するためのものであって、それらを制限するものでもそこなうものでもありません。真摯に学習やその他活動に励む有為な生徒を守り、それらを促進し、保障するためにあるのです。真面目に勉強する生徒たちのことを考え、彼らにより有意義な生活をおくらせるためにあります。不真面目で怠惰なものを甘やかせる規則などは論外です。「校則・内規のために生徒や教師がいるのではなく、善良な生徒と教師のために校則・内規がある」。また、私たちに課せられた服務規律の保持もその本旨は、私たちの身分・立場を守り、活動を促進するためのものであることを忘れてはなりません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第55号,平成23年6月27日.
* イエス=キリスト(4?BC~30?AD)
古代イスラエルの宗教家。キリスト教の始祖。生涯については不明なところが多いが 『新約聖書』の『福音書』によれば、イスラエルの北部ガリラヤのナザレに大工の子として生まれたとされる。30歳頃、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、布教活動を行い、数々の奇跡を行うとともに、伝統的なユダヤ教の教義の改革を唱え、多くの 信者を得たが、保守主流派とローマ帝国官憲により十字架で処刑された。
*『新約聖書』
ユダヤ教の経典『旧約聖書』に対し、イエス=キリストの死後、編纂されたキリスト教の教典のこと。4つの福音書や使徒の伝道書、書簡などからなる。キリスト教は『旧約』も『聖書』としているが、ユダヤ教では『新約』を認めていない。なお、「約」とは契約のことで、「旧約」は律法を中心としたモーゼによる神との契約、「新約」とは、イエス=キリストにより神の恵みの与えられた(福音)という契約を意味する。
*ニーチェ(1844~1900)
ドイツの哲学者、古典学者。「神は死んだ」と唱え、西洋近代の伝統的価値観からの脱却とヒリズムの克服を説 いた。ソクラテスの知性主義的哲学を批判し、キリスト教の説く神の愛や隣人愛が人類を堕落させたと攻撃した。主著は『悲劇の誕生』『ツァラトゥストラはかく語った』『力への意志』など。
キリストとはギリシャ語で救世主のこと、イスラエルでメシアと呼ばれていた地上の王に内面的な救い主の意味を強めたことばです。したがって、イエス=キリストとは「救い主であるイエス」という意味です。イエスの生涯には不明なところが多く、母マリアは聖霊により受胎したとか、エルサレム郊外のベツレヘムで生まれたなどは伝承です。大部分はキリスト教の発展の過程で創りあげられました。イスラエル北部ガリラヤのナザレに大工の子として生まれ、30歳頃から宗教活動を始めたというのが本当のところでしょう。 さて、『新約聖書』に多くの名言を残しているイエスが、民衆に高らかに語った最初のことばが上記の一文です。『マタイによる福音書』に記される「山上の垂訓」のなかの「七福の教え」の第一条で、キリスト教の最も基本的な教えです。
「心の貧しい人は幸いである」。神は貧しいもの、弱いもの、虐げられたもののためにいる。ニーチェはこのような人間観と救済観が弱い人間を甘やかせ、人類を堕落させたとと批判しましたが、対英訳聖書には次のように記されています。Blessed are they who know their spiritual poverty , … 直訳すると、「自分たちの心の貧しさを知っている人は祝福されている」となります。自分の弱さや悪いところ、罪深さを知って、素直にそれを認め、悔い改めようとしている人を神は救うというのです「心の貧しい人」とは単に、劣っている人、弱い人、虐げられている人のことではありません。自分の現実を謙虚に認め、向上しようとしている人のことです。そのような人を神は決して見捨てない。無償の愛で許し、救うというのが、このことばの真意です。
私たち教師の使命にもこれに通じるものがあります。自分の非を認め、反省し、向上しようとしている生徒には手をさしのべなければなりません。ひたすら努力しているものを評価しなければなりません。近年、私が危惧するのは、教師があらゆる生徒を護ることを美徳とする立場です。というよりも、「護る」を「容認」と解釈する傾向です。不真面目で不誠実のものを容認しては教育にならない。それは断固、正さなければなだない。学校は生徒のためにありますが、学ぼうとしている生徒のためにあるのであって、自己の非を認めない傲慢なもののために、多大な労力や多額の税金が費やされているのではありません。「自分たちの心の貧しさを知っているものは祝福されている」。自己中心的態度、傲慢、不遜、わがままを正すこと、自己自身を謙虚に見直させることが教師の使命であることは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第54号,平成23年6月20日.
* バプテスマのヨハネ(1世紀初め頃)
洗礼者ヨハネ。古代ユダヤの宣教師。人々に罪の悔い改めを求め、終末が近づいたことと救世主の出現を告げ、多くの信者を集めたが、官憲により処刑された。
* 洗礼
ユダヤ教の一派で行われていた儀式典礼の一つで、具体的には罪を告白し、川の水で身体を洗うこと。神の国に入るために必要とされる。イエスもヨハネから洗礼を受けた。キリスト教でもカトリックにおいては、形は異なるが司祭からの洗礼を受けたものが信者とされている。
* オスカー=ワイルド(1854~1900)
アイルランドの詩人・作家・劇作家。19世紀末の耽美的・退廃的・懐疑的な文芸思潮を代表する人物で、波 乱の人生をおくった。代表作は『幸福の王子』『ドリアン・グレイの肖像』など。
* ヘロデ=アンティパス(20?BC~?)
古代ユダヤ・ガリラヤの領主。正確には王ではない。父ヘロデはローマ帝国から認められたユダヤ王であったが、アンティパスは王に認められず、その認可を求めたためローマ皇帝カリギュラにより流刑となった。
*『マタイによる福音書』
『新約聖書』の『福音書』の第一巻。イエスの直弟子マタイの名をもつが、編纂されたのはイエスの死後40年くらい経てからである。『福音書』はイエスの生涯と言行、神の愛や隣人愛の教えなどが記されているもので、他にマルコ、ルカ、ヨハネがあり、四福音書とよばれている。
オスカー=ワイルドの戯曲『サロメ』の主人公はヘロデ=アンティパス王の養女サロメで、踊りがうまい妖艶な女性として描かれています。王は異母兄の妻であったサロメの母との結婚をヨハネにより糾弾され、彼を牢獄に閉じこめます。サロメはヨハネを愛し、自分の愛を受け入れない彼を殺させ、宴の席でヨハネの生首を抱いて踊る。その狂気に戦いた王は「あの女を殺せ」と叫ぶところでこの戯曲は終わります。何とも凄惨な話で、勿論、事実ではありませんが、ヨハネという人物、さらには当時のユダヤにおける宗教家が政治と深く関わっていたことを窺わせる、さすがの作品でした。
キリスト教とは、ユダヤ教の預言者たちが説いた救世主(メシア・キリスト)が十字架で処刑されたナザレのイエスであると信じる宗教のことです。したがって、ユダヤ教徒は現在でもイエスをキリストとして認めていません。バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者として位置付けられ、『マタイによる福音書』によれば、洗礼を受けたいというイエスに、「私こそあなたから洗礼を受けるはずですのに」と述べたことになっていますが、事実はおそらく、イエスはヨハネをリーダーとするユダヤ教反主流派の教団に入ったのでしょう。『福音書』にも、イエスの本格的活動がヨハネの死後行われたとありますから、イエスはヨハネの弟子であったとする説もかなり可能性があると思われます。
さて、「悔い改めよ」は罪を犯した者、悪を為した者の心に、きびしく突き刺さることばです。「過ちては、改むるにはばかることなかれ」という格言もありますが、人間は誰でも間違いをおかします。犯罪はいうまでもなく、意図的なルール・マナー違反も論外ですが、怖ろしいのは、自分ではまったく気付かずに、他人を傷つけたり、不愉快な思いをさせていることです。キリスト教は愛の宗教といわれていますが、神の恵みや救いを説く前に、人間の罪深さを強調しています。そしてその罪を自覚し、悔い改めるものは誰でも救われるのです。これが、平等思想の起源のひとつであることはお分かりでしょう。
間違いや過ちは仕方がない。大切なのは、そのことを素直に認め、反省することである。私たち教師は必ず、このように生徒に言います。ここで留意すべきは、それにより褒美が与えられる、罪や悪事が帳消になるのではない、悔い改めそのものに尊さがある、反省そのものに意味があるということです。「~だから…する」ではなく、「~すべきであるから…する」。そこに真の誠実な生き方があることを心得なければなりません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第53号,平成23年6月13日.
* エゼキエル(紀元前6世紀頃)
古代ユダヤの預言者。バビロン捕囚」の際、唯一神ヤーウェへの信仰により民族としての結束を保とうとした。『旧約聖書』「エゼキエル書」の著者とされる。
*預言者
一般に使われる予言者とは異なり、ユダヤ教やイスラム教で用いられる預言者は「神のことばを預かる者」という意味で、宗教的指導者のこと。ユダヤ教ではイザヤ、第二イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルらがそれぞれ預言書を残している。
*バビロン捕囚(597~538BC)
ソロモンの死後、イスラエル王国は北イスラエルと南ユダに分裂し、北イスラエルはBC8世紀にアッシリアにより、南ユダは新バビロニア王国により滅亡した。南ユダの人々が新バビロニアのバビロンに強制移住させられ、集団奴隷となったことをバビロン捕囚という。「捕囚」は一般にはBC586年からはじまるとされているが、この年はエルサレムが破壊された年で、すでにBC597年、第1次の捕囚があり、エゼキエルはこのとき、国王と共にバビロンに幽囚されている。
エゼキエルはユダヤ教の父といわれています。アブラハムを始祖とすると、イスラエル民族の歴史は紀元前15世紀にさかのぼり、ヤーウェ信仰はその頃からあったと思われますが、教典、教義、儀礼を備えたユダヤ教が成立したのは「バビロン捕囚」以後のことです。ちなみに、ユダヤ人という名称もこの頃から使われました。「捕囚」はイスラエル最大の危機でした。そのとき、預言者たちは、国土も財産も王も失った人々を、唯一神への信仰により結束させ、存続させようとしたのです。つまり、宗教による民族アイデンティティの確立です。
預言者たちの最大のテーマは「なぜ神に守られているはずのイスラエルが、かくも苦難にみまわれるのか」を民衆に納得させることでした。エゼキエルによれば、それはイスラエルの民が神への信仰を失い、恩を忘れ、律法に背いた邪悪な生活をおくったことへの神の裁きです。人々は、自分たちを捕囚に至らせた神を恨み、神の無力と不正を訴えました。神のことばを預かるエゼキエルは、「イスラエルの家は、主の行いは正しくない、と言う。イスラエルの家よ、私の行いは、はたして正しくないのか。正しくないのはあなたがたの行いではないか。」と彼らに訴えました。そして、次のように結ぶます。「イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。私は何人(なんびと)の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。
天の事と自然・人間の事は連動する、例えば、災害は天罰であるとか神の裁きであるとする思想は古代特有のものです。預言者の主張は広い意味ではこれに属するのですが、紹介したことばが意味する、何事につけても他者のせいにしないでまず自らを省みる、自分に非はなかったかを考えることは、のぞましい人間のあり方の一つです。10のうち、相手に1のミスがあればそれを声高に責めることがあります。昨今のクレーマー現象は極端としても、私たちには多かれ少なかれその傾向がある。「みんな、やっている」「どうして、自分だけ」。しばしば耳にすることばです。それもまた、人間の弱さなのでしょう。ユダヤの預言者たちはその弱さを自覚し、苦難のなかでも、まず自分を省みた。自分の過ちを認めた。そして、いかにして苦難を克服するかの精神的支柱を求めた。神への信仰は独特ですが、民族存続・国家復興への切なる思いと熱情、その根底にある内省心、責任感と責罪観は高く評価しなければなりません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第52号,平成23年6月6日.
ソロモン(965?~926?BC)
ダビデの子で、父王に劣らぬ名君として知られる。「ソロモンの知恵」とよばれるほ どの賢者で、周辺国家から朝貢を受けるほど、イスラエルを強国にした。
*孟子 8~9参照。
孟子によれば、「是非の心」は「惻隠の心(思いやり)」「羞悪の心(正しさ)」「辞譲の心(謙譲・謙虚)」ととも に、人間の善なる本性(四端の心)であり、それぞれが拡充すると「仁」「義」「礼」「智」の四徳が生まれる。
ダビデが武勇に優れるとともに、文学や音楽にも秀で、人間的魅力をもった君主あったのに対し、ソロモンは民生と外交に長けた知略知謀の才能豊かな君主でした。どの分野・領域でも、基本的に、リーダーにはこのふたつのタイプがあります。前者は明るく元気のよい雰囲気をつくり出し、自ら先頭に立ち、部下や国民を鼓舞するカリスマ型。後者は適切な状況分析や判断力・洞察力により部下や国民を導く実力型です。野球で言えば、長嶋茂雄氏は前者、王貞治氏は後者でありましょうか。勿論、私たち教師もいろいろな場面で生徒に対しても同僚に対してもリーダーの役割を担うのですから、それぞれの個性に応じて、あるべきリーダー像を構築しなければなりません。
ソロモンは神に赦された後のダビデとバテシバとの間の子で、父ダビデが強大にしたイスラエル王国をさらに盤石なものとしました。ダビデが武力をもって、国家を統一し、富国強兵をめざしたのに対し、ソロモンは近隣諸国の王女との婚姻を中心とした平和外交、国内の殖産興業、先進文化の移入など、当時における近代化政策を推進しました。荘厳壮大な神の神殿と王の宮殿が建設され、ソロモンの威光に与るために諸外国からは多くの貢ぎものがもたらされ、表敬者が相次ぎました。
上記のことばは、『旧約聖書』「列王記上」に記されているもので、「何を与えてほしいか」という神の問いに対して答えたことばです。神はソロモンに次のように言います。「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命を求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたのことばにしたがって、賢い英明な心を与える」。これは人の上に立つものが、私利私欲ではなく、公明正大な心、民を守る知恵をもたなければならないことを示しています。
いつの時代にもどこの国でも、指導者に求められる資質です。そして、神は「あなたの先にあなたに並ぶ者はなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起こらないであろう。」と最大の賛辞を贈りました。偉人を讃えるのに「○○の先に○○なく、○○の後に○○なし」という表現がありますが、それはソロモンが元祖でした。
「善悪をわきまえること」を孟子は「是非の心」とよび、「是非の心」が拡充すると「智」の徳が実現するとしました。つまり「知恵」とは本来「善悪をわきまえること」なのです。「知恵と知識は違う」ということばを聞きます。それはその通りでして、知恵は、知識を応用・活用する能力またはすべてに関する創意工夫の能力であるとの意味であれば、間違いではないのですが、単に状況を読む機転とか要領のいい処理能力としてしまうと本質を見失うことになります。「知恵と知識とは違う」などと軽率に言ってはいけません。ユダヤ教・キリスト教でも、儒教でも「知恵」は「善悪をわきまえること」なのです。すなわち、何が善で何が悪か、何が正で何が不正かを判断する力のことであり、これこそが、人間として身につけなければならない普遍的な徳です。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第51号, 平成23年5月30日.
『旧約聖書』「詩篇」
『旧約聖書』の第19篇。150章からなる神への祈り、信仰の詩で、『聖書』のなかで最大のページを占める。
ダビデ(BC1000頃)
古代イスラエル王国第2代の王。イスラエルを統一した名君。その子ソロモンとともにイスラエルの全盛時代を築いた。
*ミケランジェロ(1475~1564)
イタリアルネサンスの芸術家。レオナルド=ダ=ヴィンチと並び称せられ、人文学や聖書研究にも通じた才人。代表作は彫刻『ダビデ像』、『ピエタ』、天井画『天地創造』、大壁画『最後の審判』などがある。
モーセによる出エジプトの後、イスラエル民族は故郷カナン(パレスティナ)に入りますが、そこにはすでに異民族が住んでおり、侵略戦争あるいはその地に僅かに留まった仲間たちとの解放闘争を経て、イスラエル国家が成立しました。そして、モーセの時代から約300年後、イスラエルにはが国王が登場します。しかし、それは勿論、神に御心にかなう有徳の優れた人物であければなりません。ミケランジェロの『ダビデ像』で知られるダビデは古代から現代にいたるまで理想とされる名君です。救世主であるメシア(キリスト)はダビデの血を引くものでなければならず、『新約聖書』の「マタイによる福音書」の冒頭にイエス=キリストの系図が記されているのはそのためです。
ダビデは武勇にも知略にも優れた人物でしたが、竪琴の名人でもあり、音楽や文学にも秀でていました。「詩篇」には彼が残した多くの詩が記されています。上記の一文もその一つで、「私の義を助け守られる神よ、私が呼ばわる時に、お答えください。あなたは私が悩んでいた時、私をくつろがせてくださいました。私をあわれみ、私の祈りをお聞きください。」と綴られています。
しかしながら、『聖書』には完全無欠人間は登場せず、万能の君主とて、例外ではありません。ダビデは腹心の部下の妻バテシバに恋し、自己を見失い、策謀をもってその部下を戦死させるという罪を犯します。神は裁きを与え、バテシバとの最初の子は死に、他の息子たちは長ずるにつれ、互いに争い、弟は兄を殺し、父ダビデに反旗を翻して、親子の悲しい闘いのなかで、死んでいきます。ダビデは自分の罪の深さに怖れ戦き、悔いました。我を取り戻したダビデは、王の何たるか、人の上に立つ者の何たるかを改めて知ることになります。これらを踏まえたうえで、上記のことばにふれると、神の赦しを願い、悔い改めする一人の弱き悲しき人間の姿がうかがわれます。
そもそも、人間が完全無欠であるはずがない。ダビデが理想の人物をされるのは、彼が過ちを犯すも、悔い改め、その過ちを二度と犯さぬよう、必死に生きたからではないでしょうか。そのような人間は多くの人から愛されます。そして、過ちを心底悔いたものを神は赦します。
私たちは誰でも、過ちを犯し、失敗する。大切なことはそれを謙虚に受け止め、過ちを認め、自分の罪を自覚することです。そして、他人の責任に転嫁することなく、改善・回復へのできるかぎりの努力をすることです。名君ダビデを比較するのはともかくとして、過ちを過ちとして認め、自己の最善をつくすことは教育者としてもおとなとしても大切なことです。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第50号,平成23年5月23日.
『旧約聖書』「出エジプト記」 48に同じ。
*『十戒』
1956年製作のアメリカ映画。監督は巨匠セシル=B=デミル、出演はモーセにC=ヘストン、エジプト王ラムセス2世にY=ブリンナー。『旧約聖書』とユダヤの伝承に準拠しながらも欧米の視点から描いた史劇の名作。
モーセはエジプト王にイスラエル人の故郷への帰還を願い出ます。しかし、奴隷解放が簡単にできるわけはありません。そこで、モーセはナイル川の水を血に染めたり、エジプト人の家の初子を人といわず家畜といわず、すべてを殺すなどの奇跡、エジプトにとっては災いを起こしました。王は困り果て、モーセの要求をのみ、イスラエルの民は故郷カナン(パレスティナ)に向かいます。やっとの思いで紅海まで来たところ、エジプトの軍勢が彼らを引き戻しにやってきました。前は海、後ろは敵、進退窮まったモーセが神に祈ると、なんと海が裂け、そこをイスラエルの民は駆け抜け、彼らが渡り終わると海はもとに戻り、エジプトの兵士たちは溺死しました。これが有名な“紅海の奇跡”です。私と同じくらいの世代の方は、アメリカ映画の『十戒』を思い起こすでしょう。
さて、こうしてイスラエルの民はカナンの近くシナイ半島に着き、モーセは神の導きにより山に登り、イスラエルが守るべき戒律を授かります。それが「十戒」です。その第一にあるのが「あなたは私以外の何ものをも神としてはならない」。これが唯一神信仰とよばれるものです。私たちはキリスト教の影響で、唯一の神に驚きませんが、これは宗教史的にはむしろめずらしいものです。ギリシャでもインドでも日本でも、多神教です。神は続いて、「自分のために刻んだ像を造ってはならない」と命じます。これによると、木や石などを神として崇めるなどはもってのほかで、仏像を拝む仏教も邪教となります。完全に理念的な神もまた、まれです。ユダヤの神はさらに、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と宗教的戒律を示します。
私たちはモーセの「十戒」と聞けば、儀式や典礼などの厳めしい戒律を創造しがちですが、10のうち4つが宗教的戒律でした。神は、次に日常の規定を示します。「父と母を敬え」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人について偽証してはならない」、「隣人の家をむさぼってはならない」。いわゆる一般的な良識です。仏教でも「不殺生」、「不偸盗」、「不邪淫」、「不妄語」があり、それに加えて「不飲酒」が五戒で、洋の東西を問わず、殺さない、盗まない、淫らなことをしない、嘘をつかないは、人間としての当たり前のこととして、示されていました。
道徳となると、「道」や「徳」について明らかにしなければならず、いささか問題が難しくなりますので、別の機会にしますが、私は学校教育における生徒指導とは、当たり前のことを普通にできる生徒を育成することにつきると思っています。基本的生活習慣や規範意識の確立、公共性や社会性の育成、奉仕の精神や豊かな心の涵養などの生徒指導の理念は、自他への誠実さ、真心と思いやりに集約されます。それは具体的には、嘘をつかない、むさぼらない、みだらなことをしない、盗まないことであり、殺さないは極端ですが、傷つけない損なわないは当然ですし、父と母を敬えは父母をはじめ目上の人を尊重することと理解すれば、現代の高齢社会の倫理にもつながります。不易流行ということばがありますが、普遍的な真理はいつの時代でも通じるものなのです。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第49号, 平成23年5月16日.
『旧約聖書』「出エジプト記」
「創世記」に続く『旧約聖書』の第2巻。アブラハムの子孫たちがエジプトに移住し、その後、集団奴隷になった彼らがエジプトから脱出した出来事を記した書。ここに登場するモーセは伝説の人物ではあるが、『旧約聖書』における最重要人物で、「十戒」をはじめとする律法を定め、ユダヤ教の創始者とされている。
*モーセ(BC13世紀頃)
エジプトの王子として育てられたが、神の啓示を受け、イスラエル人であり、彼らを約束の地カナン(パレスティナ)に帰還させることが使命であると告げられ、出エジプトを指導した。
アブラハムの子、イサクは妻リベッカとの間に双子の兄弟をもうけ、母に愛された弟ヤコブは奸策を用いて、族長の地位を奪い、兄エサウと対立しました。やがて和解した兄は弟にすべてを譲り、カナンを去り、弟ヤコブは12人の子に恵まれ、彼らがイスラエル12部族の祖となっていきます。ちなみに、イスラエルという名称はヤコブから始まります。ヤコブの11番目の子ヨセフは、その賢明さと美しさ故に父から愛され、兄たちに妬まれ、エジプトに奴隷として売られました。しかし、ヨセフは不運をもろともせず、王の信頼を得て、宰相にまでなり、恩讐を超え、飢饉に苦しむ兄弟や一族をエジプトに移住させました。彼らは平穏な生活をおくり、ヤコブもこの地で安らかな死を迎えました。イサクからヤコブ、ヤコブからヨセフへの物語は、さながら大河小説のような劇的な展開をくり広げ、様々な人間模様が描かかれます。そして、「創世記」はヨセフの死をもって終わり、「出エジプト記」へと『旧約聖書』は進みます。
「ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が起こった」。ヨセフの威光のある間はよかったのですが、時の流れはエジプトを幾度となく救ったイスラエルの宰相ヨセフの存在を忘れさせ、いつしか、イスラエル人は集団奴隷として過酷な日々を過ごすようになっていました。そこで、登場したのが『旧約聖書』最大の英雄モーセです。イスラエルの初子は皆殺しにされるという悲惨な運命をかいくぐり、母と姉の機転により、エジプトの王女の子として育ったモーセは、あるとき、神から自分がイスラエル人であることを知らされ、彼らを率いて父祖に地に帰えるよう命じられました。思いもよらぬ使命を伝えられ狼狽するモーセに神は言いました。「私は必ずあなたと共にいる」。
不安や焦燥にかられたとき、誰かが自分のそばにいる、誰かが自分を支えてくれていると思えたなら、それは大きな力になります。ひとりでは何もできない、でも自分の味方は必ずいる、自分を思い、見つめてくれている人がいる。私たちはそのような思いをもったときに強く生きることができます。責任の重さに押しつぶされそうなとき、何をしてよいか迷い苦しんでいるとき、自信を失い無力感にさいなまれたとき、「私はあなたと共にいる」ということばに救われのです。ユダヤの神は、やはり、厳かな神でした。
前号で、私は教師にとって「厳かさ」はなくてはならないものであると述べましたが、悩みや苦しみ、不安や絶望を共有し、「私はあなたと共にいる」という姿は「厳かさ」の表れのひとつでしょう。そもそも、教師は生徒に対して大きな責任をもつ仕事です。その責任とは、生徒の誰もが皆、人としての道を踏みはずすことなく、自分のなすべきことをなすよう支援することです。当然、その過程で、失敗も挫折もあるでしょう。そのとき、心の底から「私はあなたと共にいる」と言える教師でなくてはなりません。私も校長として教師諸氏に対し、かくあらねばならないと思うのは言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第48号,平成23年5月9日.
『旧約聖書』「創世記」 44に同じ。
*イサクとイシマエル
アブラハムの正妻サラの子がイサク、愛妾ハガルの子がイシマエル。イサクの成長によりイシマエルとハガルは追放される。荒野で嘆くイシマエルとハガルに、神はイシマエルもまた一つの民族、すべての兄弟(イサクの 子孫)に逆らう強い民族の祖となることを伝える。イシマエルの意味は「神は聞いた」である。イサクの子孫はイスラエル人、イシマエルの子孫はアラブ人になったとされている。
神により選ばれたノアの一族からアブラハムが登場します。アブラハムは『新約聖書』「マタイによる福音書」の冒頭にあるイエス=キリストの系図の最初に名前が記される人物で、イスラエル人の始祖とされています。推定ですが、紀元前1500年頃、彼に率いられて、イスラエルはカナン(現在のパレスチナ)に移住してきたようです。前回、ソドムとゴモラが火の海で滅亡した話に触れましたが、これも彼の時代のことです。
アブラハムは神を敬い、正しい行いをする人物で、神は彼を高く評価していました。あるとき、神は「あなたに息子を授ける」と言い、その子は満天の星、砂漠の砂のように多くの子孫を繁栄させるひとつの民族の祖となると伝えました。しかし、妻のサラは身ごもらず、長い歳月が経ち、アブラハムは妻の召使いとの間にイシマエルという子をもうけました。アブラハムはイシマエルこそ、約束された子と思っていましたが、神はサラは必ず男の子を産み、その子が民族の祖となると言うのです。サラは神のことば聞いて悲しく笑いました。やがて、神のことばどおり、サラは子どもは産み、イサクと名付けられました。ちなみにイサクとは「私は笑う」という意味です。神を笑ったサラの子イサク。その子孫であるイスラエル人の苦難にはかくも複雑な背景がありました。ともかく、アブラハムは大いに喜び、これまで以上に神を信じ、心正しい生活をおくります。しかし、ここで神はとんでもない命令をするのです。それはイサクを生け贄に差し出せというものでした。
ユダヤの神は絶対的な存在です。悪や不正に対して容赦なく裁きを与える「義の神」、「怒りの神」です。しかし、善良で敬虔なアブラハムに我が子を殺せとは何たることか。ここまでくると、神なのか悪魔なのか、分からなくなります。アブラハムは悩み苦しみました。そして、ついに神の命令にしたがう決意をしました。絶望のなかで、それでも神の命ずるままに、最愛の我が子を殺そうとするアブラハム。イサクの咽にナイフが降り落とされようとするその時、神は言います。「その子に手をかけてはならない、何もしてはならない…あなたが神を畏れる者であることを、私は今知った」。
この物語は宗教学的には当時、地中海からパレスティナで行われていた長子生け贄の儀式、族長の最初の子を神に捧げることにより一族の繁栄を祈る風習を批判したものであるとされています。勿論、そのとおりでしょうが、私はここに宗教の本質を観る思いがします。神はそもそも日常性・世俗性を超越した存在ですから、法や道徳とは別次元の行為や心的態度を求めます。法や道徳が普遍性・一般性を重んじ、万人を対象とするのに対し、宗教は特殊性・特異性の立場をとり、特定の個人を対象にします。その一方で、宗教がカルトに陥らず、国と時代を超えて存続するためには、法や道徳との共通性あるいは常識的是認が必要であると私は思います。もし、神がアブラハムにイサクを殺させていたならば、ユダヤ教はカルトに終わり、キリスト教も生まれていなかったでしょう。
さて、私たちは教育者として、ここから何を学ぶことができるでしょうか。前回、私はユダヤ教の神に象徴される「父性原理」すなわち毅然とした「厳しさ」は教育者に欠かせない資質であると記しました。厳(きび)しいは厳格、厳密、厳重などの「厳」ですが、「厳」には厳(おごそ)かという意味もあります。「威厳」「尊厳」「荘厳」「光厳」。「厳かさ」とは誰もが尊び、敬い、崇めざるを得ない気高い品性です。「厳しさ」は「厳かさ」につながります。試練に耐え、精一杯の努力をするものを認め、讃え、励まし、守る広く大きな心と力。神とは比べものになりませんが、「厳かさ」の一片がなければ、教師ではありません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第47号,平成23年5月6日.
『旧約聖書』「創世記」 44に同じ。
*アブラハム
「創世記」のおける最重要人物で、イスラエル人とアラブ人の始祖とされる。本稿でもこのあと取り扱う。
*大宝律令
大化改新以後、律令国家の確立を目指し、701(大宝元)年に制定された日本で最初の本格的な律令で、律6巻、令11巻からなる。中国(唐)の律令に習い、藤原不比等らによって編纂され、長く我が国の国勢の根幹となった。 教育観の前提にあるのが人間であり、人間をどのようにとらえるかで、教育のあり方が定められます。孟子は人間の本性は善であるしたから、生来のよき心を失わないよう、内面を啓発することを、荀子は人間の本性を悪としつつも、善人になる可能性があるから、外的な規範や秩序を教えることを説きました。哲学も宗教も、人間はいかにあるべきか問うかぎり、必ず教育との結びつきがあります。特に、学校が教会や寺院で開かれたことからもうかがえるように、宗教は教育観に大きな影響を与えます。
ユダヤ教では、人間は心が弱く、欲望に負け悪をなすのが、人間であるとしました。では、神はそのような人間をどのように導くのでしょうか。上記のことばは有名な「ノアの箱舟」の物語のはじまりのことばです。神は人間の数が増えるにつれ、だんだんと悪に染まり、ついには神を敬い信じる善人が誰のいなくなった事態を嘆き、人間を滅ぼそう決心します。しかし、ノアだけは神を畏れ、敬い、信じる人であったから、彼と彼の一族だけは助けようとします。大雨が毎日降り、洪水が起こり、地上は水で覆い尽くされました。ノアは神から大きな方舟をつくり、水が引くまで、じっとしているように命じられた。ノアの一族をのぞき、すべての人間は滅びました。つまり、神が人間を殺したのです。
この物語はユダヤ教の神が罪や悪を赦さない「裁きの神」「怒りの神」であることを示す代表的なものとされています。神は不正や悪を容赦しません。このときは洪水でしたが、後で語られる背徳の街ソドムとゴモラでは、住民は火山の爆発、火の海で焼き殺されます。ただし、そこでも、神に選ばれたアブラハムの甥のロトとその家族は救われました。
心弱く欲望に負け悪をなすものに対して、ユダヤの神は、徹底した厳しさで臨みます。自らを絶対的存在として、ひとかけらの妥協もない。理屈抜きでだめなものはダメという姿勢です。その一方、正直で誠実、善良なものには庇護と祝福を与える。一見、傲慢で尊大に思えるようですが、秩序を維持するには欠かせないあり方です。治安を安定させるには、犯罪や違反行為への徹底的な処罰であることはよく言われていることです。また、善行には褒美を与える、これもまた、大切なことです。いわゆる信賞必罰です。ちなみに、日本史でおなじみの「大宝律令」や「律令国家」の「律令」の「律」とは刑法、「令」とはそれ以外の一般法のことで、「法律」ということばが示すとおり、刑法はきわめて重要は法でした。
各自の自覚に任せるとして、自然と秩序が保たれるほど甘いものではありません。厳しさは人間を悪や不正を正すためには欠かせないものです。ユダヤ教の神に見られる厳しさ、確固たる姿勢を「父性原理」といい、教育学でも用いられています。ここで、留意しなければならないのは「厳しさ」と「怖さ」は異なると言うことです。厳しい先生と怖い先生は違う。しばしば、同一視されますが、両者はまったく正反対です。その違いは、指導理念・方針の一貫性の有無にあります。その日やその時どきの感情や気分ではなく、知性に裏打ちされた毅然とした姿勢、それが「厳しさ」です。言うまでもなく、これは欠かすことのできない教育者としての資質のひとつです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第46号,平成23年4月25日.
『旧約聖書』「創世記」 44参照。
*パウロ(?BC~64?)
原始キリスト教の宗教家・伝道師。ユダヤ教の信者であったが回心して、キリスト教 の布教に生涯を捧げ、『新 約聖書』に多くの記述を残し殉教した。イエスを神の子キリストであるというキリスト教の根本思想をはじめ、原罪 観やイエスの十字架の死は万人の原罪を償う贖罪であると説いた。また、後に三元徳とされる「信仰」・「希望」・「愛」 を説いたことでも知られる。
『旧約聖書』の第一巻「創世記」は神による天地創造という宇宙規模の神話のあと、人類の祖アダムとエバ(イブ)のエデンの楽園での生活が描かれます。アダムは土から造られ、エバはアダムの肋骨から生まれました。彼らは楽園で動物たちとともに平和な生活をし、神は彼らに、園の中央にある木の実をだけは食べるなとと命じていましたが、エバは蛇に唆され、アダムはエバに誘われ、その美を食べてしまいます。それは善悪を知る知恵の実でした。「あなたはなんということをしたのか」。神は自ら創造した人間を責め、「そこで、主なる神は彼らをエデンの園から追い出した」と「創世記」には記されています。アダムとイブが神の言い付けに背いたこのことを、後世、パウロは原罪と呼び、アダムとエバの堕罪により、すべての人間は罪を負うているとしました。
この物語には、いくつかのポイントがありますが、そのひとつは人間の心は弱い存在であり、誰もがみな、罪や過ちを犯すという人間観です。神に真偽を問われ、自分の罪を逃れようとし、他者に責任をなすりつけます。神にとがめられたアダムはエバの、エバはヘビのせいにします。私たちの誰もが、身に覚えがあるでしょう。「創世記」は人間は本来的に悪であるとして、その弱さや醜さを容赦なく暴き出します。
私は9で孟子の性善説を紹介し、10で荀子の性悪説を紹介しました。荀子はたしかに人間の本性は悪であるとし、だからこそ礼という外的教化が大切であるとしました。しかしそこには、人間というものはしっかりとしつけをし、教え育てたならば、誰もが正しく美しくなれるという基本的な人間観があります。つまり、大きな意味では性善説なのです。それに対し、ユダヤ教では人間はいかに努力してもどんなに立派な教育を受けても、悪を為さざるをえないのだとします。これは私たち教育者にとって、大きな壁となる思想です。「私は一度も悪いことはしていません」と、堂々と言える人がはたしているでしょうか。悪いことを犯罪と限定すれば、ほとんどの人がそう言えるでしょう。しかし、嘘をついたこことがない、裏切ったことがない、他人に対して不誠実あったことがない、となるとどうでしょうか。それらを含めても「私は一度も悪いことはしていません」と言える人に、少なくとも、私は会ったことがありません。
教育観の前提にあるのは人間観です。人間をどのようにとらえるかが教育のあり方を定め、教師としての姿勢に大きな影響を与えます。人間の心は弱いものである、人間は誰でも罪を犯す、この人間観に立つとき、私は、ふたつの正反対の誤った教育観が生まれることがしばしばあると思います。ひとつは秩序を維持し、個人に強さをもたせるために、外的規律や道徳性を重んじたした峻厳主義、もうひとつは人間は不完全なものであるから、柔軟に広く個人の特殊性を考慮するという容認主義です。そのどちらにも陥ることがないようにするのが本当の教育です。では、仮に人間の本性が悪であり、原罪をもっているとするならば、どのような教育が求められるのか。ユダヤの神はまず「義の神」として威厳ある存在感を発揮します。そのことについては、次回、みていきましょう。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第45号,平成23年4月18日.
『旧約聖書』「創世記」
『旧約聖書』はユダヤ教聖典で、ユダヤ民族の歴史・神から与えられた律法と教え、預言などが記され、信仰に係わる文学も記されている。著者は不明、紀元前12世紀 から紀元前2世紀までに書かれたものが後世、編集されたとされ、書物としてまとめられたのは、紀元前5世紀頃からではないかと推定される。「創世記」はその第一巻 で、神による天地創造・人間の祖先たちの物語が記され、ユダヤ民族の宗教観と人間観が記されている。キリスト教でも『新約聖書』とともに聖典としている。
*実用主義
現実生活の役に立つことに価値を求める立場で、イギリスの経験論や功利主義、アメリカのプラグマティズムなどがその代表であるが、古代ギリシャ・ローマにおいてもみられた。近代科学の成立をはじめ、自然科学、医学は基本的に実用主義の思想から成立しており、政治学・経済学もこの立場から離れることはできない。日本では福沢諭吉が説いた「実学」がその代表である。
ギリシャ哲学と並んで、西洋文化の基底にあるのがキリスト教ですが、その母胎となっているのがユダヤ教です。ユダヤ人という名称は古代ローマで用いられたもので、以後、ヨーロッパでは一般にそう呼ばれるようになりました。ギリシャ人は古くから、彼らをヘブライ人と呼び、ユダヤ人は自分たちをイスラエルと名乗っていました。イスラエルとは「神が支配する」という意味です。では、その神とはどのような神なのでしょうか。
上記のことばは『旧約聖書』の第一巻「創世記」の冒頭にあるもので、まさに、ユダヤ教の神の性格を端的に表したものです。ギリシャ、インド、ゲルマン、日本でも、神は複数存在しますが、ユダヤ教の神は唯一の神です。現代の私たちは、キリスト教の影響で、神は唯一というイメージをもっていますが、これはむしろ、きわめて特殊な神観念です。その神は天地万物の創造者で、光と闇つまり時間も含めて、あらゆるものは神によりつくられたとしています。そして、神の最後の創造が人間で、人間は神に似せられて造られたとしています。ここからうかがえるように、人間は他の動物よりも神に近く、自然を支配する存在であるのです。西洋での科学技術の発達の背景には、ギリシャ哲学の合理主義とともに、このような人間観・自然観があったのです。
これは日本とは正反対の立場です。日本では、自然のなかに神が宿り、神は自然そのものであります。台風は定期的に、地震は突然に襲ってきて、大きな被害をもたらす。自然は人知・人力をはるかに超えた存在で、私たちの祖先たちは自然を尊び、畏怖するとともに、自然と共存共生することにより平和と安全保たれるとしたのです。
明治維新以降、我が国は本格的に西洋文化を受容し、急速な近代化を実現し、第二次世界大戦後は、その傾向をさらに進展させ、西洋化に成功し、科学技術の発達とともに、世界屈指の先進国になりました。
科学技術は宗教と対極をなすように思えますが、ユダヤ・キリスト教の自然観・人間観がその背景にあったことに注目しなければなりません。そして、それらは教育にもひとつの方向性を与えました。天地万物の創造主である神。神に似せられて、自然界の最上位に造られたという人間観。それが、人間は自然を支配し自然の力を活用し、その営みにより生活を豊かに快適なものとするという価値観をつくり出します。これが近代以降、日本でも教育の大きな流れとなりました。いわゆる実用主義の教育観です。しかし、ユダヤ・キリスト教の神が与えたものはこれにとどまるものではありません。それについては次回、お話ししましょう。しばらくは、この神について、考えることにします。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第44号,平成23年4月11日.
* セネカ(1?BC~65)
帝政ローマの哲学者・政治家・文学者。アレキサンドリアやローマで哲学、修辞学、弁論術を学び、ユダヤやエジプトの古典も研究した。ローマ帝国の官僚、議員を歴任し 政治家としても活躍し、ネロの家庭教師、政治顧問であったことでも有名。晩年はネロの暴政を嘆き、政界を退いたが、ネロ追放の陰謀に加担したとされ、自殺した。主著は『怒りについて・神慮について・賢者の恒心について』など。
*ネロ(37~68・在位54~68)
ローマ皇帝。治世の初期はセネカらの補佐により、帝国の繁栄の基礎となる善政を行ったが、母への不信と確執、妻との不仲などから次第に異常となり、キリスト教徒大迫害により史上最悪の暴君とされている。その一方で、東方諸国からは名君と評価されたり、当時の市民からも愛されていたという記録も残っている。
*モンテーニュ(1533~92)
フランスの思想家。政治家でもあり、ワインで有名なボルドーの市長でもあった。「私は何を知るか」を掲げ、 宗教戦争と絶対王政の時代にあって、人間の特質と尊厳、あるべき生き方を探究し、神への感謝と寛容の精神 をもって、喜びに満ちた人生をおくることを説いた。主著は『エセー(随想録)』。
セネカは後期ストア派の哲学者の系列にありますが、キケロと同じく、政治との係わりが深く、特にネロという最悪の暴君に仕えたことにより、陰謀と計略にまみれた悲惨な生涯を送りました。若い頃のネロはセネカの箴言に耳を傾け、善政を行い、民衆からも人気がありましたが、母や妻との関係が複雑かつ異常で、セネカの献身的な関係修復への努力にもかかわらず、残虐性を増し、母と弟を殺害、妻を自殺に追い込み、ついには師セネカまでも自殺に追い込みました。セネカの無念、いかばかりであったことでしょうか。
セネカが後世の哲学や文学に与えた影響は大きく、フランスの思想家モンテーニュは著書の中で、セネカのことばをかなり引用していますし、彼の悲劇作品はシェークスピアをはじめ、イギリスの作家たちに愛読されました。また、教育者としてのことばはいつの時代にも通じる珠玉の名言です。
上記のことばは、まさに、私たち教育者が、否、子どもに接するすべてのおとなが心得るべきものです。学問であれ技能であれ、それを教えるものは、学ぶものでなければなりません。より深く教えるためにはより深く学ばなければならない。より広く教えるためにはより広く学ばなければならない。最近、「分かる授業」ということばをよく耳にしますが、「分かる授業」をするためには、教授方法や授業形態の工夫をする前に、教師が教える内容を十分に理解していることが前提となります。信頼される教師とは、知らなかったことを教えてくれる先生、できなかったことをできるようにしてくれる先生です。「分かる授業」とは平易・簡単な授業のことではありません。難しくてとても理解できそうもないと思われる内容が理解できるようになる授業のことです。そうした成長の実感が、学びの喜びで、それが得られる授業が「分かる授業」なのです。
近年、教師の仕事は生活に関する指導、部活動、特別活動や諸行事など広範囲に及んでいます。また、人間関係の構築、危機管理、保護者のクレーム対応、報道対応などの研修もあります。しかし、私たちがもつ教員免許は、それぞれの教科を教えられるという免許ですから、本来的な仕事は「よい授業」を行うこと、「受けてよかったと思われる授業」をすることです。したがって、研修については、学習指導、教科研究を最優先しなければなりません。逆説的に言えば、真摯に教えようとする意欲と姿勢が、教師自身をより深く広い学びへと導くのです。「人は教えるうちに学ぶ」。これもセネカのことばでした。
矢倉芳則「 校長通信「『清き山河』」第43号,平成23年3月22日.
* キケロ(106~43BC)
共和制ローマの哲学者・政治家・文学者。共和主義者の政治家として活動したが、カ エサルの登場により失脚し、学問と執筆に専念する。カエサル暗殺後、一時、政界に復 帰するが、政争のなかで暗殺された。主著は『国家論』、『義務について』など。
*カエサル(100?~44BC)
英語名はシーザー。軍事に秀で、ローマの勢力を地中海からヨーロッパ、エジプトに進出し、独裁官として 権勢を誇ったが、保守派の共和主義者により殺された。エジプト女王クレオパトラとの恋、敵対者との抗争 や暗殺は小説や映画の題材として取り上げられている。文筆家としても有名。主著は『ガリア戦記』。
*ディクタトール
古代ローマにおいて、非常時の臨時職として全権を委任された独裁官のこと。任期は6ヶ月で、再任は認めら れなかったが、カエサルは終身ディクタトールとなり、独裁政を樹立しようとした。
*ブルートゥス(85~42BC)
カエサル暗殺の中心人物で、共和主義者。アントニウスやオクタビアヌスに敗れ、 自殺した。
*アントニウス(82~30BC)
カエサル配下の部将。クレオパトラと結び、オクタビアヌスと争い、アクティウムの海戦に敗れて自殺した。
*オクタビアヌス(63~14BC)
カエサルの養子、初代ローマ皇帝アウグストゥス。アントニウスを破りエジプトを併合し、地中海を平定した。
キケロはアテネのアカデメイアで学び、ギリシャ哲学、特にストア派の流れをくむ人物ですが、哲学者としてよりも、文筆家・文学者としての功績が大きく、ルネサンス期には古典文献研究の人文文学者たちから神のごとく、あがめられていました。ギリシャの古典をラテン語に翻訳し、美しい散文としてローマ世界に広げたことは、ローマ文化の精神的基底をつくりあげたと言っても過言ではありません。
その一方、当時の彼についての世間的認識は政治家・弁論家でした。キケロはローマの伝統的な共和制の推進者で、終身ディクタトール(独裁官)となったカエサルに敵対し、彼の暗殺には関わらなかったものの、首謀者であるブルートゥスを親交をもっていたようです。カエサルの暗殺後は、カエサルの後継者をもくろむアントニウスに対抗し、オクタビアヌスに接近するものの、裏切られて亡命先で暗殺されました。その生涯は、今まで紹介した哲学者たちとはかなり異なります。しかし、彼の著書は名言・名句の宝庫です。
今回紹介したことばは、革命や改革から私たちの日常生活にいたるまで当てはまるものです。大げさなことを言うつもりはありません。ほんの小さなことから少しずつはじめて、気がつけば大きな変化になっているということがしばしばあります。たとえば、「まず元気に挨拶しよう」がやがて明るい職場をつくりだす。「遅刻をしない、時間を守る」が人物としての高い評価を得るなどはよくあることです。仕事に関しても、上司の許可を必要としないで自分の裁量だけで行えることがあります。商品の並べ方を変える、値札の数字を大きくする、注文された品物を渡すときに微笑むなどは誰にでもできる小さなことです。
学校においては、生徒にも教師にも、このことばが当てはまります。「まず一冊本を読む」が大変な読書家をつくり、「1日に2時間は必ず復習する」が志望校合格の快挙の源となります。私も『清き山河』が42号となります。まず第1号からはじめるという小さな決意が大切だったと思っています。先生方もかなりの数の「学級だより」やその他の通信を出していますが、私と同じ気持だったでしょう。ほかにも、授業の工夫や教材開発、校務の効率化など、自分で出来る身近なものが多々あるはずです。「大河も水の一滴から」と言われますが、大事は小事の積み重ねで、すべては小事からはじまります。
矢倉芳則「 校長通信「『清き山河』」第42号,平成23年3月14日.
* ディオゲネス(412?~323?BC)
ギリシャの哲学者。小アジア(トルコ)のシノぺの出身で、「シノぺのディオゲネス」 と呼ばれる。プラトンやアリストテレスとほぼ同時代の人物で、ソクラテスの孫弟子に あたり、生涯はほとんど不明であるが、数々のエピソードを残した。
*小ソクラテス学派
ソクラテスの3人の直弟子、アンティステネスのキュニコス派(禁欲主義)、アリスティッポスのキュレネ派(快 楽主義)、エウクレイデスのメガラ派(論理学・懐疑論)のこと。ストア学派のゼノンはキュニコス、エピクロ スはキュレネの影響を受け、それぞれを内面的に深めたとされている。
*「公正」 35のこと
ソクラテスほど度量の大きい人物はいません。彼の全人格、思想のすべてを受け継ぐことは不可能だったようです。プラトンは、問答法による徳の探究を、師の本意であると理解し、徳に関する概念定義を究め、現実の世界を超えた理想的な観念(イデア)を論じました。プラトンはソクラテスの正当な哲学の後継者になったのです。しかし、ソクラテスは見方によっては破天荒な人物で、大食漢で酒好き。ひとりで思索にふけることもあれば、仲間と連れ立って大騒ぎもする。友人も多い。実はプラトンや彼の周りの弟子たち以外にも、ソクラテスにはたくさんの弟子や友人がいたのです。あるものはソクラテスを禁欲主義者、あるものは快楽主義者、またあるものは論理学者としてとらえ、それぞれ学派を形成します。古代哲学史ではそれを小ソクラテス学派とよんでいます。
今回紹介したディオゲネスはそのなかで禁欲主義を説くキュニコス派の哲学者です。家をもたず、犬のように暮らしていたので「犬のディオゲネス」、空いた酒樽や土管に住んでいたから「樽のディオゲネス」などと呼ばれていました。有名なエピソードがあります。あるとき、アレクサンドロス大王がディオゲネスのうわさを聞き、会いに行ったところ、彼は運動場の隅で陽にあたって寝転がっていました。大王が「何か、望むことはないか。」と聞いたところ、「あなたがそこに立っていると、陽があたらないのでどいてください」と答えたそうです。本当のこととは思えませんが、この故事が伝わっていること自体に、社会的な責任や義務、世俗的な権威や欲望とは無縁の生活へのあこがれが私たちのどこかにあることが見てとれます。アレクサンドロスは彼と別れて帰る道すがら、「私がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい」とつぶやいたと伝えられています。
「コスモポリタン」は「平等な世界市民」という意味で、ディオゲネスが「あなたはどこの人か」と聞かれたとき、「私はコスモポリタンだ」と答えたところから、使われようになったそうです。元来はポリスを失った人という意味でしたが、「世界(コスモス)に住む市民(ポリテース)」(世界市民)と訳されました。のちに、倫理学的に深められ、「普遍的な理性をもつ人間は、国家や民族の枠を超えて、みな平等である」という人間観を示すことばとなります。その意味ではディオゲネスはギリシャの伝統的な理性主義を見事に継承していると言えるでしょう。
現代は、「自由」とともに「平等」も、ことばの独り歩きによってその真意を失っているようです。「平等」は「公正」とひと括りで論じなければなりません。また、理性や法のように「平等」の本質・根拠となるものを抑える必要もあります。「平等」もまた、無条件ではなく、それを享受する資格が求められます。コスモポリタンが「国を失った人」から「世界市民」となるには、万人に認められる資質・品格がなくてはならないのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第41号,平成23年3月7日.
* エピクロス(342?~271?BC) 39に同じ
*自由民権運動
明治10年代に、薩摩・長州を中心とした藩閥政府の専制政治に対し、国会開設などの政治改革を目指した全 国的な政治運動。板垣退助らが中心であったが、政府の弾圧や政党分裂策により挫折した。島崎藤村らとともに明治ロマン主義の文学者である北村透谷(1868~94)も自由民権運動の挫折から文学を志した代表的人物。
エピクロスはエーゲ海の東、小アジア半島の近くにあるサモス島の屯田兵の子に生まれました。日本でも北海道開拓に屯田兵が活躍しましたが、屯田兵とは土地の開拓開墾と軍事を兼務する兵士のことで、当時のギリシャでは下層市民がその任に就くことが多かったようです。彼の父はのちに教師になりましたが、アカデメイアの学者や王侯貴族の家庭教師は別として、当時のギリシャでは教育奴隷(戦争に負けて奴隷になったものなかで教養のあるものが教師として任用された)の伝統から、教師の地位は高いものではありませんでした。子どもの頃のエピクロスの生活は決して豊かなものではなかったようです。
エピクロスはアテネ郊外に自宅と学校をかねた生活共同体「エピクロスの園」を開き、生徒たちは年齢・身分・職業もさまざまで、名門貴族・富裕市民から奴隷にいたるまで、多彩を極めていました。女性が多いのもこの学園の特徴で、そのうちの大部分が娼婦や女奴隷だったことが、エピクロスの世間的風評をしばしば悪いものにしたようですが、彼がいかに進歩的な人物であったことがうかがわれます。
さて、「隠れて生きよ」というエピクロスのことばですが、彼が生きたヘレニズム時代はポリスが崩壊し、政治のあり方や国家の体制は、市民から遠いものとなっていました。そこでエピクロスは、社会から隔絶した生活のなかで、個人の内面的な幸福を得ようとしたのであり、このことばは、その思想を端的に表すものとして伝えられています。エピクロスは政治的無関心を貫きましたが、その分だけ強く、仲間を大切に、友を信頼する生活を求めたのです。これは、強力な国家体制のなかで、個人の力では、どうあっても社会を変革できそうもないときに起こりうることです。日本の明治時代、自由民権運動に挫折した人々が内面的な自由を求めて、文学や芸術へと向かったこともその一例でしょう。
「隠れて生きよ」とはこのような社会事情のなかでのみ是認されることばです。また、「隠れて生きる」からにはそれだけの確固たる人生観がなくてはならず、仲間や友人との強い絆がなくてはなりません。そうでなければ、ただの現実逃避になってしまいます。さらに言えば、私は個人の権利や自由な選択が認められている現代の日本では、このことばを安易に用いてはならないと思います。最近、気になるのは若者たちの小グループ化です。自分の欲求や甘えが容認される一部の者たちとのみ付き合う。少しでも自分の意にそわないものからは離れる。自分と同じ学校、同じクラスのものに対してすらそのような態度であっては話になりません。自分が知らないことでも知っている誰かがいます。自分ができないことでもできる誰かがいます。その誰かが友だちだったら、どんなに助かるでしょうか。より楽しく、より有意義に過ごせる人生とは多くの人々との出会いのある人生です。その広さがあってこそ、深くまた高い人間関係が築けるのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第40号,平成23年2月28日.
* エピクロス(342?~271?BC)
古代ギリシャの末期・ヘレニズム時代の思想家。サモス島の屯田兵の子に生まれ、アテネで軍務に就いた。軍役を離れてからは貧困と苦難の生活をおくるが、35歳頃、アテネ市内に自宅をかまえ、そこを「エピクロスの園」とよばれる学園とし、精神的な快楽主義を説いた。
ストア派のゼノンは理性によって感情や欲望を抑えることにより、何ものにも惑わされない不動の心(アパテイア)を得ることが出来るといましたが、同時代のエピクロスは快楽こそが人生の幸福であり、心の安らぎであるとしました。エピクロスの立場を一般に快楽主義といいますが、彼の説く快楽は感情や欲望のままに享楽的に生きることではありません。彼は快楽には物質的・身体的なものと精神的なものとがあり、真の快楽とは精神的なものであるとします。それは心を乱すものを取り除かれた永続的な穏やかなものです。心身に苦痛のない状態のことが最も幸福なことであるとエピクロスは説きました。
そもそも、快楽主義とはいつでも楽しく、どんな状況でも心地よく生きることです。迷いや不安のないそのような心のあり方を、エピクロスはアタラクシアと呼びました。これは平静心と訳されていますが、その本質を突き詰めると、あらゆるもののなかから、喜びを見いだし、満足する心、どんな小さなものからも、些細なことからも何かしらの価値を見いだす心です。そのような心をもった人はどんなときでも、いかなる状況でも幸福になれるとエピクロスは言うのです。
では、不幸な人とはどんな人でしょうか。何をしてもつまらない、くだらないと不平を言い、相手の言動に不満を持ち、誰がこうした、誰がああ言ったこう言ったと文句を言う人です。他人の長所よりも短所の方が気になり、相手の行為やことばを悪くとらえる人です。また、人間の好き嫌いが多い人も不幸です。食べ物に好き嫌いの無い人はどんな料理でも美味しくいただけます。同様に、人間に好き嫌いの無い人は、どんな集団にいても心が穏やかで、誰とでも楽しく接することが出来るでしょう。近年の高校生、というよりも現代人は人間関係に支障をきたす人が多いと言われています。ですから、何度も取りあげますが、コミュニケーション能力の育成が問われるのです。しかし、これも何度も言っていますが、内面的な成熟のないコミュニケーション能力は単なる人付き合いのスキルになってしまいます。その内面的な成熟にはいろいろあるでしょうが、アタラクシアもそのひとつです。
平静心。実はこれこそが「明るさ」です。他人の何気ないことばや振る舞いに感謝できる心。道ばたに咲く名も無き花にほっとする心。晴れた日はさわやかで気分がいい、でも雨の日はまた雨の日のよさがある。そのように思える人こそが本当に「明るい人」です。自分自身を安楽にできる人です。自分自身を好きになれる人です。「明るさ」と派手さや社交上手を間違ってはいけません。おしゃべり、騒がしさ、無神経さは論外です。どんなに地味でも、おとなしくても、控えめでも、目立たなくても、前向きに物事を考え、小さなこと些細なことのなかに満足する心、幸福感をもてる人が明るい人なのです。
矢倉芳則「校長通信「『清き山河』」第39号,平成23年2月21日.
* ゼノン(335?~263?BC) 37に同じ
*西洋文化の受容にあたり、「個人主義」は「利己主義」と誤解された。漱石は自己と共に他者を尊重するのが「個人主義」の本来のあり方であるとした。ちなみに彼の説く「自己本位」とは自己の内面に根ざした生き方である。
*和辻哲郎(1889~1960)
日本を代表する倫理学者。「個人」と「社会」を対立概念としてとらえる西洋的な人間観に対して、「人間」は「個人」と「社会」の両面をもって存在するものとした。 主著は『風土』『人間の学としての倫理学』。
*「われと汝」の関係
ユダヤ人の宗教哲学者M=ブーバーのことば。真の生は出会いにあり、人間関係とは互いの人格を認め合う関係で、人付き合いの上手さや自己の利害のために他人を手段とするものではないと論じた。
個人の幸福は心のあり方にあり、それはあらゆる苦悩が無くなった状態で、そのためには感情や欲望を制御することが求められる。その理想の境地がアパテイアである。簡単に言えば、これがストア派の哲学者ゼノンが説いた人生論です。苦悩を無くすることにより人の心は安らぐとするのは、彼にかぎったことではありません。ゼノンは理性によりそれがなされるとしました。ここにギリシャ哲学の理性主義・合理主義の伝統があります。ところが、「自然に生きよ」は日本人には、しばしば誤解される厄介なことばなのです。
ゼノンによれば、この世界を支配しているのは理性であり、理性により宇宙も社会も秩序が成り立っており、そのなかで人間も生きています。かなり難解な思想ですが、神を抽象化して、それを理性と置き換えれば、分かりやすいかも知れません。世界を支配している理性をゼノンは世界理性と呼び、その理性は人間にも宿っている。これが感情や欲望を制御してアパテイアを実現する原理です。理性こそが世界と人間をつなぐもので、人間が人間らしく生きるのは理性にしたがうことによってのみ可能となります。理性的に生きることこそが、人間本来の、ありのままの姿、つまり自然であり、「自然に生きよ」となるのです。ゼノンの述べる「自然」とは「理性」のことです。
こうしてみると、日本人が一般に言うところの「自然」とは随分違っています。これは「人間性」という語においても同じで、西洋思想では、「理知的」・「合理的」な性質、つまり、動物と異なる人間のみの本性の意味です。意味の取り違えは、大変です。ことばの正確な意味と含みを理解することが文化や学問研究の第一段階です。
教育においても、このことは肝要です。近年、多くの教育用語が登場しています。現代日本語だけでなく、古典語、和製外来語、翻訳語、あるいは外国語そのものなど、きわめて多様です。翻訳語や外国語に関しては、特にその国の文化的伝統を踏まえて、本来の意味に注意しなければなりません。かつて、夏目漱石は「個人主義」と「利己主義」の交錯に苦しみ、和辻哲郎は「人間」を日本の伝統的精神から解釈しました。例えば、「コミュニケーション」ですが、これはcommunicateの派生語としての名詞であって、communicaiteは「他人と共有する」が原義です。物、知識、意見、何であれ、自分に確たるものがなければ、そもそも「他人と共有」はできないのです。自己意識の確立を前提として、「われと汝」の関係をつくりあげることがcommunicationの本来の目的です。欧米の概念、特に思想や教育の用語は一般に、自我の確立を前提とします。それを踏まえないと、コミュニケーション能力は、単なる人付き合いのうまさのスキルに陥ります。
諸外国で一般的なことであっても、日本ではその基本から構築しなければならないことがあります。教育者である私たちは、ここでも慎重に対処しなければなりません。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第38号,平成23年2月14日.
* ゼノン(335?~263?BC)
古代ギリシャの末期・ヘレニズム時代の思想家。キプロス島の商人の子に生まれ、アテネに漂着して定住。ソクラテスにあこがれ、禁欲主義の哲学を説いた。アテネのストア(柱廊:前方を柱、後方を壁で囲った公共建築のことで、店などが並んでいた大きな回廊)で講義をしたため、彼の学派はストア派とよばれる。
*ヘレニズム時代
ヘレニズムとは元来はギリシャ的生活文化・思想・価値観の総称であり、歴史的にはアレクサンドロス帝国の成立と解体からローマ帝国の成立までをヘレニズム時代という。この時代はギリシャ文化が世界に広まるとともに、ギリシャ文化とオリエント文化との融合という特色をもつ。こうして成立したのがヘレニズム文化であり、ギリシャ彫刻・建築の技法や美意識がインドの仏教芸術と融合してガンダーラ美術が生まれ、古代日本の寺院建築や仏像彫刻に影響を与えたことはよく知られている。
アレクサンドロス大王のギリシャ支配により、紀元前4世紀後半にアテネをはじめとするポリス(都市国家)は政権を失い、大きな領土国家のなかのひとつの都市にすぎなくなります。その後、ローマ帝国が地中海世界を統一する紀元前1世紀後半までの約300年間をヘレニズム時代といいます。この時代は東西文化が交流し、芸術の面では華やかな一面をもつのですが、倫理観や道徳は大きく変質しました。
従来のギリシャでは人間の生き方はあくまでも「社会や集団のなかでどう生きるか」という視点で捉えられていました。ソクラテスがあくまでも法と制度の手続きを尊重して、死刑を受け入れたのもその表れ(もとより、これは民主主義の根幹です)ですし、プラトンは個人の精神の働きと国家のあり方を連動させました。アリストテレスが言った「人間はポリス的動物」はその最たるものです。しかし、自分の属する郷土が解体し、大きな世界に投げ出されたとき、人々は集団のなかでの各自の責任・義務を果たす誇りと喜びではなく、個人として、各自一人ひとりの満足感のなかに幸福を得るようになるのです。
では混迷する世の中で、どうすれば穏やかな安らかな生き方が出来るか。様々な思想家が登場しましたが、そのなかで最も大きな学派を形成したのがゼノンを創始者とするストア派でした。ゼノンは人間が苦しむのは、欲望や感情に左右されているからだと説きます。そこで、理性により欲望や感情を抑える禁欲的な生き方を唱えました。その結果得られる境地をアパテイア(不動の心)といいます。語源的には「情念(パトス)が無くなった状態」のことですが、端的に表せば、感情や欲望の制御です。
学校教育でも昔から、感情・欲求の抑制、いわゆる「忍耐心」を徳目のひとつにあげていました。「キレル」「ムカツク」が生徒の感情表現として定着した昨今ですが、本来、人間は「キレ」たり、「ムカツ」かないために感情や欲求をコントロールして生きてきたのです。それを容認することは、人間性を否定すること、一個の人格をもつ生徒として相手にしないことになります。人間としての教育をするのだから我慢させる。それは管理主義でも、教条主義でもありません。心理学にも「耐性(トレランス)」という概念があります。人間は様々な感情や欲求をもつが、他者とともに多くの制約のなかで生きているからには「耐」が必要である。ゼノンのように、ひとりでいても「理性的生きよ」とまではいかなくても、普通の人の日常生活での「アパテイア」は、あって然るべきです。それはスポーツを通じてルールを守る大切さを学ぶとか、インターンシップにより社会的責任や義務について考えるなど、私たちの教育の範疇で十分、習得可能な精神です。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第37号,平成23年2月7日.
* アリストテレス(384~322BC) 32に同じ
*エロス 30参照のこと。
*アガペー
キリスト教で説かれる神の愛。万人に等しく与えられる、無差別平等の、見返りを求めない愛。自分に敵対するものにも向けられる絶対愛、自己犠牲の愛。キリスト教では神のこの愛を信じて、自らも隣人を愛せよと説く。
*「託孤寄命」
『論語』にある君子(理想的人間)の条件のひとつ。何か不慮の出来事や悲運により自分がこの世を去るとき、幼い我が子を託すことができる人が自分が最も信頼できる人であり、そのような人が君子であると記されている。
正義とともにアリストテレスが最も大切な倫理(習性)的徳としたのが「友愛」です。先頃、鳩山前首相がこのことばを掲げ、広く知られるところとなりましたが、本家はアリストテレスです。「友愛」はギリシャ語で「フィリア」といい、伝統的なギリシャの「エロス」ともキリスト教の「アガペー」とも異なる愛です。「エロス」が性的な愛を原義として、自分にとって価値あるものへと向かう愛で、「アガペー」が万人への無差別平等の献身的な愛であるのに対し、「フィリア」はある目的に向かう信頼に基づいた相互の好意のことで、愛というよりも端的に友情といった方が分かりやすいでしょう。
アリストテレスは「友愛」の目的を、共通の楽しみの実現、有用なものの実現、善の実現であるとしていますが、最高の「友愛」は勿論、善の実現へ向かう「友愛」です。ここでの「善」とは、人柄が優れ、互いに同じような徳をもつもの同士に見いだされる人間性のことで、留意することは「友愛」が互いの人格を尊重し合うことにより成り立つということ、さらには、思慮や分別、相手への思いやりや自己の感情を抑える心がなければ「友愛(友情)」とは呼べないとしていることです。
「友情」はあまりに日常化しており、その真意から離れて気楽に使われすぎていますが、その場限りの利害や打算、単なる遊び仲間の付合いは友情ではありません。本校の学年集会でも、私は「偽りの友は誘い、真の友はたしなめる」と言ったことがあります。人間は誘惑に弱く、あらゆる欲求が増大する若い時代には特にその傾向が強い。人を嫌い、孤立するのは勿論よくない。また、特定のものだけの狭い交友関係もどうかと思います。しかし、誰とでも気楽にすごせるのも人間としては、危うのではないでしょうか。コミュニケーション能力を単に人間関係を保てることと誤解してはなりません。
紹介したこのことばは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』という著書のなかにありますが、ここには、もうひとつの名言があります。「友人は第二の自己である」。我が国には「類は友をよぶ」という皮肉な格言もありますが、友人のなかには自分の存在が見え隠れしているものです。どんな人が友人かで、自分のことが認識できます。自分の友人がみんなから信頼されているなら、自分もみんなに信頼されていると判断してよいでしょう。そして、互いの人格を尊重し、向上させる「友情」こそ、高校時代にはぐくみ、その喜びを満喫すべきなのです。
では、はたして、真の友人とは。「託孤寄命」という孔子のことばがありますが、私は自分に何かがあったとき、自分が大切にしている人や物を安心してまかせられる人が真の友人だと思います。友人と友情についてはまだまだ、たくさんの名言があります。その紹介と考察はまたの機会にしましょう。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第36号,平成23年1月31日.
* アリストテレス(384~322BC) 32に同じ
*マイケル=サンデル(1953~)
アメリカの政治哲学者。 ハーバード大学教授。同大学の先輩教授で政治学者のJ=ロールズ(1921~2002)の正義論を研究した。コミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的学者。主著『これから「正義」の話をしよう~いまを生きぬくための哲学』など。
マイケル=サンデルの『ハーバード白熱教室』が、とかく敬遠されがちな哲学としては異例の人気を博しています。私も学徒のはしくれとして、できるかぎり、哲学や倫理学を分かりやすく説くことをめざしてきたので、このブームは嬉しいかぎりです。ついでながら、パワーポイントもビデオもない語りと対話だけの彼の講義は、教師の本領であり、IT機器全盛の現代ではかえって新鮮です。個性のある授業とは個々の教師の人間性あふれる授業であり、人間性は語りと対話に表われます。
その彼の講義にも登場したアリストテレスは、「正義」について、現実的・具体的に考察した人物です。前回は「中庸の徳」について述べましたが、「中庸の徳」のなかでアリストテレスが最も大切にしているもののひとつが「正義」です。「正義」はプラトンも知恵・勇気・節制を統合した最高の徳としていますが(31参照)、アリストテレスは「正義」を法や制度を守る「全体的正義」と日常生活の中での公正を意味する「部分的正義」に分けました。「部分的正義」とは「公正」、即ち、すべての人をあらゆる状況下で平等に扱うことです。
ところが、ここに落とし穴があります。平等はときに弊害を生じさせるのです。労働の報酬を例にとれば、「時給○○円」は一見平等に思われます。しかし、一生懸命働いても、適当に手を抜いても、同じ時給とは本当に平等なのか。そこで、アリストテレスは「部分的正義」をさらに2つに分類して提唱します。ひとつはすべておいて、すべての人に等しく与える、課する、あるいは保障する「調整の正義」。もうひとつはそれぞれの能力や業績、諸事情に応じて報酬や評価が与えられる「配分の正義」。この両者がともに実現し、実質的平等が生まれなければ、正しい社会は成り立ちません。
学校においても、私たち教師は「調整」と「配分」の2つの「正義」のバランスを考えながら指導をすることが大切です。学校はすべての生徒に学習やその他の活動を等しく与え、促進しなければなりません。また、真面目に頑張っている生徒を認めてあげなければなりません。誠実に努力しているものと不真面目にいいかげんにしているものとも同等にみなしてはならないのです。学校は生徒のためにあります。ただし、真摯、健全で善良な生徒のためにあるのです。逆説的ですが、そのような生徒を育成するためにも真の「正義」、「公正」が必要なのでなないでしょうか。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第35号,平成23年1月24日.
* アリストテレス(384~322BC) 第32号に同じ
*中庸
ギリシャ語のメソテスを漢語の中庸と訳した。中庸は数量的・物理的な中間ではなく、質的な程よさで、中国 でも儒教道徳は中庸の徳を説いている。また、仏教では出家者が心得るべきあり方を中道と呼んでいる。
プラトンは人間として最も大切な徳を知恵・勇気・節制・正義の4つとし、それを理想国家という壮大なスケールで論じましたが、アリストテレスは日常生活に生きる一般市民にも通じる徳を考えました。そもそも徳とは誰もがもたなければならないもので、それを体得することを道徳といいます。その点で、特定の階層にひとつの徳を限定しないアリストテレスはまさに、現実主義者でした。
彼によれば、徳には知性の徳と感情や意志の徳の大きく分けて2種類があり、知性の徳がいわゆる「知恵」です。間違ってはならないのは「知識」ではなく、「知恵」だということです。次に、知性が「中庸」の原理により感情や意志をコントロールすることにより生まれる倫理的徳です。これは習慣によってつくられるものですから習性的徳ともよばれます。ちなみに、習慣はギリシャ語でエートスといい、これが倫理の語源です。アリストテレスは倫理的(習性的)徳にかなりの力を入れました。人間が社会的動物であるかぎり、日常の道徳は欠かせません。
さて、倫理的徳を形成する原理である「中庸」とは程度のよさのことです。具体的に示すと「恐怖」の感情が多すぎると「臆病」であり、少なすぎると「向こうみず」になる、その過不足のない中庸が「勇気」だというのです。自分を示すという意志、それが強すぎると「自慢」「自己顕示」、少なすぎると「自己卑下」「卑屈」、中庸が「誠実」「正直」です。これは生来の能力によるのではなく、習慣付け、広い意味での教育により形成されます。アリストテレスにしたがうならば、徳育は継続的な「仕付け(躾)」によるということになります。
教師が出来うる徳育は、日常生活の折々に、たゆまず、怯まず教え続けることです。ただし、それは知性に裏付けられなければなりません。その徳はなぜ身に付けなければならないのか。その点を教える方も明確に理解し、相手にも納得させなければ、おしつけに終わります。施された側に満足感や充実感があるか否かにより、教育にも強制にもなり得るのです。とすれば、私たちは、日々、紙一重の指導をしていることになります。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』 第34号,平成22年12月20日.
* アリストテレス(384~322BC)
古代ギリシャの哲学者。プラトンの後継者であるが、イデアを否定し、師の理想主義 的な傾向に対して、現実主義的な思想や学問を確立した。存在論、宇宙論、自然学、倫 理学、論理学、政治学、芸術学などあらゆる分野の基礎をつくり、「全ての学問はアリストテレスから始まる」と讃えられる。また、母国マケドニアで王子であった頃のアレクサンドロス大王を教育した。主著は『形而上学』、『ニコマコス倫理学』など。
*アレクサンドロス大王(356~323BC/在位336~323BC)
マケドニア、ギリシャの王。ギリシャの各ポリス、エジプトを制圧し、ペルシャを滅亡させてインドにいたる大帝国を築き上げた古代最大の帝王。また、各地の学問・文化・宗教を保護し、東西文化の交流を推進した。
*レヴィン(1890~1947)
ドイツ出身で、アメリカで活動した心理学者。思春期にある若者を、大人と子どもの中間に位置する「境界人」(マージナル・マン)と名付け、青年の概念を定着させた。
人間の定義は数多くありますが、上記のことばは人間のあり方の本質を鋭く突いています。戦後の民主化教育は「人権の尊重」を大上段に掲げました。それは「滅私奉公」の反動で、当時としては正しい設定でした。しかし、「個人」と「人間」についての絶えざる検証と確認をしなければ、ことばの一人歩きによって、権利の過度の主張による他者への侵害の正当化、自由と放縦の取り違えを生じさせます。現代の教育の課題である規則や秩序を軽視する傾向や道徳感の希薄化への対策は、その当然の帰結なのです。
ここにアリストテレスのことばの重みがあります。「人間は社会(ポリス)的動物である」。そもそも人間とは、社会のなかで他者とのかかわりにおいて生きている存在で、ひとり個人として在るものではありません。したがって、「人間を教育する」とは「社会あるいは集団における人間を教育する」ことなのです。職業をもち、自分で生計を立てる人のことを「社会人」といい、「大人」を意味します。つまり、社会に出て、社会のなかで健全で安定した生活をおくれる人が「大人」なのです。
前回も記しましたが、高校生にとっての社会とは「学校」です。集団とは「学級」であり、様々な活動のおける「仲間」のことです。私たち教師はそのなかで他者から是認され、求められる「人間」を教育しなければならないのです。その際、留意しなければならないことがあります。それは「生徒」を子どもとして見ないということです。親にとっては子どもですが、教師にとってはあくまでも「生徒」です。「大人」との対立概念でいえば、「子ども」と「大人」の中間的存在、レヴィンが命名した「境界人」すなわち、「青年」としてとらえるべきです。
実のところ、私は生徒を「子ども」と呼ぶことを好みませんし、そのように見たこともありません。人間というものはどのように見られているかで、方向性が大きく変わります。「本校の生徒は~だから、…はできない」ではなく、「本校の生徒の~を~でないように指導し、…できるようにしよう」でなければなりません。「大人」、「社会人」には誰にも平等に権利が与えられています。それとともに「社会」には誰もが守らなければならない法やルール、守るべき秩序や道徳があります。「子ども」のように甘えが許されないのが社会です。「社会的存在」とは「大人」として恥ずかしくない存在という意味なのです。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」 第32号,平成22年12月6日.
* プラトン(427~347BC) 27に同じ
*M=ウェーバー(1864~1920)
ドイツの社会学者。社会的な事象の因果関係を探究する方法を用い、近代社会の政治構造、資本主義の成立につ いて研究した。現代社会学は彼を創始とする。主著は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『経済と 社会』など。
*プラグマティズム
19世紀後半から20世紀にかけてのアメリカの思想。哲学的には実用主義、真理の有用性を説き、教育学とし ては問題解決学習と唱え、教育の目的を民主主義の理想を全人的教育によって構築することとした。
*J=デューイ(1859~1952)
プラグマティズムを大成したアメリカの哲学者・教育学者。知性を問題解決の能力であるとする創造(実践)的 知性論を説き、問題解決学習を広めた。哲学と教育の課題は自由主義・民主主義の再構築であるとする。主著は『哲 学の改造』、『民主主義と教育』、『学校と社会』など。1919年に来日している。
今回をもって、プラトンのことばを終わりにします。最後を締めくくるのは、彼の哲人政治および理想国家論です。もともと、名門貴族の出身で、父も祖父も政治家であった彼は、国家の安全・平和と国民の幸福を実現するためには、やはり政治がよくなければならないと考えました。プラトンはソクラテスのような偉人を死刑にした当時の民主制を評価しませんでした。それどころか、個々の資質に疑問のある民衆による政治は民主政治ではなく、衆愚政治であると批判しています。M=ウェーバーは「民主主義においては政治家レベルは国民レベルに比例する」と言いましたが、けだし、名言です。
プラトンは、まず、国家を人間の精神に見立て、知恵・勇気・節制という徳を実現する階層を定めます。知恵は統治者、勇気は軍人、節制はその他の職業従事者です。そして、統治者は哲学するものでなければならないとしているのです。これを哲人政治または哲人王と言っています。ここでプラトンの言う哲学は学問一般と考えてください。厳密に言えば、「知を愛し求めるもの」のことです。
さて、第二次世界大戦後、我が国の学校教育の理念のひとつとなったのはプラグマティズムの教育観でした。民主社会を実現する公民的資質を育成し、「学校は社会である」とするJ=デューイの立場をとるならば、それ自体小さな社会である学校・学級にあって、どのような人物が指導にあたるべきか。これをプラトンの哲人政治に適用させると、見識をもった「知を愛し求めるもの」による指導ということになります。ここからすると、求められる教師像は明らかです。生徒はどのような教師を信頼し、尊敬するか。教師はどのような校長を信頼し、尊敬するか。また、保護者や地域の人々も、どうであろうか。
学校が社会性、公共性を身につけさせ、相互の親愛を育み、生徒一人ひとりの自己実現を果たすことを目的とするならば、教師は「知を愛し求めるもの」でなければなりません。ここで、「知」とは何かが問題です。仏教では知を発展段階として3つに分類しています。「聞慧」・「思慧」・「修慧」。「聞慧」とは学んで得た知識・学識、「思慧」とは知識・学識を自己の経験や思索に基づいて構成した見識・人生観・世界観、「修慧」とは見識・人生観・世界観を統括して、他に範を示す判断力・表現力・実践力のことです。これが知の総体です。この修得は容易なことではありません。しかし、愛し求め続けなければならないのは確かですし、それが私自身の責務であることもまた、言うまでもありません。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第31号,平成22年11月29日.
* プラトン(427~347BC) 第27号に同じ
*ヘシオドス(生没年不詳)
BC8世紀頃に活躍した古代ギリシャの詩人、文筆家。ホメロスと並び称される。農民の子に生まれたが詩の女 神ムーサの命により詩人となったと伝えられている。代表作には神々の誕生と系譜をまとめた『神統記』、農民の 生活と労働の尊さを記した『労働と日々』がある。
今回も名詞を紹介します。エロスはプラトンの哲学において、イデアとともに重要な用語で、イデアにあこがれる魂の働き、真の知を追い求める精神のことです。人間はエロスをもってこそイデアを知ることができる。哲学の語源はphilo-sophia(フィロソフィア・愛知)、すなわち、知を愛し求めることですから、エロスこそが哲学の精神的根源ということになります。
元来、エロスは古代ギリシャの愛または恋の神で、ヘシオドスによると、太古の昔、宇宙の創造のころから存在し、優美・官能を属性とし、「不死なる神々のうちにて、こよなく美しく、手足の力を奪い、すべての神々、すべての人々の胸のうちなる心と賢き諫めとを打ち負かす」と記されています。また、いわゆるギリシャ神話では、愛と美の女神アプロディーテの子で、あるときは可愛らしい少年、ある時は凛々しい美青年として描かれています。古代ギリシャの人たちも、なぜ人は人を恋するのかは難問でした。彼らはそれをエロスの仕業とし、エロスの金の矢が当たると相手に恋し、鉛の矢が当たると相手を嫌うとしました。エロスはローマ神話ではキューピッド、変われば変わるもので、アメリカではキューピーへと変身しました。赤ちゃんの姿をしたあのキューピーです。
ところで、一般に、エロスは性的身体的な愛、それに対しキリスト教で説かれるアガペーは万人に向けられる精神的な愛と分類されています。愛については、別の機会に詳しく述べますが、エロスが性的身体的な愛というのは適切ではありません。特にプラトンによれば、エロスは真理を探究する知的なエネルギーで、大切なもの、価値あるものを求める愛を意味しています。人間はなぜ真理を求めるのか、なぜ知を求めるのか。プラトンはその問いに対して、実利実用の観点からではなく、人間の本性として、恋の衝動のように求めざるを得ないものとしてとらえたのです。
先頃、我が国で2名のノーベル賞受賞者が誕生しましたが、おふたりがなぜ、研究に励んだか。結果として、理論が具体化し、実利実用へと発展しましたが、研究それ自体は真理へのあくなき探究心、知への愛であったと思われます。こうした先師先達の信念と努力が現在の私たちの生活を支えています。現代の学問・科学技術、政治・経済・法律、文化・芸術、娯楽さえも先人の「知への愛」が生み出したものです。その功績と労苦の一端を知るためにも、学校教育があると思うのですが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第30号,平成22年11月22日.
* プラトン(427~347BC) 27に同じ
前回の続きです。ことばによる定義には限界があり、「高校生」を定義しようとすれば、最後には「高校生は高校生である」、「勇気」を定義しようとすれば「勇気とは勇気である」とならざるを得ません。そこで、プラトンは徳や価値について、万人に共通する理念をイデアとよび、それこそが真実の存在で、この現実の世界を超えた世界に実在しているとしました。そんなものがあるのかと疑問をもつのも当然ですが、これが2500年以上も展開している観念論あるいは理想主義の始まりなのです。私たちは日常生活において、しばしば「Aさんの方がBさんよりも美しい」などと言います。なぜそんな判断が出来るのでしょうか。プラトンの説によれば、それは私たちが美のイデアを知っているからです。美の理想を基準においてAさんとBさんを比較するからそのような判断ができるのです。
私が思うには、プラトンの発想は、意外に素朴なところから来ているのではないでしょうか。キリスト教と異なり、ギリシャには多くの神々がいて、それぞれ、自然、事柄、徳、価値などの属性をもっています。例えば、アプロディーテは愛と美の女神、アポロンは太陽、勇気、調和の神、アテナーは知恵と勝利の女神です。ギリシャの神は人格神で、絵画や彫刻にも人間の姿で描かれています。その神々を抽象化する、つまり神から人間的な部分、身体など目に見えるものを取り除くと観念だけが残ります。
プラトンはイデアを知ることが人生の目的であるとします。彼にとっては、現実の世界は影のような仮象であり、真実ではありません。真実とはある人にはこのように見え、ある人のはあのように聞こえるというものではなく、誰にでも、いつでも普遍的に、永遠に存在するものなのです。では、どうすれば、イデアを知ることができるのでしょうか。彼によれば、感覚に惑わされず、純粋に知性を働かせることに尽きるのです。そもそも、私たちが真実を知ることができないのは感覚によってごまかされているからです。それを抑えて、知性を発揮する。そうすればイデアを知ることができる。これを道徳に適用すると、「感情や欲望を抑えて冷静沈着になる、そうすれば、法や秩序を守り、善なる行いができる」ということになります。知性主義的な道徳観です。
さて、イデア論を拡大解釈すると「教師のイデア」も存在します。すなわち「理想の教師」です。私たちはこれまで、いろいろな教師に出会いました。恩師、先輩、同僚。そして、「こんな先生になりたい」、その反対に「この先生ではだめだ」などと思ったりしたことでしょう。理想はあくまでも理想にとどまるかも知れません。完全無欠な教師などいるわけがない、というのももっともな論評です。しかし、教師である以上、私たちは「理想の教師」をいつまでも追い求めなければならないのです。「理想の教師」といっても複雑定義はそれこそ、無用です。生徒から感謝されたい、尊敬されたい。そんな思いは教師なら、誰もがもっているはずです。そこから理想への道が拓けるはずです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第29号,平成22年11月15日.
* プラトン(427~347BC) 27に同じ
ソクラテスは問答法で「勇気とは何か」、「正義とは何か」などを問題としました。日常普通に使っていることばでも、改めて問われると答えられない。それはそれで無理もないことのですが、知らないのに知っていると思っているのがよくないのです。「あの人は勇気がある」「勇気とは何ですか」「知りません」。これではだめです。そこで、ソクラテスは論理的に問答をくり返し、「勇気とは~である」、「正義とは~である」と、いわゆる概念定義をしました。
現実生活ではどうでもよいことのように思えますが、ソクラテスのこの姿勢はきわめて教育的です。私たち教師は生徒指導でも、進路指導でも、しばしば、抽象的な概念を用いています。「高校生らしい生活をしなさい」、「もっと大人になりなさい」、「そんなことは常識ではないか」と説きます。あるいは「社会性」、「公共性」、「明朗」、「誠実」などをもつべき資質として提示します。では、「高校生」とは、「大人」とは、「常識」とは、「誠実」とは、と問われたならどう説明しますか。生徒はしばしば問います。「高校生らしいとはどういうことですか」、「大人とはどういう人のことですか」。それに答えうる弁論能力も教師にとって必要とされる昨今です。
ところで、ここに難題があります。ことばによる定義には限界があるということです。「高校生」を定義しようとすれば、それこそかなり多くのことばが必要です。「正義」とか「勇気」などの徳や「善」、「美」などの理念に関しては、なおのことです。最終的には「高校生は高校生である」、「勇気は勇気である」とならざるを得ません。
プラトンはそこから知的な飛躍をします。それは現象を超えて、普遍的に存在する真実在があるということです。例えば、私たちは普段何気なく、「彼は実に勇気がある」とか「あの人よりもこの人の方が美しい」などと言いますが、この場合、私たちは、どこかに「勇気」や「美」の理想、典型を想定しているのです。価値や理念、徳などのこのような理想や典型をプラトンはイデアと呼びました。イデア(idea)は英語のアイデアで、観念と理想という意味があり、どちらも現実の対立語です。感覚でとらえられない観念や理想こそが真実在であり、現実のある「美しい花」や「美しい人」は「美」のイデアを部分的に有している仮象にすぎない。美しい花はいつか枯れ、美しい人もいずれ老いる。しかし、「美そのもの」は永遠であり、これこそが真実在である。イデアを求めよ、とプラトンは言います。それは「感覚的な誤謬を消し去り、知性により観念を認識せよ」だけでなく、「現実に惑わされることなく、理想を目指せ」、という意味でもあります。
私は常日頃、教師は理想主義者であるべきだと言っております。真の理想主義者とは単なる夢想家ではなく、厳しく現実をみつめ、理想の何たるかを真摯に探究するものでなければなりません。何をもって理想とするか、そこに教育の地平が開かれるのです。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第28号,平成22年11月8日.
* プラトン(427~347BC)
ソクラテスの弟子。哲学をはじめて体系化した人物で、理想主義の哲学を説いた。 彼は目で見たり、耳で聞いたりする現象はすべて仮の存在であり、真実在(イデア)は 知性による直観でとらえられるものであり、この世界を超えたもう一つの世界にあると した。また、理想的国家とは、統治者・軍人・生産者がそれぞれ、知恵・勇気・節制の 徳をもち、哲学者が統治するもの(哲人政治)であると論じた。ソクラテスは書物を残 しておらず、彼の哲学はプラトンの著書によって知られる。主著は『ソクラテスの弁明』 『クリトン』『パイドン』『饗宴』『国家』など。
今回は名言ではなく、名詞の紹介で、主人公はソクラテスの弟子プラトンです。プラトンはアテネの名門の家に生まれ、将来は政治家として活躍するはずでしたが20才の時、ソクラテスの門下に入り、8年後、民主制の名の下に、師が処刑されるに至り、政治家ではなく、国家と政治、人間の本質を問う哲学の道を志します。ソクラテスの死後、イタリアや北アフリカに遊学し、多くの学問に接し、アテネに帰国後、アカデメイアという学園創設しました。これが、西洋社会では初めての本格的な学校で、およそ、900年間続きます。映画のアカデミー賞などで用いられる英語の「アカデミー」の語源で、学問や学術、学芸を意味するようにもなります。有名なところでは、ルネサンス時代のプラトン・アカデミー、ブルボン朝時代のフランス王立アカデミーがあります。
名前の由来は、伝説の英雄アカデモス。プラトンの時代、その英雄を祀っている聖森がアテネの郊外にあり、そこにつくられた学校であるからアカデメイアとなったのです。ちなみにアカデメイアには快楽という意味があり、勉強は彼らにとって、快く楽しいものだったのです。
プラトンは理想の教育とは、個人の性格や能力に応じたものであるとしました。ただし、18歳までは文学(国語)、体育、音楽を徹底して学び、国語力、文章表現力、言語表現力、歌唱力、演技力を身につけ、スポーツに通じ、18歳を過ぎてから、才能のあるものは学業を続け、それ以外のものは農業・工業・商業に従事します。ということは18歳までは義務教育であり、現代の日本よりも教育年数は長いことになります。学業を続けるものはその後2年間の訓練を受け、20歳で軍人となります。さらに才能があると認められたものは、哲学、数学、科学、文学、音楽、体育などの研究者・指導者になるのですが、勿論、その数は僅かでした。西洋の教育制度は、大にも小にも、プラトンの教育論を基礎とし、日本も明治以降、軍人になるかは別として、この制度を基本としています。つまり、初等・中等・高等教育という段階的教育です。
プラトンが目ざした具体的目標は政治家の育成で、孔子と同様ですが、アカデメイアはそれに加え、真理の探究者を育成するための学校でもあり、教授方法は講義と議論(対話)でした。基礎をしっかり学び、応用へと向かう。いつの時代でも、それが教育の基本です。
矢倉芳則 「 校長通信『清き山河』」第27号,平成22年11月1日.
* ソクラテス(470?~399BC) 21に同じ
長く続けてきたソクラテスのことばも、今回で終了します。ソクラテスの理想やその実現に向けての生き方は、西洋哲学は勿論のこと、世界の精神史に決定的な影響を与えました。また、教育者としても、中国の孔子ととともに、希有な存在で、彼が用いた問答法は論理的思考、さらにはディベートやコーチングの起源とも言えるでしょう。
今回紹介したことばは、実のところ、ソクラテス自身のことばではありませんし、プラトンの著書や当時のその他の文献にも記されていないものです。ソクラテスが従容として死を受け入れたことを疑問に思った後世の誰かが、死を迎えた諦念として理解しようとした結論かも知れません。しかし、ソクラテスに諦念はありませんでした。運命を受け入れて死ぬのではなく、信念と誇りをもって死のうとしたのです。信念とは、アテネの民主制の正しさであり、それを実現するアテネ人こそギリシャ、否、世界第一の善き市民であるということでした。誇りとは信念を貫き、天地人に恥じない生き方です。
もし、「悪法も法である。」ということばをソクラテスの真意から解釈すると「法内在的正義」の尊重ということになります。民主制においては法の支配が絶対です。法と制度による秩序が何よりも優先されます。たとえ、裁判官が間違った判決を下したとしても、その裁判が制度や手続きの上で正当に行われ、裁判官の立場が法により保障されているかぎり正しいということです。身近な例をあげると、野球でも、サッカーでも、柔道でも誤審があります。サッカーW杯でのマラドーナの神の手、第1回WBC日本対アメリカでの三塁走者西岡選手のタッチアップなどは、明らかに審判のミスです。しかし、審判の立場がルールに定められているならば、誤審もまた有効なのです。だからこそ、政治や法に係わるもの、権力や権威をもつものは、品性と教養ある識者であり、高潔な人格者でなくてはなりません。
ここしばらく、検察官の不正が問題となっています。ある人を起訴するか不起訴とするか、というきわめて特殊な権威と権力を有する立場にあるものが、不正を犯すことは許されません。ソクラテスが生命をかけて伝えたのはこのことです。私たち教師も、生徒の学力を評価します。進学や就職に推薦します。当然ながら、個人の運命を左右する立場にあります。これはきわめて責任重大で、高い見識、正しい観察や考察と判断力が求められ、独断や偏見、憶測や思い込みを排除する謙虚さが不可欠です。あらためて、教師の使命、品格と尊厳を問い直し、自己を見つめようではありませんか。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第26号,平成22年10月25日.
* ソクラテス(470?~399BC) 21に同じ
しばらく、ソクラテスのことばが続いています。しつこいようですが、あと2回、出させていただきます。“ソクラテスから学ぶ教育”はここからがその真髄です。
そもそも、ソクラテスは罪を犯したのか、仮にそうだとしても死刑に価するものなのか、これは当時から大いに疑問とするところでした。アテネに古くからある祭典のため、刑の執行が30日間延期になったそのあいだ、ソクラテスに対する監視はきわめて弱いものでした。面会は自由で、彼の弟子や友人たちは脱走の準備をし、彼を説得します。また、裁判からしばらくの時間が経ち、ソクラテスを死刑にと主張した人たちも冷静さを取り戻し、さっさとアテネから出て行ってくれ、というような心境だったようです。しかし、ソクラテスは断固として「刑に服する」と言うのです。
ソクラテスは「合法的な手続きを経て死刑になったからには、その決定にしたがうのがアテネ市民としての当然の義務である」と断言します。プラトンの著書『クリトン』によれば、もし、法が人間の声を発するならば、脱走しようとする自分を厳しく責めるであろうと記されています。
紹介したことばは、ソクラテスが刑に服する理由としてあげられているものです。「ただ生きるのではなく、善く生きることが大切である」。脱走して生きることは、合法的な決定に反する不正である。不正をして生きることは、一生、自分を責めて、自分を恥じて生きることである。自分はこれまで、アテネの人々、特に若者たちに、人間としていかに生きるか、本当に善いもの美しいものとは何かを説いてきた。それが、いざ自分のこととなると、法の遵守、法の下の平等という、民主主義が最も尊重しなければならないものを破るのか、そんな自分を誰が尊敬するか、そんな自分の教えを誰が支持してくれるというのか。自ら正しく生きる、その実践こそが大切なのである。およそこのように、ソクラテスは主張します。
ここから、私たちが学ぶふたつのことがあります。ひとつは教育者としての姿勢で、「言ったことは実践する」ということ。愛だ、思いやりだ、正義だと言っていても、それを実践できないものは信用されません。特に自分が当事者となったとき、いかに責任を果たすかが重要です。他人の不正をさんざん批判しておきながら自分のこととなると逃げ腰になる、一方、かつての自分を棚に上げて相手のことばかり糾弾する。昨今の政治家批判ではありませんが、親も教師が心すべきことでしょう。次に、教育とは究極には人格の完成を目的とするということ。近年、唱えられている「生きる力」とか「豊かな心」とは人格に係わるものです。知識を得ること、技術・技能を身につけることは手段であって目的ではありません。人間として生命を受けたかぎり、「生きること」は当然です。生きていくには働かなければならず、知識も技術・技能も必要です。しかし、それだけでも不十分です。人間は一人では生きていけないのであるから、他人に認められ、信頼され、愛され、助け合い、励まし合うことが求められます。それが「楽しく生きること」です。だから、「善く生きる」ことが大切なのです。「善く生きる」ことは「楽しく生きる」につながる。そのことを生徒に伝えましょう。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第25号,平成22年10月18日.
* ソクラテス(470?~399BC) 前回に同じ
*ダイモニア
daimonia。英語のdemonの語源で、悪魔・悪霊の意味に転じたが、本来は霊的な働きを示す。ソクラテスにおいては、~してはいけないと自分の行為をいさめるもの、自制する神秘的な声であると理解されていた。
*戦後処理の政争と権力闘争
敗戦後、アテネにはスパルタの傀儡政権が成立し、その独裁体制の指導者であるカリキュレスやクリチアスは 若き日、ソクラテスのもとで学んでいた。当時はむしろソクラテスとは反目していたが、ソクラテスが若者堕落させるという罪状とは無関係ではない。その傀儡政権が倒され、彼らが追放され、勢力を回復した民主派のリー ダーであるアニュトスと彼の部下ともいえるメレトスにより、ソクラテスは告発された。
ソクラテスは紀399年、アテネの法廷で死刑を宣告されました。罪状は「アテネの神を認めず、他の新しいダイモニアを導き、若者に不当な教育をし、彼らを惑わし、堕落させた」というものでした。問答法により、人々に真の生き方と徳の学びを進めた彼の行為は有力者・指導者たちから反感をかい、それが根強く「ソクラテス憎し」の感情を形成していました。加えて、スパルタとの戦いの敗戦による戦後処理の政争と権力闘争が背景にありました。また、敗戦の責任者たちのなかに、ソクラテスを師と仰ぐ人々がいたことも彼には不利でした。
裁判は市民から選ばれた裁判官500人の直接投票で、はじめの裁定では僅か30票差で有罪が裁定され、ソクラテス自身の最終弁論が行われました。友人や弟子たちは国外追放かを選ぶよう進言しますが、ソクラテスはなおも自分の無罪を主張し、アテネ市民を叱責します。それがさらなる反感を生み、次の投票では360対140で、死刑が決定しました。ソクラテスは最後まで自分の正しさを主張しました。その経緯を記したものが弟子のプラトンによる『ソクラテスの弁明』で、紹介したことばは、判決後、裁判官たちに述べたものです。ここには、とてつもない信念、誇りと自信がうかがい知れます。第8号で紹介した孟子の「自ら省みて直くんば、千万人といえども吾往くかん。」とも符合するでしょう。
そもそも彼は不屈の闘志と信念の人でした。かつて、自分が裁判官であったときも、449人を相手にただ一人無罪を主張し続けました。いつでも、どこでも、誰にでも、真実を述べ、正義を貫く。正しいことを正しいとし、間違いを間違いとする。その信念が、心ある人々の信頼と感動をよびます。プラトンは、この裁判を契機に政治家への道を捨て、ソクラテスの後継者となることを決意しました。
7の曾子のところでも記しましたが、私は、常日頃、教師の力量とは学習指導でも生徒指導でも、「技量」、「姿勢」、「信念」であると思っています。そのなかの「信念」とは個々の教師を教師たらしめるバックボーンで、「自分はこれで教師をやっているんだ」という自信と誇りです。ソクラテスは「人類の教師」とよばれた哲人ですから、彼のように自分の生命にかけても、とまではとても言えません。しかし、授業をはじめ、生活の至るところにまで、誰に対しても、生徒は勿論、教師仲間にも校長にすらも、譲れないものがある。これが「信念」です。各自の理想的教育観、教師としての人生観・世界観と言ってもよい。それさえあれば、あらゆる場と状況において、いかなるときにも、自分と人生を語れます。夢と希望を語れます。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」第24号,平成22年10月12日.
* ソクラテス(470?~399BC) 前回に同じ
*ペロポネソス戦争 19参照。
*相対主義
真理や価値の判断には万人に通じる絶対的な基準はなく、善悪・美醜などについても個々人の見解がそれぞれ正 しいとする立場、ソクラテスと同時代のソフィストたちが主張した。ソフィストについては21参照。
*『ソクラテスの弁明』
プラトンの著書。ソクラテスの裁判をとおして、彼の人生観や愛知の精神がが記された古今東西屈指の名著。
21の「無知の知」で記しましたが、ソクラテスは弟子のひとりから「この世の中で一番賢いのはソクラテスである」というアポロンの神託を聞きました。自分が知恵ある者ではないと自覚していた彼は、神託の真意を探るために、世間で賢者と呼ばれている人を訪ね、いろいろ問答します。その結果、やはり彼らは無知だと知ったのです。では、なぜ無知なのでしょうか。彼らは確かに自分たちの専門分野についてはよく知っている。詩人は詩について、政治家は政治について。しかし、ソクラテスは言います。「この人たちは善美のことについて何も知らない」。
古代ギリシャでは、善と美はほぼ同じ意味で、万人に通じる理想的で普遍的な価値のことです。世間で賢者とされている人たちはそのことがまるで分かっていない。確かに、知識はあらゆる分野にわたっています。そこで、すべての人間が求めなければならない知とは何かが、問題となります。ソクラテスは、善悪、美醜、正不正についての知、さらには勇気や正義についての知がそれであるとしました。つまり、価値や徳についての知です。
当時のアテネはスパルタとのペロポネソス戦争に敗れ、政情不安、人心は乱れ、人々は利害や打算のために生き、何をしようと個人の勝手だ、人により考え方が違うのだから、善悪は一概に判断しえないなどという価値の相対主義がはびこっていました。戦争を除けば、何やら現代日本の世相をみる思いがします。ソクラテスはそのような時代の人々、特に若者に、本当に身につけるべき知について伝えたのです。
生きているかぎり、自分が愛し求める知とは、人間が人間としてもつべき価値や徳についての知である。それは正しく生きるために必要なもので、教育とはそれらを学ばせ、習得させることを目的とする。様々な専門的知識を得、数々の技術や技能を修め、健康な身体と体力を鍛えるのも「人間として正しく生きる」ためであるとソクラテスは説きます。
「世にも優れた人よ、君はアテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大なポリスの人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことばかりに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。」(『ソクラテスの弁明』)と彼は言います。勿論、金銭は大切です。地位や名誉も大切です。どれも無いよりはあった方がよい。しかし、それだけではだめなのです。ここに、彼が「人類の教師」とよばれる所以があります。そして、今日の私たち教師の心得として、常に振り返らなければならないことがあります。「学校は世間知らずだ」、「世間は甘くはない」、「きれいごとでは生きていけないよ」。そんな声も聞こえてきます。しかし、私は学校だけが、教師だけが説き続けなければならない美しいこと、正しいことがあると思っています。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」 第23号,平成22年10月4日.
* ソクラテス(470?~399BC) 前回に同じ
ソクラテスは今でいう人格教育、心の教育、端的に言えば道徳を哲学の目的の主なものとしました。彼が求めた知とは、究極には徳に関する知であり、その知を体現した徳のある生き方が理想でした。徳とは人間性の善さのこと、優れている資質のことで、具体的には勇気、節制、誠実、温厚、正義などのことですが、ここで、ソクラテスは独特の立場をとります。彼は、「徳を教えることはできない」、「徳に関する知も教えることはできない」と言うのです。
ソクラテスは徳を修得するには、まず徳について知らなくてはならないとしました。例えば、勇気をもつには勇気について知らなくてはなりません。勇気とは何かを知らずして、勇気を身に付けることは出来ないからです。そこで、彼が用いた方法が有名な問答法です。「正義とは何か」、「善とは何か」と問い、相手の答えを分析し、矛盾や誤りを指摘して、「正義とは~である」、「善とは~である」との結論に導きます。それについてソクラテスは、自分が正義や善を教えているのではない、相手がその知にいたる手助けをしているにすぎない、と言います。彼の母の仕事が助産婦であったことにちなみ、後世、この問答法は助産術とよばれました。
道徳教育の必要性が叫ばれています。勿論、私も賛成ですが、法や規則、ルール、マナーを守り、秩序を尊重することは、道徳ではなく、道徳の前段階です。それを身に付けずして、公共性・社会性は育たないのですが、本来の道徳とは、「人間としての道(正しい生き方)を自ら体得すること」を意味します。先にのべたように、ソクラテスは徳について知ることを大切だとして、「徳は知である」と説きました。彼にとって徳育と知育は同一のものでした。道徳とは「しつけ」によって身に付くものではなく、主体的な学びの意欲によってつくられるものなのです。
優れた教師とは生徒に学ぶ力をつけさせる教師です。生徒に学ぶ喜びを与える教師です。ただし、これは簡単にはいきません。ソクラテスでさえ、愛知の精神を伝える過程で、憎まれ、嫌われました。「君は~せよ」「OOは~だ」と教え込む方がはるかに楽です。生徒に自ら学ぶ姿勢を育てることは難しい。彼らも嫌がる。嫌がることをすれば嫌われる。しかし、そこを乗り越えなければ、互いの成長はありません。ましてや、個性化だの、自由主義教育だのを隠れ蓑にして、ソクラテスの説く主体性とは大きくかけ離れた「生徒の自主性を尊重する」、「結局は本人しだいだ」などいう放任は無責任です。真の自由、個性化、主体性の発揮のためには自ら学ぶ意欲をもつことが不可欠で、教師の強い指導力が必要なのです。
矢倉芳則「 校長通信 『清き山河』」第22号」平成22年9月27日.
* ソクラテス(470?~399BC)
古代ギリシャの哲学者。事実上の哲学の祖。はじめ、自然哲学を学んだと伝えられる が、ペロポネソス戦争敗戦後、精神的にも疲弊・堕落したアテネの人々に勇気や正義、 人間としてのあるべき生き方を説き、愛知の精神を唱えた。しかし、政争と有力者たち からの反感により、死刑の宣告を受け、毒杯をあおぎ刑死した。その生涯と思想はプラ トンをはじめとする弟子や友人たちにより記されている。
*自然哲学 20「自然哲学者」参照。
*ペロポネソス戦争 19参照。
*愛知
愛知(フィロソフィア)とは、実利・実用にかかわらず、世界や人間、人生についての真理をそれ自体、価値 あるものとし、それらに関する知を純粋に求めることで、古代ギリシャ哲学の支柱となった精神である。日本で は、明治時代、西周により哲学と訳された。
*ソフィスト
「知恵ある人」という意味で、アテネの民主制時代に活躍し、市民に弁論術や修辞学を教えた職業教師の総称。 一般に価値の相対主義を説き、善悪や美醜の判断は個々人の判断により相違があり、普遍的基準はないとした。「人 間は万物の尺度である」と述べたプロタゴラスがその代表とされる。
ソクラテスは今から2500年ほど前のギリシャの哲学者で、西洋思想の源流をつくりあげた人物です。当時のギリシャはそれぞれ独立した都市国家(ポリス)の連合体で、政治・経済のみならず文化においても世界随一の先進国でした。特にアテネは市民により行政と司法が執られるという民主制を確立していました。
ソクラテスは民主政治の黄金時代に青年期をおくりましたが、彼の晩年、アテネはスパルタとのペロポネソス戦争に敗れ、国土も人心も荒廃しました。さらに、ソフィストとよばれる一団が、道徳や価値の絶対的基準を否定し、あらゆる判断は個々人の主観によると唱え、相手をいかに弁論でうち負かすかという思想を展開していたました。
あるとき、弟子の一人があのアポロン神殿の神託をうかがい、「世の中で一番賢いのはソクラテスである」と宣せられました。自分を賢者などと思っていなかったソクラテスはその真意を探るために賢者と評判の高い人たちを訪問しました。そして、彼らがそれぞれの分野での専門的なことはよく知っているが、人間としての、人生の善美については無知であり、しかもそのことに気付いていないことを知りました。「自分は無知であることを知っている。だから、その分だけ自分の方が賢い」。これが有名な無知の知です。
「知らない」とは恥ずかしいことではありません。むしろ、「知らない」のに「知っている」と思っていることの方が恥ずかしいのです。言うまでもなく、「知らなかったことを知るようになった」、「分からなかったことが分かるようになった」が学習の喜びです。内容が難しければ難しいほど、成し遂げた満足感はより大きくなります。5で「知るを知るとし、知らざるを知らずとす。これ、知るなり。」という孔子のことばを紹介しましたが、「無知の知」もこれに符合します。「自分は無知」という謙虚な自覚が愛知の精神を生み、やがて知に至る。この繰り返しが真の学習習慣なのです。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」 第21号,平成22年9月21日.
*デルフォイ
古代ギリシャのポリス、地名。デルポイ、デルフィとも表記される。アポロンの神殿の所在地。
*エディプス・コンプレックス
精神分析学者フロイトの用語で、男子は本性的に母への恋慕をもち、父への敵意をもつという深層心理のひとつ。 いわゆる、マザー・コンプレックスのことで、古代ギリシャの詩人ソフォクレスによる『オイデプス』をモチーフ とする。オイデプスは、ギリシャ神話のテーバイ伝説の主人公で、アポロンの神託により、父を殺し、母を娶る呪 われた子と予言され、荒野に捨てられたが、数奇な運命をたどり、ついには予言の通りになった悲劇の人物。
*ソロン(639?~559?BC)
古代ギリシャの政治家。アテネの国政を担当し、貴族と平民の対立を解消しようとしたが、失敗に終わった。
*自然哲学者
紀元前6世紀にギリシャで活躍した哲学者たちのこと。宇宙の成立や万物の根源を理性的に探究した。タレス はその祖で、「万物の根源は水」、ヘラクレイトスは「万物は流転する」、ということばを残した。また、数学で も有名なピタゴラスは「万物の根源は数」であるとし、世界は数学的な秩序と調和により成り立つとした。
デルフォイは古代ギリシャのポリス(都市国家)のひとつで、アポロンの神殿と神託所があり、世界の中心を思われていました。また、各ポリスの財産庫も置かれ、特別な場所だったようです。現在は遺跡だけが残り、世界遺産となっています。
アポロンは古代ギリシャで最も崇拝された神で、太陽の神、音楽の神、正義と勇気、調和と秩序を体現する神です。また、予言をつかさどる神でもあり、王侯貴族をはじめ、一般市民もことあるごとに、神託を受けていました。特に、為政者たちは戦争や政治、後継問題について神託にしたがっていました。また、「エディプス・コンプレックス」の起源になったオイデプスの物語も神託に深く関わるものとして有名です。
さて、今回のことばはその神殿に掲げられていたもので、その作者についてはアテネの賢人ソロンや自然哲学者のタレス、ヘラクレイトス、ピタゴラスなど諸説があります。ほかにも、神殿には「過剰のなかの無(多くを求めるな、足るを知れ)」、「契約と破滅は紙一重(無理な誓いはするな)」があり、このことばも元来は、「人間は死すべき有限な存在であることを自覚せよ」または「分をわきまえよ」という戒めでしたが、それを、内面的な自己探求のことばとして、さらには哲学的命題として後世に伝えたのが、かのソクラテスでした。あらゆる思索も行動も自分との関わりのなかでなされます。その思索や行動がさらに自己を見つめ直す。自分への問いかけが学問と道徳の出発点であるとするのです。
教育とは窮極のところ、自己教育に行き着くのものです。個性化教育の華やかな時期、「生徒の関心に応じた○○」と、頻繁に言われましたが、すべての生徒が共通にもっている関心は「自分への関心」です。そして、自分を高めるためには自分を知ることから始めなくてはなりません。「汝自身を知ること」からすべてが生まれます。
矢倉芳則「 校長通信 『清き山河』」 第20号」,平成22年9月13日.
* ヒポクラテス(460~377・BC)
古代ギリシャの医学者。エーゲ海のコス島に医師の子に生まれた。ペロポネソス戦争 で、多くの傷病者を救い、疫病の治療にもあたった。後世、「医学の父」「医聖」とよ ばれる。ギリシャ各地に赴き、医業を営み、のちに多数の医師を集めて研究集団をつく り、多くの医学書を編纂した。
*ペロポネソス戦争(431~404BC)
アテネとスパルタを中心としたギリシャの内乱。アテネはこの戦いに敗れ、民主制と古典文化の黄金時代が終わった。ちなみに、ソクラテスの刑死は敗戦の5年後のことである。
ヒポクラテスは、驚くべきことに、当時すでに脳外科の手術を行っていたそうです。彼は観察と理性的思考に基づき、病気は悪霊に取り憑かれたことにより生じるなどの呪術的迷信的な療法や観念を排除して、病理の正しい認識と目的にかなった治療を実践しました。彼はソクラテスとほぼ、同時代に生き、ギリシャの主知主義・合理的精神を医学の面から体現した偉大な人物です。
上記のことばは、通常、「芸術家の一生は短いが、彼の残した作品は永遠である」、あるいは「芸術の神髄を究めるには、人の人生はあまりに短い」などと解釈されますが、ここでの「芸術」とは音楽や美術のことではなく、広く「技術」を、さらには「技術」を生み出す学問や知識を意味するもので、具体的には医学や医術を指します。
実は、このことば、正確には続きがあり、「芸術は長く、人生は短い。機会は逃げやすく、経験はあてにならず、判断は難しい。」と伝えられています。意味としては「医学・医術は深く、高く、神髄を究めることは難しい。人間の一生は理想に達するにはあまりに短いのであるから、時間を無駄にせず、努力せよ」となるでしょう。第12号の朱子のことば「少年老いやすく、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず。」に通じるものですから、解説は12を参照してください。
さて、ヒポクラテスは、医師としての在り方、今日で言う「医の倫理」を唱えました。それが後に「ヒポクラテスの誓い」と呼ばれているものです。自分を育ててくれた師を敬い、志をもつ後輩には自分の知識・技術を惜しみなく与える。生涯を純粋に神聖に医学に捧げる。どんな家を訪れるときでも、その家の主人と奴隷を問わず、等しく正しく医療を施す。医に関するか否かに係わらず、個人の生活についての秘密を守る。このようなことばが記されています。私たち、教育に携わるものにもあてはまる心得ではありませんか。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」 第19号」,平成22年9月6日.
* 孔子(551?~479?BC) 05参照。
しばらくの間、中国の思想家のことばを手がかりに私の人生観や教育理念を紹介してきましたが、その締めくくりとして、再度、孔子に登場願います。ソクラテス、イエス=キリスト、ブッダ(シャカ)、孔子を「世界の四聖」と名付けたのは明治時代の学者たちのようですが、20世紀を代表するドイツの哲学者ヤスパースも『大哲学者たち』という著書のなかで、現代にいたるまで数千年にわたり、学問や宗教に影響を与えた人物としてこの4人をあげています。孔子はそのなかでも、きわめて地味で、日常的な人物です。奇跡譚も伝説もないどこにでいる普通の人間のなかでの人格者、偉人。それが孔子です。
「学んだことを何度も繰り返し、自分のものとして理解を深める、何と嬉しいことであるか。志(こころざし)を同じくする親友が遠くから来て語り合える、何と楽しいことではないか。周囲の人や上司が自分を認めてくれないからといっていじけたり、恨み言を言わない、これこそが人格者というものだ」。前半はよく知られていることばですが、後半の方も並大抵の境地ではありません。
孔子は下層階級の子に生まれ、苦学して、40歳頃、魯という小国の役職に就きましたが、政争に敗れ、失脚し、30年におよび各地を渡り歩くも、どの国にも登用されずに、晩年、許されて故郷に帰り、生涯を終えました。彼の理想主義が時代と土地とそこに生きる人々に受け入れられなかったのです。それでも、人を咎めない。それが君子というものである。孔子はそう言います。
誰でも、他人からほめられたい、認められたい思っています。自分に自信のある人はなおのことです。しかし、現実はそうは生きません。むしろ誤解されたり、真意が伝わらないことの方が多い。それどころか、あらぬ噂を立てられることもあれば、不当な非難を受けることもあります。これは将来、生徒たちにもおとずれる試練でもあります。しかし、そこでめげたり、ふてくされていても、何の解決にもなりません。自分を惨めにするだけです。そんなときは、このことばを想い出しましょう。
私は、「人知らずして慍(うら)みず、 また、君子ならずや」を支えるのが「学んで時にこれを習う、亦(また)説(よろこばし)しからずや」であり、さらに、その勇気をもたらすのが、「朋(とも)あり、遠方より来る、亦楽しからずや」であると解釈しています。自分が認めらず、悔しいとき、辛いときは、ひたすら学び続け、さらなる理想と信念を貫かなければなりません。そして、そんな自分を見つめていてくれる友がいる、志を同じくする仲間がいる、自分は一人ではない。それが勇気をくれます。こうした思いをもたせることも、教育の目的のひとつです。
矢倉芳則 「校長通信『清き山河』」 第18号,平成22年8月30日.
* 荘子(370?~300?BC)
老子の後を継いで、道家思想を大成した古代中国の思想家。司馬遷の『史記』の荘子 伝に記され、実在は疑いないが、生涯には不明なことが多い。儒家の孟子よりもやや後 の人物思われる。著書『荘子』は古代の思想書としては大作で、李白や杜甫などの大詩 人に愛読され、我が国でも松尾芭蕉に影響を与えたとされている。
「すべてのものは生成と消滅を問わず、ひとつのものである」。老子の「道」、「無為自然」、「柔弱謙下」の思想を受けて、荘子が唱えた存在論が「万物斉同」です。私たちは大小・上下・優劣・美醜・強弱などの区別・対立を意識して生活しています。勿論、一般には大・上・優・美・強などを価値の高いものとして求めます。しかし、荘子に言わせると、それらは人間が特定の立場から判断したにすぎず、無限の境地からするとどうでもよいのです。その理由は、万物は究極にはすべて、等しく、見かけだけが異なり、人間には人間、鳥には鳥、魚には魚の世界があるとからです。
この思想の本旨は、私たちの日常生活における悩み苦しみへの対処を説いたもの、と私は思います。そもそも、私たちの苦悩は、優劣や美醜の差異に拘ることから生じているのですから。荘子はたとえ話をします。ここに絶世の美女がいるとします。男たちは彼女を一目見ようと騒ぎ立てる、女たちも彼女のようになりたいとあこがれる。しかし、その美女が野に出ると鳥は驚いては飛び立ち、水に入ると、魚は恐れて深く潜る。人間だけが彼女に魅力を感じているのです。
確かに、無限の境地から見ると、現実の差異はとるに足らない。美しい花は枯れ、どんな美男美女も、やがて歳をとり、いつかは死ぬ。大天才と比較すると、皆、凡人である。しかし、現実に生きている私たちは小さな差異で人生を大きく変えられます。1点違いで大学に不合格になることも、また、僅か1センチの差で優勝を逃すこともある。そんな私たちに、荘子はどのようなメッセージをおってくれるのでしょうか。
私は、荘子の思想は、不愉快なとき、運が悪いとき、思い通りにことが運ばないとき、辛くて悲しいときに最適な人生訓であると感じています。普段は社会常識にしたがって生きるのが大切で、それを逸脱しては人間失格です。しかし、発想の転換が必要な場合もあります。失恋したとき、進学や就職に失敗したとき、事故にあったり病気になったりしたとき、苦難をどう乗り切りますか。自暴自棄になったり、家出や自殺を考えてはいけません。そんなときは万物斉同、無限の境地からみればとるに足らない。「一度や二度の失敗が何だ」、「一年や二年の遅れなどたいしたことはない」、「長い人生、生きていれば何とかなるさ」。このような、したたかな人生観があることを伝えるのも、教師の心得のひとつではないでしょうか。
矢倉芳則「 校長通信 『清き山河』」 第17号, 平成22年8月23日.
* 老子(生没年不詳) 前回に同じ
今回、紹介する人物のことばは前回と同じく老子のものです。伝えられるところ、孔子は若い頃に老子を訪ね、教えを請うたことになっていますが、老子や道家の思想をみると、明らかに孔子や儒家思想への批判がみられます。孔子や儒家思想の特色は一言でいえば、道徳です。
紹介した文の意味は次のとおりです。「本来あるがままの人としての道が荒廃したから、仁義などの道徳が説かれた。親子・家族の自然の情愛が失われたから孝行だの慈愛などが説かれるようになった」。人間は本来、天地自然の自ずからなる道にしたがって生きるものであり、親子・夫婦・兄弟姉妹には親愛の情、君臣・師弟には敬愛や信頼の情があるのが当然である。それがなくなったから、道徳が求められた。道徳が強調されるのは、自然の情愛が失われ、人心が乱れているからである。このように老子は言います。
確かに、現代社会では、人間が本来もっていたはずの自然の情愛が失われているようです。凶悪犯罪・異常犯罪の多発、我が子への虐待や育児放棄も過去に例を見ません。最近取り上げられました高齢者の所在不明報告や死亡届を出さないことも不思議な話です。やはり道徳教育の出番なのでしょうか。
さて、ここで留意すべきは、道徳とは内的自律、つまり自分で自分を律することにより成り立ち、道徳教育の目的は自律心の育成にあるということです。決して、規範意識を外的に教化することではありません。勿論、私は外的教化を否定しません。しかし、「挨拶しましょう」、「誰にでも優しくしましょう」とか「いじめはやめましょう」などの仕付けと道徳教育は次元の異なるということだけは明言しておきます。そもそも、法や規則は生活を守り、活動を促進するためにあるのですが、そこに生きている人の意志の自律が無いと、単に行動を規制するもの、拘束ものとして一人歩きをしてしまいます。校則にしても、それが規制、締付けと感じられるということは内的自律心が不十分だということにほかなりません。心と形は不可分なものなのであることを私たちは日々の生活の中で生徒に教えてあげてください。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第16号,平成22年8月18日.
* 老子(生没年不詳)
古代中国の思想家。道家の思想を確立し、人為作為を捨て、ありのままにあるがまま に生きることを説いた。漢の歴史家司馬遷の『史記』のなかに、若き日の孔子が老子に 「礼」について教えを請いにたずねたとあるが、道家は儒家を批判する思想が多いため、 孔子よりも後の人物と推定されている。現在は彼の実在が疑われているが、『老子道徳 経』という書物が残っている。
「世の中で水より弱いものはない。しかし、どの器にも適し、どんな隙間にも入る。だから、これほど強いものはない」。このあとに、「しかも堅強なるものを攻めるに、これによく勝つものなし」と続きます。水は柔らかく弱い。その弱さは底がない。だからこそ真の強さがある。この逆説的な真理をかみしめましょう。
道家の思想家は、人間も水のように他者に対して、柔らかく和やかで、謙虚でなければならないとします。このことを彼らは「柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)」と呼びました。そして、さらにこのあと、有名なことばが続きます。「弱の強に勝ち、柔の剛に勝つこと、天下に知らざることなし」。柔よく剛を制す。柔道の極意はここにあります。
儒家と並んで中国の二大思想である道家(老荘思想)は川の流れのようにあるがままの自然な生き方(無為自然)を唱えました。これは何もしないことではなく、することに無理がないということです。たとえば、電車やバスのなかで、席を譲るという行為も、それが優しさであることを自覚して行うのはまだまだであって、何も思わずに自然に振る舞える方が尊いのです。人にほめられたいがために意図的に善行を為すのではなく、ありのままに為すがままにしていることが自ずから善行になる、この境地です。
人との接し方においても、へつらったり、取り入ったり、いきがったり、気取ったりせず、素直になれと言うのです。へ理屈やこじつけ、言い逃れ、責任転嫁もいけません。自分の欠点や過ちを謙虚に認め、その一方で、自分を卑下せず、やれることをやる。それが他者からの信頼を得ることにつながります。これも教師としての心得のひとつであり、生徒にあくあれとの期待でもあります。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第15号,平成22年7月20日.
* 王陽明(1472~1528)
中国明代の思想家。孔子以来の儒家思想を学び、初め朱子学に傾倒するが、それに飽 きたらず、師の陸象山とともに実践・行動を重んじた陽明学をつくりあげた。
中国思想で宋学といえば朱子学、明学といえば陽明学を指します。両者とも儒学なのですが、陽明学はより実践的・行動的な面を強調し、人間には生来の善悪是非の判断力(良知)があり、知識は行動のともなったもの(知行合一(ちこうごういつ))であるとしました。それ自体ひとつの人間観・教育観です。
日本では、江戸時代初期の中江藤樹のほか、「大塩の乱」の大塩平八郎、幕末の碩学、佐久間象山、そして、かの吉田松陰らが陽明学者として代表的な人物です。松陰の弟子、高杉晋作や木戸孝允らもその影響を受けています。
さて、心中の賊とは自分の心のなかにある様々な欲望、怠惰、不遜、嫉妬などの邪悪な心です。これに打ち克つのは山賊を退治するよりも難しい。人間としてのあるべき目標が「自律」であることを示しています。王陽明はその自律心も人間が生まれながらに持っているものとしました。それをいかに引き出すかが親と教師すべての指導者さらには為政者の力量ということになります。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」 第14号,平成22年7月12日.
* 朱子(1130~1200)
中国の宋代の思想家。1500年以上におよぶ儒家思想を研究し、朱子学とよばれる 学問を大成した。14歳で父と死別するが、勉学を続け、19歳で科挙に合格、学問を研 鑽する一方、役人として各地に赴任。そこで、飢饉や貧困に苦しむ民衆を目の当たりに し、救済製作や教育の普及に尽力するが、何度も政府を批判する上奏文を書いたため、 晩年は弾圧されるなど、役人としては不遇に終わった。死後、彼が唱えた朱子学は儒学 の正当と認められた。日本の江戸時代に、事実上、幕府の官学となった儒学とは朱子学 のことである。
朱子学は「上下定分の理」、「存心持敬」など封建社会や身分制の倫理を支える学問として、否定的に見られることがあります。しかし、宇宙の根源や万物の生成を説く存在論や認識論、さらに政治のあり方や個人の道徳に至るまで、東洋の学問としては他に類を見ない体系的な哲学です。
上記のことばは、「若い日はいつの間にか過ぎ去り、少年もやがて老いていく。志した学問もなかなか身に付かない。だから、明日があると油断せずに一日、一日を大切にしなければならない。」という意味です。私の高校時代、そのときの校長が始業式か終業式の講話のなかで、たびたび用いていました。昔は高校生を叱咤激励するためによく聞かされていた名言中の名言です。
月日の経つのは早いものですが、その真っ只中にいるものにとっては意外に長く感じられるものです。早く高校を卒業したい、早く大人になりたい、若い日はそう思いがちです。しかし、過ぎ去ってみれば、時の流れは何と早いことか。あのとき、もっと勉強してしておけばと卒業間際に後悔する生徒が多いのです。進学にしても就職にしても、昨今は特に厳しい状況です。
時間を大切にし、早期に進学や就職への取り組みをさせることがまず、第一です。そして、個々の生徒に意欲を持たせることが肝要です。自分にはこんな長所がある、特技がある。これには自信がある。セルフ=エスティームをもたせてください。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第12号,平成22年6月28日.
* 荀子(298?~235?・BC) 前回に同じ
「青は藍を染料として出来る色であるが、藍より出て、藍よりも青い。」いわゆる“出藍の誉れ”とよばれるもので、ことばが有名であるにもかかわらず、誰が言ったものかが今ひとつ知られていません。その人物が先週記した荀子です。人間の本性は悪であるから、教育が必要である。それも、「礼」を徹底して仕付け、「形」を正すことが善き「心」を育てることになる。最近の教育観は「心」と「形」を別ものとする傾向が強いようですが、実はこの両者は表裏一体のものです。「心」は「形」となって表れ、「形」は「心」を求めます。荀子の教育観は極めて深いものです。
荀子は東洋の古代の思想家としては、考えられないほどの現実主義的、かつ唯物論的な人物です。中国には伝統的に、「敬天」、「天命」などの「天の思想」があり、天界の動きが人間界に影響を与えると考えられていました。しかし、荀子は天には天の法則があり、人間には人間の法則があるとし、現実の生活がよくないからといって、それを「天」のせいにしてはならない。自然条件が悪くても製作がよければ、経済は破綻せず、節制している人は健康を保つ。反対に、どんなに自然条件がよくても人としての道に背いたり、享楽に耽っていては幸福にはなれない。なすべきは人間にあると言うのです。これこそが教育の基点を説いているものでしょう。「天」がすべてであるならば、人間の努力は、詰まるところ何なのか。「天」を「社会の多様化」とか「時代の変化」などに置き換えれば、現代の教師への戒めにもなります。
なるべきは教育者の典型、荀子の述べた極めつけの名言。「藍」は親と教師、「青」は子どもと生徒の象徴です。子は親から生まれ、親よりも大きくなり立派になる。生徒は教師から学び、教師を乗り超えていく。それがあるべき姿だというのです。自分の教え子の成長と大成、それが教師の真の喜びであり、真面目(しんめんぼく)です。その喜びのためにも今は自他に厳しくせよ、教えることはもう一度学ぶことだというのが荀子の真意でした。
矢倉芳則「校長通信『清き山河』」 第11号,平成22年6月21日.
* 荀子(298?~235?・BC)
古代中国の思想家。孟子よりも80年ほどあとに活躍したとされている。同じく 儒家思想を学ぶが、孔子が説く「礼」を重んじ、「形」をつくることによって心」 を育てる立場をとり、孟子とは別の系列の儒家を形成した。外的規範や秩序を強調 する彼の思想はのちに、法や刑罰による統治をめざす法家の思想へと発展する。
「人間の本性は悪であり、善は後天的につくりあげられたものである。今改めて思うに、人間は生来、自己の利益を求め、楽をすることを好み、それを行為の原則として生きる。だから、争いが絶えず、他人に譲る心や謙遜さがなくなるのである」。上記のことばを現代語訳するとこのようになります。同じ儒家の出でありながら、孟子が性善説を説いたのに対し、荀子は性悪説の立場に立ちました。人間の本性は悪である。自己本位で、わがままである。したがって、善意善行は教えられ、仕付けられて出来上がったと説くのです。 そこから、彼は教育の重要性を強調します。人間は悪だからこそ、教育が必要である。荀子によれば、それはまず、形から入らなければならない。ことば遣いや身なり、態度を矯正し、礼儀作法を教え、その繰り返しにより、人は善の心をもつことができ、善い心が善い行いを生む。人間は放任すれば、欲望のままに生き、社会が混乱するから、ルールやマナーをしっかり教えて正しく導かなければならない。きわめて説得力のある教育論です。
さて、人間はともかく、まずは自分自身のことを省みて、自分の本性は善だと言い切れる人はどれほどいるでしょうか。勿論、私も自信がありません。しかし、自分の本性が悪だと言える人こそ、謙虚で、真摯に自分を見つめている人ではないでしょうか。教育の地平はここからも開かれます。
教育とはそもそも、天才や聖人君子のためにあるのではありません。平凡で、普通の人々のためにあるのです。私たち凡人、普通の人は、しばしば、よからぬことを考えます。悪を為します。だからこそ教育が必要なのであり、教育を受けることにより、私たちは成長し、立派になり、他人から信頼され、愛されるようになるのです。
矢倉芳則「 校長通信 『清き山河』」第10号,平成22年6月14日.
* 孟子(372?~289?・BC) 前回に同じ
「人間が学問をしないで出来ることを良能という。考えずに自ずから知っていることを良知という。」孟子は人間の性質は生まれながらに善である(性善説)としました。その善き本性が良知良能です。
孟子は人間には誰でも、四端の心という善なる心があると説きます。まずは惻隠の心。例えば、子が親を慕い、親が子を慈しむこと、あるいは怪我や病気で苦しんでいる人を可哀想に思うことなどです。次に羞悪の心。悪や不正に対する怒りや憎しみ、いわゆる正義感です。その次は辞譲の心。他者に譲り、謙る心、「どうぞお先に」という紳士的な心もちのことです。最後は是非の心。善悪、美醜、真偽などの正しい判断力のことです。これらの4つの善なる心が、内面に充実して、他者に向けられるとそれぞれ、「仁」、「義」、「礼」、「知」の徳が実現します。それを万人に施す人を「が」「君子」、「大丈夫」と呼ぶばれる理想の人間像です。
孟子によれば、教育の目的は、たとえ政治が乱れ、社会が不正に満ちても、人間の本性を歪めることなく、ありのままに育てることであるとしました。だだし、綺麗事は言いません。生来の良知良能を大人になるまで損なわずに教え育てるのは容易ではないことを孟子はよく知っていました。本性というものは意外にもろいものです。また、純粋な人ほど、まじめなものほど、ひとつ道を間違うと大変な過ちを犯かす。環境のまずさ、ことのなりゆき、ちょっとしたことで人は道を踏み外し、転がり落ちます。良知良能の危うさです。だからこそ、教育は大切なのです。
教育にたずさわるものが心しておかなければならないのは、小さなこと、些細なことの積み重ねがいつの間にか取り返しのつかない一大事になると意識です。近年、盛んに唱えられている「危機管理」の本旨もここにあります。「人間の本性は善である」。それを信念とすることは大切なのですが、善を守りる続けるには不断の修練が必要であることを忘れてはならないでしょう。
矢倉芳則「 校長通信『清き山河』」第9号,平成22年6月7日.
* 孟子(372?~289?・BC)
古代中国の思想家、教育者。孔子の孫である子思の門人に学び、儒家の正統な後継 者とされた。四徳、五倫、五常などの徳目は、江戸時代以降、我が国の道徳の根幹と なり、また、性善説や王道政治でも知られる。教育熱心な母に育てられ、「孟母三遷 の教え」などのエピソードがある。
子どもの頃、墓地の近くに住んでた孟子は葬式のまねごとをして遊んでいた。これは 良くないと、母は市場の近くに住むことにした。すると、孟子は商売ごっこをして遊んだ。これもまずいと、母は学校の近くに引っ越した。そこで、孟子は勉強をするようになった。これが「孟母三遷の教え」で、環境が大切であることの例に用いられます。
孟子の思想は孔子以上に、日本の道徳教育に影響を与えています。「罪を憎んで人を憎まず」ということばがありますが、人は皆本来は善であり、悪くなるのは社会や環境のせいである、罪を犯すにはやむにやまれぬ事情があるとするのが、日本人の伝統的な人間観ですが、孟子も性善説を説きました。彼によれば、人間には生来、善の心があり、教育により大切に育てると、仁(やさしさ)・義(正しさ)・礼(謙譲)・智(かしこさ)という4つの徳が実現するのです。そのほかに、5つの人間関係でのあるべきあり方(父子(おやこ)の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)などを説いていますが、これらについては別の機会にお話しましょう。
さて、孟子が理想とする人間像を「大丈夫」といいます。私たちが普段使う。「元気だ」「心配いらない」の意味の「大丈夫」です。上記のことばはその心意気を示したものです。「自分で何度も考え直してみて、それでも正しいと信じたならば、反対するものが千万人いたとしても、臆することなく自分の道を進む」という意味です。このような正々堂々と正しさを貫こうとする気概を「浩然(こうぜん)の気」といいます。孔子のところでも述べましたが、孟子は「優しさ」や「いたわり」と「悪や不正を憎む厳しさ」を「仁義」と呼び、表裏一体のものとしました。このふたつの観点から考えてみて自分は正しいと思ったならば、敵がどれだけいようが問題ではない。この気をもつ人が「大丈夫」です。
前号で、私は「教師の力量」のひとつとして、「信念」をあげました。これも教師として欠かすことのできない資質です。「大丈夫」たるには、いささか厳しいものがありますが、それぞれが「自分はこの気構えで教師をやっているんだ」という信念をもっていると、自ずから気力がみなぎり、余程のことがないかぎり、気後れしたり、気合い負けなどしないものです。どこの学校に行こうが、どのような生徒を相手にしようが心配ありません。それこそ、「だいじょうぶ」です。
矢倉芳則「 校長通信 『清き山河』」第8号,平成22年5月31日.
* 曾子(BC5世紀頃)
孔子晩年の高弟で、師よりも40歳ほど年少であったと伝えられている。儒家の正統の後継者。孔子の説く「仁」を「忠恕」(真心と思いやり)と解説した人物で、孔子は孫の子思の教育を曾子に託した。
孔子、老子などの「子」は尊称で、一家一学を為した人物に与えられるものです。孔子には三千人の弟子がいたとされていますが、そのなかで特に優れたものを孔門十哲と呼んでいます。曾子はその十哲には入っていませんが、孔子の後継者として儒家を発展させ、教育者として極めて優れたものをもっていた人物です。ちなみに、『論語』で孔子以外に、一貫して子を付けて呼ばれているのは彼だけです。
曾子の功績で特筆すべきは、孔子が説く理想的な心のあり方である「仁」を「忠恕」と分かりやすく表したことです。「忠」とは自己の真実の心、つまり、真心。「恕」とは他人の心への共感、すなわち、思いやりです。なお、孔子は「恕」について、「己の欲せざる所、人に施すことなかれ。」と述べてています。
上記のことばは、曾子自身が残したもので、ついでながら、辞書や教科書の出版社で知られる三省堂の名の由来でもあります。「私は一日に三度自分を省みる。人から問われたことに心から接してなかったのではないか、友人とのやりとりで信頼を失うことがなかったか、自分が十分に理解していないことを軽率に生徒に教えたのではないか、と」。この立場は私たちが教師として、さらにはすべての人が人間として、生きるうえで、欠かすことの出来ないものです。いつでも、誰にでも自己の誠実を尽くすこと、正しさと優しさをもって人に接すること、これが他者への信頼を生み、生徒への教育の出発点になります。
近年、教育界では「教師の力量」、「教えるプロ」など教師の資質を問うことばが定着しています。私は以前から「教師の力量」とは「技量」、「信念」、「姿勢」であると述べてきました。「姿勢」において、大切なものの一つは「謙虚さ」でしょう。「日々に三省」はそのことを的確にあらわしています。教科書にしても副教材にしてもそれが出来上がるまでにどれほど多くの人々の大きな労苦があるか。教授法一つをとっても先師先達の長い相伝相続によるものです。曾子のことば、うべなるかな、ではありませんか。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第7号,平成22年5月24日.
* 孔子(551?~479?・BC)先週に同じ
引き続き孔子のことばを紹介します。『論語』をはじめ数多くの名言を残している孔子ですが、私個人としてはこれが一番好きですし、また、多くの先生方に知ってもらいたいことばです。前回も少し記しましたが、仁とは孔子及び彼を始祖とする儒家が説く最高の徳で、天皇の名には、必ず仁の一字があります。簡単に言えば、真心と他者への思いやりで、忠・信・孝・悌・恕などと表される心のあり方のことです。
孔子は仁の基礎となるものは親子や兄弟姉妹、友人や同郷の仲間などにもつ自然な親愛の情であると説きました。それを、周囲の人たち、さらには見知らぬすべての人々に拡大させると人間としての理想的な精神が実現できるとしたのです。万人に真心と思いやりをもつと孔子と同じ人物になるのですから、それは無理としても、家族や友人、共に勉強したり、仕事をする仲間にはこの思いをもちましょう。
さて、今日のこのことばは、仁者、即ち仁を体得した人物こそが本当に人を愛することも、また、憎むことも出来るという意味です。一般に、人格者は怒らない、罰しない、すべてを優しく包み込むなどのイメージが強いようですが、真の人格者は悪や不正に対し烈しい憤りをもつのです。いわゆる義憤です。その根底にあるのが、正義で、優しさや思いやりは「正しさ」に裏付けられなければなりません。孔子の後継者である孟子はこの立場を受けて、「仁」と「義」、つまり「やさしさ」と「正しさ」は表裏一体のものとして、「仁義」ということばで括りました。
教師の心得として、生徒への思いやり、いたわりは勿論、大切です。同時に、不正や不誠実への怒りと叱責も必要です。精神分析学の語を用いれば、「母性」と「父性」の両方の原理をもたなければならないと表現してもよいでしょう。罪悪、不正、不誠実、非礼などへの羞悪がなければ、善や正義に向けての教育は出来ません。教育者として真摯であればあるほど、それらへの怒りも憎しみも大きいはずです。ただし、怒りと叱責ほど表現の難しいものはありません。感情の激しさは相手に自責や反省よりも恐怖を与えます。ときには、嫌悪感を与え、かえって、軽蔑されることさえあります。感情が激しければ激しいほど、それだけ益々、知性に裏付けられた品位ある表現が求められのです。教育者の力量と品格はまさに、ここにあると思うのですが、いかがでしょうか。
矢倉芳則「校長通信 『清き山河』」第6号,平成22年5月17日.
* 孔子(551?~479?・BC)
古代中国の思想家、政治家、教育者。群雄割拠する乱世に為政者の人徳による統治 を説き、徳の修得を目的とした教育を説いた。自身は不遇で、貧困家庭に生まれ、苦 学して官職に就くも政争に巻き込まれ、生涯のほとんどを流浪のなかでおくった。彼 の死後、弟子たちによってまとめられた『論語』は″東洋のバイブル″とよばれ、日本においても、今もって最高の教育書と評価されている。
さて、今週からは古今東西の先哲のことばを手がかりに教育の諸相について考えてみましょう。まずは、孔子からです。孔子の仕事は役人、政治家でしたが、政治思想家としてよりも教育者として優れたものをもっていました。同じことを問われても、弟子の個性や能力に合わせて多様な回答をしています。孔子の思想で最も大切なものは「仁」という心の正しいあり方ですが、仁とは何かについて、一般的な定義をしておりません。あるものには「人を愛す」、あるものには「己の欲せざる所、人に施す事なかれ」、また、あるものには「己に克つ」とそれぞれに必要なものを、それぞれにとって分かりやすい表現で説いています。
今回紹介したことばは学ぶものの姿勢を厳しく示しています。孔子は次のように教えてくれます。知らないことを知らないとすることから学びが始まる。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする、それが本当に知るということである。
本稿第1回で、「学ぶとは誠実を胸に刻むこと」というアラゴンのことばを紹介しましたが、学習するものが一番大切にしなければならないのは、学ぶことに対する謙虚な姿勢です。そして、内面的姿勢は形に表れます。それが「礼」です。生徒が教師に対して反抗的であったり、支配的であっては学習は成り立ちません。また、教師の資質として大切なことは彼らに謙虚さと誠実さをもたせる力であり、自らもまた、学びに対し、謙虚で誠実な人間であるということです。ちなみに、本校の綱領(校訓)の第一は「深遠なる真理の探究に全力を尽くそう」です。是非、生徒たちに教えてあげてください。
矢倉 芳則「校長通信『清き山河』」第5号」,平成22年5月10日.
*I=カント(1724~1804)
ドイツの哲学者。「すべての哲学はカントに入り、以後の思想はすべてカントから 出る」といわれた西洋近代における最大の哲学者。ドイツ観念論(理想主義)の祖。人間の認識能力を論じるとともに、自然界の原理や法則と同様に、道徳にも普遍的な 法則があることを説いた。主著は『純粋理性批判』、『実践理性批判』など。
前回、18世紀ドイツの哲学者カントの名をあげ、「自律」について述べました。また、ご記憶でしょうが、この人物については、通教の授業開始(入学式)にあたってのあいさつでも取りあげました。これは彼の『人間学』にあることばですが、正確にはかなり長い文章なので、要約して紹介します。ちなみにこの書は難解な彼の著書にはめずらしく、平易に書かれています。
あるときカントは学者仲間の一人に「あなたの道徳哲学は難しい。それにこんな理想的な生き方は実現不可能だ。」と言われました。それに対し、彼は「とんでもない。これは私の故郷での日常生活を理論化しただけだ。」と答えたそうです。彼の故郷はケーニヒスベルク(現カリーニングラード)というキリスト教プロテスタントの敬虔な町で、文化の薫り高く、彼は故郷を誇りに思っていました。そして、カントは自分の心に善の芽を植え付けてくれたのは母であると述べ、貧しくも正直に生きた両親を生涯尊敬しました。当然のことですが、人間は今ここに生きている時代と土地の影響を受けるものです。
しかし、その一方で、教育には時代と土地を超越する普遍的なものがあります。それは個々の大人たちがいかに真摯に生きているかという信念と姿勢のなかに示されるものではないでしょうか。というよりも、時代と土地の特性とは、実は、そのときそこに生きている人々の信念と姿勢によってつくられるものなのです。
子どもは親の言うことはしないが、親のするとおりにはします。生徒も教師の言うとおりにはしないが、するとおりにはします。大人の、親の、教師の信念と姿勢で子どもも生徒も変わります。その責任が教師の醍醐味ではないでしょうか。
矢倉 芳則「校長通信 『清き山河』」第4号,平成22年5月6日.
引き続き、クラーク博士のことばを紹介します。これは一般にはあまり知られていませんが、名言中の名言です。札幌農学校の校則を読んで、彼は驚きました。礼の仕方から服装・頭髪、日常生活のあらゆるところにわたって、細かく記されていたからです。
近頃、私たちの生活はあらゆることが細かく規定され、社会的な法令をはじめ、会則、規約、細則、申合わせ事項など覚えきれないほどの規則によって成り立っています。また、経営や運営に関することにもマニュアルがあり、まるで、マニュアルのために仕事をしているかのようです。マニュアルは本来、仕事を効率的・能率的に、かつ正確・迅速に行うためのものですが、それに縛られて、かえって、時間と労力を費やすこともままあります。目的と手段のはき違えは失敗と混乱の根源です。
さて、なぜ、規則が生まれるのか。規制するものが無ければ、でたらめ放題になる人間がいるからです。「これをしてはならない」、「あれをしてはならない」。モーセの律法にしても、人を殺すものがいるから「殺すなかれ」、嘘をつくものがいるから「嘘をつくなかれ」となるのです。
クラーク博士は札幌農学校の校則を次のように評しました。「こんな校則は最低である。いや、これほどに示されなければならないとするならば、その学校の生徒がいかに自律が出来ていないかということである」。「あるべき校則はひとつでよい。紳士であれ」。こうして博士は生徒たちに自律の精神を教えました。自律とは自分で自分を律すること、これは全人的教育の目的であって、18世紀ドイツの哲学者、カントが道徳哲学で説いたことも端的に言うなら、「自律ある人間の育成」です。規則が多い、諸手続きが多い、細部にわたってシステム化されている、それはそれで大切ですが、学校経営の方策のひとつにすぎません。「紳士であれ」。このひと言ですませたいものです。「君はこの高校の生徒だろう」。これを決めことばにする日をむかえましょう。
矢倉 芳則「校長通信『清き山河』」 第3号,平成22年4月26日.
* W=S=クラーク(1826~86)アメリカの教育者。化学、植物学、哲学を専攻した。明治政府に招かれて、札幌農 学校(現北海道大学)の教官となり、短期間ながら学生に大きな影響を与えた。
クラーク博士のことばは入学式の式辞でも用いました。このことばに続いて「それは金銭に対してではなく、世の人が名声と呼ぶ、あのむなしいものに対してでもない。人間が人間としてもつべきすべてのものに対して、青年よ、大志を抱け。」と続きます。式辞のなかでも言いましたが、これには異論があり、実は博士のことばではなく、教え子たちが後に記したものであるという説もあります。しかし、私は追加されたこのことばこそ、博士の真意を伝えるにふさわしいものであると思います。そもそも、ambitiousは「野心的」の意味で、直訳すると「青年たちよ、野心的(意欲的)であれ」となりますから、何に対して野心的(意欲的)であるかを示す必要があったのでしょう。名言とは一人のものではなく、思想や志を継ぎにしものたちの相伝相続により生き続けるものなのです。
さて、 クラーク博士の札幌農学校での活動は2年に満たなかったようです。しかし、その影響は驚くほど大きく、内村鑑三や新渡戸稲造らを輩出しました。真に有意義な人間関係は時間が長ければ良いというものではありません。我々高校教師も、生徒との付き合いは僅か3年で、彼らの人生のほんの一瞬です。しかし、教師たるもの、その短い期間に強いインパクトを与えずして何とするか。今は生徒に理解されなくともよい、無視されても仕方がない、彼らが大人になったときに分かってくれればよい、ということばを耳にすることがあります。もちろん、そういうこともあるでしょう。しかし、彼らも彼らで忙しい。社会に出れば仕事のこと、結婚すれば家族のことや子どものことで精一杯です。高校時代を懐かしむ余裕をもつものなどそうそういるはずがありません。教師にとっても、今が大切なのです。このときここにいる生徒にどのような感化を与えられるか、その大志を私たちは抱こうではありませんか。
矢倉 芳則「校長通信 『 清 き 山 河 』 第2号」,平成22年4月19日.
* アラゴン(1897~1982)
フランスの小説家、詩人。社会主義の影響を受け、リアルな手法により、現実社会 と人間の諸相を著した。主著『現実社会』、『レ・コミュニスト』など。
さて、第1号はアラゴンのことばを紹介します。新年度のはじめにあたって、生徒には学習の真の目的を考えさせてください。学習評価の絶対的基準は「誠実さ」にあります。どこまで真剣に取り組んだか、真面目に為すべきことをしたかにあります。その成果が、出来ないことが出来るようになる、分からなかったことが分かるようになるということで、それが生徒の充実感、自己肯定感につながります。学ぶ喜びはここにあります。その喜びを生徒に与えること、君たちには成長と進歩の可能性があるという希望を語るのが教師です。たとえ、きれいごとと揶揄されようが、学校だけが求め続けなければならない美しいことがあります。そして、その実現をめざすことがまた、教師の希望であり、夢だと思います。
ただし、希望や夢の実現には試練が伴い、努力と教師自身の誠実さが求められます。それは学ぶものと教えるものが抱き続けなければならない永遠の課題です。
矢倉 芳則「校長通信 『 清 き 山 河 』 第1号」,平成22年4月13日.